嘘
―――晩夏の夜
王都とは180度も色が違うこの地域は、夜になると森の中で虫達の合唱が始まる。
それは王都ではあり得ない事象だ。
最初こそ驚いたものの、虫の鳴き声というのはこんなにも心地がよくて、いつまでも聞いていられるものなのだということをここに来てサロメは初めて知った。
ふと、妙な寝苦しさと気配を感じてサロメの意識がわずかに浮上したのは―――その合唱を遠くの方で聴きながら、浅い眠りを繰り返していた彼女がようやく深い眠りに落ちようとした時だった。
この時期は湿気が多いからか、汗ばんだ身体に服が貼り付いて気持ち悪い。
覚醒していない頭を働かせて、薄く目を開ける。
辺りはまだ暗かった。
「・・ん、」
寝ぼけ眼のまま、ベッドから起き上がろうと上半身を持ち上げた瞬間、人肌に触れる感覚と、先ほど感じた妙な気配の正体に気づきサロメの思考は停止を余儀なくされた。
(え・・・)
「・・・っ!」
「・・起こしてしまった?ごめんね」
「で、んか・・?」
「うん、僕」
叫ばなかったことを褒めて欲しい。
だって、ここに居るはずがない人が隣で寝ていたのだから。
窓から入る月明かりに照らされて、恐いくらいの美貌と目が合ったまま一瞬、時間が止まります。
(見間違うはずがない)
端整な顔がにっこりと微笑みを浮かべると、優しく腕を引かれました。
「わ・・っ」
咄嗟にその腕の中に捕われる前に、殿下の鍛え上げられた胸板を手で押し返し何とか距離を保ちます。
私はゆっくりと視線を殿下に向けました。
(なんで・・?)
そんな私の行動に豆鉄砲を食らったかのごとく、瞳を丸くし固まってしまったウィリアム様が瞬きを繰り返します。
「も、申し訳ありませんっ」
殿下相手になんてことをしてしまったのだと、慌てて謝罪をするけれど一体何が起こっているのか。混乱して、いてもたってもいられなくて、私はベッドからするりと抜け出しました。
説明し難い感情が渦巻いて、わずかに足が震えます。
どうして殿下が同じベッドで寝ているのか。
これは、現実ですか?それとも、夢を見ているのでしょうか?
そんなサロメの無垢な反応がかわいくて、ウィリアムが小さく笑う。
本当はずっと、こうしたかった。
彼女の中で高まる緊張感とは反対にウィリアムの心はほつれが解けていくようだった。
「殿下・・?」
くつくつと小さく喉を鳴らすウィリアム様が、こちらにおいでと自分の隣をポンポンと叩いて手招きをします。
「驚かせてしまったね。大丈夫だから、こっちにおいでサロメ」
「え・・っと、あの」
私は全然、大丈夫ではないです!
そう言ってここから逃げ出してしまいたいけど、殿下に対してそんなことを言えるわけがありません。
「君が来ないなら、僕が行くしかないけど」
そう呟くように言いながら、ベッドから降りてこちらに近づいてくる殿下。
『逃げる』という言葉が一番に思いついたのは、本能で危険を察知したからだろう。
足を絡ませながら、なんとか扉までたどり着きます。視線をやれば、驚くほどの美貌の人が余裕げにこちらを見つめていました。
「リボルバを呼んできますっ」
「リボルバを?どうして」
「殿下のお部屋を用意させませんと!」
「必要ない。ここが僕と君の共同部屋だから」
「・・・?」
(今、なんて)
「殿下と私の、へや?」
抵抗むなしく、ウィリアム様に軽々横抱きにされ、そのままベッドへと運ばれます。
無抵抗のまま押し倒され、やんわりと拘束される。抗えないくらいには充分の力で。
私の些細な逃亡劇は数分で幕を閉じました。
今度は私が豆鉄砲を食らったような顔をしていたはずです。
こちらを見下ろす殿下の顔に長めの前髪がかかり、影が落ちます。
そのせいで表情がよく見えなくて、何を考えていらっしゃるのかが分からなくて、恐ろしくて、思わず目を逸らしました。
『だいすきだよっ!サロメ』
昔は手に取るように貴方のことが分かったのに。
―――でも、もう・・
いま、何を考えていらっしゃるのですか?
「どうしてか分かる?」
柔らかく、けれど芯のある声に神経を支配され、心ここにあらずだった意識を引き戻されます。
質問の意味が分からなくて、私は首を傾げました。
「どうして・・?何がでしょうか?」
「ここに君をこさせた理由」
「それは・・私を罰するため、ですよね?」
『非礼な妻を断罪しよう』
それは・・殿下の顔に泥を塗るような不敬を働いたから。
この国の王族である貴方の顔に。
私は妻として、醜い感情を抑えきれなかった。
だから、貴方は怒ったのでしょう・・?
ウィリアム様が静かに首を横に振る。
悲しそうな、寂しそうな、そんな何とも言えない表情で笑う。
「僕たちの、夫婦としての時間を一からやり直したいと思ったからだよ」
「え・・」
(それって、つまり)
「夫婦としての時間・・?」
「さっきからおうむ返しばかりだね」
「ちょっと、よく判らなくて」
殿下のお気持ちが。その言葉も、その表情も。
(だって、そんなのまるで、私と離れたくないみたいに聞こえる)
殿下には、リリー様がいるのでしょう?
私が邪魔だからここに連れてきたのでしょう?
「何が判らないの?」
「だって、殿下には」
「ウィリアム」
僅かに冷えた声が鼓膜を揺らしました。
「急に名を呼んでくれなくなったのはどうして?」
「い、え。それ、は」
どうしていいのか分からない。
彼と、こんな風に会話をするのは約10年ぶりのことで。
私が知る幼い頃の彼はこんなだっただろうか。
こんな獣を狩るような鋭い目をする人だっただろうか。
「僕たちは夫婦だよ?次、そんな野暮な呼び方をしたら許さないからね」
「・・っ」
供給過多、心臓が爆発しそうです。
今まで放って置かれた分の穴を埋めるには急すぎるし、妙な威圧感があって息苦しさを感じます。
私をここに来させると、言ったあの日から殿下はおかしい。言動、行動、雰囲気、私に触れる手、見つめる瞳、その全て。
『私は妻になったからといって君を愛することはない』
まるで、別人だ。
どのくらい時間が経ったのだろう。
不意に伸びてきた手、何度か頭を往復して下降する。
耳に髪をかけられ、首元を指でなぞられる。
(普通の触れ方じゃない。)
擽ったさと羞恥心で、頬が熱を帯びたのが分かりました。
「っ殿・・下」
「ウィリアムだよ、サロメ」
「あ・・」
まずい、と思った時には遅い。
呆れたように言葉を紡ぎ、剣呑さを含ませた瞳がそこにありました。
「も、申し訳あり、ません」
「そんなに僕を怒らせて、今すぐここで君の仕事の務めを果たしたいの?」
『君の仕事は、子を成す。それだけだ』
ウィリアム様の冷たい声が頭の中を反芻する。
胃が浮き上がる感覚、早まる鼓動。
あれ、待って。どうやって声、出すんだっけ。
どうしよう、何か言わなきゃ。何か。
―――何かっ。
何も言えず固まってしまった私をあやすかのように、ウィリアム様がふっと表情を緩めました。
「ごめんね嘘だよ、さあ寝よう」
「は、い」
断罪というには充分だ。
これから毎日、殿下と過ごすことになるのでしょうか・・。
明日からのことを思うと、気が遠くなっていく。
「おやすみ。良い夢を」
拘束が解かれ、温かい手のひらが優しく頭を何度も往復し始めると、身体中がじんわりと包み込まれているような感覚になります。
(あれ・・・?この感覚、どこかで・・・)
今まで感じていた緊張感はどこへやら、その心地よさに私はいつのまにか意識を手放していました。




