感情
『サロメ様、初めまして。マリスリリー・ジャベールと申します。私のことはリリーとお呼び下さいませ』
出来るだけ迎えたくなかった【その日】は、思ったよりも早くやってきました。
嗚呼・・・
神父様、どうか。
どうか教えて下さい。
その視線を私だけに向けて欲しい
他の人に触れないでほしい
彼の凡てを私のものにしたい
――教えて下さい。
日に日に大きくなっていくそんな醜い気持ちに蓋をする、方法を。
私が、いつまでも整然とした彼の妻で居られるように。
そして気丈に振る舞えるように。
何があっても狼狽ることがないように。
「太陽みたいなサロメの笑顔が一番すきだよっ」
一番だと言ってくれたその太陽が彼の目に映った時、決して曇ることがないように。
・・・もう、あの時ほどの輝きは放てないかもしれないけれど。
一寸でもいい、彼を照らせるように。
〞「答えは案外に、単純なものだよ」"
――あれから1週間が経ち
私はその答えを見つけることが出来ないまま。
また、ウィリアム様との関係も平行線を辿る中
ノルコールズド国は、建国記念のその日を無事に迎えました。
国家権力よりも各州の自治力が強いノルコールズド国。
建国記念を祝うパーティー会場は各州の旗で飾られ、豪華なシャンデリアが参加者の面々を照らします。
ウィリアム様と共に参加者への挨拶を一通り済ませた私は、隣に立つ夫を囲む有力貴族の方々へ向けられた、彼の充実たる夫婦生活を騙る調べに笑顔を張り付け相槌を打っていました。
誰かが、「お二人の新婚生活はいかがですか?」そのような事を尋ねてきたのがきっかけです。
「それは、それは。私の孫マリスリリーが介入する余地もないですなあ」
しゃがれた声で冗談交じりに紡がれた円の中心に佇むジャベール様の言葉に皆、笑い声を漏らします。
ずきんと胸に突き刺さった鋭い痛みには気づかないふりをして、私は心の中で大きく溜息を吐きだしました。
事実に反する空論に心がきゅっと萎み、居心地の悪さを感じながらも、愛想を振りまく行為は淑女たるもの抜かりなくてはいけません。
この場で一際存在感を放つのは白髪交じりの豊潤な顎髭がトレードマークの、その円らな瞳を細めると目尻に何本も皺が入る穏和な表情を讃えた人物。けれどその瞳の奥には泣く子も黙る威圧感が潜んでいる。私はウィリアム様の2つ右隣のその男性を見やりました。
彼の名は、マリウス・キルボンド・ジャベール。
この広大なノルコールズド国に名を連ねる3大財閥の1つであるジャベール財閥の創始者です。
銀行家の父と、牧師の娘の母の元に生まれ、父方の系譜は「カンデリー・ジャべール」名家と姻戚関係にあります。
国立大学を主席で卒業した彼は、父の経営する銀行に入社、その5年後にはジャベール・カンパニーを設立。その手腕と堅実的なやり方で成功を勝ち取った実業家です。
御年60歳になった昨年に会長の座を息子に譲り、経営からは退いたものの潤沢な人脈とその権力はいまだ衰えることを知りません。
ジャベール家、とりわけマリウス・キルボンドに、この国つまり王族は頭が上がらないということは私ないし皆知っていることでした。
そんな彼に、蝶よ花よと育てられた一人孫。その名をマリスリリー様。
ジャベール様の隣にちょこんと立ち、愛らしい表情を浮かべるのは先月齢15歳になられたばかりの・・・
"「いまウィリアム様のお部屋あたりに近づいてはダメよ。リリー様がいらっしゃってるの」〟
『リリー様』その人です。
私の心の中の黒い感情が止まらない理由、それは彼女の存在に他なりません。
この場から今すぐ立ち去りたくても、彼女に悪態をつきたくても、ウィリアム様の顔に泥を塗ることになる。そう考えると、憚られます。――私は、彼の妻にあるべき淑女でなければ。
彼が私の夫でいてくれる、それだけで冷たい雨が降っても寒くはないのですから。
雰囲気にぴったりの可愛らしい装飾が施されたドレスが、彼女が笑うたび舞い踊ります。
全身で表現される『喜』に周りはめろめろです。
瑞々しい血色のいい肌、アーモンド形の双眸に、小高くそびえる形のいい鼻梁。
艶々としたライトブラウンの長髪の先をくるりと巻き、ハーフアップにさせた髪型は彼女の小顔さを、雲母が乗る桃色の頬は愛らしさを、さらに強調しているようです。
噂に違わぬその美貌・・・
振る舞い・・・
"「サロメ様には悪いけど、リリー様には勝てないもの」"
まさに、その言葉に尽きるのでしょう。
不意に、リリー様と視線がぶつかりにっこりと微笑まれます。
潤沢な赤が弧を描くと、見た目にぴったりの甘く可愛らしい声が耳に届きました。
「サロメ様、初めまして!マリスリリー・ジャベールと申します。私のことはリリーとお呼び下さいませ」
清らかで純粋な笑顔を携え、リリー様は堂々と言い放ちました。
まるで私の暗海とした感情をあざ笑うかのように。
その瞬間、悟ります。
ああ・・・彼女にはどうあがいても敵わないのだと。
淡い黄色のドレスの端を持ち上げ、ちょこんとお辞儀をする姿に私もゆっくりと返します。
彼女とこうして対峙するのは、初めてのこと。
けれど、私の知らないところで彼女は何度も王宮に足を運んでいる。
私の夫に会うために。
「リリー様、お会いできてうれしい限りですわ。私のこともぜひサロメと」
「そんな・・・!あの。では、サロメお姉様とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです」
「まあっ、嬉しい!私、"きょうだい"に憧れていたものですから。サロメ様はお優しいのですね」
その甘い声が、まるで蜘蛛の巣のように私の心に絡まります。
・・・うまく笑えているでしょうか。
私はちらりと隣の夫を盗み見ました。彼の前で繰り広げている私たちのやりとりをどう見ているのかを確認したかったのです。
好奇心と言えば聞こえはいい。
けれどそこにあるのは、陰々鬱々たる私の執着心に他なりませんでした。
ちらりと見遣った視線の先、その表情が視界に入った途端
「―――っ」
鼓動がどくりと嫌な音を立てました。
周りの音が一切消え去り、全神経がウィリアムさまへと集中します。
(初めて見る顔・・・ )
その表情には焦りに一つも見えない。
むしろ、とてもやさしい表情で慈しむようにリリー様を見つめる夫の姿がありました。
(ああ、そうか・・・)
だから気づいてしまった。
分かってしまった。
あそこには―――
(私が入る隙なんて、ない)
彼にとっては、私とリリー様が接触する。そんなこと心を乱される―――いえ、何でもないことだったのです。
だって、初めから私は彼の視界に入ってさえいないのだから。
心臓がどくどくと煩い音色を奏でていました。
***************
それは、一通りの挨拶が終わり、みな思い思いに式典を楽しむ最中
「サロメお姉様!あっちにとっても美味しそうなケーキがありましたの!一緒に行きましょう」
唐突に黄色い声を上げたリリー様が、私に駆け寄ろうとした瞬間の出来事でした。
突然彼女の身体が膝から折れ、ぐらり・・・と前に倒れたのです。
界隈に驚嘆の声が漏れ出ます。
すると私の隣にいた人物が勢いよく前に飛び出しました。
その人物が間一髪のところで、リリー様は受け止めます。
ぐったりとするリリー様の手から、彼女を受け止めた人物―――ウィリアム様はグラスを奪い取りました。
半分以上は地面に零れてしまったグラスの中に鼻を近づけ
「・・・これは、ワインじゃないか」
そう呟くのを聞きました。
「リリー!」
ジャベール様が慌てた様子でリリー様に駆け寄ります。
その驚嘆交じりの叫び声に、何事かと人の流れがぽつりぽつりと止まる。
状況を察知したウィリアム様の、大丈夫ですよと落ち着いた声がその場を制しました。
「アルコールによる軽い貧血でしょう。色味がよく似ているので葡萄ジュースか何かとお間違いになられたかと。幸いそれほどの量は飲んでいないと思われます。少し横になれば数刻で回復するでしょう」
「おお、そうか・・・良かったわい」
安心したように一息つくジャベール様。
やけに頬が染まっているかと思ったら、そういうことだったのか。と納得します。
一瞬の安堵。大事に至らなくて良かった。
けれどすぐ私の心を支配したのは、鬱屈とした黒い、黒い感情でした。
・・・
どうして
なぜ
「ウィリ、アムさま・・・もうしわけ、ありません」
「いえ、大丈夫ですよ。喋らないで、目を瞑っていてください。少し休みましょう」
青白い顔のリリー様を横抱きにするウィリアム様が柔らかく微笑みかける。
私には決して触れないその手が彼女の腹部に回る。
目頭が熱い。
"「・・・ごめんね、ウィル」"
"「サロメ・・・っ!いいよ!いいから、はやく遊ぼう?」"
その手は、私のものだったのに。
その瞳も、声も、彼の全部が。
私の―――
「ジャベール様、彼女を別室へ連れて行きます」
「・・ああ、私も行く」
目の前のそのやり取りがなぜか遠くで聞こえ、
彼と、リリー様と、ジャベール様が消えていく後ろ姿を私はただ見つめることしかできませんでした。
行かないで
そう言えたら、何かが変わっていたのでしょうか。