駆け引き
王族や貴族の罪人を幽閉するため設置された西の領地にある塔は、3世紀以上前に建てられた今は寂れた建造物だ。先代の国王から断罪目的で使用するのが禁止されたこともあり、王家の所有物でありながら、その設備投資優先順位は低く今では年に数回メンテナンスをする程度になっている。
数年前、レナードは現国王からの用命でその塔の所有権を移管された。
つまり自分にその塔に関する全ての権限があるのだが・・レナードは差し出された起案書に一通り目を通すと目の前の人物へ怪訝そうに視線を持ち上げた。
「このような起案書をよく持ってこれたね、ウィリアム」
比喩では無くバチバチっと2人の間に雷光のようなものが走る。
「このような、とは?いまだ妻を迎えようとしない王太子に代わり、王家の血筋を繋ぐ唯一の希望である第二王子の一大事なのですが」
レナードは先刻まで執り行われていた建国記念の式典で、ウィリアムとサロメ2人の間に一触即発の場面があったという報告を受けたのを思い出す。
にこにこと、胡散臭い笑みを浮かべる第二王子に負けじと冷徹な笑顔を浮かべた。
「何を今さら。君らは初夜も迎えていないくせによく言う。僕が知らないとでも思っているのか?―――それで、これはどう言う風の吹き回しだ?頭でも打ったか?・・・いいか、夫婦喧嘩ならよそでやれ」
離れの塔は王宮から西に馬を走らせ約3日ほどかかる土地にある。ライフラインは最低限整備されているが、決して王族が住むような所ではない。平民でも億劫になるレベルだろう。塔の廻りは何もなく、ただ青々とした木々が生い茂る。森の中、静かに聳え立つ塔は異彩を放ちながら君臨しており、誰も近づきたがらない。そんな塔に・・ウィリアムは目を付けたらしい。
【その塔の所有権を、自分のものにしたい。目的は夫婦で住み移り、良好な関係の構築をはかるため】
起案書を要約すればこんな感じの内容だ。
レナードは分かりやすく頭を抱えたが、当の本人は表情一つ変えずに堂々とした態度を貫いている。
「貸与でもいいんですけどね」
「どちらでもいい。このような要望は認められない」
レナードがそう冷たく声を落とした次の瞬間、空気が変わった。
「もう、いいんです」
ウィリアムの声から建前が無くなった。前髪から覗く透き通った褐色が、闇を落とす。
「・・は?」
「疲れたんです。国と国のしがらみ、優劣関係、王家と並ぶ貴族たちの腹の探り合い、駆け引きもすべてサロメが手に入るなら何でもしてきました。自分の感情さえも押し殺して。でも―――」
疲れた、と口にしたウィリアムの顔は確かにやつれたように見えた。
「契約上だけ彼女を手に入れた今、それが全て無駄だと気付いたんです。必要なのは彼女だけと向き合う。それだけのことだったんです。だって、この想いをすべてぶつけたってサロメは死にはしないのだから」
いや、それはどういう恐ろしい理屈だ・・?
それに最後の一文、レナードは100%否とは思えない。決して口には出せないが。
「・・なにかあったのか?・・サロメと」
「離婚を要求されました」
貼り付けたような笑顔が恐ろしい。レナードは一瞬視線をそらす。逸話に出てくるメデューサという怪物はきっとこんな瞳をしているんだろうと思った。
「しかも、彼女はそれを僕のためだと言ってきた。離れることが必要だなんて、どうしてそんな馬鹿げたことを思ったのか。・・・解明して、夫として妻の思考を正さなければいけない。よって、サロメと2人きりになれる空間が必要です。兄上、サインを」
「王宮で、いくらでもその空間は作れる」
サロメもお前も、拗らせすぎだ。
レナードは心の中でため息をつく。
「妻と良好な関係を構築するのは夫の大事な仕事であり、誰にも邪魔されてはならない権利ですよ」
「・・馬鹿を言うな。私利私欲のために提出された起案書にサインできるか」
言い切った。レナードは思わず自分を称えた。この弟に寝首を掻かれるのは御免こうむる。
体裁的にも、プライド的にも。
ましてや、この件に関しては絶対に。
こんな私利私欲のために!
ウィリアムがふっと視線を外す。残念ですね、とぼやくように紡いだ唇が薄く笑っている。
レナードの脳裏に嫌な予感がよぎった。
「そう言えば・・兄上。薔薇園で私の妻と、こそこそと逢引されていたことを覚えていらっしゃいますか?」
「・・・?」
「私は、その件についてまだ許すと言った覚えはないのですが・・」
「・・随分と人聞きの悪い言い方だな。なぜ急にその話になる?あれは、単なる偶然だった。嘘じゃない」
「一体何を話されていたんです?」
「昔話をしていただけだよ。サロメが言っていただろう?」
「結婚しようか?」
「・・・」
レナードの呼吸が一瞬乱れたのを、ウィリアムは目敏く察知する。
「聞いていたのか?」
「ええ、妻の言動、行動に伴う事象はすべて、僕の耳に入りますから」
あの時、人払いをしていたはずだ。それなのに、なぜ――?
考えられるとすれば・・・
「衛士か?メイドか・・?監視しているとは、悪趣味だな」
「明言は避けますが、みな、働き者で助かります。それと監視ではなく保護と言ってもらえますか」
しん、と静まり返った室内に、
兄上、と一段低い声が落ちる。
「あれは本気ですか?」
「冗談だ」
「兄上らしくない冗談だ」
「お前がサロメを泣かせるからだ。可愛がっていた幼馴染があれだけ弱っていたら泣きやませようと必死になるのも当然だろう」
「へぇ、国と国で繋がっている令嬢たちを情も無く振って、散々泣かせてきた兄上が・・?立場を考えれば、どの令嬢もサロメより大事にしなければいけない方たちばかりでしたが」
レナードは起案書を手に取った。
そのままウィリアムに突きかえす。
「なんでもいい、この起案書にサインしないことに変わりはない」
証拠はない。大体、このような脅しに屈する王太子がいてたまるか。王家にスキャンダルはつきものだが、その内容は不確かなものがほとんどだし、真に受けるのは世間を知らないごく少数派だ。
「その時の、録音があるんです。これを、国中の防災無線にのせましょうか」
そこに手のひらサイズの四角いテープをひらひらと泳がせる悪魔がいた。
(はあ・・・)
紙を持つレナードの手がわずかに動く。
反対の右手はペンに伸びていた。
「・・サインしよう」
「ありがとうございます、兄上」
サイン入りの起案書を受け取ったウィリアムはまったりとした笑顔を残して執務室を後にした。
もう勝手にしてくれ・・。
しっかりと仕事をしてくれるなら塔くらいくれてやる・・。しっかりとやってくれるなら、な。
残されたレナードの悲痛な叫びは胸の奥に秘めたまま、静かな夜に溶け出した。