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襲撃

 

 ヴァストーク側へ渡るには、どうしても航海の必要がある。ザーパトとヴァストークの間には広大な海が横たわっていて、いくら迂回しようとも陸続きにはなっていないのだ。古来から二大陸の間に親交がほとんどなかったのは、この海──闇海によるところも大きいだろう。

 闇海には、陸上では絶滅した類の凶暴な生物が住み着いており、その航海は決して楽なものではない。戦争終結後も交易が盛んでないのは、関係があまり良くないからというももちろんだが、決定的に便が悪いのだ。人の行き来が少ないのも、同様の理由がある。

「ベイスへの馬車は、明日の朝にならないと出ないみたいだ」

 メランの観光案内所から顔を出したリストに、アエルは心底嫌そうな顔をした。ベイスというのはブラン大陸一の港町だ。ヴァストーク側、ケリー大陸への船はそこからしか出ていない。

「やっぱりベイスなの?」

 明日の朝、ではなく、ベイスが引っかかっているようだ。案内所の入り口正面の階段に、行儀悪く座り込んでいたアエルは、リストが自分を追い越しても立ち上がろうとしなかった。

「他のルートにしてよ。おにーさん、研究してるんだから、頭いいんでしょ」

「頭良くても、どうしようもないな。ベイスはいい町だよ?」

「頭いいってのは否定しないんだ」

 伸びをするように両手を上げて、その勢いでアエルは立ち上がった。勢いでもつけなければ立ち上がれない、というような、見るからに億劫そうな動作だ。

「アエル君さ、こういうところに座るのはよくないよ。他の客が入りにくいでしょ。スカートだって短いんだし」

「はいはいはい」

 まだ若そうなのに、リストのいうことはいちいち年寄り臭い。知り合ってまだ数時間だが、その間にこの手の説教をいくつ聞いたかすでにわからない。アエルは適当を具現化したような三度返事で答えておく。

「じゃ、とりあえずは宿取るの? あたしは野宿でいいけど。おにーさんの宿は?」

「俺は昨日泊まった宿が……」

 いいかけて、リストはぴたりと動きを止めた。不思議そうにアエルが見上げてくる。

 リストは頭の中で、アエルのセリフをくり返した。

「……野宿でいいけど?」

「野宿でよろしいですけれども」

 丁寧にいい直してみる。しかしもちろん、問題はそんなことではない。

「アエル君! いかん、それはいかんよ。若い娘さんが野宿っていうのは不健康だよ。野宿なんて単語は頭の辞書から消してしまいなさい」

 嘆かわしい、といわんばかりに、ほとんど泣きそうな顔でそんなことをいいだした。アエルはもう、呆れてものもいえない。父親でもないのになんでそんなこと、と突っ込もうかとも思ったが、色々面倒になって、リストを無視して歩き出す。

「どこの宿? 野宿がだめなら、あたしもそこに泊めてよ」

「そ、それはかまわないけど……なんていうかアエル君、君の生き様には投げやり感が漂ってる気がするよ。もっと、若さゆえの輝きとかないの」

 追いついてきたリストを一瞥し、アエルは皮肉げに唇の端を上げた。

「いらないの、そういうの」

 ある、ないではなく、いる、いらないの話にされてしまっては、リストもそれ以上いえなかった。ならしようがないか、と引き下がる。

「宿は……ほら、あれだよ、メランタワー」

 そういってリストは前方を指差したが、もちろん示されるまでもなく、アエルにもそこがどこなのかすぐにわかった。

 背の高い建物が比較的多い、発展したこの町のなかにおいても、メランタワーほど目立つ建物はない。タワー、という名に恥じないほどに高くそびえ立ち、その姿は町のどこからでも確認することができる。

「あそこに泊まってんの? うわ、金持ち。あたし、あそこに泊まる人種とはぜったい仲良くなれないって思ってたけど。ちょっとイメージ違うな」

「それは喜べばいいの、落ち込めばいいの」

 複雑な心境でリストが肩をすくめた。アエルにしてみれば褒め言葉のつもりだったのだが、それを伝えてやる気もない。偏見だろうという自覚はあるものの、金持ちであることを誇示したい人種が泊まる場所だとばかり思っていたのだ。

「お金持ちってわけじゃないよ。ちょっと、職場の系列でね、無料で利用できるんだ」

 いいたいことが伝わったのか、リストはそういって少し残念そうな顔をしてみせた。実はお金持ちとかいえたらかっこいいけどさ、と続ける。

「タダ? いいね、そういうの。あたしもあやかれるの?」

「うーん、どうかな」

 そんな話をしているうちに、メランタワーに到着した。

 アエルが偏見を持つのも無理はない、一般庶民には近寄りがたい外観。天然青理石で作られた外壁は夕陽を受けて輝いており、ガラス製の出入り口の両側には警備員らしい男が二人、直立不動の体勢で立っている。さらに、そこに至るまでには、赤い絨毯の敷かれた五メートルほどの上り階段。

 慣れた様子で階段を登ったリストは、あれ、とふり返った。アエルがついてこない。

「どうしたの。ここだよ、アエル君」

「……なんて似合わない……浮いてますけど、おにーさん」

 赤い絨毯の上に、眠そうな顔をしてポケットに両手を突っ込んで立っている白コートの男。不審者にしか見えない。

「俺に比べれば、君なんてお似合いでしょ」

「そういうことをいってるんじゃなくてさ……まあいいけど」

 高級感に気後れしたのは確かだったが、そのようにいわれてしまっては認めるのも癪に障るものだ。アエルは呆れたように息を吐き出して、軽い足取りで階段を登った。リストを追い越し、自ら重いガラス戸を押し開ける。

 警備員の男二人は、アエルにちらりと一瞥をくれただけだった。リストも後に続く。

「お金かかってそう」

 入って最初の一言がこれだった。

 きらびやかなエントランスホール。不必要と思われるほどに高いところにある天井から、無数の灯りがこちらを照らしている。右手には細長いカウンターが伸び、同じような顔をした紺色の制服の女性が三人並んでいた。中央の太い柱には、布に描かれた世界地図。このあたりで見かけるものにしては珍しく、ザーパト側もヴァストーク側も均等に描かれている。

 待ってて、といい残して、リストがカウンターへまっすぐ歩いていく。そういわれても、じっと待っている気分でもなかったので、アエルもついて行った。リストは、笑顔の張り付いた女性に、身分証らしい銅の色をしたカードを提示した。

「昨日から泊まってる、リスト=グランデ。連れの女の子がいるんだけど、部屋はある?」

 女性はにっこりと微笑んで、紙の束を素早く調べ始める。アエルが横から顔を出し、カウンターに頬杖をついた。

「ここの採用基準って、顔だね、ぜったい」

「こらこら。失礼だよ」

「あれ、失礼?」

 たしなめられ、アエルは心底意外そうな顔をした。つぶらな茶の瞳に見上げられ、リストは少し考える。

「大丈夫、アエル君でも受かるよきっと」

「……それって褒めてんの?」

「お待たせいたしました」

 二人の会話などまったく気にしていない様子で、女性が笑顔を向けた。

「三階のシングルでよろしければご用意できます。手続きをいたしますので、お連れの方の身分証を……」

「あー……」

 遮るようにして、リストが声をあげた。アエルを見下ろす。

「……いいや、俺んとこに連れ込むぶんには問題ないでしょ。見逃しといて」

「かしこまりました」

 紙に描いてはり付けたような完璧な笑顔のままで、女性は両手でカードを差し出した。8002、と書かれたカードだ。中央に、緑色の小さな宝石のようなものがはめ込まれている。

「ごゆっくりおくつろぎくださいませ」

「ありがとう」

 カードを受け取って、行くよ、とアエルを促し、さっさと歩き出す。いまいち展開についていけなかったものの、頭の中で情報を整理しながら、アエルはおとなしく続いた。

 エントランスホールの左手には、階段と、物々しい黒い扉があった。扉には、危険、と大きな張り紙。やはり綺麗な顔をした紺色の制服の女性が立っている。

「……昇降装置? 好きじゃないな、こういうの」

「物知りだね、この手のはブラン大陸中でも三つしかないのに。八階まで階段登るのも大変でしょ」

 いいながら、カードの「8」の文字を示す。八階という意味らしい。

「だったら作らなければいいのに、こんな高い建物」

「それをいっちゃあねえ」

「お待たせしました、どうぞ」

 がこん、と音をたてて扉が開いた。扉の向こう側は、大人が十人入るのがやっとというほどの狭い部屋だ。極端に天井が低く、部屋というよりも箱に近い。そしてやはり、中にも女性が控えていた。今度は赤い制服を着ている。

 まずリストが、それからアエルが中に入る。足を踏み入れた瞬間に、箱全体がかすかに揺れた。この箱がまるごと上下することで、中の人間を運ぶのだ。

 閉まります、と告げられ、目の前で重い扉が音をたてて閉じられた。

「八階へ」

「かしこまりました」

 赤い制服の女性が、銀色のこぶし大ほどの球体を、優雅な仕草で持ち上げる。それを、箱の側面に埋め込まれている銀盤にかざした。その瞬間、箱全体が銀の輝きを放つ。

 すぐに光は集束し、音もなく箱が上昇を始めた。もっとも、中にいる当人たちにはその実感はほとんどない。

「おねーさん、魔法士じゃないんでしょ?」

 一連の動きを眺めていたアエルが、そう声をかける。赤い制服の女性は、いえ、と首を振った。

「万一の場合に備え、昇降装置を動かせるのは魔法士の資格を持つもののみとなっております。わたくしは、動力の魔法士です」

「あ、そうなの? 意外」

 女性は微笑んだ。アエルは多少もうしわけないような気持ちになったものの、やはり昇降装置という存在への不信感は拭えない。というより、昇降装置にも利用されている、魔法力を閉じこめた球体の存在そのものが嫌いなのだ。

 その球体は、『ジュリス』と呼ばれる。もともとはコスモスによって軍事用に開発されたものだが、大戦の終結以降、一般人の間でも見かけるようになった。魔法力を封じ込めることによって、何も知らない子どもでさえも魔法を使えることを可能にした、戦後のザーパト側の発展を象徴するアイテムだ。

 魔法を扱う魔法士は、資質を生まれ持っただけではなく、使いこなすようになるまでに、何年も研究し、鍛錬を重ねる。生まれながらに資質を持つものは全体の人口の四分の一にも満たないうえに、研究、鍛錬の結果、資格を取得し、魔法士となるのはそのうちの半数ほどだ。だが、手軽、便利をうりにしたジュリスが開発されてからは、その数は減少する一方だ。魔法士になるための過程を経ずとも、ジュリスを手に入れればことは済むのだから、わざわざ努力をする必要はないという考え方が主流になってきている。

 しかし、世の中が便利になっていく反面、知識もなくジュリスを使用したために起こった事故、悪用された事件などの数は、年々増えているというのが現状だ。だからこそアエルには、ジュリスがどうしても快く思えない。

「八階でございます」

 扉が開き、リストが礼を述べて廊下へ出た。アエルは会釈もせずにそれに続く。

 客室ばかりが並ぶ階だというのに、下町の宿からは想像できないほど、静まりかえっていた。赤絨毯の敷かれた廊下が左右に伸び、正面の壁には部屋番号の案内板が貼り付けられている。

「ここだよ」

 昇降装置の乗り場から右に出て、扉二つ目のところでリストは立ち止まった。手にしたカードを、扉中央に輝いている緑色の石に当てる。かちゃり、と錠の外れた音。

「それもジュリス?」

「まあね。君はジュリスを良く思ってないみたいだけど、便利だよ」

「便利、ね」

 それについて特に感想を述べないでいると、リストが扉を引き開け、どうぞと左手を差し出した。レディーファーストというタイプにも見えないが、先に入れということらしい。

「どうも」

 部屋の中に足を踏み入れ、アエルは思わず息を飲んだ。

 クリーム色の絨毯、見るからに高級そうな木製の応接セット、大きな窓にシルバーのカーテン、天井にはシャンデリア。右側にさらにソファセットの置かれた部屋が続き、その奥にやっとベッドルームだ。各部屋には、絵画や彫刻など、調度品の数々が飾られている。うっかり枕投げでもしようものなら、いくら借金を背負うことになるかわかったものではない。

「……なにこれ」

すみずみまで見てまわり、アエルは一言、感想を述べた。思い切り顔を歪めている。

 白コートを無造作にソファに投げて、リストは心外そうに目を瞬いた。

「若い娘さんなら感動するかと思ったんだけどな。贅沢でしょ」

「ゼータクすぎて目眩がする。おにーさん、一人でここに泊まってたの? す、っごい、無駄」

 最後の言葉に格別力を込めた。リストは、シャツのボタンを二つほどはずし、首を左右に傾けて伸びをして、それからソファに身をうずめた。

「結果的には無駄にならないんだから、いいんじゃない。アエル君はベッドルームを好きに使いなよ。俺はこのソファで充分」

「それでも無駄だと思うけど。まあいいか、あたしのお金じゃないし」

「俺のでもないよ」

 そういえば、職場の系列がどうのといっていた。もしかしたら、ものすごい要職に就いているのだろうか──そんなことを思ったが、考えてもしようがないので、アエルはおとなしくベッドルームを借りることにした。

 一人用とは到底思えない、巨大なベッドが鎮座している。壁際には、宝石の散りばめられた額に入った、何を描いているのかわからない抽象画。ソファのリストをちらりとふり返ったが、彼はもうそのまま寝るつもりなのか、微動だにしない。アエルはそっと戸を閉めた。

「……落ち着かないな」

 ベッドを眺め、つぶやく。ブーツを脱ぎ、思いきってダイブしてみた。想像通りの、凶悪なまでにふかふかな感触だ。何やらいい香りも漂う。

「…………」

 天井を見上げた。白い天井だ。この部屋の灯りといえば、ベッド脇にある背の高いランプだけなのだが、傘の下では炎ではなくジュリスが光を発している。そのせいか、日も暮れたというのに、室内は異様に明るい。

 ごろりと寝返りをうち、窓を見る。窓の外は暗く、八階ともなるとさすがに他の建物の影は見えなかった。

 アエルは、腰に引っかけていたポーチを取り外すと、中から手のひらサイズの本を取り出した。皮の表紙をめくり、真ん中あたりに挟んであったカードを目安にして、ページを開く。特におもしろいともおもしろくないとも思わない、巷に溢れている冒険小説だ。寝転がったままで、文字を目で追い始めた。

「まーた本なんか読んでるの、アエルちゃん」

 不意に声がした。

 アエルは不機嫌そうに眉をひそめたが、無視をしてそのまま本を読み続ける。声がしたのは、窓の方向だ。もう嫌というほどに聞き慣れてしまった声。

「おーい、無視すんなよ。せっかく会いに来たんだぜ?」

「ここ八階なんだけど」

 本は閉じず、目だけそちらに向けた。

 いつの間に開けたのか、窓枠に腰をかけ、少年がこちらを見ていた。黒い髪、黒縁眼鏡、黒い上下に身を包んだ少年だ。そこが公園のベンチに思えるほどに自然に座っており、ふわふわの猫っ毛が風に揺れている。

「さっさと閉めてよ。夜はまだ寒いんだから」

「ああ、悪い、悪い」

 少年は、とん、と窓から飛び降りた。窓を閉め、ベッドにもたれかかって頬杖をつく。

「これでいい?」

「帰れ、そして閉めろ、って意味だったんだけど」

「つれないなあ」

 拗ねたように唇をとがらせて、ベッドに頬をつけると、本を取り上げてアエルを見つめた。「こんな高さなんて障害にならないくらい、オレはアエルちゃんへの愛で溢れてるっていうのに」

「そういう冗談、ほんっと鳥肌立つんだよね」

 本を取り返し、じろりと一瞥する。

「寝言いい終わったなら帰って。今日は珍しく一人じゃないから」

「えー、だれと一緒だよ。男?」

 黒縁眼鏡の向こう側の赤い瞳が、これでもかと悲しそうな色を帯びる。あまりの白々しさに、アエルは眉の間に皺を刻んだ。

「男。ちょっと連れ込まれたの」

「げ、まじで。オレというものがありながら!」

「クルイーク、声をひそめるぐらいの気遣いしてよ」

 ため息混じりの言葉に、少年──クルイークは、大げさに手で口を押さえてみせる。あきらめて、アエルは本をポーチに戻した。身体を起こし、無駄に大きな枕にもたれかかる。腕を組み、靴のままベッドに進出してきたクルイークを、憮然として見下ろした。

「その男、アエルちゃんの味方? だとしたら、いまのうちに殺しとかないとな」

 仰向けになり、アエルを見上げて無邪気に笑う。アエルは首を傾けた。

「さあ、味方かどうかはわかんない。あんたもね、クルイーク。……むしろ、あたしを特定した上で、声をかけてきた可能性が高い」

「特定? なんだ、じゃあ敵か。つまんねーの」

 つまらないといいながら、クルイークは楽しそうに目を細めた。ごろりと転がり、今度は両手を投げ出してうつぶせになる。

「……解呪の妙薬なんてもの、本当に存在する?」

 その猫っ毛を見下ろして、逡巡したものの、結局問いを投げた。クルイークは顔を上げ、ますますおもしろそうに頬をゆるめる。

「なるほど、それが餌か。だったらアエルちゃんは釣られるしかねーな。そういうの、オレよりそっちのが詳しいだろ? 住む世界が違うんだもんよ」

「聞いたことは?」

「さあねえ」

 アエルは息を吐き出した。聞いた自分が間違っていた。味方だといいながら、この男が自分のために何かしたことなどあっただろうか。

「まーでも、確証がない限り、アエルちゃんは釣られとくんだろ? そんなにがんばらないでもさ、オレと一緒にくればいいのに。どうせ、もうほとんどこっち側なんだし」

「いっしょにしないで。あたしは、あんたたちとは違う」

「あんたたちとは、違う?」

 わざとらしく鸚鵡返しにして、クルイークは肩を震わせて笑い出した。だんだん声が大きくなり、抑える素振りもなく高らかに声をあげる。

「いまのセリフ、ぜひもう一度」

「…………」

 冷ややかな目で、アエルは彼を見下ろした。いちいち癪に障る。しかし、そのたびにいらいらしていては思うつぼだ。

 突然、ノックもなく、戸が開けられた。見なくてもわかったので、アエルは戸の方向を見なかった。クルイークは身体を起こすようにして、億劫そうに目をやる。

 あたりまえのことだが、そこには、険しい顔をしたリストが立っていた。


 リストは、自分でも気づかないうちに安心してしまっていたようだった。ソファに座ったところまでは覚えている。その後の記憶がない。寝てしまったようだ。

 ベッドルームからの話し声で、目が覚めた。もちろん、気のせいだと思った。しかし、気のせいではすませられない笑い声で、完全に覚醒した。嫌な予感を胸に、戸を開け放つ。

 ベッドに寝そべる少年と、やはりベッドの上のアエル。  

「なんだよ、いきなり開けるなんて、失礼なんじゃねーの」

 からかうように声をかけられ、リストの血が一気に沸騰しそうになる。しかし、どうにか気を落ち着けて、状況を確認した。何かがあった、という様子ではない。

「……君は?」

 寝ていたとはいえ、さすがに後ろを人が通れば気づくはずだった。まさか、窓から入ってきたというのだろうか。

 クルイークはわざと緩慢な動作で起きあがり、ベッドの上であぐらをかくと、おどけた様子で右手を上げた。

「どうも、アエルちゃんの愛人のクルイークです」

「愛人?」

 不信感丸出しで眉をひそめる。その視線を、我関せずを決め込んでいるアエルに向けた。

「ちがうちがう」

 もう面倒なのでそういうことにしておいても良かったが、一応弁解しておくことにする。一応感が漂う棒読みではあったが。

 リストは、クルイークに視線を戻した。アエルとはどういう関係なのだろう、と考えてもわかりそうにないことを考えながら、物色するようにじろじろと見る。黒ずくめの少年だ。黒縁眼鏡が似合っていない。

「……君は──」

 眼鏡の奥の瞳が赤いことに気づき、リストは息を飲んだ。赤い瞳──人間では、生まれ持つはずのない色だ。

悪しき者(フォシール)か!」

「ピンポン正解。だからナニ?」

 クルイークは挑発的にリストを見上げる。だから何、の問いに、すぐに言葉が出てこない。答えが出ないのではない、わかりきっているから声にならないのだ。

 悪しき者、フォシール──大気と大気の隙間にある世界に住むといわれる種族。人間の感情を餌にして生きる、自由気ままな連中だ。主に負の感情を好むといわれ、ろくなことをしでかさないことから、「悪しき者(フォシール)」と呼ばれている。

 実際に目にするのは初めてだった。実在しない、伝説上の生物だと思っているものも少なくない。

「……何をしに、ここへ?」

 ゆっくりと言葉を選び、リストが問う。クルイークは、値踏みするようにリストを見た。頭の先から足の先までを、じっくりと、数秒間。それからふいと視線をはずし、背を反らしてアエルの方へ顔を向ける。

「アエルちゃん、こんなくたびれたタレ目に連れ込まれるようじゃ、価値下がっちゃうんじゃねーの」

 面倒そうに、アエルは片眉を上げた。

「安っぽいフォシールにストーカーされてる時点で、すでに価値はゼロだけどね」

「安っぽいって! ひでえ!」

 そのやりとりで、リストはなんとなく二人の関係を察知した。とりあえず、アエルはまともに取り合っていないらしい。幾分ほっとして、アエルに目をやる。彼女は上半身だけ起こして、枕にもたれかかっていた。

「……アエル君!」

 突然、リストの表情が険しくなった。クルイークの隣を通り過ぎ、アエルの両足をつかむとベッドの外側へぐるりと回す。

「おおっ、と」

 体勢を崩し、どうにか身体を起こすと、アエルはいつの間にかベッドに行儀良く座る形になっていた。膝から下がベッドからはみ出て、垂直に下を向いている。

「足を投げ出して座ったりしたらダメだって。男の子がいるならなおさら。もう君はさ、スカートじゃなくてズボンにした方がいい。できれば長いやつ」

 アエルは目眩がした。リストという男がどういう人種なのかはまだよくつかめないが、こういう部分で異様に口うるさいことだけはもう充分わかった。まさかそんな注意を受けるとは。

「なんなら俺のを貸すけど」

「……勘弁してよ、それ本気でいってんの?」

 リストのズボンを履いた自分など、滑稽すぎて想像もしたくない。

「変なヤツだな、タレ目のにーちゃん」

 薄く笑って、クルイークはリストに挑発するような目を向けた。

「あんたさ、アエルちゃんの味方だったりすんの?」

 ぶしつけな質問に、リストは眉を寄せた。こうして同じ宿にいるのだから、敵ではないことぐらいわかりそうなものだ。質問の真意がつかめず、クルイークを見据える。

 相手は悪しき者(フォシール)だ。外見が少年だからといって、本当に少年だとは限らない。対応は慎重にすべきだった。

「俺は……」

 答えようとした。しかし、声は轟音にかき消された。

「──っ?」

「わ、なんだよ?」

 タワー全体が激しく揺れ、クルイークが前へつんのめる。アエルは素早く立ち上がり、壁を背にして周囲に注意を向けた。

 そのまま、しん、と静まりかえった。すぐ近くで何かが爆発したような音であったにもかかわらず、悲鳴の類も聞こえてこない。

 リストはそっとクルイークの様子をうかがう。彼の仕業かと思ったのだ。しかし、クルイークは尻餅をついていた。演技とも思えない。

「……防御結界か。どっちの仕業?」

 窓の外を一瞥し、アエルがつぶやく。二人は慌てて首を振った。

「疑うならこっちのタレ目だけにしろよ。──って、ナニ、防御結界?」

「あんたが気づかなかったの? ならジュリスか……」

 疑われたことについてリストも異を唱えたかったが、それどころではなかった。窓の外を見て、防御結界、といったのだ。魔法士ではないリストにはわからないが、ということはおそらく、メランタワー全体が結界で覆われてしまったのだろう。

 もちろん、リストの仕業ではない。しかし彼には、思い当たる節があった。

「まさか」

 急いでベッドルームを出て、ソファへと走る。投げ出されたコートのポケットを探り、小さなレンズを取り出した。

 それは、かすかに黒い光を帯びていた。リストは舌打ちをし、今度はビー玉サイズの黒い球を取り出すと、そっとレンズに当てた。

 瞬間、黒い球から、女性の声が流れ出した。耳元で囁かれたような、小さな小さな声。声が止むと、役目を終えたとばかりに、黒い球はレンズに吸い込まれる。

「……しまった、のんびりしすぎた」

「ほーらアエルちゃん、やっぱりこのタレ目の仕業じゃねーの、これ」

 すぐ後ろに、いつの間にか二人が立っていた。クルイークが勝ち誇った顔で、レンズをのぞき込む。

「いい材質使ってんなあ。なにこれ?」

「アエル君」

 クルイークは完全に無視して、リストはアエルに向き直った。アエルは、不機嫌そうな顔をしてまっすぐにリストを見据えている。

「説明してる時間はないけど、すぐに逃げた方がいい。この防御結界は、たぶん、俺たちを狙ってのものだ」

「なんで?」

 焦るリストとは対照的に、アエルは至極落ち着いていた。そういえば、プラティーンでの強盗事件のときもそうだったと思い出すが、いまはそれどころではない。

「なんでって──だから、説明してる時間は……」

「そうじゃなくてさ。なんで逃げなくちゃいけないの? いいよ、別に、捕まったって。どうせ逃げても追ってくるんでしょ」

 さらりといって、ソファに腰を下ろす。ひらひらと手を振った。

「おにーさんは逃げなよ」

「……どうして」

 完全に予想外の反応に、リストは戸惑った。遅れて、怒りに似た感情がこみ上げる。この少女のいっていることがわからない。

 クルイークはおもしろそうに笑んで、ソファ横の壁にもたれかかった。

「どうしてって、タレ目のにーちゃん、アエルちゃんのことをわかってて誘ったんだろ? 捕まろうがなんだろうが、アエルちゃんには関係ないじゃん」

「…………」

 頭の中で、様々な感情は渦巻いた。この少女は、あのとき、どうして自ら刺されたのだろう──この少女は、どうしてこうも無気力なのだろう──……考えないではなかったが。

「関係、ない?」

 抑えた声で聞き返す。クルイークはおどけたように笑って見せた。

「死なないし、傷つかない」

「傷つかないわけがあるか!」

 初めて激しい声をあげ、リストがクルイークの胸ぐらをつかんだ。普段の低いテンションからは想像もつかない、怒りを宿した瞳で、彼を見下ろす。

 クルイークは驚いて、声も出ない。まさか、これほど激昂するとは思わなかった。

「彼女をなんだと思ってるんだ。彼女は人間だ。傷つかないなんてことがあるか」

 瞬きもできずに、アエルはリストを見上げた。この男は何をいっているのだろう──自分の正体をわかっているのなら、なおさら。

 人間だ、などと。

「熱くなんなよな。あんたさ、アエルちゃんの望みを知ってるから、解呪の妙薬だかなんだかで釣ったんだろ? それを今更」

「それは──!」

 コンコン、と場違いなほど静かなノック音が、響き渡った。

 リストに緊張が走る。この状況で、普通の客とは考えづらい。

 視線をさまよわせると、じっとこちらを見上げていたアエルと目が合った。あまりの真剣な瞳に、目が離せなくなる。

「……俺は」

 何かをいわなくては、と思った。クルイークの胸ぐらから手を離し、リストは膝を折る。ソファごしに、まっすぐ、アエルの目を見た。

「俺は、君の味方だ。これだけは、本当に、本当だ」

「…………」

 アエルは、表情一つ変えなかった。そのまま、静かな沈黙が続く。

 もう一度、扉がノックされた。

 アエルは立ち上がった。

「あたし、おにーさんに雇われてるんだっけ」

ため息混じりに、億劫そうにつぶやく。

「いまここを無事突破することも、契約内容に?」

 それを聞いたクルイークが、実におもしろそうに笑んだ。理解が遅れたものの、リストは慌てて頷いた。

「含まれてる、含まれてるよ、もちろん」

「そ。じゃ、がんばるか」

 アエルは両の手のひらを絡ませて天井にかざし、身体中で伸びをした。猫のように目を細める。

「もしかして、歌う?」

 わくわくしているクルイークを冷たく一瞥し、組んだ両手を目の前まで下ろした。

「歌わないよ」

 そう返しながら、アエルはもう動いていた。ベッドルームにあった抽象画を取り外し、出入り口まで運ぶ。扉を開けたらすぐ目に入るであろう位置にそっと置き、ぶつぶつと口のなかで何やらつぶやいた。すると、抽象画が青白い光を帯びる。

「……何やってんの?」

「いいから、おにーさんは荷物まとめて」

 突然きびきびと動き出したアエルをぽかんと目で追っていたリストだったが、ぴしりと指示を出されて、慌てて白コートを羽織る。それから、たいして大きくはない荷物を肩から下げた。

 それにしても、あの絵画で何をするつもりだろう──そう考えていると、とうとう、扉の開く音がした。

「うわ!」

「ば、化け物!」

すぐに、複数の悲鳴が聞こえてくる。様子を見に行ったクルイークが、笑いながら戻ってきた。

「すげえ驚いてやんの!」

「……どういうこと?」

「さあ、わけわかんない化け物でも見えてんじゃないの」

 さして興味もなさそうに返し、アエルはさっさとベッドルームの窓へと向かう。クルイークものらりくらりとその後を追っていく。

 すぐ隣の部屋にある出入り口で、いったい何が起こっているのか興味があったが、のこのこ見物に行くわけにもいかなかったので、リストも続いた。悲鳴の類が、聞こえてくるだけでも複数。一人、二人ではない。顔を出して、自分が捕まったのでは話にならない。

 アエルは窓を開けると、躊躇なく手を差し出した。指先が、目に見えない何かに触れる。防御結界──本来、中にいるものを守るためのものだが、この場合は、閉じこめるために使われている。衝撃の類は何もかも吸収される、やっかいな代物だ。

「君は、魔法士なの?」

 口に出してしまってから、場違いな質問だと気づいた。アエルがちらりとこちらを見る。答えなくてもいいけど、とリストは続けたが、アエルは視線を戻してちゃんと答えてきた。

「魔法士の登録はしてないけど、魔法は使えるよ」

 アエルは、窓の外に両手を突き出した。そのまま、何かを握りつぶすようにゆっくり、広げた手のひらを閉じていく。

 魔法士の資質のないリストの目にも、空間が歪んでいくのが見えた。まるで、アエルの手に捕らえられたかのように。透明な何かが絡め取られ、アエルが手を引くのと同時に、存在そのものがかき消える。たったそれだけの動きで、かすかにタワー全体が揺れた。

「結界を……相殺した?」

「そう」

 リストは口を開けたまま、閉じることができなくなってしまっていた。魔法学の研究をしているリストは、魔法は使えないものの、知識だけなら一般の魔法士のそれを上回る。それだけに、魔法の相殺がどれほど困難なことなのかを知っている。

 力が大きければ良いというものではないのだ。そこに使われている魔法力を正確に判断し、寸分の狂いもなく、ぴったり同量の魔法力を生み出さなければならない。少しでも過不足があれば、過剰反応を起こして魔法力が魔法士に逆流し、命の危険すら伴う。

 それを、ほんの一瞬で、やってのけてしまった。

 リストは、身体が震えるのを感じた。確信がなかったわけではない──しかし、本当に、目の前の彼女こそが、そうなのだ。

「で、どうすんの? 飛び降りんの?」

 何が楽しいのか、弾んだ口調でクルイークが問う。アエルは少し考えるような素振りを見せ、それからクルイークの正面に立った。あまり身長差はないものの、それでも少しだけアエルよりも背の高いクルイークの、その赤い瞳を見上げる。

「え、なになに、このドキドキ体勢!」

「そのテンションの高さ、疲れるわ。おにーさんと足して二で割ったら?」

 心から嫌そうな顔をした二人の目が合った。口に出さずとも、お互いにそれだけは嫌だというオーラがにじみ出ている。

「せっかくだから、あるものは利用しようと思って。新しく召還するのは面倒だしね」

 にっこりと、アエルは笑った。クルイークの両肩をつかむ。

「我は魔の契約者、我は魔の使い手、我は魔の一部、我は魔そのもの──」

「ちょ、ちょっと、オレ、疲れることはしたくねーって!」

 急に慌て出すクルイークにかまわず、アエルは続けた。

「我は使役する、フォシール・クルイーク」

 瞬間、クルイークの赤い瞳が、光を放った。放たれた赤い光が、クルイークの身体を覆う。

「すごい……!」

 状況も忘れ、リストは目を輝かせた。

「高位の召還力の魔法士が、生物を召還、使役できるっていうのは、もう過去の話かと思ってたけど……初めて見た、すごい!」

「こんなこと、だれにでもやられてたまるか!」

 赤い光に包まれたままで、クルイークが不機嫌な声をあげる。さきほどまでの楽しそうな表情が嘘のようだ。

 アエルは、男性二人の感情の機微などまったく意に介さず、両肩に置いていた手を少し下にずらした。指先に力を込める。

「翼を」

 小さなつぶやき。しかしそれだけで、クルイークの身体が大きく波打つ。

「──かっ」

 苦悶の色を浮かべ、クルイークが前のめりになる。

「あとは、いわなくてもわかるよね?」

「……高くつくぜ、アエルちゃん」

 苦しみのなかで、クルイークはにやりと笑ってみせた。そして、窓枠に右手をつくと、まるで小さな台を飛び越えるようにふわりと空に躍り出る。

「──っ!」

 まさか落ちはしないだろうと思っていたリストも、目を見張らずにはいられなかった。

 闇夜に舞ったクルイークの背から、その決して大きいとはいえない身体からは想像もつかないほどの巨大な翼が、まるで花開くように、瞬時に生まれたのだ。

「……なんて……」

 言葉がうまく出てこない。それでも、美しいと、素直に思った。人外であるが故の美しさ。黒く大きな翼さえも、赤い光に覆われている。

「呆けてないで、行くよ、おにーさん」

ためらいなく窓枠に足をかけ、アエルが促す。

 急に、目の前の光景が現実味を帯びた。リストはごくりと唾を飲み込む。

「………………乗るの?」

「あたりまえじゃん」

 まったくあたりまえの返答だった。動けないでいると、アエルに腕をつかまれた。








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