怖い話
「狐に化かされたような顔をしているね。ヒッヒッヒ」
近づいてきたチカたちに向かって、お面屋のお婆さんがそう言った。しわがれているのにすごく響く声で、座っていたチカにもはっきりと聞こえた。
チカは立ち上がって、船に乗ったままカウンターにのりだした。川の上だというのに船はぜんぜん揺れなくて、チカは一瞬、ここが船の上だということを忘れそうになる。
お婆さんはチカを一目見るとしわくちゃな顔をもっとしわくちゃにして笑った。
「ヒッヒッヒ。また会ったね、お嬢さん」
「あの……はじめまして……?」
お婆さんは「また」と言ったが、チカにはそんな覚えがなかった。笑い方は聞いたことがあるような気がするのだけど、どうにも思い出せない。
「おやおや、本当に狐に化かされたのかい? いやいや、言わなくていい。狐の目はなんでもお見通し、お嬢さんの被っているお面も、ずうっと、見ているのさ」
お婆さんの言っている意味がわからず、チカは首を傾げる。
「ヒッヒッヒ。せっかくだからねえ、当ててやろう。お嬢さんは、そのお面をどこで買ったのか、誰に買ったのか、わからないんだろう? 分からないことも分からないんだろう? ヒッヒッヒ」
言われるままに、チカは被ったお面のことに考えを巡らせる。チカはこのお面を誰かに買ってもらった。そこまでは思い出せる。けれど、その人の顔を思いだそうとしても、どうにもうまくいかない。チカは忘れていたことを忘れていた。
「その話、詳しく聞かせてもらってもよいだろうか?」
と、フードを被った鬼がチカの後ろから話しかける、お婆さんは鼻で大きく息を吸うと、にやりと笑みを濃くした。
「いいとも。これは滅多にない話。この婆も口が鳴るものさ。けれどお嬢さんには少し刺激が強すぎるかもしれないねえ」
お婆さんが視線を向けると、フードの鬼は深く頷いた。
「それならば、この不肖の出番だ。話の場は、怪談でも喜劇でも大事なもの。婆さまの語り、しっかりと支えさせていただこう」
なんだか話はチカの手の届かない所で進んでいる。チカは不安になって、フードの鬼の服をぎゅっと握った。
「ねえ、どうしたの?」
フードの鬼はゆっくりと腰を屈め、チカと顔を合わせた。相変わらずフードの中は真っ暗で何も見えないけれど、確かに、目が合ったような気がした。
「お嬢さんが、今どんな場所にいるのか。そういう話だ。お嬢さんは、これまで、鬼とか、物の怪の類に会ったことはあるかい?」
チカは首を横に振った。
「そうか、そうだろうな。だが、恐らくお嬢さんは、どこかで何かの物の怪に遭ってしまったんだ。多分、それも忘れているのだろう」
フードの鬼が言っていることは難しくて、よくわからなかった。チカはいっしょうけんめい考えて、自分が何かに「遭った」ということだけ、わかった。
その表情を見てか、フードの鬼が含み笑いをした気がした。それから鬼は立ち上がって、チカに手をさしのべる。
「お嬢さん。怪談は好きかい?」
チカは首をかしげ、どうだったかなと考える。怖い話をされたことはあまりないけれど、怖い童話なら何度か読み聞かせてもらったことがある。でもその人は怖い話のレパートリーがあんまりなくて、チカはそろそろ飽きてきていた。
「平気……だと思う」
「そうか、それは心強い」
言うなり、フードの鬼は突然着ていたローブを、ばさりと音をたてて宙に広げた。チカがびっくりして顔をかばう。
しばらくして手をどけて、閉じていた目を開ける。けれど目の前には暗闇が広がるばかりで、目を閉じているのと何も変わらない。チカは顔の前で手を振ったりした。
と、少し離れた場所で、ぼっ、という音と共にろうそくらしき灯りがついた。続いて道を作るように一直線にろうそくが灯もされる。十分明るくなって、チカが周りを見渡すと、いつのまにかお面屋のお婆さんが手の届く場所に座っていた。
チカがびっくりして息をのむと、お婆さんは目を閉じて笑った。さっきまで見ていた魔女のような笑いとは違って、チカは詰めた息を吐き出した。
「夏の夜の夢とは、よく言ったものだね」
その声音もさっきまでのお婆さんとは思えないほど優しげで、チカはじっと老婆を見つめた。
「いいかい。これから話すことは、少しだけ難しくて、とても、残酷なことだ。だからお嬢さんは、ここで、何も見なかったし、聞きもしなかった。そういうことにしよう」
一言一言、区切るようにお婆さんは言った。チカが頷くと、お婆さんは満足げに笑って、両手を広げた。
「さぁぁあ、怪談を始めようか」
お婆さんはそこらに灯いているろうそくを一つとると、手のひらの上に乗せた。すると、他のろうそくは消えて、灯りが届くのは、お婆さんとチカの周りだけになる。
「昔々、あるところに、名前の無い一人の女の子がいたのさ。その子はたったの一度も、生きたことがなかった。生まれる前に、死んじまった。けれどその子は確かに人と触れあい、言葉を発し、この世に生きている。これはいったい、どういうことだろう?」
お婆さんは大げさに首を傾げる。生きていないのに、この世に生きている。チカには難しすぎて、その意味がよくわからない。
「理由は簡単さ。その子はね、カッコウの物の怪だったのさ。生まれる前か、死んだ後か、いつカッコウになっちまったのかは定かでない」
カッコウの物の怪ということが、そのわけ。またしても、チカには意味がわからない。
「おやおや、知らないって顔だ。そうさね、どうしてそんなことになっちまったのかまったく分からないが、カッコウの親鳥は、他の鳥の巣に自分の卵を置いていってしまうのさ。そうして生まれたカッコウの子は、巣の中にいる他の雛と押し合いへし合い仲良く暮らす……というわけもなく、他の雛を蹴落としてまで、自分は生きようとするのさ。子供のうちから、大した力さ」
不意に、チカはおかあさんたちと手を繋ぐ「自分」の姿を思い出した。あの、いたずら気で、得意げな顔を。
「けどね、同じ世界でそれをやろうってんならまあ自由だが、あの世とこの世を跨いでやるってのは、尋常なことじゃあない。きまりを守れない者には、恐ろしい歪みが待っている」
そう言ってから、お婆さんはゆっくりと立ち上がり、どこかへ歩いていこうとする。チカもそれに習って、歩き出す。
「どこへ行くの?」
チカが尋ねると、お婆さんはヒッヒッヒと笑った。
「さてねえ、ちょっと、川辺にでも散歩に行こうじゃないか」
チカにはよく分からなかったけれど、こんな場所で一人は嫌だ。とにかくついていくことにする。
しばらく暗闇の中を歩いていると、どこからか、水の音が聞こえてきた。それは少しずつ大きくなってきて、チカはそれが波の音なのだと思い至った。
「海みたい……」
波が打ち寄せてくるそこは暗かったけれど、お婆さんの持つろうそくの明かりと、足下の感触でそこが砂浜であることが分かった。
「ヒッヒッヒ、なるほど、お嬢さんにはそう見えるのかい。子供の瞳は真実を写す、なんてねえ」
それからチカたちは波打ち際に沿って、砂浜を歩いていく。そのうち、波打ち際に、何かが打ち上げられているのを見つけた。
お婆さんとチカはその側まで歩いて行き、チカはそれをのぞき込んで、思わず短く悲鳴を上げた。
それは、鏡に映ったみたいに、自分の姿をしていた。
「ヒッヒッヒ、そう、ルールを守れない者には、恐ろしい歪みが待っている。お嬢さんはもう薄々感づいているみたいだねえ。この子が、お嬢さんと入れ替わっていたのさ」
そう説明されて、チカは恐る恐る、その自分の姿をした何者かの姿を凝視した。びしょぬれになって凍えながら、体を丸めてすすり泣いているように見える。いたずらが見つかって起こられたというより、何か恐ろしいものが通り過ぎるのをじっと待っているようだった。
お婆さんは腰をおろして、その子供の顔をのぞき込んだ。それからその子供が腰に巻いていたポーチを取って、チカに渡した。不思議なことに、ポーチは濡れた様子もなく、つめたくもなかった。
「何にも覚えていないって顔だねえ。他人を騙すにはまず自分からってことかい。怯えているじゃあないか」
相変わらずお婆さんの言っていることはよくわからなかったけれど、チカはその子供の姿を見て、かわいそうだと思った。どうやら何かとても恐ろしい目にあったようで、チカは友達が泣いているのを大人が慰めている横に立っているような、むずむずとする気持ちになった。
不意に、ざばり、と大きな波の音がしてチカたちの足下まで水が攻めてきたと思うと、ひと呼吸の間もなく、その子供は消えてしまっていた。チカは突然のことに薄ら寒い気分になって、知らないうちに自分の身をかき抱いていた。
お婆さんの方を見ると、なんだか難しそうな顔をしている。
「おやまあ、これはこれは。お嬢さんは、なかなか難儀な事態に巻き込まれたらしいねえ。ヒッヒッヒ、逆によかったのかねえ、歪みはまだここまで来ていなかったようだ」
お婆さんの言葉にチカは不安になったけれど、顔色を見たお婆さんは優しく頭を撫でてくれた。
「なあに、心配することはないよ。これは一夜の夢。目が覚めたら、お嬢さんは何もかも元通りさ」
そう言って、お婆さんはにいっと笑った。すこし怖い笑い方だったけれど、その顔はなんだか頼もしく思えて、チカは頷いた。
「いい子だ。いい子だけど、夜更かしはよくないね。そろそろお嬢さんも帰らなくちゃあいけない。そうでないと、親御さんが心配するよ」
親、という言葉の響きを聞いて、チカは肩の力が抜けるのを感じた。「入れ替わった」子供は、さっきどこかに帰ってしまった。だから、チカはおかあさんとおとうさんの所へ戻ることができる。今、おとうさんとおかあさんの間に、自分以外の誰もいないのだ。
そう考えると、チカはこれまで気にならなかった色々な事が気になりだした。例えば、見ず知らずのおばあさんが、こうやって世話を焼いてくれたこと。
「あの、おばあさん?」
「なんだい? お嬢さん」
チカは改まって、手をぎゅっと握った。
「ありがとう、ございます」
お婆さんは一瞬はてなマークを頭に浮かべたけれど、すぐに笑いだした。
「ヒッヒッヒ、なるほど、しつけのなっているいい子だ。それなら尚更、親御さんの所に返してあげなくちゃねえ。そうだね、なら最後にお聞き。覚えはないだろうけれど、お嬢さんはある人にとってとんでもない恩のある人間なのさ。だからね、もし誰かから感謝されたら、ちゃんと、受け取ってあげるんだよ。それも礼儀というものさ」
チカはこくんと頷いた。
「さ、お帰りはこちらから。ヒッヒッヒ」
お婆さんがゆっくりと川の方に手を向けると、いつのまにか、そこには大きな橋がかかっていた。お婆さんに促されて、チカは橋の入り口の階段をのぼった。
「帰るまでが遠足だからねえ、気をつけるんだよ」
お婆さんに向かってていねいにお辞儀をしてから、チカは橋を進み始めた。




