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「に、西岡って、わ、分かりますか?」ハルオが聞いた。こてつ組の事にはあまり詳しくはないのだ。
「組の中堅どころの人ね。組が関係してる地元企業の要求をこまめに聞いて回ってる人だわ。簡単なゆすりぐらいなら、西岡さんが解決しているみたいだし。フットワークの軽い人って印象があるわ」香が知りうる範囲で答える。
「こ、この人の、に、人間関係は、れ、礼似さんで分かりそうですね」
「そうね。早く調べてもらった方がいいかも。でも、集るって言ってたから、その情報が入るまでもう少し粘った方がいいのかな?」盗聴が今のところうまくいっているので、香は欲が出ている。
「い、いいえ。じょ、情報は鮮度が大事です。ま、まずは礼似さんに知らせます。マ、マイクも早く回収しましょう。ぶ、不用心な行動は、き、禁物です」
ハルオはあくまでも用心深い。香は少しイライラする。
「マイクの回収は急ぐことないんじゃないですか? また連絡があるようだし」
「マ、マイクの存在がバレたら、い、意味ないです。は、はずす時も、十分用心して下さいよ」
「分かってるわよ」
こういう時の返事は、だいたい本気で答えてはいないもの。香もこの時は惜しいなと思いながら、いやいや接触を図ろうとした。指先の感覚などごくわずかな事で狂う。大谷は上着のポケットに違和感を感じたらしく、香の方に振り返りかけた。まずい。
香はとっさにマイクの他に大谷の財布をスった。顔を見られないようにうつむいたまま駆け出す。大谷が財布がない事に気がついた。
「このアマ!」
そう叫んで大谷が追いかけて来た。香は財布を大谷に投げつける。見事に大谷の顔にあたった。
大谷がひるんだすきに香は必死に逃げた。わき目も振らずにどんどん走り続けた。
香はいくつもの角を曲がり、ようやく大きな通りへ出ると人ごみに紛れこんだ。ハルオが選んだ靴がさっそく役に立ってしまった。しかしそのハルオとはぐれてしまった。連絡を取らなきゃと携帯を手にした所に、当のハルオが息を切らしながらやってきた。正直、香は驚いた。
「よく、追いついてこれましたね」
「か、香さん。あ、足が早いんですね。あ、危うく、み、見失う、と、ところでした」
香はハルオが振りきられずに追いついてきた事に驚いていた。結構、逃げ足には自信があったのだ。
「で、でも、あ、危なかったです。こ、これで香さんを、び、尾行に連れて歩くのは、む、難しくなりました。れ、礼似さんの、て、手伝いにでも、い、行って……くだ……さ……い……」
ハルオは香にそういいながらも、香の顔色を見て言葉がしりすぼみになっていく。
「ちょっと、これはもともと私の仕事だったはずよ。人の仕事を横取りしておいて、そのいい草はないじゃない」
「で、でも、れ、礼似さんは、お、俺のし、指示を、う、受けろって」ハルオは自信なさげにつぶやく。
これだ。この態度がいけない。仕事に入るとそれ相応の実力を見せるのに。しかも、しくじったのは私の方だったのに。何なの? この、素に戻った時のぐずぐずした態度は。無性に逆らいたくなってくる。
「じゃあ何? ハルオさんは私と組んでるのがそんなに気に入らない訳?」口調がつい、詰問的になる。
ハルオは必死で首を横に振る。いささか振り過ぎて目を回している。ハルオが尾行をすると言ったのは、香の身を守りたかったのと、少しでも香にいい所を見せたかったからで、むしろ一緒にいられる事を歓迎している。
「だったら私を追い返そうとなんてしないで。大谷に顔は見られなかったし、とっさに財布を盗んだからただのスリだと思ったはずだし、私がつけても問題ないはずよ」香はすでに命令口調になっていた。
「も、問題、大アリ、です。こ、この街に、お、女の子のスリが、い、いったい何人、い、いるっていうんですか? お、同じ背格好の娘が、つ、つけて歩けば、あ、怪しまれます」
香は言い返しそこなった。明らかにハルオの方が正論だ。遠目ならともかく、さっきは若い娘だとバレたに違いない。それでもなんだか、こいつに素直に従いたくない気がする。こんな卑屈な奴の下になりたくない。
香はそう思いながらも、逆にハルオの実力に安心感を感じてしまった。ハルオと一緒にいれば、結構何とかなるんじゃないだろうか? そんな甘い考えも心の片隅にはあった。
「もう、不用意にあんなに近づくような真似はしないわよ。それに私の逃げ足の速さも見たでしょ? 大丈夫。十分注意するから。ハルオさんの尾行術もじっくり見ておきたいし。確かにあなたは一流だわ」
これはハルオに十分な殺し文句になった。相手が百戦錬磨の古株だという事が、すっかり念頭から消えてしまう。
「わ、分かりました。お、俺から離れないでください。と、とにかく大谷の所に、も、戻りましょう」
結局、ハルオは香のいいなりになってしまった。