アラハバキの誕生
東と北の狭間……神すら住まぬ厳寒の地。そこでは光と温もりは吹き荒れる吹雪により閉ざされ、白銀という闇が全てを支配していた。
その地に住む人々は天の助けともいえる神の来訪に半ば絶望し……希望すら抱けない程、身も心も困窮していた。
しかし、そんな状況を変える出来事が起こった。
遥か西の地より一柱の神が来訪してきたのである。
その神は他の神々とは違い、御殿を建てる訳でもなく、自身を祀る場所を作る訳でもなく……人々の住む寂れた風通りの良い小屋へと住み、人間と共に寝食や土地の開墾へと勤しんだ。
変わった神様だ、と人々は口々に言った。
ある時、とある幼い少女は神に尋ねた。
「どうして神様は働いてるの?」
神はその幼い少女と目の高さを同じにすると静かに教えた。
「確かに俺は神だが、他の神々とは違って皆を幸福にする事は出来ない。もし出来たら、この地を温もりと光ある地に変えているだろう……しかし、俺にはそんな力は無い。だが、苦楽を共にし……少しでもより良くする事は出来る。だから俺は働いてるのだ。……すまないな、これ程しか出来ない神で……」
「そんなことないよ! だって、神様は私たちの為に頑張ってくれてるんだから…………ねぇ、神様。神様の名前はなんていうの?」
少女がそう尋ねるのも不思議ではなかった。
なぜなら、神は「名乗る程ではない」と頑なに拒んでいたからだ。
しかし、人々と過ごす内に心が変わったのであろう……神は漸く自らの名を口にした。
「魚の神の虹だ。元より名などは無かったが……俺の友が付けてくれたんだ」
「コウ……じゃあ、これからは神様の事をコウ神様って呼ぶね!」
「好きに呼べば良い……」
それ以降、この少女を通じて人々はこの神の事をコウ神様と呼ぶようになった。
しかし、時が経つにつれ…………なぜか“虹”である筈のコウはいつしか荒ぶる方の“荒”へと変わり……一部の人々は荒神様と称えるようになった。
やがて、荒神様では悪神になってしまうのではないか? と心配する者が出てきたので人々の取り決めにより、荒神コウはその地では“荒覇吐”という神の名で正式に決められる事となる。
そして、数年の時を厳寒の地で暮らしたアラハバキは再び旅に出る為、その地を離れることとなった。
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「すまない、長。この地を離れる事になって……」
「いえ、お気になさらず。元より、また旅に出られる事は存じておりました。だから、アラハバキ様は自身の座する場を設けなかったのでしょう?」
「使わぬ住処を造ったところで、皆に迷惑を掛けるのは目に見えていたからな。長……結局、俺は皆の恩に報いる事は出来なかった……」
「そんなことはありませぬ。アラハバキ様のお陰で我々の住む土地は拡がり、前より豊かになりました。相も変わらず、土地は寒いですが……あなた様に感謝する者は居っても、恨む者はおりませぬ」
事実、コウは土地の開墾の他に生活の知恵も幾つか人々に授けた……魚の神であるが故に寒い時の魚の捕り方や草木を使った寒さの防ぎ方等、教えた事はいずれも小さいものだが、それにより飢えや寒さで死ぬ者が減った事は人々にとって喜ばしい事だった。
「そうか……喜んでもらえたなら幸いだ」
「今度はどちらに行かれるのです?」
「遥か西の方へ……友である蛟が居る出雲へ戻ろうと思う」
「出雲ですか……到底、我々東北の者にとっては計り知れぬ地ですな……」
「そんな事は無い。西と東……土地は違えど住む者は人と神、何ら変わりはない」
「そうですか……。ともかく、行く際はお気をつけて。そして、出来ればまたこの地にいらして下さい。我々一同……いつでも歓迎したします」
「あぁ、必ずまたここに来る事を約束しよう! ……世話になった」
人々の見送りを背にコウはゆっくりと歩み出す。
その時、コウに名を尋ねたあの少女が彼に近付いてきた。
「コウ神様!」
「ん? クジか……どうしたんだ?」
「あのね、私たち何にも無いから……せめてお礼としてこれをあげる!」
クジがそう言って出してきた小さな手の中には小さな虫が黒い粒のようになって閉じ込められている透明な金色の玉がある。
これはコウがクジの遊び相手になっていた際に、彼女から見せてもらった宝物であった。
「琥珀の玉じゃないか……すまないが、これは受け取る訳にはいかない」
「なんで?」
「それはクジの宝物だろう? そんな大事な物を……」
「ううん、いいよ。だって私にとっての一番の宝物は私と一緒に遊んでくれたコウ神様だから。だから……これをお守りとしてあげるから大事にしてね!」
小さな手から手渡された琥珀の玉を静かに見つめたコウはそれを力強く握り、頷くとクジの頭を優しく撫でた。
「ありがとう。大切にする、そして……戻ってきたらまた遊ぼう!」
「うん!」
約束を交わしたコウは人々の声を背に受けながら押し出されるように西へと歩みを進める。
クジから貰った琥珀の玉を首に下げ、厳寒の地を後にするコウの目には輝くものが一滴落ちていた。