4-04 発気揚揚
人の気配が消えた街で、
三年ぶりに地上へ出た
元相撲エリートのひきこもりは
“声”に導かれる。
黒づくめのガスマスク集団に追われる八歳の少女。
かつて折れた矜持。震える体。
恐怖が限界に達した時、
――右足は自然と天へ。
四股は、災いを祓う神事である。
いざ、尋常に発気揚揚。
世界の土俵際の攻防が、今、始まる
『第5次世界大戦まで耐えられる』――そんなキャッチフレーズの地下シェルターが揺れる。
椿原大地が鉄砲をしているのだ。銃ではなく、相撲の稽古のそれである。引きこもりになってからも四股、鉄砲、すり足を一日たりとて欠かしたことはない。歯磨きと同じで、やらないと気持ちが悪いのだ。
LED照明が突然明滅した。
まだ寿命は遠いはず。それなのに、今日の反響音はいつもより大きい気がした。
大地は首を傾げた。その瞬間、口が勝手に動き、思いがけない言葉を吐き出した。
「……散歩でもするか」
虫の知らせのような衝動だった。食糧はまだ一ヶ月分ある。理由のない外出は三年ぶりだった。よれよれジャージにサンダルという着の身着のまま、フラフラと地上へと出る。
散歩に出てほどなく、大地は違和感を覚えた。
街が静かすぎる。
だが耳を澄ますと、隣の市にある空港から飛び立つ航空機の音は聞こえてくる。なぜかこの街だけが眠っているようだった。
最初はその静謐さを好ましく思っていたが、流石に不審に思い始めた。生活音すら一切しないのはおかしい。大地は立ち止まり、腕を組んで思案した。
「この街で戦争でも始まったのか?」
大地は半笑いだった。人間は糞だ。そんなことはもう分かっている。
後輩を庇っただけで、自分が吊し上げられたあの時から――ずっと。
◇
鬼ごっこ、ボール遊び、絵本、ゲーム。
窓の無い部屋で、子供達は思い思いに遊んでいる。
壁一面が明るい色のやわらかい素材で覆われ、この施設の本質を隠そうと必死だ。だが、監視カメラの多さがそれを許さない。
養育担当の南雲佐代子は白衣のポケットに手を突っ込んだまま巡回し、子供達の様子を淡々と観察した。
ふと、一人の女児が目に入る。部屋の隅で折り紙を折っている。周囲に影響が出る子で、隔離気味――名前は確か、ひ……なんとか。南雲は名札を盗み見るように確認する。
「何を折っているの?……ひよりちゃん」
「……タランチュラ」
ひよりは視線を上げないまま素っ気ないが、南雲は意に介していない。
「へぇ、確かに蜘蛛っぽいわ。器用ね」
ひよりはわずかにはにかんだ――その直後、部屋の空気が揺らいだ。子供達が一瞬、静まり返る。
「……胸が……あつい」
「え、そんなに?」
南雲は反射的に返してしまい、すぐに自分の愚かさを噛みしめた。
これは感動ではない。症状だ。ひよりは胸を押さえ、苦しげに息を吸う。その息は、生物としての違和感を帯びていた。薬品めいた刺激臭が、南雲の鼻を刺す。
「保健室へ行くわよ」
その一言で、ひよりの血の気が引く。
「いやっ、いやっ!」
暴れる腕。抵抗。
南雲は抑えつけたまま部屋を出る――瞬間、鋭い痛みが走る。ひよりが噛みついたのだ。
反射的に手が緩み、ひよりは床に着地すると同時に跳ねるように駆け出した。
「待ちなさい!」
その速さは八歳のものではない。
南雲は悟る――能力の発現だ。
追いつけない。判断は一瞬だった。
南雲がすべきは追跡ではなく、即時連絡。
「“H8”が逃走。確保して」
通話を切った直後、胸元に違和感が走り、指先でなぞる。
――ない。
首から下げているはずのIDカードが消えていた。考えられる可能性は一つ。ひよりが盗った。
一気に心拍が跳ね上がる。あれがあれば出口のロックが解除できる。外部に漏れれば、取り返しがつかない。間に合わないと知りながらも、南雲は駆け出した。
◇
大地が周囲を見渡すと、妙に荒れている。道は埃だらけで、家々の玄関は開け放たれたまま。転がる新聞紙には「テロ」の文字と、病院に人が溢れる写真。
テロ? ついにそこまで落ちたか、この国の人間は。
街から人々が消え、不穏な謎が次々現れる……大地の脳裏に、終末世界のフィクションがいくつか浮かんだ。
だが、街から人が居なくなろうとも、自分の生活は変わらない。
人間の醜悪さを煮詰めたような相続争いの末に手に入れた遺産で、隔離生活を確立した。大横綱だった生みの親の壮絶な末路を見届けてなお、人生に希望を見いだせるはずもない。むしろ、シェルター生活に説得力が増して好都合だとさえ大地は思う。
が、風で転がるカップ麺のゴミを見て、大地に懸念が生まれた。
「……食糧が問題か」
大地は思い立ったらすぐ行動する。隔離生活も忙しいのだ、享受すべきエンタメが無限にある。
自宅に戻り愛用の原付で、御用達のディスカウントストアに向かう。ペンギンと軽快なテーマソングが頭に浮かぶ。状況とのミスマッチに、思わず鼻で笑った。
少し進むと、信号機が止まっていた。いよいよ終末感が増してきたな、と大地はスロットルをひねる。
『助けて……』
甲高いエンジン音と風切り音に混じってか細い声が大地の耳に届く。いや、このノイズの中でそんなわけない、と大地はスルーする。
『お願い……助けて』
声は消えなかった。大地は原付を停める。耳ではなく脳内に直接響くような感覚があった。そういえば、散歩に出かけるのを決めたのもこの感覚のせいだった。
ここ数か月はおかしなことが多い。稽古時の汗のかき方も尋常じゃなく増えた。
一体、外で何が起きている……?
大地は訝しがりながら、周囲を捜索する。
「いやっ……離して!!」
その声は微かではあるが、今度は確かに音として大地の耳に届いた。大地は駆け出し、交差点の角を曲がる。
その先には、物語で見たような緊迫した光景。完全武装でガスマスクまでした黒づくめの集団が一人の少女を無理やり抑え込んでいる。少女の病院服が、その光景の異様さを際立たせていた。
大地の中に瞬時に様々な考えが浮かぶ。
助けるべきか? だが、また自分が悪者にされるかもしれない。あいつらは銃を持っている。見知らぬ少女を命懸けで助ける価値が、本当にあるのか――。
『偽善者』『空気読め』『SUMO正義マン』……
あの時、コメント欄を埋め尽くした罵詈雑言が浮かんでは消える。そのひとつひとつを鮮明に思い出せるほど、大地を深く抉っていた。
別にカッコつけたかったわけじゃない、ただ後輩が可哀想だった。何より、相撲取りとしての矜持がその卑劣な行為を許せなかった。
しかし、大地の反論は火に油を注いだだけ。彼は折れてしまった。
大量の脂汗をかき、大地の体が震えている。
罵倒に押し出されたわけじゃない。立ち合い前に、自分で土俵を割ったのだ。そして、いまだ土俵に戻れていない。それが――ホントは悔しくてたまらない!
震えが頂点に達した時、少女と目が合った。唇が『たすけて』という言葉を紡ぐ。無意識に、大地は重心を落とし、腰を割っていた。
怖い。その証拠に震えは止まらない。
だが、ここで動かなければ今度こそ大地は大地でなくなる。あの時、失った矜持を取り戻す絶好のチャンスでもあった。
右足が天高くあがる。着古したジャージの裾がめくれた。露わになった脚は、幾億と踏みしめた土で固めた鋼。どこまでもまっすぐと伸び、太陽に届きそうな勢いだった。
否。
届いていた。光の向こう側――何かの気配に触れた。刹那、震えは消え、体から湯気が立ち上る。
四股は神事である。
大地を強く踏みしめる事で災いを振り払う。右足を踏みしめた瞬間、街が息を吹き返した気配がした。
発気揚揚。
両拳が地面を叩いた瞬間、大地は弾丸と化した。
残像すら見える速度――過去のどの立ち合いよりも鋭いものだった。
「なんだお前っ!」
部隊の一人がそう叫ぶが止まらない。勢いそのまま、少女を抑え込んでいる男にぶちかましを喰らわせ吹き飛ばす。
男はまるで軽トラと正面衝突したような衝撃を味わい、意識が飛んだ。
あの時の糞どもの戯言も一緒に吹き飛ぶのを大地は確かに感じつつも、冷静だった。少女を抱きかかえると瞬時にその場を離れる。
現役時代は無理やり太っていたが、今は痩せ型だ。速さは現役時代の三倍はある。
男達が「あっ」という間に距離を取り、少女を抱きかかえたまま原付で急発進する。
「あっつ!」
頬に熱を感じて大地は叫ぶ。切り傷が刻まれ血が流れだす。部隊が発砲した銃弾が頬を掠めたのだ。それを皮切りにサブマシンガンの一斉射撃が始まった。
「……いよいよ、終末って感じがしてきたな」
「お兄さん……楽しいの?」
蛇行運転をしながら場違いな笑顔の大地を見て、ひよりが少し怯えた口調でそう聞いた。少女にそう言われて自分が笑っている事に、大地は初めて気が付いた。
「俺は……楽しいのか?」
大地は現役時代を思い出す。燃えたのはいつも土俵際——ギリギリの攻防だった。
今は命の土俵際、滾らないわけがない。
「お兄さん、危ないっ!」
着弾の跡が地面を蛇のように這って原付に迫り少女が叫ぶと、大地は急に体が重くなったような感覚に囚われる。
首を振って背後を確かめると小さな竜巻が起こり、銃弾を弾き返していた。
意識を前方に引き戻すと、抱きかかえた少女の体が異様なほど熱かった。
頬を伝う血と、少女の熱が混じり合う。
竜巻。銃声。荒い呼吸。
「助けて……くれて……ありがとう」
終末の渦中、その声だけが大地を撃ち抜き、胸の奥に何かが燃え始める。
世界の土俵際の攻防が、始まった。





