ep,097 親愛なる君へ
ショーマは気が付くと再び霧の中にいた。
それだけなら覚悟していたことだったので、別に気にするようなことではない。
それよりも今は、天地の感覚が狂っていることの方が気になる事態であった。視界が真っ白に染まって自分の姿すらろくに見えないので、体の感覚だけが現状を把握するための手段なのだ。
地面に立っているという感じは全くない。というよりこれは……そう、仰向けになって倒れている感覚だ。
固い地面の感触は、足の裏ではなく背中全体にある。
だが、奇妙な感じだ。
背中には地面感触があるのに、脚の方には無い。
否……脚そのものの感覚が無いのだ。
「嘘だろ……」
上体を起こし、必死に目を凝らして霧に隠れている脚の方を見やると、そこにはあまり信じたくない光景が広がっていた。
ちょうど膝から下にかけて、大きな岩が鎮座している。
どうやらいつの間にか自分の脚は、この岩に潰されてしまっているようだった。
「……ッ!」
その事実を認識した途端、全身に鈍い痛みが走り始める。よくよく見ればあちこちに擦り傷や打撲痕もあった。
どうやら何かの拍子に、谷を下る道を踏み外し落下した挙句、脚を岩に潰されてしまったようだ。
「あ……ッ!!」
事実を頭で認識すると、肉体もその事実を認識し始めたのだろうか。全身の痛みはますます激しくなっていく。
そして肉体の痛みに連動するかのように、ショーマは事の重大さを感じ始める。
自分の脚が、駄目になってしまったという事実を。
何故こうなってしまったのかまでは、まだわからないのだが。
(……参ったな)
超人的な魔力を持つ自分ならば、ひょっとしたら潰れた脚は治せるかもしれない。でも治せなければ、この先の人生、ずっと脚の無い生活を送らなければならないことになる。
みんなは、どう思うだろうか。きっとかいがいしく世話を焼いてくれるだろうとは思うけれど、何年も、何十年も手間をかけさせ続けてしまうと思うと申し訳無さでいっぱいになる。
風呂に入る時も、トイレに行く時も、ベッドで横になる時にも手を借りることになるのだろうか。
(いや、落ち着け……! 何を考えてるんだ!)
今はそんなことを考えている場合ではない。まずはこの現状をどうにかしなければ。そして、あの竜神の少女を無事谷底まで送り届けてやらなければならないのだ。
不幸中の幸いとでも言うべきか、脚が潰れたことの痛みはそこまででもない。感覚が駄目になってしまっているのだろう。それはそれでかなりまずい気がするが、現状を打開するために痛みはきっと邪魔なだけだと思うので深く考えないことにする。
(まずは、この岩をどける……!)
震える掌を岩に押し当て、魔力を込めていく。浮かせてどかすか、粉々にして消し飛ばすか。どちらにしても魔法の力が必要になるだろう。
「……?」
だが、岩は魔力を受け付けてくれない。周囲に漂う白い霧と同じく竜神の力が付与されたものだということだろうか。
しかし今度はどうにもならないでは済まされない。この岩をどうにかしなければ自分は助からないのだから。
「……はぁ、……ッ」
だがあれこれと試行錯誤してみたところで結果は変わらなかった。出来る限りの手段を考え実行に移してはみたが、この岩をどけることは……竜神の力に抗うことは出来なかった。
一度横になって、体を休めつつ次の手段を考えることにする。
一応細かい怪我の治癒は魔法で済ませてある。脚は潰れた部分を治しても岩をどけなければ意味が無いので、せめてこれ以上酷いことにならないよう保全する魔法をかけた。
休んでいると頭には次の問題が浮かんでくる。
空腹や水不足の問題だ。荷物もどこかへやってしまったようだし、時間がかかるとどんどんまずいことになるだろう。
あまりに時間がかかるならきっとメリル達が心配して捜しに来てくれるだろうが、二次遭難の可能性もあるので出来れば自分で何とかしたい所だ。
(あの子は大丈夫だろうか……)
そして何より気になるのははぐれてしまった竜神の少女だ。今自分がこんなことになっているということは、彼女はこの谷に一人ぼっちとなっているということだ。危険な目には遭っていないだろうか。
年端もいかぬ少女のような姿をしていながら、街の酒場でジョッキの酒を煽っていた、自分を神だと称する竜。
この世界では未だお目にかかったことは無かった自分と同じ黒い髪を持つ少女。それは例え仮初めの姿であっても、奇妙な親近感を抱かせてくれた。
もちろん、それだけが助けてあげたいと思った理由ではないけれど。
「では、何故なのだ?」
視界に影が落ちる。
それは今しがた考えていたばかりである、竜神の少女の顔によるものであった。
横たわる自分の上から覗き込むようにしている少女の顔がそこにあった。
「……、」
良かった、無事だったのか。
そう口にしようとして、声が出なかった。いつの間にか、声も出せない程に消耗していたようだ。
「ああ、お陰様でな」
しかし少女は言葉を聞かずに返事をした。本当に何でもお見通しのようである。
「改めて問うぞ。何故貴様はこんな目に遭ってまで、妾に手を貸そうと思うのだ? 安請け合いして、命を落としかけて後悔は無いのか? 自分のお人好しさを呪ってはいないのか?」
少女はまるで、嘲笑うかのように言葉をかけてくるのだった。
誰かを助けようとして危険を承知で飛び込み、そして命を落とす。
これ程愚かで間抜けなこともそう無いことだろう。
もちろん死都ゼヴィナスへの案内役という報酬を求めての行為ではあったけれど、純粋に助けたいという気持ちが無かったわけではない。むしろ大きいくらいだ。
だからこそこの結果は、確かに愚か者の末路とも言える状況だ。
それでも、何と言われようと、我が身可愛さに困っている少女を放っておくことなど出来なかった。
「おれ、は……」
力を振り絞って、言葉を紡ぐ。
「お人好しかもしれないけど……それだけじゃ、ないと思う……」
思いのほかそれは、今の自分には疲れる行為ではあったけれど。
「ありがとうって言われたら、嬉しいし……。助けてもらって、当たり前みたいな態度されたら、ムカッとくるし……。ちゃんと、見返りは欲しいよ」
ショーマは力を振り絞り、己の気持ちを言葉という形にして紡ぎあげていく。
「見返り?」
「ああ。けどそれは、単なる損得の勘定じゃなくて……もっと、素直な気持ちで……。俺が誰かを助けた分、今度は……他の誰かに助けてもらいたいって、そういう風に……思うんだ」
「互いが互いを思い合い助け合えば世界は平和になる、という理論か。だがそれは幼稚な考えだ。人の多くはいずれそんな考えを捨てるようになる。しょせん机上の空論だ、とな」
「だろうね……。でもやっぱり、そういう世の中であって欲しいって、思うから……、俺は……誰かを助けること、やめたくないよ」
世の中には上手く行かないことがたくさんある。それはたくさんの人が皆それぞれの考えを持っているせいだ。
同じ意志を持つ者ならば同調出来るが、違う意志を持っていれば衝突する。ただそれはむしろ多様性というものであり、否定する所ではない。
しかしだからと言って、異なる意見を持つ者達が協調することを諦めるのは別の話だ。
……世の中はそういう風に出来ているんだから、仕方無いこともあるんだよ。
そんな風に考えるのは嫌だった。
きっといつか、諦めなければ、みんなが幸せになれる答えを見つけられると、信じているから。
「……強欲な奴よ」
竜神の少女はそう呟いた。
確かにそうかもしれない。
少しでも、より良い結果を得るためにと、必死になってあがく。
けれどそれは、悪いことだろうか。
そんなことは、無いと思う。
「俺は……確かに欲張りだよ。だから、君を救うってこの意思だって……遂げてみせる」
「出来るのか? 今にも息絶えそうな貴様に。人に出来ることは限界があると先刻も言ったろう。人の限界を越える望みを抱くのであれば……もはや選べる道は限界を越えること以外に無いぞ」
「俺に……神になれって言うのかい」
「貴様がそれを望むなら……妾は祝福を授けても良い」
神位にある者に祝福を授かれば、その者もまた神位に到達出来る。
神位に到達すること。それが具体的にどういうことかはよくわからない。
人の限界を超越し人でなくなるということが、人と共に居続けることへどんな影響を与えるのか。
「……いや、いいよ。もうちょっと、頑張るから」
「頑張ってどうにか出来るのか?」
「やってみなきゃ、わかんないよ。……俺に出来ることを、全部やるまでは、諦めない」
神になれと言われても不安ばかりだ。しかしそれしかないというなら受け入れるだろう。
だがその前に、本当にそうするしかないという状況になってしまうまで、徹底的に試せることは試しておきたかった。
まだ自分が限界だとは、思えなかったから。
「そうか。わかった。……その力強き意思、確かに見せてもらったぞ」
「……え」
不意に風が吹き荒れた。
その風が霧を吹き飛ばしていく。
そして霧が晴れると同時に、ショーマの脚を押しつぶしていた大岩もまた、姿を消していた。
脚には殆ど怪我も無く、いつものままの姿だった。
「この霧は心を惑わすものと言ったろう」
「……なるほど、ね」
それはつまり、脚を失う幻覚を見せられていた、ということなのだろう。
「だが貴様は決して心を折ることは無かった。半身を失う程の大怪我を目の当たりにしても尚、屈することなく望みを果たすため心力を振り絞った。……感嘆すべきことである。妾は、そんな人物こそを探し求めていたのだ」
少女がその内心を語る。
ショーマは自身の大怪我に対し恐怖や不安こそ感じたものの、それを振り払い目の前の現実に立ち向かった。諦めてはならない。やるべきことがまだあるのだからと。強がりなどではなく、本気で。
少女がこれまで協力してもらった人物達には、その強い意志が足りなかった。
危険を恐れ撤退していった賢者も、危険に立ち向かい屈してしまった愚者も、少女の望みを叶えるには値しなかった。
心優しき思いとそれを実現出来る強い力を兼ね備えた者が、ようやく現れてくれたのだ。
「そっか。……でもさ、思うんだけど。俺くらいのことが出来る人なんて、君が本気で探せば、もっと見つけられていたんじゃないか?」
しかしショーマは疑問を抱く。少女が言うほど自分はすごいことを成し遂げたのだろうかと。
「何を言う。自らの意思で、妾の元へ現れてくれる人物だからこそ……好いのではないか」
「……まあ、確かに」
そんな疑問にあっけらかんと答える少女の姿に、ショーマは初めて見た目相応の少女らしさを感じるのだった。
心の強さだけでもなく、力の強さだけでもない。本当はそれ以上にもっと大切なものを、彼女は求めていたのだな、と。
「ここが……君の言う『陣地』か」
「左様。よくぞ我が試練を乗り越え辿り着いてくれた」
体を起き上がらせ周囲を見回したショーマは、そこに暖かいマナエネルギーが満ちていることを感じ取った。今いるこの場所こそが目的の場所だったのだ。
辿り着くために必要だったのは歩みを進めることではなく、少女が望む存在であることを霧の眩惑に示すことだった。
それが果たされたことで、霧は晴れた。
「なあ貴様よ……敢えて聞かせてもらうが、せっかくここまで辿り着いたことだし、妾に対し何ぞ望みでもあるか? 死都ゼヴィナスのこととは、また別にだ」
ふと少女が、ちょうどいい大きさの岩に腰掛け悪戯っぽい笑みを浮かべながらそんな質問をしてくる。
「どうしたのさ、勿体付けた言い方をして。……でも、良いのかい?」
ショーマも笑みを返しながら、その言葉の真意を感じ取る。
「ああ。共に居たのは貴様の感覚からして見てもほんの短い間であったが……妾は貴様のこと、気に入ったのだぞ?」
「ありがとう、嬉しいよ。……じゃあ、その言葉に甘えさせてもらおうかな」
腰に提げていた宝剣クリスセイバーを抜き、両手でそっと握り差し出す。
「……俺が今持っている宝石の類なんて、これくらいしかないけど、足りるかな」
「足りんな。全然足りん。……だがまあ、貴様自身の心の輝きを足せば、丁度良い、かな」
「わかった。それじゃあ……俺と力を共有する契約を、交わしてほしい」
竜の契約。
それは互いに心から信頼し合った人と竜が、互いの魔力を共有する契約だ。
人と竜の持つ魔力は確実に竜の方が大きいため、得をするのはもっぱら人間だ。だからこそ人間は竜が好んで望む物、『輝き』を提供することでその釣り合いを取るのだ。それには基本的に宝石が使われることが多い。
「良かろう。我が魂、そなたに貸し与える」
ショーマが竜神の少女に差し出したのは、魔力を込めた宝石の力で刀身を形成する剣、クリスセイバーだ。だが業物であるそれも、彼女程の格を持つ竜には少し物足りないものであった。
それでも認めてくれたのはつまり、それだけ少女がショーマを信頼してくれたということの表れである。
「では契約に際し……名前を与えてもらおうかの」
そして竜の契約において最後に重要になる物が、竜に与える名前だ。
竜は名前を持たないで生きる。そこに人から竜へ名前を与えるという行為は、正しく人と竜の信頼関係を示すことに他ならない。名前があるからといって魔力が増えるだとか、そういった何かが変わるという訳でもないが、しかし、だからこそ人にとっても竜にとっても大切なことだ。
「可愛い名前を頼むぞ?」
少女は上目遣いで愛らしさを強調して注文した。その姿は確かに見た目通りの少女だが、わざとらしすぎて逆にとてもそうは見えないものであった。
「君の、名前は……」
ショーマは考える。尊大で力強く、どこか儚さを感じるその少女の姿を見て。
黒く艶やかな髪。側頭から伸びる一対の黒き角。華奢で小柄な体躯。真っ白な肌と真っ白なドレス。
内に秘めた強い意志と、時折見せる悪戯っぽさ。
まだまだ知らないことも多い、そんな彼女の名前は……
「ディア」
それが、ショーマが竜神の少女に与えた名前だった。
「ああ……良い名だ。これからずっと、そなたにこれからずっとその名で呼んでもらえると思うと……大変心地良くなるな」
契約が交わされたその瞬間、周囲の光が眩しさを増す。
「……っ」
思わず目を閉じそうになったショーマは、その直前に竜神の少女、ディアの背後に何かの姿を見た。
白い体に黒い一対の角と三対の翼を持つ、巨大な竜の姿を。
それはディアの、竜としての本来の姿だ。
やがて光が収まったその時、そこに立っていたのは変わらぬ少女の姿をしたディアだった。
「では良い名を貰ったお返しだ。我が主ショーマよ。そなたの剣に竜神ディアより祝福を授けよう」
「祝福……?」
「そうだ。竜神への供物にしては少しばかり安っぽいからな。……というのは冗談であるが」
「おいおい」
「ま、そなたはまだ人の身でありたいようであるからな。ならば代わりに愛剣にでも限界を越えてもらわねば、妾の力を振るうにはいささか頼りないであろう」
「なるほど。それは……ありがたいね」
そしてディアはショーマが手にするクリスセイバーにそっと手をかざした。
「構わぬさ。至らぬ主を支えるのもまた契約の内に含まれておるわ。……では今度は、妾が名を授けよう」
ディアの指先に小さな輝きが灯る。それはゆっくりとクリスセイバーの全体を覆っていく。
「竜神ディアの名の元に祝福を授ける。至れよ、神位へ……『ディアグレイル』」
そしてクリスセイバーはこの瞬間、神位剣ディアグレイルへと生まれ変わった。
ショーマが契約竜ディアと力の共有をスムーズに行うための能力に特化した神位剣だ。
「そなたがこれから挑む敵は、決して生温い相手ではない。心せよ?」
「……ああ」
それは感謝と親愛の証であると同時に、この先の戦いに際しての、ディアなりの心遣いでもあった。