猫路地さんの、いるところ3
「カンブリア紀っていつごろ?」
奴はいつものように、そう言った。
豪雨。
それもクラスメイトの雑踏どころか、私の思考をかき乱すほどのつよい雨だった。
帰りを急ぐ人たちの半分は、少しでも雨雲から逃れようと早足で、もう半分は諦めように足取りが重い。
かく言う私は、そんな人たちを2階の窓から眺めていた。
強い雨は決して嫌ではない。
確かに、薄い制服に染み込んで重くなる感覚は良いものではないし、一気に不快指数を増すローファーも好ましくはない。
では何が好きなのかというと、そんな苦難を乗り越えてたどり着いた家で、湯船に体を沈めるのが好き。
少しぬるめのお湯に浸かって、目をつむるのだ。
そうして窓の隙間から聞こえる雨音を聞きながら、左右にゆっくり体をゆすって浴槽に小さな波を立てる。
自然にできた揺らぎに乗って、私は小さな海をたゆたう。
岸から離れた海の真ん中、ぽつんと一人浮かぶ気分は、太古の海に体を預けているような感覚。
静かで、心地良い。
そこが好き。
今日の雨は、ちょうどそんな心地を思い出させる機会だななんて思っていたところに、うるさい猫路地は図ったように現れた。
「猫路地としては安土桃山の2個前くらいだと思うんだけど。どう?斎岡さん」
「んなわけあるか」
「こう、ね?カンブリア土器に身を包んだカンブリア武将が、マスケット銃で敵をばったばったと殴るのだよ」
「君の歴史感はどこから来たんだ?」
「カンブリア紀から?」
「カンブリア期に謝れ」
「ごめんちゃい」
素直に謝るアホ猫は、頭を上げるといつもの席に腰掛ける。
この豪雨で濡れたのか、いつもの黒いソックスは履いていなかった。
かわりに薄手で黄色地、赤やピンクの花柄の靴下を身に着けていて、奇想天外な猫路地には何だか似合わない、素直な可愛さだと思った。
「でさ、斎岡さん。カンブリア期って何者なの?」
彼女の問いに、すぐの答えは出ない。
私は歴史に関しては授業レベルでは理解がある方だとは思う。けれども、そんな古い世代の事は詳しくはない。
ここは素直に検索窓へ奴の疑問をたたき込む。
『カンブリア紀』
それは約5億年前。
古生代の最初の地質時代で、生物の多様化が起こって、三葉虫、アノマロカリスなんていう、どこかで見聞きした多様な動物が繁栄した時代。らしい。
ネットの力って偉大。
「は〜、そんなに昔なのか。猫路地はまた賢くなったよ」
「それはよかった」
「その時代に人間っていたの?」
「いるわけねえだろ」
アホの好奇心は留まるところを知らない。
「人間はいないのか。じゃあさ斎岡さん、もしもカンブリア期に生まれてたらどうする?」
「それは人間として?」
「うん」
「人間としてねぇ...」
私はそんなアホクエスチョンに、なぜか真面目に思考を巡らせた。
文明もない古生代に何かを求めるのも違うかもしれないが、不思議とカンブリア紀の情景があやふやながらに脳裏に浮かぶ。
「...なんか捕まえるとか?」
「捕まえてどうするの?」
「......売る?」
「カンブリア期でカンブリア期の生き物売っても売れないんじゃないかと思うよ、猫路地は」
「現代に戻って売れよ」
「具体的に何売るの?」
「...アノマロカリスとか?」
「あー、エビみたいなやつだっけ?おいしいのかな?」
「食うな。研究対象として見ろ」
「他には?」
「オパビニア」
「持ち手のあるシャコみたいなのだっけ?......寿司?」
「握るな」
古い生物も猫路地にかかれば江戸前寿司と変わらない。
海洋生物に対する杜撰な態度が手に取るように分かる。
でも確かに、味はどうなのかと聞かれたら、気にならないこともない。
...あの見た目じゃ率先して食いたくはないけれど。
なんて思っていたところで、奴はひとつ提案をした。
「ねえ斎岡さん。ハルキゲニアとかいいんじゃないかな?」
「ハルキゲニア?」
馴染みのない名前に首を傾げた。
「細切れうどんに沢山の足とトゲをつけたやつ」
「よくそれで寿司を作ろうと思ったな」
「寿司じゃないよ。売る方だよ」
「ああ、そっち...」
少しばかり気恥ずかしくなって、奴から顔を背けてスマホを触る。
ハルキゲニアと調べて出てきた画像には、たいそう気持ちの悪い、世界のバグかとすら思える姿があった。
「うわ、キモ。なにこいつ」
「いいでしょ、ハルキゲニア。猫路地もお気に入り」
「キモって言ったんだけど?」
「うどんのように細長い体、14本も生えた足、意味のないトゲトゲ。サイズはお手頃3cmで最高にクールでしょ」
「どこが?」
このアホの感覚は、ちっとも理解できない。
そんな生き物に学術的以外に何か価値があるのかと聞かれたら、ギリギリ観賞用くらいしか思いつかない。
「それとね、猫路地ポイントが高い部分がもうひとつあってね」
「おう」
「この人、ずっと反対向きだと思われていたらしいのだよ」
「反対向き?」
「そう反対向き」
「それは、前後が?」
「そうそう前後が」
「ほーん」
「つまり肛門突き出して歩いてたってことだね」
「肛門とか言うなや」
「そんな空想レベルの不思議生物、猫路地は一回くらいは飼ってやってもいいかなって思う」
「ずいぶん上から目線だな」
「カンブリア紀の生物に、この時代の水道水の甘みを教えてやろうとね」
「甘みあるか?水道水に」
私の問いに答えることもなく、奴はリュックサックからお菓子の袋を取り出した。
珍しく大袋でなく小分けされたそれは、透明なビニールに包まれてキラキラと輝いている。
見ているだけでも美味しいそれは、琥珀糖。
投げ渡されたそれを、両手でキャッチする。
ピンク、キイロ、ミドリ、アオ。
薄らとついた色とりどりが、雨雲に遮られた微かな陽光に透ける。
その澄んだカラーに、何か甘みのない甘みが記憶の奥底から手繰り寄せられた。
それはちょうど、幼い頃に手にしたアクリルでできた石だった。
縁日の宝石すくいなんかで手に入れた、アレである。
薄紅、橙、翡翠、藍。
人工的な色合いを思い起こすと、その奥から染み出すように、あの日、口に入れたくなった衝動が湧いて出た。
これが食べられたら、と幾度となく思った。
程よい硬さの内部はちょうどいい弾力があって、サクリサクリといくつでも頬張れる甘さがあるのだろうと、そんな幸せを噛み締められたらと何度も考えた。
けれども今は、口にいれるのがもったいない。
「ねえ、斎岡さん」
「ん?」
甘美な宝石に見とれているうちに、猫路地はスマホをいじっていた。
「ハルキゲニアが前後逆だったって言ったじゃん?」
「おう」
「なんかね、上下も逆だったらしい」
「ほぉん、そりゃ天地がひっくり返る思いだろうな」
「つまりはブリッジしながら肛門突出してたってことだね」
「肛門とか言うなって」
「肛門からご飯食べてたのかな?」
「ハルキゲニア自身は口の位置分かってるし、肛門は肛門の役割果たしてるだろ」
「そっか、たしかに。客観的に見ないとね。
斎岡さんが自分の肛門の位置理解してるのと一緒か」
「なぜ私を例えに出した」
「斎岡さんの肛門の位置って...」
「だからあんまり肛門肛門いうなっつーの」
琥珀糖の幻想的な色使いと真逆の彼女に、思わず私は笑ってしまった。
袋を破り、宝石をひとつ手に取った。
薄いミドリに透けたそれは、雲の広がる空への一抹の清涼感を感じさせる。
そのうえ、涼し気なだけでなくて温かみも内包していた。
その温かさは草木だったり、木漏れ日の色合いとはまた違う。
海だ。
海の色だ。
決して、人がわんさかいるような海岸線ではい。
もっと遠く、柔らかな波が行き来する、陸の場所さえ分からない海の真ん中だ。
暖かくて、優しくて、何も考えなくてもよいところ。
それはきっとずっとずっと古い時代の、誰もいない広い場所。
雑踏もノイズも、思考を乱すものは何もない。
もしも私がそんな時代にいたのなら、ひとりじめしたミドリに浮かんで、うつらうつらと船を漕ぐことだろう。
そんな想像をかきたてる色をしていた。
「ねえ斎岡さん。ハルキゲニアって夢見心地って言葉が由来らしいんよ」
「ふーん...」
「肛門なのにね」
「そこから離れろ」
「夢見ごこちのカンブリア。猫路地はこれがオシャレ小説のタイトルみたいだと思ったよ」
「そっちの方が幾分かマシだな」
「カンブリア紀の広大な海を行くハルキゲニア。彼がどんな世界を見ていたのでしょうか!」
夢見心地のカンブリア。
今の私にはちょうどいいかもしれない。
暖かな海、口に入れられなかった宝石、雨音、そしてこの雑音。
ひとつ欠けただけも、きっと何処か調子が狂う。ひとつ多すぎてもきっと、歯車は狂う。
そんなふうに、なぜかちょうど良くなっていた。
それでも欲張りな私は一投、海の欠片を口に放り込む。
砂糖の結晶が舌に触れて、噛む度に寒天の心地よさが広がる。
それは、あの時想像した宝石のままだった。
過去の私は大層羨ましがるだろうが、今の私もそれは同じ。
毎日毎日、君は豪雨のあとに小さな船で揺蕩う、そんな、夢見心地だったのだろうから。
ハルキゲニアは大きな海で何をしていたのだろうか。
前も後も上下さえも分からない彼は、時代の波に揉まれて消えていった。
それは私も同じだろうか?
小さな波を立てることを、ミドリの海を忘れてしまうときが来るだろうか?
振りしきる雨を、ただ嫌なものと感じてしまう日が来るのだろうか?
未来のことは、あまり分からない。
けれども私のカンブリア紀には、土器を身にまとい、マスケット銃を鈍器として使うアホがいたことだけ忘れられないことだろう。
だから、
「さあね」
と、それだけを答えた。
今日も家に帰れば、大層小さな船にのり、ミドリの海に漕ぎ出して。
あまり分からない未来を思い、変わらない日々を望んで、船は行く。
幸いなことに、雨はまだ止みそうにない。
「で、斎岡さんの肛門ってさ」
「もういいから」
うるさい音も、まだ消えない。




