少女
少女は歌った。
歌うことしか知らなかった。
歌うことがすべてだった。
それがもたらす意味など、考えようともしなかった。
そして、少女は裁きを受けた。
「か、かかか、金を出せえ!」
滑稽なぐらいに震えた声が、店内に響き渡った。
ブラン大陸の中央に位置する、商業都市メラン──そのメインストリートに堂々と店を構える、ファミリー向けの高級衣料店『プラティーン』。店内にいる従業員スタッフは十名ほど、客はその倍以上にもなる。
男は、刃渡り十センチほどの短剣を、一人の女性客に突きつけていた。真っ白の襟巻きを首に巻きつけた、ふくよかな初老の女性だ。男は、その襟巻きで首を締めつけるようにして、刃をあてている。
声も出せず、人質の女性はいまにも気を失いそうだった。厚化粧の上からでもわかるぐらいに、完全に色を失ってしまっている。
客も従業員も、息を飲んでそのまま動きを止めた。店から逃げ出そうとするものはいない。へたに目立って、標的にされたのではたまらない。
「は、早くしろ! そこの、金髪の店員! 店中の金を、カカ、カバンに詰めろ! 金髪以外は動くなよ……ちょっとでも動いてみろ、この客、こ、殺してやるからな……!」
震えた声で指示を出し、大人が一人余裕で収納できそうなショルダーバッグを投げ渡す。不幸にも指名されてしまった、ブロンドの若い店員が、戸惑いながらもカウンターへ向かった。研修の際、こういった手合いには逆らうなと教育を受けた。ここはおとなしく、いわれるままに金を渡し、人命を最優先すべきだ。売り上げナンバーワン衣料ブランド『プラティーン』の名声にも関わる。
息を飲むような沈黙が、店内を支配した。札束をバッグに詰める静かな音だけが、妙に響き渡る。
「……っ」
緊張に耐えかね、人質の女性がとうとう気を失った。全身の力が抜け、そのまま全体重を男に委ねる。
「おわ! 危ね!」
うっかり首を切りそうになったらしく、男が情けない声をあげた。左手で抱えるようにして、もう一度短剣を首元にぴたりとあてる。
「──もし良ければ……」
静まった店内に、テンションの低い男の声が割り込んだ。
犯人はもちろん、客も従業員も、そちらに注目する。よれた白いロングコートを羽織った、高級衣料店に似つかわしくない若い男が、億劫そうに両手を上げた。
「人質、俺が変わるけど。このとおり、丸腰だし敵意もない。栄養不足で非力だし、昨日寝るの遅かったんで、寝不足で眠いし」
提案自体は称賛に値するものであるにもかかわらず、完全に緊張感のない、ゆるりとした口調だった。しかも、アピールポイントがずれている。
犯人の男は、目を瞬きながら、めまぐるしく頭を働かせた。
「そっちだって、いざってときに人質が気絶してるんじゃ、困るんじゃないの」
追い打ちをかけられ、男は鋭く舌打ちした。女性に突きつけていた短剣を、より強く、食い込むほどに握り直す。
「だったら若い女だ。おまえみたいなイキの良さそうな男、人質にできるか!」
それはまったくそのとおりだった。息を殺してやりとりを観察していた面々は、納得して、それとなく視線をはずす。目が合って、指名でもされたらおしまいだ。
再び、店内に沈黙が落ちる。もう犯人にもの申す人物はいなかった。黙々と金を詰め続ける店員以外、だれ一人として動かない。
モノトーンで統一された近代的な店内は、見通しが良く、あちらこちらに鏡が置かれていて、隠れて何かをするのには決定的に向いていなかった。盗難防止を目的とした設計のはずなのに、いまでは犯人が周囲を監視するのに役立ってしまっている。客も従業員も、そのことを充分にわかっているので、動けないでいる。
不意に、ベルが鳴り響いた。
防犯ベルの類ではない。もっと小さな、ささやかな音だ。音の方向に視線が集まる。その先には、カーテンで仕切られた試着室。
もう一度、ベルが鳴った。いちばん近くにいた男性店員が、戸惑ったようにちらりと犯人を見る。
「なんの音だ」
店の客ではない彼には、わからなかった。店員は、恐る恐る答える。
「し、試着を終えたお客様が、私どもをお呼びのときに鳴らされるベルでございます」
緊張のあまり、変な敬語になった。
「……試着だ?」
眉根を寄せた。この状況がわかっていないとしか思えない。
「どんな客だ」
「たしか……若い、女性のお客様で」
ならば、そいつを新しく人質にしてやるのもいいか──男は考えた。こんな状況でベルを鳴らすようなやつだ、頭のネジが緩いに違いない。
そいつを連れてこい、といおうとした。しかし、それよりも若干早く、試着室のカーテンが勢いよく開かれた。
「ちょっと、さっきから呼んでんだけど」
苛立ちを露わにして現れたのは、十代半ばほどの少女だった。肩までの黒髪、ぴったりとしたシャツに革製のミニスカート、そこから伸びたすらりと長い足。出るところは出ていないが、引っ込むところは引っ込んだスレンダーボディ。
意志の強そうな大きな瞳を、まっすぐに──人質をとっている犯人ではなく、それよりも手前にいる店員に向けた。
「ここの服好きなんだけどさ、いちいち『プラティーン』ってロゴ入るの、どうにかならないの? そういうブランド志向ってどうかと思う」
不平を洩らし、試着室から出ると、店員に衣類の山を渡した。
「でも買う」
買うのかよ、と店員は思った。声に出して突っ込む空気ではなかったが。
「あ、あの、お客様……」
いいにくそうに言葉を濁し、どうにか目で合図する。ばっちんばっちんとウィンクをくり返す。空気読んで、の合図。
「まばたき体操?」
伝わらなかった。
「そこの女! こ、こっちへ来い!」
男は、人質に刃を突きつけた状態で、少女に向き直った。
「なんで?」
「なんでって!」
ぐい、と気を失ってる人質を見せつける。これでもかと人命危機をアピール。
「おじさんさあ、空気読んだら?」
少女は、自分よりも背の高い男を、見下ろすようにして見上げた。考えられない構図だが、顎を上げた高圧的な様子が、まるで見下ろしているかのように見える。
むしろ空気を読んでいないのは少女なのでは、と思うものも少なくなかったが、だれも何もいわずにやりとりを見守るのみだ。
「おじさん、これが初犯でしょ。どうなの、このまったくなってない感じ。成功すると思ってる? こんな高級店でさ、そんな刃物一本で、強盗なんてうまくいくわけないじゃん」
まったく恐れる様子もなく、少女は歩みを進め、男のすぐ目の前で立ち止まった。
「それに、この人質さんとなんの関係もないから、脅されてもピンとこない」
「お、おまえ……! オレはやるぞ、本当に刺すぞ!」
「どぞ」
少女は肩をすくめた。笑みさえ浮かべてみせる。
かっと男の頬が紅潮する。彼は、自分の注意が完全にこの少女に向いてしまっていることに気づいていなかった。
「……じゃ、この隙にってことで」
犯人の背後には、いつの間にか、白いコートの男が立っていた。先ほど、人質交換を提案した男だ。見た目どおりのゆるいテンションながら、意外にも力強く、犯人を羽交い締めにする。
人質の女性が、そのまま床に倒れた。
「あ、て、てめえ!」
形勢逆転、かのように思えた。
「危ない!」
だれかが叫んだ。白いコートの男の背後で、刀身が光る。一般客を装っていた若い女性が、ナイフを低く構え、突っ込んできていた。
「──!」
だれよりも早く、少女が反応した。白いコートの端をつかみ、力任せに引っ張る。犯人と、それを捕らえている男とが、まるごと前のめりになる。
入れ替わるように、質量を感じさせない素早さで、少女が刃の前に躍り出た。全体重を手の中の小さな武器に預けていた女性は、標的が変わったことに気づいても、止まれるはずもなかった。身体ごとぶつかり、呻くような音をたて、少女の腹部に刃が埋まる。
「……あ……」
柄を手放し、自分のしでかしたことの大きさに、彼女はゆっくりと後ずさる。小綺麗にした、妙齢の女性だ。犯罪に手を染めるようには見えない、品のある衣類に身を包んでいる。ただ、丁寧に化粧のされたその顔は、いまや蒼白になり、全身を震わせていた。
少女は、自分の腹部を見下ろした。洋服の飾りのように、ボタンとボタンの間から、短剣の柄が飛び出ている。黒いシャツに、じわりと染みが広がる。
「あーあ。人質を取ってお金を要求するまでは、かわいいもんだったのにね」
驚いたことに、少女はまるで痛みを感じさせない様子で、困ったように眉を上げた。
だれもが動けず、見守るなかで、ゆっくりと歩を進める。なおも震え続ける女性の両手をつかみ、もう一度、柄を握らせた。
「ここまでやったら、冗談じゃすまないよ。──わかる? お金欲しさにそっちのおじさんと企んだんだろうけどさ、強盗と、これとじゃ、重みが違う」
女性は、ナイフから手を離そうとした。しかし、上から力強く抑えつけられ、離すことができない。少女はその手に、さらに力を込めた。より深く、自身のなかへ、刃を押し込む。
「──ひ……」
「なに? 殺したいんでしょ? 殺せば?」
「ち、ちが……」
大きく見開かれた瞳に、涙が溢れる。唇を震わせ、懸命に首を左右に振る。
「ちがう? 何が違うの」
「そのくらいにしといたら」
白いコートの男が、少女の手をつかんだ。女性はすぐに両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちる。
だれかが通報したのか、店内に青い制服の男たちがなだれ込んできた。ブラン大陸の治安を守る、ジャスティスの面々だ。放心している男と、泣き崩れる女性とを数人で取り囲み、そのまま連行していく。
数人残ったジャスティスが、安全が確認されるまで、一度店を閉めるように指示を出した。店員や客たちに事情を聞き、店内を点検していく。危険物の類が仕掛けられていないとも限らない。
少女が刺された、彼女を助けなければと、人々は口を揃えていった。しかし、刺されたはずの少女は、試着していた衣服数点と共に、いつの間にか姿を消していた。
ブラン大陸に十二の店舗を持つという、『カフェ・ジョカットロ』は、どの町で入っても内装とメニューが統一されているのが魅力だ。町の風情を楽しめないという否定的な声もあるものの、少女のように町から町へ旅をしているものにとっては、数少ない心休まる場所であることは間違いない。トイレが清潔で、広いというのもいい。
「失敗した」
つぶやいて、少女はそのトイレから姿を現した。
腹部を隠して入店したものの、ナイフを突き刺した状態でのんきにランチをするわけにもいかない。とはいえ、メランほどの規模の町では、路地裏で着替えるのも気が引ける。
結局、トイレでこそこそと着替える羽目になった。相変わらずのミニスカートに細身のシャツ、ロングブーツという代わり映えしない格好ではあったが。
「まだ新しかったのにな」
毒づきながら、カウンターでカフェラテとハムサンドを注文し、適当な席に座る。まったく、今日はついていない。衣服の補充を、と思っただけなのに、強盗に出くわすとは。さらに腹を刺されるなんて、厄日にもほどがある。
木製の丸テーブルに、だらしなく肩肘をついて、ハムサンドにかぶりつく。ちょうどそのときに、後ろから声をかけられた。
「ご一緒しても?」
若い男の声だ。昼時とはいえ、ほかにいくらでも席が空いている。少女はあからさまに嫌そうな顔をして、ふり返る。
そこに立っている人物を見て、さらに眉間に皺を寄せた。白いコートの、長身の男だ。強盗事件の際に、店にいたのを覚えている。
「いや」
簡潔に答えた。
しかし男は、返答は気にせずに、向かい側の椅子をわざわざすぐ隣に持ってくると、テーブルにコーヒーカップを置いて当たり前のように腰を下ろす。
「……いや、っていったんだけど」
「傷は?」
まるで無視だ。少女の腹部をまじまじと見る。
「ちょっと」
あまりの凝視っぷりに、少女の方が椅子を下げる。しかし男は意に介さず、それどころか身を屈めて腹部に顔を近づけると、べろんとシャツをめくり上げた。
「おおっ? っと、ちょ……っ」
羞恥心からくる悲鳴よりも、驚きの声が勝った。ワンテンポ遅れたものの、男の後頭部をげんこつで殴りつける。
「傷がない」
殴られてなお、男はシャツをつかんだままだった。少女の、あまり肉付きがいいとはいえない腹部が、露出されている。白い肌、小さなヘソ──そのどこにも、さきほど刺されたはずの傷は見たらなかった。
「ちょっとおにーさん、ジャスティス呼ぶよ。なんなの、痴漢なの? 変態?」
少女はむりやりシャツをぐいと下げ、男の髪をつかんで持ち上げる。それでも男は譲らなかった。
「傷は? 君はさっき、俺をかばって刺されたはずだ」
眠そうなタレ目が──とはいえ、いまは真剣味を帯びてはいたが──見上げてくる。その瞳に映し出された自分の表情が、思ったよりも狼狽していることに気づいて、少女は彼を突き飛ばした。目を逸らし、椅子ごと男の反対側に移動する。ハムサンドとカフェオレの乗ったトレイも引き寄せた。
「かばったつもりないから、気にしないでよ。傷がないのは、あたりまえ。最初から刺されてないもん。手品ってやつ」
つまらなそうに吐き捨てる。男がこちらを見ていることがわかったので、あえて視線を合わせた。
「命の恩人とか思って、わざわざ追ってきたの? 気にされるほうが迷惑」
「リスト=グランデ、二十二歳。魔法学の研究をしている」
話の流れを完全に無視して、男は唐突に名乗った。一瞬、それが自己紹介なのだということがわからず、少女は目を白黒させる。
「……は?」
「君は?」
しかも、当然のように促される。少女は眉を寄せた。
「……なんで名乗らなくちゃいけないの?」
「名乗られたら、名乗り返すのが礼儀だよ。知り合ったんだから、お互いの名を知っておいてもいいんじゃないかな」
なんだこいつ、と少女は思った。見るからに低いテンションで、眠そうにのらりくらりと話すのに、折れる気配がない。きっとこのまま押しとおす気だ。
適当にやりすごすか、いっそ無視しようか──ちょっと考えたが、もう考えるのも億劫になった。名乗ったからといって、どうなるものでもないだろう。
「……アエル。アエル=イーリス、歳は十六。職業は場合によってイロイロ。現在は旅人中」
投げやりに情報を吐いた。白コートの男──リストは、何が嬉しいのか満足そうに笑んで、さらに質問を重ねた。
「旅は一人で?」
いい加減面倒になって、アエルはこれ見よがしにため息を吐き出した。
「なんなのさっきから。それ、知ってどうすんの? ──あ、もしかして、おにーさん……」
身を引くようにして、眠そうなタレ目をじっと見つめた。
「……ロリコンなの?」
「ロリ……」
思ったよりも大きなダメージを与えたようだった。リストは右手を額に当て、天井を仰ぐ。
「……コンじゃないよ。これでも心に決めた女性がいるんだ」
「聞いてないけど、そんなこと」
「アエル君、どうしてそう冷たいの。ちょっとおにーさんとお話ししようよ」
これでもかという胡散臭いセリフをさらりと口にされ、アエルは背筋が冷えるのを感じた。
「『おにーさんとお話ししようよ』……」
思わずくり返す。
「え、どうかした?」
「知らない人と話すことなんてアリマセン」
「なるほど」
つぶやいて、考えるように黙り込む。ちょっと待っててといい残し、カウンターで何やら注文すると、チョコレートパフェを片手に戻ってきた。
「これ、お礼の気持ち。君はかばったんじゃないっていったけど、俺にしてみれば年下の女の子に助けてもらったってことになるんだ。俺だけじゃなくて、店にいたひとはみんな感謝してるよ」
アエルは、リストを見上げた。
どうやら、本当に感謝してくれているようだ。胡散臭さは拭えないものの、悪人ではないのかもしれない。
「こんなこというのって、自分でもどうかと思うけど」
チョコレートパフェを受け取り、食べ始めながら、アエルはそう切り出した。
「あたし、苺パフェの方が好き」
「…………」
リストは、もう一度席を立った。
小さな丸テーブルの上には、空のグラスが六つ並んでいた。
「やっぱり苺パフェが一番かな」
チョコレートパフェ、苺パフェ、ヨーグルトパフェ、フルーツパフェ、小倉パフェ、モカパフェ──『カフェ・ジョカットロ』のパフェメニューを一人で制覇して、さらりと出てきた感想がこれだ。いったいその華奢な身体のどこに収納されたのだろうと、リストは生命の神秘に思いを馳せた。
「ありがとう、おにーさん。ここのパフェ、一度に全部食べるの夢だったんだよね」
「……喜んでもらえてなにより」
黙々と食べ続けるアエルとは対照的に、リストはコーヒーを一杯飲んだだけだった。目の前で大量に食べられると、かえって食欲が減退するものだ。
「魔法学の研究って、どういうことするの?」
おごってもらったことで、幾分機嫌が良くなっていたアエルは、自分からそんな世間話を切り出した。
「どうしたの。お話ししてくれる気になった?」
「夢を叶えてもらっちゃったからね」
ギブアンドテイク。まるでお小遣いをあげて付き合ってもらってるおじさんみたいだな、と思いながらも、リストは話し始める。
「そのままだよ。魔法について研究してる。分野は様々だけど、俺がいま研究してるのは、魔法の解除に関する魔法学──知ってるかな、解呪の妙薬が調合できるって話」
ぴくりと、アエルの眉が動いた。
「……解呪?」
「そう、解呪だ」
食いついてきたことに、にやりと笑みを見せる。コーヒーで喉を潤して、リストは続けた。
「文字通り、呪いを解くことのできる妙薬だ。どんな高位の魔法士がかけた魔法でも、その薬一つで解除できるっていう話でね。ヴァストークの薬師が調合に成功したっていう噂があるんだ。魅力的だと思わない?」
アエルは、話の内容を、頭の中で注意深く整理した。ここは慎重になるべきだった。
「興味はある。魅力的かって聞かれると、どうかな。おにーさんは、その薬のどこに魅力を感じるわけ?」
「それを語り出すと丸一日じゃ足りないけど」
「じゃあ、いい」
アエルはあっさりと引き下がった。冷たいなあ、と悲しげな顔をされたが、知り合ったばかりの男のロマンをたらたらと聞く趣味もない。
「とはいえ、まだ噂の段階でね。真偽を確かめるために、ヴァストークに行くところさ」
アエルは無言で、リストの目を見た。真意の読めない目だ。世間話として聞き流せばいいのか、それとも裏の意味を疑うべきなのか──表情には出さないよう、注意深く挙動を観察する。
ここブラン大陸と、その周囲にある六つの島は、合わせてザーパトと呼ばれている。地域名、民族名、どちらとしても使われる呼称だ。対して、ザーパトよりも東に位置するケリー大陸と三の島から成るのが、ヴァストーク。どこのだれが始めたことなのか、アエルにとってはどうでもいいことだが、この二つの民族間では、太古の昔より争いが絶えなかった。
大規模な戦争がやっと集結し、形上「和解」したのが五十九年前。それ以降も、一触即発とはいわないまでも、冷ややかな関係が続いている。
そのヴァストークへ、行くというのだ。決して、旅行感覚でひょいと行ける場所ではない。
「噂の段階なら、やめといたら? あたしがとやかくいうことじゃないけど」
世間話の延長として、そう提案する。普通の人間なら、まずこういうはずだ。
「行くよ。信憑性がないわけじゃない。さすがに一人で行く勇気はなくてね、パートナーを探してるところだけど」
リストは、そういって邪気のない笑顔を見せた。アエルは内心、来た、と構える。ただの偶然ではない可能性が、膨らんでいく。
「見つかりそう?」
動揺は押し隠して、尋ねた。もともと細いタレ目をさらに細めて、彼はうなずいた。
「申し分ない度胸。軽い身のこなし。旅をしてるってことは、腕に覚えがあるんだろう?」
「そうでもないけど」
しかし、リストは引き下がる気はないようだった。身を乗り出すことはせず、背もたれにゆっくりと体重を委ね、なんでもないことのように提案した。
「君が、もしも解呪の妙薬に興味があるなら、俺に雇われてくれないかな」
アエルは黙った。
結局のところ、そう話を持ちかけられてしまっては、彼女が断るはずはないのだ。
「どう?」
「……報酬は?」
それはもう、ほとんど承諾を意味しているといってよかった。リストは、テーブルの上に右手を差し出す。
「君が望むだけのものを。──どうぞよろしく、アエル君。いい旅ができそうだ」
アエルは不機嫌そうに目を細め、それでも一応、右手を握り返した。
*
二人の旅人がアウレーのカフェで手を取り合うよりも、少し前。
ブラン大陸と六の島──ザーパトにおいて、絶大な権力を誇る組織、『希望の国コスモス』では、ある情報が駆けめぐっていた。
希望の国とはいえ、実際には国ではない。そもそもザーパトは、町一つ一つが自治を行い、お互いが交流を持ちながら、『ザーパト』というまとまりを保つ連合体制だ。国というものは存在しない。希望の国コスモスとは、だからこそあえて『国』という呼称を持つ組織名だ。
コスモスとはどういった組織なのかを説明するのは、実に難しい。尋ねたところで、ザーパト人のほとんどが、なんでもやっている組織、という答え方をするだろう。
いまから七十年前、現在でも最高責任者の地位を担うカメロス=ガナドールによって設立された。設立から五年後に勃発した戦争の際に、様々な物資の開発、売買を通じて、急成長を遂げた組織だ。現在では、商業組織であり、研究組織であり、人材育成組織でもある。高級衣料店『プラティーン』も、ブラン大陸に十二の店舗を持つ『カフェ・ジョカットロ』も、経営しているのは希望の国コスモスだ。さらには、ブラン大陸の治安部隊である『ジャスティス』が存在し得ているのも、コスモスからの多額の寄金があるからだといわれている。
ともかく、すべてを書き出せばきりがないほどに、各方面に触手を伸ばしている。もしもこの組織ががなくなるようなことがあれば、ザーパトはいまの状態ではいられないだろう。
コスモスは、カメロス=ガナドールの息子、ティグレ=ガナドールを組織長とし、その下に四の階級を有する。順に、アインス、ツヴァイ、ドライ、フィーアの四つだ。それぞれ色分けされたバッヂをつけることが義務づけられている。
「ヴァストークの歌姫が?」
噂を聞きつけた一人が興奮して語るのを、のんびりと最後まで聞き、男はばかにしたように鼻を鳴らした。胸にはくすんだ白いバッヂがぶら下がっている。上から三つ目の階級、ドライの証だ。
「アインスの連中が話してるのを聞いたんだ、間違いねえよ」
冷たく聞き返されたのに、興奮冷めやらぬ様子で、男が身を乗り出した。ここは、ブラン大陸西部、アウレーの町にあるコスモス本部内の休憩室だ。だだっ広い部屋に、四角く味気ないテーブルが整然と並んでいる。部屋の隅には、だれでも自由に飲み食いができるように、飲料と菓子の類が収納された大きな棚が一つ。その隣の背の低い棚には、専門的なものから娯楽に関するものまで、あらゆる雑誌が詰め込まれていた。
グラスとビンをトレイに乗せて、女性がそこへ合流した。向かい合って座る男二人にグラスを渡し、コスモス印のビンから水を注ぐ。それから自身も、椅子に腰を下ろした。
「わたしもそれ、聞いたわ。同じ寮の子が噂してた。ヴァストークの歌姫が生きていて、しかもザーパトにいるらしいって」
「だろ? ほら、エイラも聞いてるんだ、こりゃ信憑性あるぞ」
「わたしが聞いたからって、信憑性があるってことにはならないわよ」
金髪の気の強そうな女性──エイラ=ミリシアにそうあしらわれ、男はつまらなそうに眉を寄せた。もう一人の男の方も、エイラに加勢する。
「所詮は、噂だろ。上のお偉方ならともかく、おれらにはそういうのは聞かされないよ。仕事に直結しない限りな」
「いや、でもどうやら、探させてるらしいんだ。ドライの中でも、直に命令受けたやつがいるんじゃないかって話でさ」
「だったら、噂じゃなくて、ちゃんと知らされるはずよ」
グラスを弄びながら、エイラが冷静に告げる。男はやっと、興奮状態から本来の自分を取り戻しつつあるようだった。そうか、そうだよな、とつぶやく。
「だって、ばかげてるわよ。ヴァストークの歌姫っていえば、戦後に──それこそ五十九年も前だわ──大罪人として裁かれたはずでしょう。それが、裁きから逃れて、ザーパトで元気に歌ってる、だって。だとしたら、もうお婆さんだわ。本当だとしても、どうしてそれがいまさら噂になるのよ、ばかばかしい」
不機嫌ともとれる調子で、エイラが吐き捨てる。気圧されて、男二人は思わず黙った。そのようにいわれてしまえば、確かにそうに違いないという気になる。
半分ほど残っていた水を一気に飲み干し、エイラは音をたててグラスを置いた。まるで水で酔っぱらったかのようだ。こちらを見ている二人の男に、半眼を向ける。
「くだらないこといってないで、さっさと仕事に戻りなさいよ。それが本当でも嘘でも、どうせわたしたちドライには関係のないことなのよ」
理由はわからないが、この話題が彼女を不快にさせてしまったことだけは確かなようだった。二人は自分のグラスと空きビンを手にして、イエス、サー、と真面目くさった顔で返事をし、休憩室から出て行った。
無駄と思われるほどに広い休憩室に、エイラだけが残った。彼女は、しばらくそのまま黙って座っていたが、ほかにだれも訪れる気配がないのを確かめると、紺色のジャケットの内側から小さな丸い物体を取り出した。
直径十センチほどのそれは、中心に向かって緩やかに曲線を描き、見た目にはレンズのようだった。とはいえ、よく見ると、透明なガラスでできているわけではないようだ。金属めいた輝きを放っている。光の加減で、赤にも黄にも青にも変化した。
それともう一つ、やはりジャケットの内側に手を入れて、小さな球体を取り出す。こちらはビー玉ほどの大きさしかない。色は黒。つるりとした材質だが、あまり美しいとか綺麗とか、そういった印象を与えるタイプのものではない。
エイラはその球体を、手のひらで隠すようにして、口元まで持ち上げた。そうして、小さく息を吸い込む。
「──ご執心のお姫様、もうコスモス中で噂になってるわよ。本格的に動き出したみたいね。こんなことで大丈夫なのかしら?」
だれにも聞こえないほどの──それこそ、黒い球体にさえ届けばいいというような──小さな声で、そっと囁いた。
エイラは、左手にレンズを持った。右手の内に隠した球体を、ごく何気ない仕草で、レンズに押し込む。
ただそれだけの動きで、確かにそこにあったはずの黒い球体は、姿を消していた。まるで、レンズに吸い込まれたかのように。レンズは、一度だけ黒く怪しく光り、それから色を失った。もう、光の加減で色を変えるということもない。
エイラはレンズをしまい込み、億劫そうに金の髪をかき上げて、席を立った。