第5話 好み
翌日。
僕は伊吹と家を出て、途中で別れた。いつも一緒に出ているわけではなく、僕が早めに起きた時だけだ。
しっかり者の伊吹は必ずアラームの設定通りに起きるが、兄の僕はついつい遅くまでSNSを漁ったり小説の続きを考えたりしているので、複数設定したアラームが鳴っても寝ていることが多い。
「兄さんさ、なるべく早く寝るようにしたら? 高校あがる前からではあったけど、最近の寝る時間ますます遅くなってるだろ」
「ごもっともなんだよなあ……。 でも、夜のほうが執筆捗る時もあって」
「それぞれに合う時間があるんだろうし、無理に変えろとは言わないけどさ。 ……俺は毎朝こうならいいと思ってるよ」
後半をぼそりと言って別方向へ歩いていく伊吹を見送りながら、心の中で手を合わせる。
こんなだらしない兄ですまん、弟よ。
あくびを噛み殺しつつ登校し、まだ静けさのある教室でラノベを開く。
次第に人の声が増えていくのを感じながらページを捲った。
「おはよう、麻人」
顔を上げると悠生が立っていた。
今し方登校してきたのだろう。
ラノベを閉じて挨拶を返そうとする。
「おは––––」
「おはよう、一式くんっ。 川辺くんも」
朗らかな声と共に悠生の横に立ったのは桜井だった。
その腕には紙袋を抱えており、中からカサッと擦れ合うような音が聞こえた。
「お、おはよ、ございます……」
平時の声量が引っ込む僕とは反対に、悠生はいつも通り平坦な声で挨拶を返す。
「桜井、おはよう。 その紙袋はどうしたんだ?」
「これはね、クラスの皆に配ってるものなんだ。 二人にも……はいっ、どうぞ」
桜井が渡してくれたのは、透明な小袋に入ったカラフルなクッキー。
明るいピンクや水色、黄色といった可愛らしい色合いでデコレーションされている。アイシングクッキーって言うんだっけ。
周りを見やると、同じく桜井からもらったと思われる男子たちが袋を掲げ、喜びをあらわにしていた。
ちょっと泣いているクラスメイトもいるような。
「私甘いものが好きで、自分でもよく作るの。 あっ、手作り駄目だったら全然返却オッケーだから!」
「俺は平気だ。 麻人も大丈夫だったよな?」
「う、うん。 ……あの、桜井さんありが、とう」
「いいえ〜。 こちらこそ、もらってくれて嬉しいな」
ふわっと微笑む桜井。
告白すらまだな相手に対してとは思えないほど、感情のこもった台詞を口にした人間とは思えない。
悠生は綺麗にラッピングされたクッキーを見つめ、再び桜井のほうを向いた。
「すごいな、桜井は。 昨日の勉強会で教えてくれた問題の解き方もわかりやすかったし、料理もできるのか」
「そ、そんなに大したことじゃないよ〜。 あの問題の説明、実はあまり自信なかったし。 このクッキーも、味は私的に美味しくできたと思うんだけど……一式くんの好みに合うかどうかわからないまま作っちゃって」
もともと悠生のためだけにクッキーを作った、と捉えられる発言に聞こえた気がするのだが。
そんなことは微塵も考えていないであろう悠生は、その場で袋のラッピングを解きクッキーを口に運んだ。
数回口を動かしたあと、目を丸くする桜井に悠生が小さく笑いかける。
「……ん、美味しい。 甘さもちょうど良いな」
桜井の頬が赤く染まっていく。悠生を見つめる瞳はとろりとした蜜のようだ。
まるで少女漫画のワンシーン。
恋する美少女の破壊力は次元の壁をも超えるらしい。
そんな二人を見ているのは僕だけではなかった。
「なっ……なっ……!」
「理帆、どーどー」
肩を震わせる藤浪と、彼女を落ち着かせようとする織田が視界の端に映る。
昨日の今日で相手がすでに行動を起こしていれば、動揺もするだろう。藤浪も自分にチャンスは大いにあるような口ぶりだったし。
織田も悠生を狙っているはずだが、取り乱すようなそぶりは見られなかった。
経験豊富な織田からすれば焦るうちには入らないのかもしれない。
……それはそれとして、悠生と桜井はいつまで僕の席の前で話してるんだろう。クラスメイトたちも二人にちらちらと目を向け始めている。
目の前からはラブコメ成分を浴び、周りからこちらに集中しつつある視線を感じながら時間が過ぎるのを待つのだった。
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「川辺くん、ちょっといい?」
十分休憩中、ラノベの続きを読もうとしていた時だった。
桜井が話しかけてきたのだ。悠生ではなく僕に。
反射的に頷いた僕に桜井は近づき、口元を隠すように片手を添えた。
さらりとした髪から甘い香りが漂う。シャンプーの香りだろうか。
「一式くんの好きなお菓子って、何かわかる?」
「……え?」
小声で訊ねられた内容に瞬きする。
桜井は視線をちょっと彷徨わせてから、再び口を開いた。
「川辺くん、一式くんと仲良いから好みとかわかるんじゃないかなーって……。 今度また皆に作ってくる時の参考にもなるし」
絶対悠生の好み知りたいだけだろ……。
そんなことを言えるはずもないので、僕も小声で返答する。
「これが一番……っていうのは正直わからない、ですけど」
「うん」
「あ、あんまり好き嫌いはないから、たぶん何でも……あ。 悠生、チョコ系のお菓子わりと食べてたかも……です」
「チョコ系かあ……。 ならバレンタインもいけそ––––あっ、なんでもないよ!」
満足そうに笑って桜井は離れる。
「ありがと、川辺くんっ」
「い、いいえ……」
スキップでもしそうな足取りで桜井が席に戻っていくと、一気に脱力した。
び、びっくりした……。
桜井は誰に対しても気さくに接することができるのだから、悠生本人に聞くこともできたのではと一瞬思った。
きっとひとりの恋する少女としての気恥ずかしさが勝ったのだろう。
時計を見ると、休憩時間終了まで残り六分だった。
今度こそラノベの続きを……と本に手を伸ばしたところで、また声がかかった。
「麻人」
教室にいなかった悠生が僕のところにやってくる。
トイレに行って戻ってきたところなのだろう。
「さっき、桜井と何か話してた?」
「ああ……うん。 ちょっと聞きたいことがあるって言われて」
「何を聞かれたんだ?」
さっきのことをそのまま言うのは桜井も望んでいないだろう。
少し考えてから僕は言った。
「好きなお菓子何かあるかって。 今度作るやつの参考にしたいとかで、他の人にも聞いてまわってるらしいよ」
「……それだけ?」
「まあ、それだけ」
「……そうか。 ごめん、ちょっと気になっただけ」
そう言って悠生は自分の席へと戻っていった。
悠生の「気になった」というのは僕と桜井が話していたことが、を指しているのだろうか。
ひそひそ話すほどの内容が何なのかはたしかに気になるかもしれない。
……もしかして桜井ルートの兆しだったり、とか。
最近はよく話している……というより桜井が積極的に話しかけていて、晴れて友達になったのだし。
悠生にその自覚がなくとも、桜井への意識が芽生えていることはあり得る。
桜井の想いはなかなかの重量がありそうだから、付き合うことになった場合悠生が振り回されないか心配だけど。




