幕間 SAVE POINT:未選択肢 μ ――選ばれなかった道が、まだそこにある――
最初を少し変えただけで、世界は静かに軋み始めた。
ログに残らない分岐は、消えたわけじゃない。
今回は、誰にも選ばれなかった“もうひとつの夜”の話です。
深夜の《るすと》は、昼よりも音が少ない。
笑い声も、ジョッキのぶつかる音も、クエスト帰りの足音も消えたあとの酒場は、別の場所みたいに静かになる。
ランタンの火だけがゆらゆらと揺れて、木のカウンターに長い影を落としていた。
俺はその光景を、少し離れた席からぼんやり眺めていた。
頭は重い。
身体もだるい。
けれど、疲労だけじゃない。
胸の奥に、妙な引っ掛かりが残っている。
最初の強制ダイブだけは止めろ。
そこだけは、はっきりしていた。
そのために俺は、ギルマスに聞いた。
クエストの別の受け方はあるか、と。
そして、あの最初の流れを変えた。
たったそれだけのはずなのに、世界の表面が、ほんの少しだけ違って見える。
「……お姉ちゃん」
カウンター奥で、ミツキの声がした。
「うん。分かってる」
返したのはイツキだ。
双子の受付嬢の姉妹は、閉店後の帳簿整理をしていた。
ぱらり。
紙をめくる音が、夜の酒場には妙に大きく響く。
「何か、おかしい?」
ミツキが小声で言う。
「おかしいよ」
イツキはあっさり答えた。
「ただし、“間違ってる”んじゃなくて、“合わない”」
「合わない?」
「使用マナ量、ボード反応、入口の開閉ログ、補助処理の微増……数字だけなら、今夜は一回、初回クエストに近い流れが走りかけてる」
そこでイツキの指が止まる。
「なのに、受注記録がない」
「え?」
「失敗ログもない。キャンセルログも薄い。
でも、始まりかけた数値だけ残ってる」
ミツキが帳簿をのぞき込み、困ったように眉を寄せた。
「……始まったのに、始まってない、みたいな?」
「近いね」
イツキは面白がるでもなく、怖がるでもなく、ただ淡々と告げた。
「“始まる前に、枝だけ折れた”みたいな数字」
その言葉に、俺の喉が少しだけ詰まる。
枝。
その言い方が、妙に引っかかった。
「煮直した鍋の匂いがするのう」
いつの間にか、カウンター端のスツールにフー子が座っていた。
煙を細く吐きながら、いつもの気の抜けた顔でこちらを見てもいない。
なのに、言葉だけは妙に核心を舐めていく。
「わっ……フー子さん、いたんですか」
ミツキが肩を跳ねさせる。
「おるよ。最初からの」
フー子はくくっと喉で笑った。
「おぬしらが気づくより、鼻が先に気づいただけじゃ」
「帳簿を見なくて分かるの?」
イツキが訊く。
「見んでも分かる。
同じ夜をもういっぺん火にかけたくせに、底の味だけ違う」
「同じ夜……?」
「正しくは、“同じになるはずじゃった夜”かえ」
フー子が紫煙をふっと吐き出した。
「誰かが、選ばんかった枝を捨てきれずに残した」
ぞわ、と腕に鳥肌が立つ。
俺はまだ何も言っていない。
何も説明していない。
なのに、この魔女は、最初から全部分かっているような顔をする。
「残した、か」
イツキが帳簿を閉じる。
「捨てたつもりでも、残るもんは残る。ことに――」
フー子が、ようやくこちらへ視線を向けた。
「選ばれなんだ可能性っちゅうのは、後からよく腐る」
その目は、からかっているようでいて、少しも笑っていなかった。
俺は視線を逸らすように、椅子の背にもたれる。
だるい。
いや、違う。
眠い、のか。
「マスター、顔色わるいよ?」
ミツキが心配そうに言う。
「ちょっとだけ、休む」
「そうしとき。今のおぬし、思ってるより“揺れてる”ぞ」
フー子のその言葉に、返事はしなかった。
返したくなかった。
揺れている。
それは自分でも分かっている。
止めた。
変えた。
あの最初だけは、前と違う始まり方を選んだ。
なのに、助かった感じがしない。
椅子に深く座り直し、目を閉じる。
少しだけ。
ほんの少しだけ休めば、頭も整理できるはずだ。
暗闇の裏に、薄いHUDが浮かぶ。
《フメイノ残留ノイズ、検出》
ルステラの機械じみた声が、耳の奥で鳴った。
《系統照合中……》
数秒の沈黙。
《……ショウゴウ不能》
「照合不能?」
目は閉じたまま、俺は小さく呟く。
《管理系統外ノ可能性》
《オススメしません》
「お前が分からないものを、俺に分かれってか……」
《ネムルコトヲ推奨シマス》
「雑だな、おい……」
言い終える前に、足場が抜けた。
眠りに落ちた、とは少し違う。
意識そのものが、椅子から滑り落ちるみたいに、すとん、と沈んだ。
◇
音が、ない。
目を開けたはずなのに、最初に分かったのは静けさだった。
白い演算光ではない。
黒い闇でもない。
紫がかった黒。
それとも、黒く沈んだ紫か。
上も下も曖昧な空間に、俺だけが立っている。
「……なんだ、ここ」
声は吸われるように薄く消えた。
HUDだけがやけに鮮明だ。
《観測対象外領域:仮固定》
《未選択分岐:保持》
《最適化未承認》
《削除待機ログ:隔離》
「未選択、分岐……?」
意味が分かるようで、分からない。
その瞬間、空間がぴしりと割れた。
いや、割れたように見えた。
目の前に、一つの光景が差し込まれる。
ギルドの夜。
クエストボード。
ギルマスの声。
『ほらよ、新人。最初は黙って潜れ』
知っている。
いや、知っていたはずの流れだ。
《WORLD LOAD》
《接続安定》
《代替損耗:発生》
視界の端で、誰かの影がよろめいた。
声がする。
けれど、その顔だけが見えない。
「誰だ、今の……!」
答えが来る前に、光景は砕けた。
次の断片。
『受けない。絶対にだ』
それは、俺自身の声だった。
ギルマスでも、酒場でもない。
もっと無理やりに拒絶した何か。
そのあとに、別の足音。
『え、俺……?』
《補充受注者:仮登録》
《危険割当:再計算》
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
「……俺が避けたぶん、誰かに流れたのか」
また砕ける。
三つ目の断片。
クエストボード横。
ギルマスの口元が、少しだけ上がる。
『――お前が“前と違う始まり方”を選んだんならな』
それは、ついさっき聞いたばかりの言葉だった。
俺はたしかに、あの夜を少しズラした。
たった一枚。
たった最初の受け方。
それだけのはずなのに。
《初期処理:逸脱》
《主経路:再計算》
《観測外反応:発生》
「観測外……?」
ぞっ、とした。
今度は光景の向こう側から、何かがこちらを見た。
目。
そうとしか呼べない気配。
姿も輪郭も曖昧なのに、見られている感覚だけが、はっきりとあった。
「……誰だ」
黒紫の向こうに、揺らぎが立つ。
人影、に近い。
けれど、人間の輪郭としてはどこか足りない。
肩の後ろに垂れた何か。
空っぽの袋みたいな影。
角のような、折れた枝のような線。
「これを見せたのは、お前か」
数拍遅れて、声が返ってきた。
男でも、女でもない。
冷たいのに、妙に近い。
『見せた、というより――隠さなかった、が近い』
「何が目的だ」
『目的?』
声が、少しだけ笑った気がした。
『そんな綺麗なものじゃない』
揺らぎが一歩、こちらへ近づく。
『私は助けない』
その一言で、空間の温度がさらに下がる。
『すべての可能性を見せるだけだ』
「助けない、だと」
『救いを欲しがるのは、お前たちの癖だ。
正解を欲しがるのは、管理者の癖だ』
「管理者……?」
『ひとつを選べば、他は死んだことになる。そう扱うのは、父の流儀だ』
「父? 何を言ってる――」
『だが、死んでいない』
声は淡々としている。
怒りも、慈悲もない。
『選ばれなかっただけの未来は、まだ残る』
背筋が冷える。
こいつは、さっきの三つを“未来”と言ったのか。
「それで、俺に見せたのか」
『お前が選んだからだ』
「……何を」
『ひとつズラした。
与えられた始まり方ではなく、自分で始まりを選んだ』
揺らぎの奥、二つの光が一瞬だけ覗いた。
眼光、に見えた。
『だから、お前は見える側に片足を入れた』
「ふざけるな」
思わず声が荒くなる。
「見せられたところで、答えがないなら意味がないだろ」
『あるさ』
そいつは即答した。
『選ぶ痛みを、自分のものとして引き受けられる』
「それのどこが救いだ」
『救いではない』
少しの間。
『だから私は、助けない』
次の瞬間、胸に鈍い痛みが走った。
「っ……!」
息が詰まる。
知らない感情が、一気に流れ込んできた。
間に合わなかった焦り。
見捨てたような後悔。
掴めたはずの何かを落とした喪失感。
「ぐ、ぁ……!」
膝が折れる。
選んでいない。
俺は、その未来を選んでいないはずだ。
なのに、感情だけが本物みたいに胸を抉る。
『それは、お前のものじゃない』
揺らぎが見下ろしている。
『だが、お前が見なかったものだ』
「知らない……!」
吐き捨てるように叫ぶ。
「こんな感情、俺は知らないはずだ……!」
『選ばなかった未来にも、感情はある』
「黙れ!」
『黙らない』
冷たい。
だが、突き放すだけではない。
それが余計に質が悪かった。
『消されるだけなら、せめて一度は見届けろ』
その言葉が、胸の奥に棘みたいに刺さる。
見届けろ。
ふざけるな。
そんなものを見せられて、どうしろっていうんだ。
「待て……!」
空間がほどけ始める。
黒紫の揺らぎが、霧みたいに薄くなる。
「せめて、名前を――」
消えかけたそれが、ほんの少しだけ振り返ったように見えた。
『名は、必要か?』
「……必要だ」
短い沈黙。
『なら、今はこれでいい』
HUDの中央に、一文字だけが浮かぶ。
《μ》
『読めるようになったら、また会う』
そこで、全部が砕けた。
◇
「……っ!」
がばりと身体を起こす。
見慣れた酒場の天井。
ランタンの光。
木の匂い。
《るすと》だ。
夢――。
そう片づけようとして、すぐに無理だと分かった。
後味が悪すぎる。
胸の奥に残った喪失感が、生々しすぎた。
《フメイノ残留ノイズ、継続》
《情動残滓:高》
《SAN低下ヲ確認》
「勘弁してくれ……」
額を押さえながら立ち上がる。
寝ている間に、全身から汗が噴き出していたようで、着ていたTシャツはびっしょりと濡れていた。
カウンターのほうでは、イツキとミツキがまだ帳簿を見ている。
「へえ」
イツキが小さく声を漏らす。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
「これ、書いた覚えないんだけど」
帳簿の端を見て、俺は息を止めた。
小さな記号。
枝分かれした線にも見える。
だが、俺にはもう、それが別のものにしか見えない。
《μ》
「……何だ、それ」
俺の声が思ったより低く出た。
ミツキが首をかしげる。
「文字、なのかな……?」
「文字とは限らんよ」
フー子がまた煙を吐く。
さっきと同じ席。
まるで、最初から全部見ていたみたいな顔で。
「正解をくれん奴の置き土産じゃ」
「は?」
「助けてはくれん。じゃが、見せるだけ見せて帰る」
フー子の目が細くなる。
「そういう手合いは、あとでいちばん効く」
俺は帳簿の端の記号を見つめる。
夢じゃない。
少なくとも、ただの夢ではない。
助けない。
すべての可能性を見せるだけだ。
そんなものを見せられて、どうしろっていうんだ。
――けれど。
見せられてしまった以上、もう“知らなかった”とは言えない。
選ばなかった未来は、消えたんじゃない。
まだ、こちらを見ている。
■今回の登場人物
・マスター(NO NAME)
最初の強制ダイブだけは止めるべき、という主記憶を頼りに初手を変えた主人公。今回は“選ばなかった未来”の感情だけを見せられることになる。
・イツキ
双子受付嬢の姉。帳簿とログのズレに最初に気づく、合理主義寄りの観測者。
・ミツキ
双子受付嬢の妹。数字より空気で異変を感じ取る共感型。今夜の《るすと》の“味の違い”を直感的に受け取っている。
・フー子
風来の魔女。匂いと勘で、世界のズレを先に嗅ぎつける側。今回も核心だけを濁して置いていく。
・ルステラ
マスターの視界に補助ログを出すAI存在。今回は“管理系統外”の何かを検知するが、照合できない。
・μ
まだ正体不明。助けず、正解も与えず、ただ“すべての可能性を見せるだけ”の何か。




