不首尾
形式的に紡がれたのだと分かっていても【妻】という単語に胸が高鳴り
ただ名前を呼ばれるだけで呼吸の仕方が分からなくなるほどに動揺する。
彼の言葉、行動すべては私の琴線に触れ、心の中に苦し嬉しい痛みを与えます。
そして痛みは、だんだんと心地よくなっていく。
その痛みをずっと感じていたいと思うほどに。
「サロメ」
縁取られたような声に鼓膜をさらわれ、ゆるやかに私の意識は現実へ戻されました。
いま名を、呼んだのは。さっきまでここに居た私の思い焦がれる愛しい人、ではありません。
『彼』よりも薄く透き通った茶色い瞳ときちんと目が合うと、世の女性が見ればとろけるような美貌が困ったような表情を浮かべていました。
目元を、注視すれば自然とウィリアム様の顔が重なり見えてくるその血の繋がりを、千切れることのないその縁を、羨ましいとさえ思ってしまう自分はもう重症なのでしょう。
ふっと顔つきを元に戻し、今度はくすっと笑みを零したレナード様に、サロメは昔から別世界へ行くのが得意だね。と冗談交じりに嫌味を落とされた私は口元を少しだけ引き結びました。
・・・昔から?
きっと、当時から無意識下の私の癖?だったのでしょうか。記憶を巡らせても思い当たる節が見当たらず、うーん、とひと唸りして、私がそのルーツを辿る手綱を手放した瞬間。
揶揄するような含みを持たせ、レナード様は唐突に言ったのです。
「もうね、どこそれ?っていう、聞いたこともない内臓が痒くなるよ」
「え?」
「でも、僕が手助けをしても。駄目でしょう?」
訳がわからないのは、私の拙い脳みそのせいではないと思います。
明後日の方向に視線をやり、助走もなしで突如自問自答のように繰り広げられたレナード様の言葉を噛み砕こうとしますが、強固なそれには歯形すら付きません。
おもむろに伸びてきた長い人差し指に眉と眉の間をグリグリと押され、眉間に皺が寄っていたことに気付かされました。
深く息を吐き出しながら顔の筋肉を緩めると、薄茶色の双眸が満足気に弧を描きます。
すると。よしよし、とまるで産まれたての子猫を扱うかの様なレナード様の手のひらが私の頭を何度も何度も撫で始めました。
・・・先程から振り回されている感が、拭えないのですが・・・。
けれど、
ああ、絡まった糸がするすると解けるような。
・・・この感覚は。
考えるより先に、目の奥がじんと熱を持ちました。
私は規則的にかかる心地よい重みに過去を馳せます。
3人で一緒に幸せな日々を過ごしていたあの頃。私は王女にあるべきお淑やかさをどこか遠い国に忘れて生まれてきたようで、男児2人に負けないくらい外で駆け回り、体中を泥だらけにして侍女たちをほとほとに困らせる、なんともまあ、活発すぎる子供でした。
その活発さは性格にも反映します。喧嘩をしても、ウィルには絶対に負けなくて。むしろ。引っ掻き、追いかけ回した挙句、彼をわんわん泣かせてしまい、後日それを耳にしたお父様にこっぴどく叱られた。
そうなると極め付けは、ウィリアムに謝るまでおやつ抜き!という、当時の私にとってはこの世の終わりのような宣告をされ、だから私は泣く泣く謝りに行こうと決意するのだけど、独りでは嫌だと駄々をこねて、結局お母様について来てもらうのです。
けれど本音を言うと、お父様の『おやつ無し宣告』は的確な助け舟でした。私は思ったことを躊躇なく伝える性格であったのに謝罪に関してはとことん不器用だったのです。独りではウィルと仲直りしたくても気恥ずかしさと悔しさが勝ってしまい、なかなか行動に移せなかったことでしょう。きっとお父様のそれはそんな娘の性格を理解しての計らいだったのだろうと思います。
「・・・ごめんね、ウィル」
私はお母様の影からちょこんと顔を出し、唇を窄めて言いました。
すると、ウィルはこちらの罪悪感など跳ね除けるように、待ってたよと言わんばかりの弾ける笑顔で「サロメ!」と私の手を取った。
そして、私の両の手を掬い、「いいよ!いいから、はやく遊ぼう?」と、天使のような笑顔を見せてくれた。
――確か、7歳になったばかりの春でした。妙にかしこまった様子のお父様とノルコールズド国に向かう途中、道草をしたパンジーが咲き誇るお花畑で、ウィルが婚約者であると告げられたのは。当時はお父様の画策による刷り込みだったのかもしれませんが、それからすぐ私は自らのウィルに対する恋心を自覚していました。
けれど、今思えば。初めてウィルのあの笑顔を見た瞬間からずっと、私の心は彼のものだったはずです。
規則的なリズムで頭を撫でる心地いい感覚の中、このまま意識を手放せば、あの愛しい夢のような日々に戻れるのではないかと錯覚します。
ウィルと喧嘩をするたび、何かに落ち込んでいるたび、レナード様のこの暖かくて優しい手のひらが何度私の頭を撫でたか分かりません。ウィルに関しては喧嘩、というよりも私が一方的に癇癪を起こしていただけだったのですが。
悲しい気持ちを忘れされる手のひら。
幸せな過去を脳裏に蘇らせる手のひら。
そして。
8歳の頃、突如奇病に襲われ生死を彷徨った時
体は高熱で汗ばみ、寝返りを打つのだって辛く意識が無くなりそうな中で私をこの世に繋ぎ止めてくれた、手のひらです。
そういえば、レナード様はあの時一晩中ずっと私の頭を撫でていてくれました。
兎にも角にも、この兄弟に私は至れり尽くせりだったという訳です。
その魔法の手のひらが、ゆるやかに動きを止めました。
もう、とろけるような幸せな思い出に浸っていたのに、と少しだけ片頬を膨らませてレナード様に視線を上げます。すると予想もしていなかった悲しそうな表情が飛び込んできて、思わず出かかった言葉を飲み込み、胸がとくんと音を立てました。
その瞳に少しだけ、不穏さを感じます。
「ねぇ、サロメ。僕たち3人はいつからこうなってしまったんだった?」
その言葉に。ずん、と胃の腑が重くなる感覚を覚えました。
不自然に胸がざわめいたのです。
――ああ、神父様
この先は渡ってはいけないよと、心が、本能、が叫んでいるのに。
それでも、渡らなければいけないと思うのです。
私は間違っているのでしょうか。
「いつから・・・?」
「そう。・・・いかんせん僕の弟は意固地でね。君達2人を助けて上げたいのは山々だけど、僕が介入したと分かったらますます険悪になるのは火を見るよりも明らかだし」
「あの、先程から仰っている意味が、」
「だから、僕に出来るのはここまで」
躊躇う私の言葉を制して、矢継ぎ早にレナード様が会話を終わらせます。
「大丈夫だよ、ウィルは何も変わっていないから」
「・・それは、どういう意味ですか」
「僕といるっていうのに、ウィルのことばかり考えて別世界に旅立ってしまう君もね」
・・・最後の台詞は聞かなかったフリをして。他人から指摘されると、喉元がむずむずします。
つまりウィルは私のことを好きなままだと・・?そう思っても、自惚れても、良いということですか。
でも、リリー様がいらっしゃるというのに・・・?
「答えは案外に、単純なものだよ」
レナード様は私の質問には応えず意味深な笑みを浮かべると、私の額に軽くキスを落としその場で踵を返します。
と、数歩先を行ったところでこちらに振り返ります。
「あと・・・先に謝っておくよ、ごめんね?」
まあ、打算だったんだけど・・と最後は呟くように言ったレナード様。
・・ん?・・打算?何のことでしょう。
その謝罪の意味も分からず、私は頭を傾げます。
"ウィリアムの思いに潰されないようにね。"
きょとんとする私に、悪戯な笑みを見せ今度こそレナード様は私に背を向けました。
私の消化不良の気持ちは置き去りのままで。