決意
思えば私はこの背中をずっと、一歩下がったこの場所から見つめてきました。
高い靴でも痛くないようにでしょう。早すぎずけれど遅すぎないとても安心感のあるスピードで歩みを進める王子。その後ろ姿は、寡黙で威圧的に感じますが、慣れない衣装の私を気遣ってくれているのが伝わります。
彼の身体が私よりも小さかった時から頭一つ分以上追い越された今この時も、力強く頼もしい背中がそこにあり、道しるべとなってくれていたんだと、今更ながら気づく。
どうして?優しくしないでください。
勘違いしてしまうから。自惚れてしまうから。
だって私は妻にあるまじき失態を演じてしまったのに。
『サロメ!つぎはあっちに行こう!』
『うん!あ、待って―――ウィルっ』
ふと、ある日の記憶が脳内に蘇ります。
『―――わっ!』
座っていたところを、思い切り腕を攫われて私は前に倒れこむ。
そのままシロツメクサ畑に顔からぼすんと沈みました。
ごめんごめんと謝るウィルは、悪びれてはおらずむしろ楽しそうに笑っています。
すかさず、はやく行こうよと私の手を引いたウィルをレナード様が静止させます。
体を動かすといえば、城内にある庭園がお決まりで、この日は四つ葉のクローバー集めに励んでいました。ただ、レナード様に関して言えば、10歳になったころから本格的に政治や国の勉強を始め、ウィルと私のやんちゃな遊びには参加せず、少し離れたところで本を読んだり、書き物をしたりと、だんだんと私たち2人の子守的な位置になっていました。
『大丈夫かいサロメ、どこも痛くない?』
うん、と頷いた私にレナード様が顔についた草や土を丁寧に掃いのけてくれます。
私の身なりを整えながら、ウィルにサロメは女の子なのだから乱暴にしてはダメだと注意をしました。
『はい、これで大丈夫』
『ありがとうレナードさま!』
すると、ぽんぽんと頭に柔らかい重みがかかる。
いつも冷静で頭が良くて、優しくて、ノルコールズドの次期国王となる姿が容易に想像できる。
私はウィルのお嫁さんになるけれど、レナード様のことも精一杯支えていこうと強く思ったものです。
例えるならば、ウィルは太陽、レナード様は月。
幼心にそんな印象がありました。ウィルはよく私のことを太陽みたいだと比喩していましたが、私にとっては彼こそが「それ」でした。
まあけれど今は、太陽と月が入れ替わってしまったと感じてしまいますが。
ウィリアム様と結婚してから、垣間見える所作にはほとほと感心させられる。私のスピードに合わせて歩いてくれるなんて、やんちゃだった小さな頃からは想像もつかなかったのです。
だけどそれは、私の時間が止まっていたからに他ならないでしょう。ウィリアム様は17歳、私は20歳になり、私たちが会わなくなってから再会するまでに少なくとも10年以上もの月日が経っていたのですから。
変化する、心も体も。
当たり前のことです。
*********
ウィリアム様、また背が伸びましたか?
黒に近い茶色のさらさらとした後ろ髪が揺れるのを見つめます。
昔と手の感触が全然違う。テーブルマナーも。一人称も。どんどん私は追い越されて、記憶の中の貴方は何処か遠くへ行ってしまう。
私には過去の貴方しか縋るものがありません。
だから、理由はなんであれ、ウィリアム様と2人きりになれたことが嬉しいと思ってしまう。
だけど、建国記念日のお祝いの場で、感情をひけらかしあんな失態をおかしてしまった。
ウィリアム様が、この後私に何を告げるのか。検討はついています。
だってこれはウィリアム様がリリー様と結ばれる未来を実現する、またとないチャンスです。
君は妻失格だと、もう離縁したいと、そう言えばいいのです。
そこで夫婦生活は破綻していたと、私からもそうしたいという風に一言添えれば、最終的にはきっと、私のお父様も納得せざるを得ないでしょう。
愛する人が愛する人と無事に結ばれる未来。
だけど私にとっては、とても悲しい未来。
それでも、ピースは揃っている。あとは私の決意だけ。
もうここが、潮時なのでしょう。
思わず、手に力を込めました。ピクッと一瞬、ウィリアム様の肩が跳ねたように見えたのは気のせいでしょうか。
たった数ヶ月の結婚生活だったけれど、身に染みて分かったことがあります。
心の繋がりがどれほど重要なことなのか。
それは結婚だけでなく、友情でも仕事でもなんにでも言えることでしょう。
そんな簡単なことに、いまさら気づく。私は愚か者でした。
ウィリアム様、ごめんなさい。
昔の愛に縋って、縛り付けて、求めてしまってごめんなさい。
今日私は、貴方を諦めます。
だからどうか神父様、最後に少しだけウィリアム様と2人きりの時間をください。
笑顔でお別れをさせてください。それが、私の最後のわがままです。
*********
手を引かれ、連れてこられた一室がウィリアム様の私室だと気づくなり驚き、目を瞬きます。
神父様は、最後に相応しい壮大なステージを用意してくれたようです。緊張で僅かに足が震えます。
全身に血が駆け巡るような初めての感覚に、私はごくん、と生唾を飲み込みました。
「ウィリアムさま・・」
「どうだ?体調は」
入るなり、振り向いたウィリアム様の視線が痛い。
さきほどのパーティー会場で見せた微笑みはすっかり消え、感情の読めない瞳が私を捉えます。
長居は不要です。
この話はさらっと終わらせてしまえる。
せめて最後くらい、潔く私の役目を終えよう。
そう決めて、口を開きました。
「申し訳、ありませんでした」
深く頭を下げます。
色々な想いが溢れてきて、なかなか言葉が続きません。
目が熱い。身体が熱い。
だけど、きちんと私の口で伝えなければ。最後なのだから。
「これまで、たくさんの幸せをいただきました。結婚後は妻としての務めをしっかりと果たせず、ご迷惑をおかけするばかりでした。小さい頃からウィリアム様のお側にいた、ひとつひとつの思い出はかけがえがなく、一生忘れることはありません」
「君は、何を―――」
「私と離婚、してください・・。本当に、今までありがとうございました。どうか、お元気で」
さようなら―――
ウィリアム様の言葉を遮って告げた別れの言葉。最後は声が震えましたが、なんとか言い終えると、途端に涙腺が緩みます。
笑顔でお別れなんて、到底無理だ。
続いて熱いものがこみ上げ、もうこれ以上はここに居られないと、踵を返そうとして顔を上げた時、ふと違和感に気づきました。あれ?いま涙を拭ったはずなのに、視界が霞んだままなことを。
それになんだか息も苦しい気がします。緊張の糸が切れたからでしょうか。
咄嗟に胸を押さえると、ウィルのサロメ?という少し焦りを含んだ声が聞こえたような気がしました。
幻聴、でしょうか?
あるいは―――
-ねぇ、サロメ。僕たち3人はいつからこうなってしまったんだった?ー
なぜここで、レナード様の言葉が思い浮かんだのか。
いよいよ、走馬灯が見え始めているのでしょうか。
でも・・
―――いつからだろう?
なぜでしょう。私たち3人が疎遠になってしまったきっかけをいくら思い出そうとしても、まるで靄がかかったみたいに何も見えないのです。
そんな大事なこと、忘れるはずがないのに。
絶対、忘れてはいけないことなのに。
「・・・っ」
すると一瞬、頭部に鈍い痛みが走ります。
『サロメ、――――――なくて―――――ね』
泣いている・・・?
――――あなたは誰?
靄の中で動く影、断片的な映像が浮かんでは消える。
それに向かって伸ばした手は空を切るだけで、何も答えてはくれません。
晴天だった空はいつのまにか一面雲に覆われ、太陽が姿を隠すと、ポツンポツンと小さな雨粒が窓を叩き始めました。