花火大会にて
その日、チカは隅田川の花火大会に来ていた。花火といえばおなかに響くような大きな音と、お花みたいにきれいな形で輝くとてもきれいなもので、チカは外で大きな音が鳴るたびに家の窓までかけていって花火を眺めたものだった。
そんなふうに、いつもは家の窓からしか見ることのできない花火を、今日は目の前で見ることができるという。チカはおとうさんが花火大会に連れていってくれることを約束してくれた日から、ずっとわくわくしていた。
それにしても、隅田川のほとりには人が多い。はぐれしまったら、大変なことになりそうだ。チカはおとうさんとおかあさんの手をしっかりと握りながら、それでも頭はいろんなところを見ようときょろきょろしっぱなしだった。
「おとうさん、あれはなに?」
チカは、看板をやけに赤く塗った露店に指をさして言った。
「どれどれ、ああ、あれ……かあ」
その露店を見つけたおとうさんは、やや困ったような表情をする。
「あれはね、チカ、とてもからーいたこ焼きだよ。チカにはちょっと早いと思うけど……」
「わたし、それ食べてみたい」
おとうさんが言い終わるか否のところで、チカはそのたこ焼きとやらを食べる決意をしていた。
「わたし、もう子供じゃないもん」
そう言って笑うと、おとうさんは困ったような笑みを浮かべて、わかったよと返事をする。
「あなた、あんまり辛いものは……」
そこに、ちょっと横やりが入った。心配性のおかあさんだ。
「クセになっちゃうのは確かによくないけど、いまのうちにこういうものがあるって知っておいた方がいいよ、僕が買ってくるから、先に場所をとっておいて」
けれど、おとうさんがそう言いくるめると、しょうがないわねと言いながらチカの手をしっかりと握った。
それからおとうさんはその露店の長いながい列に並び、チカとおかあさんは花火を見るために場所を探し始めた。花火に近い土手はもうすでに場所がとられていたので、二人は少しだけ離れた橋の上に行って、そこから花火を見ることにした。そういえば、おとうさんはどうやってここにくればいいのだろう。今更だけど、チカは不安になった。けれどおかさんは特に気にした風もない。
しばらくして、たこ焼きとかき氷を持ったおとうさんがやってきた。チカはちょっとびっくりして、どうしてここにいるってわかったの? と聞いた。
「おとうさんはね、チカがどこにいるかわかる魔法の道具をもっているんだよ」
おとうさんはそう答えた。魔法の道具なら、仕方ない。チカは納得して、花火が打ちあがるのを今か今かと待ちこがれた。
花火が打ちあがる前に、おとうさんの買ってきたたこ焼きなるものを食べたけれど、おとうさんの言っていた通りとても辛くて、食べられたものじゃなかった。おとうさんはまた困ったような笑みを浮かべて、チカにかき氷を食べさせてくれた。きっと、このたこ焼きは大人の味なのだろう。
けれど、おとうさんもたこ焼きを食べたときに辛い辛いと言っていたから、これは大人の味とは言わないのかもしれない。
「これはたこ焼きじゃないよ」
そんなことも言うものだから、もうなんだかわからない。
――うらやましいなあ。
不意に、どこからか声が聞こえた。チカはびっくりして振り返ったけれど、そこにはただただ人混みがあるだけで、誰が言ったのかもわからない。チカはきっと別の子供が言ったのだろうと、すぐにそのことを忘れた。
やがて、花火大会の始める旨を知らせるアナウンスが流れ、チカは思わず橋の柵によじ登った。そして、最初の花火が地上から空めがけて打ちあがり……。
――わたしにも、夏祭りを楽しませてよ。
耳元で呟かれるようなはっきりとした声に、チカは驚き、あっという間に柵から手を離した。落ちる、と思った瞬間にはすでにチカの体は宙にあって、チカは空を見ながら川へと落ちていく。
高いところから落ちることがこんなに怖いだなんてことを、チカは知らなかった。ただただぎゅっと目をつむり、何も見ないようにした。
下は川だ。きっと落ちても大事にはならないだろうけれど、とても痛いに違いない。チカはその想像にますます身を固くして、しばらくしておかしいことに気がついた。とっくに川に落ちているはずなのに、まだチカの体は宙を舞っているのだ。
――あなたにこの幸せはもったいない。
また、耳元で声が聞こえた。
――それまであなたは、こっちの夏祭りにでも行けばいい。
それはまるで学校で見かけるいじめっ子のような声で、チカは寒気が走るのを感じた。
――お盆が終われば、なすの牛にでも乗って帰ればいい。わたしはずうっと、このままがいいの。
チカは耳元で囁かれる声の意味がわからず、なにも返すことができない。
――じゃあね、わたし、さん。
その言葉を区切りにして、チカは落下していく感覚がなくなったことに気がついた。目を開けると、隅田川の土手に身を横たえていることがわかった。花火大会はもう終わってしまったようで、たくさんの人たちが帰ろうと片づけをしているところだった。
見回してみても、おとうさんやおかあさんはいない。
「どうしよう……」
チカはなんだか訳が分からなくて、泣くということもしなかった。いったいぜんたい、何があったというのだろう。
と、さっきまでチカが花火を見ようとしていた橋が、目の前にあることに気がついた。チカはすぐにその橋へと近づこうとするけれど、人混みがすごくてうまく近づくことができない。
けれど、会いたいものは向こうからやってきた。丁度人の流れが交差して大変なことになっている十字路で、おとうさんとおかあさんがいたのだ。
そして、二人と手をつなぐ、自分と同じ顔をした女の子が。
女の子は笑っていた。とても楽しかったと。チカが花火大会を見ていたら浮かべていただろう笑みを顔いっぱいに咲かせて。
「おとうさんっ! おかあさんっ!」
チカは無我夢中で叫んだ。けれど二人は振り向かず、ただ楽しそうに会話をするだけ。チカじゃない、チカと同じ顔をした誰かと、家に帰るだけ。
不意に、チカと同じ顔をした誰かが、振り向いた。
――じゃあね、わたし、さん。
彼女は、やっぱり笑っていた。
チカはその笑みで頭が真っ白になり、その場に立ち尽くした。どうして、わたしがそこにいるの、わたしは、ここにいるのに。
気がつくと、辺りはすっかり暗くなり、人々もほとんどいなくなった。祭りのない河川敷は、こんなにも暗いのだ。
周りを見渡すと、冴えた光を放つとても高い建物がいくつもあって、ここが都会であることを主張していた。
どうしよう。
チカは途方に暮れた。これまで、おとうさんとおかあさんと出かけることはあっても、こんなに遅い時間に遠出したことはほとんどなかった。なぜだかはわからないけれど、夜の街は危ないのだとおかあさんは何度もチカに言い聞かせていた。
と、チカは迷子になったときにするべきことを、おかあさんから教わっていたことを思い出して、腰に巻いていたポーチをまさぐる。
それは、ケータイと言う道具なのだという。これがあれば、どこでもおかあさんと話すことができるのだ。これを買ったとき、おとうさんは「GPS機能付きって、ちょっと高いなあ、過保護じゃない?」と聞いて、おかあさんが「女の子だもの。それぐらいが丁度いいのよ」と言っていたのを思い出した。
どういうわけで遠く離れても話ができるのかはチカにはわからなかったけれど、たぶんおとうさんのいう「魔法」とやらだろう。同じクラスの女の子に「どうしてケータイって離れていても話ができるのかな?」って聞いたら「そんなの当たり前だよ。ケータイだもん」って言われて笑われたものだ。
とにかく、これがあれば……。
しかし、どこを探してもケータイはなかった。こんなのおかしい。けれど、チカはどうしてケータイがないのか、理由がなくともわかった。
きっと、あの女の子が持っていったんだ。わたしと同じ顔をした、誰かが。
あの女の子の楽しそうな顔を思い浮かべただけで、チカは体中の力が抜けるような感覚を味わった。きっと、わたしは帰ることができない。チカは途方に暮れて、坂のきつい土手まで歩いて、そこに座り込んだ。
夏の湿気を含んだ空気のおかげで、夜でも寒くはない。むしろ暑いくらいだ。けれど、星も見えないほど明るい地上の建物は、けっしてチカを励ますような真似はしなかった。
チカは急に心細くなって、泣き出してしまった。学校では泣いている子供がいれば誰かが慰めてくれたけれど、ここにはそんな人はいなかった。チカは自分の涙で川ができるんじゃいかって思うぐらいに泣いた。物心ついたころから、こんなに泣いたのは初めてだった。
やがて、泣くのにも疲れてしまって、チカは座り込んだまま目を閉じる。そのまま意識は眠りに吸い込まれてしまった。
眠りにつく直前、これが夢であるようにと、チカは強く、強く願った。