序章 若狭の海 3
「若様、お早いお戻りで」「朝からの遠駆けご苦労様でございます」
少年が居館に戻るやいなや、郎党たちが口々に挨拶する。
少年は一つ一つの挨拶に会釈し、時には「おう」と声を返しながら、しかし決して誰とも目を合わすことはなく自室に戻った。
その数刻後、少年の姿は父・正盛の前にあった。
「しばらくぶりであった。ますます大きくなったのではないか」
「父上様も、都からの無事のお戻り、嬉しく思います」
青い直垂に着替え直した少年は、伏目がちに目の前の男に頭を下げる。言葉選びは率直だが、まるで少年は機械であるかのように棒読みな台詞で父を歓待する。
「それで、都のご様子は何かお変わりありませんでしたか」
正盛はしばしの間じっと少年を見ていた。父の視線の重さに耐えきれなくなって少年はわずかに顔を上げる。少し頭を上げた忠盛を見て、正盛は静かに口を開く。
「春の戻りの折にも言うたことだが、都には相変わらずときのけが流行っておる。特に賀茂の河原が酷い。寄り辺のない者どもが、骸も、まだ息をしてある者も折り重なっておるそうだ」
威圧感たっぷりな赤い直垂を着た正盛だが、その眼差しには疲労が滲む。
「直に見られたのですか」
「いや、伝聞だ。とはいえ、鳥辺野の煙が絶えぬところを目にすれば、嫌でも気にせずにはおれまい」
正盛はそう言って肩を落とす。
「それと、前々から体を崩していた八幡太郎殿、あれもとうとうもたぬやも、などという噂もある。もしかすると、若狭に戻るまでの間に身罷られたかもしれん」
八幡太郎、源義家。
白河法皇にその武力をもって仕えた源氏の棟梁。都では北面武士の先駆けとして活躍しながら、陸奥国では後に言う「前九年の役」や「後三年の役」でその武威を示した。
近年は白河法皇から院昇殿を許され、その名を天下に轟かせた。
武士であれば誰もが羨む成功を収めた大将軍が亡くなるということは、源家平家を問わず関心事となっていた。
「八幡太郎殿が…」
少年は、瞑目して語る父を見て、時代の終わりの匂いを感じていた。
「これから、武士はどうなるのでしょう」
「わからぬ。わからぬが、我々は目の前のできることをただ為すしかないのだ」
少年がふと返した一言に、正盛は表情をあまり変えずに返答する。
察しのいい少年は、父がこれ以上世の行く末について語りたがっていないことを悟った。つい半刻ほど前の稽古で、強かに一本くらったときその木刀を振り下ろしたときの表情と一緒だ。少年はまだ少し痺れる左腕を無意識にさする。
「鍛錬では儂から一本とれるようになれ。それと、これからは本を読め」
「本?」
「あぁ、本を読め。そして歌を詠め。明くる年には都へ連れてゆく。何も知らぬ山猿だと、笑われぬようにな」