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4-24 アルスダイブ・ラビリンス~真実は、代償と共に~

 美大を目指す女子高生・満成真美みちなりまみは、ひょんなことからアートの中に入れる力を手に入れる。

 鍵は――自らの「模写」と何かを失う「代償」。

 アートには語られない真実が眠っている。ブルータスが見ていたもの、アンリ・ルソーの浮かぶ足、ゴッホの耳切り事件……。

 バブリーな美術教師・最上円可もがみまどかと共に、真美は次々とアートの奥へダイブしていく。

 美しさの裏に隠された、画家の計算と狂気、時代の矛盾がそこにある。


 代償と引き換えに「真実」を知る少女の、美術深堀ファンタジー!

 眉毛が無かった。いつもなら30度の傾斜を描く鋭い眉毛がある場所は、白くなだらかな額だけが広がり、眉毛は一本も見当たらない。


 選択美術の教室をこっそり見渡してみるが、誰ひとり気づいていないようだ。みんな平気な顔をしている。


 どうしよう。言うべきか。いや、「先生、眉毛どこ行きました?」なんて口が裂けても言えない。


「何度も言ってるけど、この胸像はブルータスなのよ。圧政に屈しない力強い身体は堂々と正面に開かれていて、頭部は明確な意志を持って左を見ているでしょ。この違いをしっかり描いて欲しかったの。フィレンツェのバルジェッロ美術館で是非ホンモノを見てきて欲しいわ〜。レプリカではわからないディテールがきっとよくわかるわよ。あぁ、もちろん私は見てきたわ。そしてこの視線の前に立ったの」


 教室内を7cmのピンヒールで闊歩し、ブルータスの見ている方角へ移動する派手な女性。


 前方にズラリと並ぶイーゼルには、2ヶ月かけて取り組んだみんなのデッサンが掛けられている。授業のはずが予備校みたい。


 その理由は彼女──産休に入った先生の代わりとして新しく赴任した美術教師──最上円可もがみまどか先生の方針だ。


 スラリとした美脚をさらす膝上タイトスカート。完璧なS字カーブを描く腰まで届いた髪は艶やかなストレート。今どき見ない彩やかな青アイシャドウ。


 このメイクさえ無ければ美女なのに、今日も変わらずバブリーだよなぁ……。


「ブルータスの視線に晒されて、私、初めて理解したのよ。彼の胸筋を包むパルダメントゥムに騙されてはダメ。ふふ、パルダメントゥムって言うのよ、これ」


「これ」と言いながら最上先生が指差すのはブルータスの胸を覆う流れるようなドレープの……マント?


「チャンスを伺いつつ憐憫も湛える理性的な眼差し。これがブルータスの二面性であり本質」


 何が本質だよ。ダメだ笑うな、眉毛を見るな。


「でも彼の知性は見えにくいわね。だって仕方ないわよ、この美しい胸鎖乳突筋を見つめない訳にはいかないでしょう。隠せない官能、ミケランジェロの才能」


 韻踏みだしたから今日は機嫌良さそうだけど、最上先生の話は長いうえに自己陶酔が過ぎる。


「んんっ、そうね満成さんのブルータスは、タッチが美しいわね。頭部と身体の違いもしっかり描き分けられているし十分に魅力的だわ。とくにココ、右耳から顎へかけてのラインは、『捉えていた』と言えるわね。見事だわ」

「やったじゃん。『捉えていた』出たね、真実」


 ひそひそ話しかけてきたのは、同じ美大志望の坂口柚紀。

 いろいろ様子はおかしいけれど、指導は的確。そんなバブリー女王から最高の褒め言葉を引き出せたのは正直とても嬉しい。まぁ実際、自分でもよく描けたと思う。


「ということで、ブルータスのデッサン講評会を終了します。自分の作品は持ち帰って頂戴ね」


 先程まで最上“バブリー女王”円可先生に支配されていたクラスに、ザワザワとした雑音が満ちていく。わたしも自分のブルータスを引き取りに行くか、と席を立ったところで、最上先生と目が合った。濃すぎるメイクに囲まれた目ではなく、つい眉毛のあったところを見てしまう。


「満成真実さん。この後少し残っていただける?」


 2コマ連続の選択美術の後はお昼休みだ。とくに断る理由も無く、解散後の片付いた教室で先生に向き合った。


「今日ね、ようやく準備が整ったのよ。ここまで長かったわ〜。さて。ご存知だとは思うけど、私は最上円可。そしてあなたは満成真実さん。これがどういうことか、あなた、ちゃんとわかってる?」

「え、急になんですか?」

「あら、少しは『捉えて』いると思ったら。私の勘違いだったかしら」


 もがみまどか と みちなりまみ……


「あっ、イニシャルがMM!」

「そんなわけないでしょう」


 間髪入れずに突っ込まれてしまった。


「じゃあ、なんなんですか」


 名字を並べ替えても反対から読んでみても、MM以外の答えが出ない。


「最上円可。最上の円環を可能にする者。円環は額縁フレーム。そしてあなたは満成真実。真実が満ちるまで成す人。つまり――」


 なんか嫌な予感がする。


「私がフレームを用意するから、あなたは中身を描きなさいってこと」

「ナニソレ?」

「さあ、なんでしょうね」


 ご機嫌に片眉を上げ……れない。上がるはずの眉毛が無いので、眉毛のあったはずの額の筋肉だけがぴくりと動いた。そういえばモナ・リザにも眉毛は無かった。美女の眉毛無しはこわい。それにしても表情筋だけでニュアンス出せるのは才能だと思う。


「ともかくね、今日のあなたのブルータス、ようやく入口として使えるレベルになってきたのよ」

「入口?」

「えぇ。ほら、ボーッとしてないで、もう一度イーゼル出して来てちょうだい」


 促されるまま、出したイーゼルに自分のブルータスを置く。がらんと広い教室の窓の外では、遠く電車が通る鈍い音が聞こえている。


 改めて自分の描いたブルータスを見る。6Bから2Hまでの鉛筆で細かく重ねたタッチ。尖らせた消しゴムの鋭利な白と、ティッシュと練り消しで拾った柔らかな白。胸元のマント……じゃない、パルダメントゥムのドレープ。右耳から顎にかけてのライン。いつもより本物それっぽく描けていると思う。


「入口ってなんですか」

「決まっているでしょう。鍵のある場所よ」


 最上先生は、カツン、とヒールを鳴らしてわたしの隣に立つと、紙面の一点を指差した。ブルータスの右肩に小さく丸い金具のようなものがある。


「ブローチですか」

「フィブラ。パルダメントゥムを留めるブローチのことよ。ここが回転軸なの」

「回転……?」


 意味がわからない。いや、言葉としてはわかるけど、さっきから何言ってんの、この人。


「あなた、さっきから私の眉毛が気になって仕方なかったでしょう?」

「っ……!」


 心臓が、どくんと跳ねた。図星もいいところだ。口に出してはいないのに、やはりバレていた。


「安心なさい。別に怒っていないわ。むしろそれくらい、どうでもいい異物に目を留められるのも観察の才能よ」


 自分の眉毛どうでもいいんだ。


「これは『代償』。世界の秘密、アートの内側を見ようとしたら、それなりの対価が必要になるの。タダ見は、美術館でも許されないでしょう?」


 言いながら、最上先生は右手を伸ばした。ネイルアートの施された長い爪が、わたしのデッサンのフィブラに触れる。紙をこする音がすると思ったのに、耳に届いたのは、コンッと硬い音だった。


「ちょ、ちょっと待ってください。代償って何の話で――」

「行けばそのうちわかるわ。満成真実さん」


 フルネームで呼ばれると、背筋がすっと冷える。その瞬間、教室を照らす蛍光灯がほんの少し色を失った気がした。


「さ、ここに指を置いて」


 促されるまま、わたしは自分の描いたブルータスのフィブラに人差し指をそっと重ねた。指先に触れたものは画用紙じゃなく、もっと冷たくたしかで……


「固い」


 思わずつぶやくと、最上先生は満足げに頷いた。指先に触れた冷たさは教室の空気とは別の温度だ。


「それが今回の『アルスの鍵』よ。まぁ、便宜上そう呼んでるだけのことよ。それより大切なことは体感。鉛筆で描いた線が、向こう側で本物になる。境界線の厚みを感じることが一番最初のレッスン」

「アルス? 先生さっきから何言っ……」

「黙って。ほら、始まるわ」


 視界が揺れた。イーゼルが揺れているのか、わたしが揺れているのか判断できない。胸の奥で、エレベーターが動き出したときみたいな、重力のズレが生まれる。


「目をそらさないこと。ブルータスの視線の先を、ちゃんと追って」


 最上先生の声が、遠くなったり近くなったりする。言われた通り、わたしは自分の描いたブルータスの目を見る。黒目のない白目だけの、丸みを帯びた目。視線の先にあるはずの教室が歪む。視界の片隅に眉毛の無い顔で笑みを浮かべる最上先生。鉛筆の黒が、じわりと濃くなる。粉だったはずの黒が、液体みたいに滲み出し深度を持ちはじめる。

 窓の外で鳴っていた電車の走る音はとっくに消えていた。エアコンの唸る音も、廊下を走る足音も聞こえない。代わりに深海の底に横たわるような沈黙が、耳の奥で膨らんでいく。

 画用紙の余白が、石の壁のような灰色に変わる。鉛筆のハッチングが、冷たい大理石の筋に変わる。目の前の世界が、紙から立体へと、ゆっくりと反転していった。


「ようこそ、こちら側へ」


 最後に聞こえた最上先生の声が、やけに響いた。


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