第8話 テスト期間
テスト期間は思っていたよりもすぐにやってきた。
早い段階でテスト勉強に取り組んでいた悠生とヒロイン格たち以外のクラスメイトは、表情に焦りや絶望といった負の感情を滲ませていた。
正直、僕もちょっとヤバい。数学と理科あたりが特に。
現実に向き合いたくなさすぎて執筆に逃げていたが、テストまであと一週間。
成績優秀な桜井や藤浪に助けを乞い赤点回避に奔走する生徒も出はじめて、自分も取り掛からねばと立ち上がった。
「無理……やりたくない……無理ぃ……」
自室には僕の念仏でも唱えているような声とシャーペンを動かす音がするのみ。
無理、やりたくないと繰り返しながらワークに取り組み始めてどれくらい経ったのか。
午前も集中力が切れるたびにこんな調子だった。
土曜日である今日を含めると、テスト期間まで残り四日。
なんとかワークはどれも一周はできたものの、それだけで覚えられるはずもなく。
得意とまではいかずとも、比較的解きやすい国語と社会を集中してやることにした。
理数は……赤点さえ取らなければいいというほぼ諦めの気持ちでいる。
だいぶ頭が回らなくなり、一旦休憩することにした。
ちょうど空になったマグカップを持って一階のキッチンへ降りる。中身はインスタントコーヒーに砂糖と牛乳を混ぜた、カフェオレっぽいものだ。
コーヒーの粉と砂糖に水をマグカップの半分ほど注ぎ、レンジで一分半温めたあと牛乳を入れて軽く混ぜたら完成。小四の頃に試したものなので、分量は適当だ。
レンジを使っていると、二階から降りてきた伊吹がやってきた。
その手には僕と色違いのシンプルなマグカップ。僕がグレー、伊吹が紺色だ。
「あれ作ってるの?」
「そう。 伊吹も飲む?」
無言で差し出されたマグカップを受け取り、伊吹の分も作ってやる。
そうしていると昔のことを思い出し、つい声が漏れる。
「……ふふ」
「え、何」
「いや、伊吹が初めてコーヒー飲んだ時のこと思い出した。 小二の時だっけ、母さんが飲んでるの見て、飲んでみたいって言ってさ」
「………」
「一口飲んだ時のお前、すごい顔して……っ、ふ、はははっ」
「……小四でブラックいける兄さんが異常なんだよ。 あの頃の俺の反応は小学生の味覚として正しい、断じて間違ってない」
笑いを堪えきれない僕に伊吹がスンッと無表情になる。
瞳を潤ませながら「なんであさにい飲めるの……」と言ってきた伊吹は可愛かった。同時に弟だけ飲めないのは可哀想だったので、このカフェオレもどきを作ったところ大層喜ばれた。
不機嫌になってしまった伊吹にカフェオレもどきの入ったマグカップを渡す。
むすっとした声で「ありがとう」を言うと、さっさと二階に上がってしまった。
笑いすぎたかもと反省しつつ、自分のマグカップを傾ける。
……うん、美味しい。適当に混ぜただけにしては。
弟の可愛いエピソードを振り返って、良い気分転換になった。
よし、もうちょっとがんば––––。
「テスト終わったらあそこ付き合うって約束、破棄してもいいんだよ」
「笑いすぎました許して伊吹さん」
二階に行ったと思った伊吹がひょこりと顔を出し、意地悪く言ってくる伊吹。
非常に困るので心から謝罪した。
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階段をさっさと上がりながらため息をつく。
揶揄うつもりで言ったわけではないとわかってはいるが、ほんの少し気に入らない。
「まったくあの人は……」
自室のドアを閉めてから、彼––––川辺伊吹は呟いた。
椅子に腰掛け、兄が作ってくれたカフェオレもどきを一口飲む。
まだ温かくて甘くて、ほんのり苦い。甘さが濃いめなのは、これが弟の好みだと知っているからだろう。兄はもともとブラックもいける口だから、自分のものは砂糖を少なめにしているはずだ。
「……やっぱりちょっと腹立つな」
そうは言いつつも伊吹の表情は柔らかい。
初めから本気で怒っているわけではないのだ。
小学四年生にしてブラックコーヒーが飲める麻人が、弟である自分より幾分か大人に見えたのを誤魔化すために、軽い脅しをかけただけ。あの約束を破るつもりもさらさらない。
数日前に交わした兄との約束は、伊吹自身も楽しみにしている事柄であるのだから。
勉強机の上には家族共同用のパソコン。
画面に映っているのは小説投稿サイト「モノカキ」の、麻人のマイページ。兄がこっそり書き溜めている下書きのひとつだ。
伊吹は麻人の小説を読み返している途中だった。彼の中学校でも近々テストがあるが、普段から勉学に励んでいるのでこうして余裕を保つことができている。
作品数は少なめで、どのジャンルもラブコメばかり。
しかし、兄の作品を追う伊吹の手は止まらなかった。
「面白いんだよな……」
短編ばかりの頃は文章がまとまっていなかったり、誤字も多かったりと穴は多かった。それが今、連載形式で書いている作品を見ると文章の質も上がっており、誤字も少なく読みやすい。
ラブコメというジャンルで流行りの傾向にある要素のハーレム、ヤンデレなどはあまり見られず、ヒロインとの純愛または悲恋、ほっこりと心温まるものや切なく胸を締めつけるもの。キャラクターの心情を深く描写しており、実に兄らしいと伊吹は思った。
もう少し自信を持っていいのに、とも。
他者に冷たい印象を与える顔にゆるりとした笑みが浮かぶ。
まだこれらを投稿する勇気は持てない、と兄が言っていたことが思い出された伊吹の胸に湧き上がってくるものがあったからだ。
麻人が作品を公開しない限り、兄が形作る世界は弟である自分が独占できる。
そんな優越感が広がり、伊吹の笑みはより深まる。普段の彼を知る女子たちがここにいたのであれば、胸をときめかせていたことだろう。
いつから兄に対してこうなってしまったのか。
時折冷静になって身悶えしたくなる瞬間が伊吹にはある。手遅れであると理解もしている。
けれど兄は、麻人は、弟の言動がどんなに冷たくなろうがそばにいてくれるのだと、そう信じてやまない己が奥底にいるのだ。
コンコン、とドアがノックされる。
入っていいことを告げながら引き締めた表情をそちらに向ければ、麻人がそろっと顔を覗かせた。
「伊吹ー……。 まだ怒ってたりする?」
先ほどの脅しを気にしているらしい。
伊吹の振る舞いが家でもそっけなくなってから、麻人は弟との距離感を考えつつ接するようになった。伊吹の頭を撫でる回数も減り、幼い頃のように「いぶくん」と呼ばれることもなくなった。
「いつまでも引きずることとかしない。 兄さんは俺をどれだけ子供に見てるの」
「ええ? そんなつもりじゃなかったんだけど……」
「用それだけ? テスト勉強、進めないとヤバいって言ってなかった」
「まあ、気にしてないならいいや。 僕も笑いすぎてごめん」
兄の謝罪を最後にドアが閉められる。
伊吹はやや長めに息を吸い、額を勉強机の縁に打ちつけた。
ゴンッという鈍い音と共に眼鏡がずれる。
加減を誤ったせいでしばらく額の痛みを引きずりながら、伊吹は再び兄の物語を追うのだった。




