第1話 地味な魔導工学師、辺境のデッドランドへ追放される
王都の地下深く。冷たく湿った空気が澱む大貯水区画には、絶え間なく流れる重い水音と、魔力駆動による低周波の振動が反響し続けている。
薄暗い空間の中心で、アルド・アークライトは巨大な浄水シリンダーの前に立っていた。身長一九〇センチに迫る長身、厚い胸板とがっしりとした骨格。一見すれば歴戦の傭兵か熟練の鍛冶師にも見える屈強な体躯だが、彼の手にあるのは剣でも大槌でもなく、銀色に鈍く光る細い調整針である。
「……ここか」
無精髭の生えた顎を撫で、シリンダーの表面に刻み込まれた魔力回路の一部へ目を凝らす。肉眼ではただの引っ掻き傷にしか見えない、髪の毛よりも細い亀裂。だが、そこから本来なら濾過されるはずの微細な鉱物毒が、じわじわと清浄な水流へ漏れ出していた。
息を短く吐き出し、調整針の先端へ意識を向ける。
王都でもてはやされる魔導師たちが好むような、熱波を放ち、周囲を吹き飛ばす派手な魔法とは対極にある技術。ナノメートル単位で魔力の糸を編み上げ、物質の構造そのものに干渉する『超精密魔力操作』だ。針の先から伸びた不可視の糸が、亀裂の入った魔力回路の断線を拾い上げ、寸分の狂いもなく縫い合わせ、元の構造へと再構築していく。
うっすらと額に汗が滲む。ほんのわずかでも出力を誤れば回路全体がショートし、この区画一帯が汚染水で満たされる。絶え間ない水音の中で、自身の心音だけがやけに大きく聞こえるような、神経をすり減らす作業が続いた。
数分の沈黙の後、シリンダーから発せられていた微かな異音がスッと消え、魔力光が清浄な淡い青色に安定する。
「終わりましたか、筆頭」
背後からかけられた声に振り返ると、宮廷から使いに出されたらしい文官が立っていた。地下の悪臭に顔をしかめ、香水の染み込んだ高級な絹のハンカチで鼻を覆っている。
「ああ。第三区と第四区の浄水ラインはこれでひとまず安定する。……何か用か?」
尋ねると、文官はハンカチ越しにくぐもった声で答えた。
「ヴァレリウス大臣がお呼びです。至急、上層の執務室へ向かうようにとのこと」
手元の調整針を腰のツールポーチにしまい、油と泥で汚れた作業用の前掛けをゆっくりと外す。大臣からの直接の呼び出し。心当たりはいくつかあるが、どれも技術的な相談ではなく、政治絡みのろくでもないものばかりだ。
「分かった。すぐに行く」
道具の重みを感じながら、アルドは長く薄暗い地下階段を上り始めた。
★★★★★★★★★★★
王宮の上層にある、ヴァレリウス大臣の執務室。床には足が沈み込むほどの毛足の長い絨毯が敷かれ、壁には歴代の将軍や大魔導師たちを讃える色鮮やかな絵画が所狭しと飾られている。
巨大なマホガニーのデスクの向こうでは、豪奢なローブを着込んだヴァレリウスが不機嫌そうに書類を束ねていた。
一歩足を踏み入れた瞬間、アルドはわずかに眉をひそめた。室内の温度が高すぎる。壁に埋め込まれた空調用の魔導石が、出力過多で熱を持ち始めているのだ。魔力供給のバイパスが目詰まりを起こし、無駄に熱を逃がしている。
「アルド・アークライト。お前を本日付で、宮廷魔導工学師の任から解く」
挨拶もそこそこに、ヴァレリウスは一枚の羊皮紙を机に投げ出した。
歩み寄り、羊皮紙を手に取る。書かれているのは間違いなく解任通知だった。
「……理由はなんでしょうか」
「予算の無駄だからだ」
ヴァレリウスは吐き捨てるように言った。
「軍部からの突き上げがうるさいのだ。今求められているのは、前線で火の玉を派手にぶっ放せる奴らだけだ。地下に潜って泥水や配管を弄るだけの裏方に、これ以上予算も人員も割けん」
「……第三区と第四区の浄化結界は限界が近いです。定期的な出力調整を怠れば、一ヶ月以内にシリンダーが破綻しますよ」
事実に基づいた実務的な警告だったが、ヴァレリウスは鼻で笑ってそれを遮った。
「大げさなことを言うな。結界など、手の空いている者に魔力を注ぎ込ませれば済む話だ。お前のように攻撃魔法の一つも満足に使えん者が、筆頭という高給取りの座に居座っていること自体が問題なのだよ。インフラの維持など、魔力さえあれば誰にでもできる」
誰にでもできる。
それが、この国の支配層の共通認識だった。スイッチを押せば清らかな水が出て、真冬でも部屋が暖まることを、彼らは無尽蔵な魔法の恩恵だと信じて疑わない。
その裏で、老朽化した配管の魔力抵抗値を計算し、数ミリのズレも許されない回路を誰が徹夜で調整しているのか。そのためにどれほどの繊細な技術が要求されるのか。
言葉を尽くしたところで、根本的な理解を得ることは不可能だ。
アルドは小さく息を吐き出し、やや乱暴に後頭部を掻いた。怒りというより、底なしの徒労感。この数年間、見栄えだけの無駄な装飾を要求され、予算不足の中で継ぎ接ぎの修理を続けてきたことへの諦念が、どっと肩にのしかかる。
沈黙の後、内ポケットから万年筆を取り出し、解任通知書へサインをした。
「承知しました。それで、私の次の赴任先は」
「辺境だ。西の果てにある『デッドランド』。あそこの領主に任命してやる。土いじりが好きな貴様には、お似合いの場所だろう」
デッドランド。魔獣が徘徊し、草木もまともに育たない死の荒野。表向きは新たな領主への任命だが、誰の目から見ても実質的な流刑宣言に等しい。
「……ありがたくお受けします。では、荷物をまとめますので、これで」
短く頭を下げ、踵を返す。執務室を出る間際、背後から「せいぜい泥水でも啜って生き延びるのだな」という押し殺したような嘲笑が聞こえたが、歩みを止める理由はどこにもなかった。
★★★★★★★★★★★
自身の狭い工房に戻ると、手際よく荷造りを始めた。
宮廷魔導師としての豪奢だがひどく動きにくい制服は、躊躇いなく椅子の背に投げ捨てる。代わりに、長年愛用している着慣れたレザージャケットを羽織り、丈夫でポケットの多いワークパンツに足を突っ込んだ。
持っていくのは、着替えとわずかな生活費、そして何よりも大切な道具だけだ。
魔力の流れを可視化する特殊なレンズ、魔力伝導率の極めて低い竜骨製のレンチ、様々な形状の調整針、手入れの行き届いた計測器。これらさえあれば、どこででも仕事ができる。丁寧に油を拭き取り、一つずつ厚手の革製ロールケースに収めていく。それらをすべて、年季の入った巨大な背嚢へと詰め込んだ。
ふと、机の上に広げたままになっていた大判の羊皮紙が目に入る。
王都の上下水道の抜本的な改良設計図。完成までに五年の歳月を費やした構想。今の腐りかけた配管をすべて引き直し、魔力効率を劇的に向上させるためのプランだ。
数秒間その図面を見つめ、やがて丸めて部屋の隅のゴミ箱へ投げ捨てた。もう、自分には関係のないことだ。
無知な上層部の顔色をうかがいながら、予算の申請書を何十枚も書く日々は今日ですべて終わった。
ずっしりと重い背嚢を肩に担ぎ上げる。辺境のデッドランド。何もないゼロの土地。
誰にも邪魔されず、自分の思い通りに土を弄り、研究ができる。腹の底から静かな熱が湧き上がってくるのを感じながら、アルドは工房の扉を静かに閉めた。
★★★★★★★★★★★
それから数週間後。
乗合馬車を幾度か乗り継ぎ、最後は悪路に強い荷馬車を相場の倍の金で雇ったアルドは、ついに目的の地に足を踏み入れていた。
「悪いな、旦那。俺が行けるのはここまでだ。この先は魔獣の領域だ。いくら金を積まれても、命がいくつあっても足りねえよ」
「構わない。ここまで運んでくれただけでも十分助かった。これは追加の礼だ」
怯える御者に銀貨を弾んでやり、馬車から降りる。銀貨を受け取った御者は、逃げるように来た道を引き返していった。車輪の音が遠ざかると、周囲には風の音だけが残る。
吹き荒れる乾燥した風が、黒髪と無精髭を撫でた。見渡す限りの赤茶けた大地。点在する風化した岩山と、どこまでも続くひび割れた荒野。空は重苦しい鉛色に淀み、生命の気配はひどく希薄だ。
「これがデッドランドか。確かに、表の植物は全滅しているな」
背嚢を下ろすと、その場にしゃがみ込み、ひび割れた地面の土を深く一掴み取った。厚い指の腹で土を擦り合わせ、感触と匂いを確認する。
パサパサに乾いた土の粒子。有機物の匂いは全くしない。目を閉じ、微弱な魔力を指先から地面へと通した。自らの魔力をソナーのように使い、土壌の成分と地脈の深さを読み取っていく。
「表層の水分量は絶望的だ。だが、鉱物資源の反応は悪くない。魔力脈は……かなり深く潜っているが、完全に枯渇しているわけじゃない。土壌の組成を根本から変えて、地下深くから大規模な灌漑設備で水を引き上げれば、十分に化ける」
どこに水源を確保し、どうやって土を耕すか。どんな資材で家を建て、どうやって熱を循環させるか。技術者としての思考が高速で回り始める。失敗すれば死に直結する過酷な環境だが、一から自分の手でインフラを構築できるという事実は、純粋な技術的欲求をひどく刺激した。
「まずは拠点となる場所と、当面の雨風を凌げる場所だな」
立ち上がり、背嚢を背負い直して空を見上げる。
ポツリ、と冷たいものが頬に当たった。
鉛色の雲がさらに重く垂れ込め、大粒の雨が落ち始めている。手の甲に落ちた雨滴を見て、短く舌打ちをした。肌に触れた部分がピリピリと痛む。魔力異常を含んだ酸性の雨だ。このまま長時間打たれれば、皮膚が爛れ、体温を急激に奪われる。
「本格的に降る前に、どこかへ入らないと」
目を細めて周囲を見渡し、数キロ先にある小高い岩山に、黒くポッカリと空いた横穴を見つけた。洞窟だろうか。少なくとも雨よけにはなるはずだ。
風が強まり、雨足が次第に激しくなっていく中、長い脚を動かし、その横穴を目指して足早に歩き出す。
岩山に辿り着き、暗い横穴の入り口へ滑り込む。雨風の音は急激に遠のいた。
肩の雨粒を払いながら奥へと目を凝らす。入り口こそただの洞窟に見えたが、数歩進んだところで、足元の感触が変わった。
ブーツの底が、土や岩ではなく、硬質で滑らかな「何か」を叩く音が響く。
壁に触れると、自然の岩肌にはあり得ない、冷たく均一な質感が手のひらに伝わってきた。微かに鼻をつくのは、カビや獣の匂いではない。古い金属と、オゾンのような無機質な匂いだ。
アルドは微かに目を細めた。
奥へと続く深い闇の底で、何かの計器のような光が、音もなく明滅したような気がした。




