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カメリア--『第5号 好き!』より 作者:ひめ草

 ひとり旅が好きだ、というと、みんなすこし驚いた顔をする。

「へえ、意外だなあ。冬香さんにはそういうイメージはなかったね。」

 上司である北野課長は、ワインを飲んですこし赤い顔をしてそう言った。

「たしかにそうですね。冬香さん、おしとやかで女性らしいもんなあ。」

 同僚の遠藤くんも頷く。

 社内に同じ苗字の同僚がいるので、あたしは冬香さんと名前で呼ばれている。

「あんまりあぶないところに行っちゃ、だめだよ。ひと気のない道は避けて、暗くなったらなるべく外に出ないようにして。」

「課長、冬香さんだって子どもじゃないんですから。」

「そうか、なんだか自分の娘みたいなかんじがするんだよなあ。」

「娘って、あたし、課長と十五歳しか離れてないですよ。」

 くすくす笑うと、赤い顔をした課長は考えるような顔をした。

「そうか、君はもう三十歳になるのか。」

「はい、来週、三十になります。」

「いやあ、まったくそうは見えないなあ。高校生といっても通用しそうだよ。」

「もう、課長ったら。ありがとうございます。」

 にっこり笑って白ワインを課長のグラスに注いだ。

 課の飲み会があるといつも、北野課長は白ワインを飲んでほろ酔いになり、あたしの気立てのよさや見た目の若さや働きぶりの良さをほめてくれる。

 ほめられて悪い気はしないので、ビールで乾杯をしたあとであたしはいつも白ワインを頼むようにしている。そんなところも、気がきくと言ってもらっている。

「課長、そういうわけなので、来週の金曜日、お休みをいただきますね。」

「うむ、冬香さんがいないと課の仕事がたいへんなんだがなあ、でも誕生日なら仕方ない。じゅうぶん気をつけて、ひとり旅をしてくるのだぞ。」

「ありがとうございます。」

 あとは休暇届を書いて、課長の机に置いておけば良い。

「それにしても、一緒に行く男はいないのかね。」

 こんなからみを、てきとうにかわしておけば良いのだ。

 今回、行き先は伊豆諸島の島にした。木曜の夜に大型客船で出発して、金曜の朝に島に着く。

 あたしは頭の中でさっそく、準備のスケジュールを組み立てる。

 はずせない仕事は金曜日にはいれていないし、それほど仕事が立て込む時期ではない。

 いくつかの引き継ぎを後輩にしておけば済むことだけだ。

 仕事の確認のあとは、持ち物の確認。

 まずはキャリーケースを使うか、それともリュックサックで行くか、はたまたバッグひとつで済ませるか。洋服は何を持って行くか、口紅はどの色をポーチに入れるか、お金をいくらおろすか。羽田空港までの交通、宿のアメニティーの確認、そうそう、持って行く文庫本の選定。

 あたしは旅の前の、こんな時間が好きだ。

 実際の日程は、白紙だっていい。

誰に合わせるわけでもない、ひとり旅。考えるだけでしあわせになる。

「ひとりっていうのは気楽で良いものだけどな、冬香さん。人生のパートナーっていうのもそれはそれですごく良いものなんだぞう。おれはかみさんに出会えて良かったと思ってるんだよ。これは本当の気持ちなんだ。これぞ、まさしく、人生ふたり旅。」

 四十五歳、結婚二十周年にして夫婦仲睦まじいらしい課長は、いつもそんなほほえましい自慢をしてくる。このまま、奥様に聞かせてあげたいくらいだ。

「うらやましいです。あたしも早く、良い相手をみつけないとですね。」

「え、じゃあ冬香さん、相手を探してるんですか? おれはどうですか?」

「ちょっと遠藤さん、冬香さんにはもっと大人の男の人じゃないと!」

 遠藤くんのスーツの肩をたたいた若手の石野さんは、遠藤くんのことが好きなのだ。

 石野さんは強引に、自分が好きな男性像について語り始めた。

あたしが好きなタイプは、やさしくてー、スポーツマンでー、あ、背はそんなに高くなくてもいいんです。あたしチビだから。アハハ。芸能人だったら、ですか? そうだなあ。

 と甘い声を出し、石野さんは、最近人気のあるお笑いタレントの名前を挙げた。

 遠藤くんとすこし似ている、猿っぽいタイプだ。

「あいつぅ? あんなヘンな顔の奴が良いの? 石野ってストライクゾーン、広いんだなあ。」

 鈍感な遠藤くんは、自分のことを言われているとも知らずにそんなことを言っている。課長とあたしは目配せしてくすくすと笑った。

 飲み会の時間は、いくつかの恋愛事情をのせて、和やかに過ぎていく。

 三十歳近くになり、世の中は愛だの恋だのを中心にまわっているのかもしれないと思うことが、最近また増えた。

 歌だって小説だって、映画だって、何だって、人類全員の共通項であるかのように恋愛はごくふつうに題材の中心にある。

 人のコイバナを聞きたがる人は多いし、石野さんや遠藤くんに限らず好きなタイプを語りたがる人は多い。

 友達からの結婚報告メールや、毛筆で書かれた白い封筒が最近やたら届く。お祝いごとはもちろんうれしいけれど、ご祝儀の出費が、ときどき痛い。

 冬香さんはどんな男の人と付き合ってきたんですか? と、お酒のまわってきた石野さんに無遠慮に聞かれる。

 そんなとき、「普通の人だよ」と澄まして答えることにしているけれど、ほんとうは、「普通」のお付き合いをしたことがあるのかどうか、自分でもよくわからない。

 恋愛体質ではなかったあたしを初めて恋愛の世界に突き落とし、あたしの世界を恋愛一色に染め上げた男の顔が、頭をかすめる。

 三十年近い人生の中で、あたしは一度だけ、恋をしたことがある。

 その男の人の名前は、青柳龍生という。

 十八歳、大学に入った年の春のできことだ。

大学入学のために借りたそのアパートの窓からは、海が見えた。

 海はまあ好きだけど、オーシャンビューが良くて選んだ物件というわけでもなくて、単に大学が海の近くだったこと、大学までの距離と家賃が手頃だったから選んだアパートだった。駅から少し遠いところは、目をつぶった。

 オーシャンビューの部屋といっても、目の前が砂浜、とかいうのではもちろんなくて、建物の間から少し、堤防越しの太平洋が見えるというくらいだったけれど、あたしはそれまで内陸育ちだったものだから、毎日喜んで海を眺めていた。

 入学から一か月ほど経った、五月のことだったと思う。

 あたしはその時、まだ大学にうまく馴染めないでいたし、慣れないひとり暮らしの疲れもあって、ゴールデン・ウィーク明けに熱を出した。

 大学の講義を受けているときから寒気がし、早退した。

 まだ頼れる友達もいなかったから、病院に行くのも一苦労、おかゆを作ることはおろか飲み物を買うにも身体は重すぎた。

 駅の近くにある内科を受診した帰り、いつも歩いて十五分の道のりを、三十分近くかけてやっと家にたどり着いた頃、死んでしまうんじゃないかと思うくらいに具合が悪く、疲れきっていた。あの当時、タクシーのことなんてあたしの頭になかったのだ。

医者が言うことには、環境の変化やストレスが出たのだろう、ということだった。

 しばらく安静にして寝てれば良いと思うよー、しばらくすれば環境に慣れて楽しくなってくるでしょう、と明るく言われたとき、もしもあたしにもう少し元気があったなら、「しばらくって一体どのくらいですか!」と叫んでいたと思う。

 とにかく身体が弱ると、気持ちも弱ってくる。

だるい、間接が痛い、気持ち悪い、身体が重い。

 このつらさはいつ治るんだろう、治るまで一体どうしたら良いんだろうと思うと、歩きながらどうにも泣けてきた。

 やっとアパートにたどり着き、部屋の鍵を開けようとしたとき、

「大丈夫ですか?」

 と、男の人声がした。

 となりの部屋から顔を出したその人が、青柳龍生だった。

「だめです……。」

 青柳さんは崩れ落ちそうになるあたしを支えてくれ、あたしの部屋の鍵を開けてベッドまで連れて行ってくれた、のだと思うけれど、はっきり言って記憶はない。

 気がついたら夜中になっていて、おでこには湿ったタオルが乗っていて、見慣れない食器にラップをかけたおじやがテーブルの上にあった。

 おまけにスポーツドリンクが二本。

 助かった、と思い、ありがたくそれをいただき、薬を飲んで眠った。

 しばらく眠ったら身体はあっさりと回復していた。力が入るということは、素晴らしい。カーテン越しの光がありがたかった。

 大学に行くと、クラスメイトが話しかけてくれた。

「大丈夫だった? きのう、真っ青な顔をしてたでしょ。」

 心配したんだよ、と言ってくれた。

「アパートのお隣さんが、助けてくれたの。知らない男の人に、おじやをもらっちゃった。」

 あたしが一部始終を話すと、たかこちゃんというその女の子はにやりと笑った。

「冬香ちゃん、それ、始まりなんじゃないの?」

「始まり?」

「偶然から始まる、お隣さんとの恋。いいなあ、ステキだなあ。」

 たかこちゃんはそう言って面白がっていた。

「そんなことないって。」

 笑いながら否定したとき、それでもたぶん、あたしは何かに気付いていた。

 アパートに帰り、おそるおそる隣の部屋のインターホンを押した。

「ああ! 元気になったみたいだね。よかった、よかった。」

 青柳さんはさわやかに笑ってあたしを部屋に入れてくれた。助けてもらったときは具合が悪すぎて気付かなかったけれど、二重瞼の濃い目の顔立ちで、背も高く、テレビに出てくるモデル出身のタレントに似ていた。

 男の人の部屋に入るのは、初めてだった。

 パジャマやスウェットではなくシンプルなティーシャツを着ていた。やはり海の見えるその部屋は、こざっぱりとおしゃれに片付いていた。

「これ、ありがとうございました。本当に助かりました。」

 洗った食器に、気持ちばかりの缶ビールを二本。いま思えばもっと良いお礼をしてもよかったけれど、そのときあたしは高校を卒業したばかりだったのだ。

「ビール? ラッキー。じゃ、ありがたく頂こうかな。せっかくなら、君も飲んで行く?」

 丁重にお断りしたけれど、いま考えれば病み上がりの未成年にビールを勧めた青柳さんはずいぶんいい加減だ。

 あとでそれを指摘すると、

「あのときは未成年だなんて、知らなかったんだよ。」

 と肩をすくめたけれど、それは嘘に決まっている。田舎から出てきてひとり暮らしを始めたばかりの大学一年生を見抜けないようなウブな男では、決してないのだ。

 とにかくそうやって、青柳さんはあたしをあっという間に懐かせたし、その意のままに、あたしは、恋に落ちた。

青柳さんは当時、二十代半ばの会社員だった。

何の仕事なのかは聞いていなかったけれど、大阪に本社があるとかで、週末をはさんでよく、大阪に出張に行っていた。

 隣の部屋に住んでいる気安さで、あたしは青柳さんの部屋に朝から入り浸ることもあった。それはもうほとんど同棲だった。

 青柳さんは料理をつくるのが好きだったから、朝ごはんをつくってもらって食べて、置いたままにしてある歯ブラシで歯を磨く。

新聞を読む青柳さんの腕の下に入り込むことを覚えた頃には、あたしの世界は恋に染まっていた。

「おれは写真家を目指してたんだ。」

 知り合ってしばらく経った頃、青柳さんの部屋の二人掛けのソファに座っていたとき、話してくれた。ソファの脇の棚から、写真が入ったファイルを取り出してきて見せてくれたのだった。

 どこか南の島で撮ったらしい海や、紅葉した山や、動物の写真。

 棚の上には、大きなカメラがいくつか並んでいた。

 あたしは青柳さんの視点を通して切り取られた、見たことのない景色を夢中で眺めた。

 四角い枠のそのむこうを、一生懸命想像していたのだ。

 ソファから見る小さな海の、その向こうを想像するように。

「あたしも、この世界が見たいなあ。」

 そう言って、ファイルをめくった。その時間だけあたしは、青柳さんの目になったような気分になれた。

 だから、デートのとき、あたしはカメラを持って行くように青柳さんに言った。

 行く場所は目の前の海でも、ディズニーランドでも、夜景でも、どこでも良かった。

 あたしが撮って欲しかったのは自分の写真ではなく、一緒に見ているあたしたちの視点だった。

青柳さんが切り取った時間をあたしはせっせとファイルに入れて、棚に並べた。

「冬香ちゃん、おしゃれになったよね。」

 たかこちゃんに言われたとき、あたしは自分でも、ファッション誌のモデルのようだと思っていた。

青柳さんは休みの日にあたしを買い物に連れて行っては、当時のあたしにしてみれば高額な洋服や、靴や、アクセサリーを買ってくれたのだ。

 青山にあるおしゃれな美容院にも、一緒に行った。

「冬香にはこんな髪型が似合うと思うけど、どうかな。」

 青柳さんはスマートに、そしてやや強引に、あたしを好みの女に変えていった。

 久しぶりに会った家族や友達からは、別人のようにきれいになったと言われた。

 写真やファッションのほかにも、青柳さんは色々なことを教えてくれた。

 たとえば東京の地理や、お酒の種類や頼み方。

青柳さんは旅が好きで、日本中や外国の色々な場所についても詳しかった。音楽、本、映画、肌の重ね方。あたしはひとつひとつそれらを覚えていくたびに、洗練された大人の女性に近づいていっているようで嬉しかった。

 今では、よくわからない。本当に理解したものなんてなかったような気もするし、青柳さんの手によってつくられた、ただの「青柳さん好みの都合の良い女の子」だったような気もする。青柳さんがほんとうにあたしのことを好きだったのかどうかは、わからないままだ。

 あたしはソファに座って、小さく切り取った海の見える部屋の窓を眺めながら過ごす、青柳さんとの時間がだいすきだった。

 ときどき青柳さんが言う、「大阪へ出張」という言葉とお土産にもらう「面白い恋人」に、そのときあたしは何の疑問も抱いていなかったのだ。


 とつぜん始まったものは、終わりが来るのもとつぜんなのかもしれない、と、そのときあたしは思った。

 季節が秋から冬に変わる頃、「もしかしたら来年、大阪の本社に転勤になるかもしれない。」と言っていたことがあった。

「来年の、いつ?」

「わからないけど。」

 あたしはのんきに大阪までの交通手段を調べたり、大阪の名物を調べたりしていた。

「わからない」を、若かったあたしの頭は「ない」と捉えていたのだ。

 クリスマスとお正月を一緒に過ごしてしばらくした頃、大学は試験期間に入った。

 レポート提出や試験勉強に追われてあたしは数日間、家と大学の往復だけで、青柳さんの部屋に行っていなかった。

 といってもメールは毎日していた。仕事の昼休みに送ってくれるメールが、毎日の励みだったのだ。

送られてくるメールの文字数が減ってきていることに、あたしは気付かないふりをしていた。

 あと一日で試験が終わる、という日曜日、あたしは午前中に少し大学の図書館に行き、歩いてアパートに帰った。

 異変に気付いたのは、そのときだった。

 最初、自分の部屋のドアが開いているのだと思った。まさか閉め忘れたのか、とか、空き巣に入られたのか、とか考えていると、そこから段ボール箱を抱えた青柳さんが出てきた。

 あたしが目を丸くすると、青柳さんは思いっきり苦笑いをした。

 まるで、悪戯を見つかってしまった子どものように。

 重たそうな、大きな段ボール箱には、マジックで「写真ファイル」と書かれていた。

 そのとき、玄関の中でキュウ、と高い音がした。

「パパぁ、これ欲しいー、これー。」

 開け放されたドアの向こうから、幼い女の子の声。

 まだ舌ったらずなそのイントネーションは、関西弁のそれのようだった。

 キュウキュウと足踏みのたびに鳴る、可愛らしい靴音を響かせながら、小さな女の子が顔を覗かせた。

 青柳さんの腰くらいの背丈のその女の子は、小さなミッキーマウスのぬいぐるみを手にして青柳さんを見上げ、そのあとあたしに気付いたらしく、こちらを見た。

 二重瞼の、濃い目の顔立ちの、くりくりした可愛い女の子だった。

 女の子はあたしと目が合うとドアの向こうにさっと隠れ、そのあとミッキーのぬいぐるみだけ出すようにして振って、そのあとまた顔を出して、面白そうにあたしを見た。

 女の子の顔から目線を上にずらすと、人はこれほどにも気まずそうな表情ができるのかとおもうような顔をした、女の子そっくりな男の顔があった。

「パパー、ミッキイ!」

 女の子がもう一度言って、青柳さんを見上げた。

 困った顔で、青柳さんは固まっている。

「いいよ。」

 あたしはしゃがんで、にっこり笑った。

 女の子は、なぜこのお姉さんが答えたのかわからない、と言いたげに、きょとんとしていた。

 おじょうちゃん、そのミッキーはね、お姉さんがパパとディズニーランドに行ったときに買って、玄関に飾っていたものなのよ。

 そう思いながら、

「もらっていいって、パパが言ってるよ。」

 と言った。

 女の子はぱっと笑顔になり、それから青柳さんを見つめる。

「ああ、いいよ。」

 その声はかすれて、かっこ悪い裏声になっていた。

 大きな段ボール箱を抱えた青柳さんの脇をすりぬけるとき、青柳さんの部屋が見えた。

 部屋には段ボールがいくつか積み上げられていて、その他はがらんとしていた。あたしが大好きだったソファは、既になかった。

 あたしが自分の部屋の鍵をかばんから取り出していると、道端にワゴン車が路上駐車され、降りてきた女の人が、「龍生ー、それ、持ってきて。」と声を張り上げた。やはり、関西のイントネーションだった。

「ママー!」

 ドアを後ろ手に閉める瞬間、滑り込むように女の子の声が響いた。キュウキュウと鳴る音が階段を下りて行くのが分かった。

 心臓がばくばくいっていた。

 ドアにもたれて、思わずへたり込む。

 玄関に飾られたミニーマウスが見えた。

 それをつかんで、細く開けたドアから放り投げた。

 あの女の子はミニーマウスを見つけたら喜ぶだろうか、と考えながら、枯れるほど泣いた。

 思えばあのとき、あたしはまだ十代だったのだ。


「お先に失礼いたします。明日、お休みをいただきますので、よろしくお願いします。」

 定時をすこしまわった。あたしはパソコンを落として、課長に軽く頭を下げる。

「冬香さんも、明日で三十歳か。おめでとう! 楽しい旅行をな。おつかれさま。」

「ふふ。二十代も、あと四時間と少しです。」

 ロッカールームで制服を着替え、退社する。

 解放されるこの瞬間が好きだ。

 駅前の書店で文庫本を買い、コインロッカーに預けていたキャリーケースを回収し、竹芝へ向かう。

 大型客船は、夜の十時に竹芝を出発して朝方、島に着く。

 その島を選んだことに、とくに理由はなかった。

 誕生日にひとり旅をしようと思い立った時に駅で偶然目にした、「椿まつり」のポスターがきれいだったのだ。椿の花のアップで、奥にぼんやりと海が写っているその写真を見たとき、ここに行ってみたいと思ったのだった。

 都会の生活に慣れると、無性に自然の山や、明るい花の色が見たくなるときがある。

 船の名前は、かめりあ丸という。

 チケットを渡し、指定された特二等船室に向かう。カーテン付きの二段ベッドの上があたしのスペース。カーテンをしめて荷物を置き、甲板に出た。

 ダイレクトに吹きつける海風を浴びて、東京湾の夜景を見る。

 青柳さんという男の人と過ごした部屋の窓から見えたあの海を、船はゆっくりと離れていく。

 三十歳になるまで、あと二時間。

 結局、あたしの二十代に恋愛はなかった。

 失った恋のショックは大きく、同じ大学の先輩と付き合っていたたかこちゃんが紹介してくれた男の子と付き合う勇気も出ないまま、恋愛への興味を急速に失っていったのだった。

 何かと心配をしてくれていたたかこちゃんの結婚式があったのは二週間前のこと。

 あの時に付き合っていた大学の先輩との結婚だった。就職を機に遠距離になり一度別れたものの、数年後に再会して結婚することになったのだという。

 白いドレスに身を包んだたかこちゃんは、照れくさそうで、しあわせそうだった。

 ブーケ・トスでちゃっかりいただいたブーケの中の一輪が、まだ部屋で咲いている。

「おひとりですか?」

 声をかけられて振り向くと、缶ビールを手にした男性がにこにことこちらを見ていた。

「もしよかったら、一緒に飲みません?」

「ありがとうございます。」

 差し出された缶を、遠慮なく受け取った。

「もしかして、椿まつりに行くんですか?」

「はい、そうなんです。駅で見たポスターが、なんだかすごく印象的で。衝動的に、行こうって決めちゃったんです。」

「あ、おれもです。気が合いますね。これですよね。」

 男性は船内に貼られた大きなポスターを指差した。

 あたしが駅で見たものと同じ写真だった。染まったような、鮮やかな赤い色の椿の写真。

「そう、それです。」

 駅では通り過ぎただけだったそのポスターを、近くで眺める。

 右下に書いてあるローマ字に気付いたとき、思わずあたしは吹き出した。

 いきなりあたしがお腹を抱えて笑いだしたのに、男性は驚いた。

「え、どうしたんですか? 何かおかしいこと、おれ、言いましたか?」

「ちがうんです、大丈夫です。ごめんなさい。」

 目じりの涙をぬぐいながら、思わず男性の肩をぽんぽんと叩いていた。

「あたし、あと二時間で誕生日なんです。」

「あ、そうなんですか? それはおめでとうございます。思いきって声をかけてみて、良かったです。」

 初対面の男性と、缶ビールで乾杯をした。

 男性の後ろには、「Photograph:Ryusei Aoyagi」の文字の入ったポスター。

 ごみごみとせわしない大都会が少しずつ離れて、きらきらと輝く夜景になった。




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