第一章 物語のはじまり
宇宙が愛した娘
主要人物と本名・背景(暫定案)
澄姫【15〜20歳】
•本名:冷泉 澄姫
•家系:冷泉伯爵家の一人娘。母・紗雪の高貴な血筋と父・実親の深い愛の融合。
•特徴:森と海の声が聞こえる。歌に天賦の才能を持つ。世界留学旅でアフリカに感化。
•実質、次世代のリーダーであり調停者。
冷泉 紗雪
•称号:黒薔薇と称された社交界の女王
•出自:華族の血を引き、科学・医学・外交・美術・資産運用に通じた天才。
•備考:元々沙織の婚約者・実親を奪ったことから、沙織への複雑な愛と罪悪感がある。
白石 雪音※本名案
•出自:忍びの末裔。医学・サイバー工学・解剖・量子科学・心理戦に精通。
•幼少期:スパイとして教育を受ける。
•特徴:冷静沈着、だが澄姫や蒼真に出会い感情を再発見。
•紗雪の秘密研究所をハッキングしたことがきっかけで、鍵となる存在に。
藤堂 蓮※改姓必要なら案:蓮城 蓮
•天才少年として10歳で万学修了。家が没落後、母方の忍術家系に育つ。
•医学・薬学・数学・音・量子理論・忍術に通じ、「五情五欲の理」を自在に操る。
•澄姫と恋に落ち、最終的に人類の“次なる進化”に立ち会う者となる。
冷泉 実親旧姓:八折 実親
•医師・科学者・政治家として天才。沙織と婚約していたが紗雪に奪われる。
•現在は半昏睡状態だが、都市の根幹システムに魂が関与している。
尚沙織
•かつての天才医師・講師。若き藤堂や白石を育てた。
•紗雪に婚約者を奪われ、愛と裏切りの果てに自らの身体を研究素材に提供。
•その魂は都市全体を癒し続け、終盤ですべての登場人物に赦しをもたらす。
ノア(名前候補:冷泉 炎生)
•紗雪と実親の子。感情を見せないが、静かで強い意志を持つ。
•思念で会話するなど超感覚に長けている。白石に近い資質も持つ。
蒼真(名前候補:綾瀬 蒼真)
•澄姫の従者的立場。天真爛漫で澄姫を慕う。実は実親の遺伝子を引いている可能性も。
•過去と未来を結ぶ鍵として、白石の恋心の対象となる。
零章:出会い
『白桜の柵』
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桜の木に、娘はたたずんでいた。
美しい満開の桜。
咲き誇るその木からは、美しい女特有の、甘く熟れた香りが、ほんのりと風に混ざっていた。
春の風が、すこしだけ彼女の頬を撫でる。
その仕草ひとつで、まるで花そのものが息づいたようだった。
「その時、彼女の髪がほどけて、ひとひらの花びらが胸元に落ちた。
少年は、その花びらになりたいと、心のどこかで思った。」
どこから花びらは来るのだろう――
その疑問に導かれ、少年・蒼真は、いつもの道からそっと外れていた。
⸻
「すみき。」
美しい声が、風に乗って娘の耳を甘く撫でた。
そこに立っていたのは、まるで宮廷から抜け出たようなドレスのマダム。
白薔薇を思わせる上品な衣装、無駄のない仕草、
目元には、長く艶のあるまつげと、どこか醒めた微笑み。
――「お母様!」
敬愛をこめた声が、澄姫の口から高く甘くひろがった。
それは、恋人に出会ったような声色だった。
二人の立ち姿。
少女と婦人――けれどその距離感は、
親子というより、まるで美しい恋人同士のようだった。
「その瞬間、蒼真の心臓は、不意に花火のように跳ねた。
自分の存在が、この景色に混ざってはいけない気がして、思わず息を呑んだ。」
⸻
そのとき、
少年の背後に、ひとつの影があった。
気づかぬうちに近づいていた男が、
ほとんど呟くように――、いや、心のなかにだけつぶやいた。
「……そっくりだ。」
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それから、蒼真は何度も、
その庭に通うようになった。
ただ、遠くから見るだけ。
風にそよぐ花と、姫の横顔と、母娘の声を、ただ見つめていた。
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ある日、声がかかった。
「君は、あの娘には近づかないこと。……何かあっては、困る。」
その声は冷たく、そして重かった。
誰の声かは、聞き返す前に消えていた。
ただ、“奥様の意向だ”とだけ、使用人から言われた。
それを条件に――
蒼真は、伯爵家の下働きとして雇われることとなった。
「それでも、彼は嬉しかった。
花を摘み、土を耕し、水をまき、
すこし離れた場所から、姫の影を見つめることができる日々は、
少年にとって、なによりの喜びだった。」
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藤堂・白石章
『記憶の解剖室』
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第一節:現在 ― 屋敷の外、藤堂と白石の対話
蒼真と澄姫を見つめる男、藤堂。
美しく清廉な女医白石が静かに寄ってくる。
「この邸の奥様、私たちの雇い主、君の好みかと思ったけど……少女の方?」
「……両方とも“似ている”んだ」
「誰に?」
「沙織に」
白石は一瞬だけ眉を動かすが、それ以上は何も言わない。
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前日譚【沙織編】
―琉球の森にて―
夜の帳が静かに森を包みこむ頃、末吉の森にある宇天軸御嶽の奥深く、風にそよぐガジュマルの木の下で、一人の女が三線を抱えて座っていた。
名は尚沙織。かつて第二尚氏王統の末裔と伝えられた家系に生まれ、母からは「おまえには海の記憶が流れている」と、繰り返し聞かされて育った。
琉球の魂の道を辿るように、沙織は今夜、久高島からこの末吉の森に戻ってきた。
月が水面のような静けさで、森の精霊たちの息吹を照らしている。
手には泡盛。杯を地に注ぎ、彼女は静かに祈った。
「祖霊たちよ、この身体を通して、もう一度、歌わせてください」
三線の音が、空気を震わせ、森の奥へと染み込んでいく。
その旋律は、ただの音ではなかった。過去と未来、夢と現実、すべての境を超えた響きだった。
沙織は歌う。
「海ぬ底から 光あがりて
山の神 まぶい結び
風よ伝えて 魂ぬ願い
命ぬうたに なりゆるまで」
彼女の歌声に誘われるように、人々が集まってくる。
老女、幼子、旅人、ある者は精霊のように。ある者は風のように。
その場にいた誰もが、沙織の声に宿る“母の力”を感じていた。
だがその夜、沙織はひとりの青年と出会う。
その青年は、旅の途中だった。名を実親。
アフリカ帰りの研究者であり、地球と宇宙の生命エネルギーを探る者だった。
彼は、沙織の歌に吸い寄せられるように森へと入ってきた。
どこか異国の獣のようなまなざしと、繊細な手。
「あなたの声は、地球の鼓動に似ている」と言った。
彼らの対話は一晩中続いた。
火を囲み、泡盛を交わしながら、魂と魂がまじわるように。
沙織は感じた。
この男は、自分の過去と未来を知っている。
そして実親も、沙織のまなざしに、「生命そのものの答え」を見つけようとしていた。
──その出逢いが、全ての始まりだった。
彼女は、彼を愛した。
だが同時に、彼を“手放す運命”をも予感していた。
なぜなら沙織は、自らの身体を「未来への贈り物」として差し出す覚悟を、その時すでに決めていたからだ。
第二節:過去 ― 藤堂の大学時代、沙織との出会い
それから10年後の沙織は病理学の講師。凛とした知性、美しさと冷静さを兼ね備えた存在になっていた
藤堂と白石は彼女の授業と、指導を受けた解剖実習に衝撃を受ける
「命は、皮膚の下にある“血と構造”の芸術なのよ」
沙織はスケッチブックに描かれた子宮の断面図を、まるで肖像画のように見せた。
その日から藤堂は“生の美”に取り憑かれた。
第三節:過去 ― 沙織の最期と「ドナーの宣言」
そんな日々は長くつづかなかった沙織は末期疾患を診断されたのだ
彼女は病状を悟ったのち、研究ドナーとして自らの身体提供を決める。
「この身体、あなたの手に委ねるわ」
「あなたなら、綺麗に解いてくれるでしょう?」
その言葉は重かった。
前日譚【藤堂編】
―星の方程式、身体の宇宙―
夕焼け空の彼方に、宇宙のシンフォニーが微かに聴こえていた。
虫の鳴き声と交じり合いながら、星が降るように現れては、
川のせせらぎに沿って流れ落ちていく。
湿った夏草の匂い。
土の奥から立ちのぼる命の記憶。
そして──どこからともなく、「生きている宇宙」の香りが漂ってきた。
頭上にかかる天の河原は、
子守唄のように、銀の織物で空を包んでいた。
宇宙に憧れていた。
星を見上げた夜のことを、今でも時々思い出す。
あの頃、星はただ美しいものじゃなかった。
何かを語っているようだった。
僕はその「声」を聴こうとしていたんだと思う。
方程式は、翻訳機のようなものだった。
ニュートン、アインシュタイン、量子力学、弦理論。
そのどれもが、宇宙が僕にかけてきた問いへの答えだった。
でも、いつからか気づいてしまった。
どれほど精密な数式を書き連ねても、
「孤独」や「痛み」には触れられない。
その不完全さに、僕は取り憑かれてしまった。
“じゃあ、それを含めて宇宙だとしたら?”
そう考えるようになった頃、
身体そのものが宇宙だと思い至った。
脳は星雲、腸は暗黒物質、細胞は震える弦。
この皮膚の内側に、僕の探していた宇宙があるんじゃないか。
そんな仮説に夢中になっていた10歳の頃、
家は破産し、僕は沈黙の世界へ入った。
感情を捨てて生きるための訓練。
ただの道具として扱われる日々。
それでも、僕の中には星の記憶があった。
そんな僕が、白石と出会った。
彼女は、静かだったけど鋭かった。
人の感情の奥にある“鍵”を、すぐ見抜く子だった。
ある任務で冷泉家に入り込んだとき、
僕はその屋敷の奥で、とても奇妙な震えを感じた。
それは記憶じゃない。
音でもない。
もっと深い、身体のどこかがざわつくような違和感。
そこに、沙織がいた。
彼女はただ立っていた。
音もなく、振り返りもしなかった。
けれど、僕は見た瞬間に分かった。
この人の中に、宇宙がある。
言葉じゃない。
振る舞いでもない。
彼女が“そこに在る”だけで、
何かが動き出してしまう。
僕は戸惑った。
こんな感覚は初めてだった。
身体が、まるごと惹かれていく。
彼女を、記録しなければいけないと思った。
忘れてはいけないと思った。
いや──失いたくなかったんだ。
でも、僕には“触れる”資格がなかった。
誰にも知られてはいけなかった。
僕は、そういう場所にいた。
だから僕は、感情ではなく記録を選んだ。
彼女を愛することより、
彼女を解き明かすことを選んだ。
沙織が何者なのか。
なぜ、存在だけで世界が震えるのか。
それを“理解”できるなら、
僕はそれでいいと思った。
たとえ──それが、
取り返しのつかない行為に繋がるとしても。
Ⅰ章:序章 ― 沙織の記憶
夜の手術室には、静寂が満ちていた。
わずかに響く心電図の音も、今はもう鳴らない。
そこに横たわっているのは――沙織。
藤堂と白石の恩師にして、医の理想を体現した女性。
彼女の亡骸は、今、白い布の下にあった。
けれど、その身体には、まだ言葉にならぬ熱が残っているようだった。
「……始めよう。」
藤堂の声は震えていた。
対面に立つ白石は、その震えを感じながらも、毅然と手術用メスを差し出した。
二人の手が、静かに交わる。
その瞬間――解剖という行為が、どこか儀式のような静けさを帯びた。
藤堂は沙織の顔を見た。
穏やかで、慈愛に満ちた表情は、まるで眠っているようだった。
そして彼の脳裏に、あの夜の記憶が去来する。
――「あなたは、私に似ているわ。けれど、もっと深く、もっと壊れてる。」
あれは、沙織が自らの臓器を提供する決意を語った夜。
藤堂は拒んだ。だが、沙織は笑ったのだ。
まるで死すら、美しく完成された一部だと言うように。
手術台の明かりが、彼女の肌を淡く照らす。
藤堂は静かにメスを入れる。
血は出ない。ただ沈黙だけが広がった。
そこにあるのは、生ではなく“残された意志”だった。
白石の手も震えていた。
だが、その震えを押し殺すように、彼女は沙織の胸部を開いた。
彼女の心臓。彼女の子宮。彼女の声。
何もかもが、藤堂の中に焼きつく。
そして白石がそっと囁く。
「この人、私も……好きだったのよ。」
藤堂は応えない。
ただ、彼の胸に一つの感情が浮かぶ――
罪。
沙織を救えなかった罪。
沙織の願いを止められなかった罪。
そして、この夜に快楽にも似た共犯関係を結ぶ、自分自身への裏切り。
⸻
その日以来、藤堂の中で、倫理と欲望が交錯するようになった。
命を救いたいという誓いと、
人を操りたいという衝動。
その狭間で、彼は医師として生き、
ときに支配者として微笑み、
ときに罪人のように苦しんだ。
彼の目には、沙織の影が焼き付いていた。
白衣を纏い、手術室に立つ彼女の姿。
優しく諭す声。
時に冷たく背を向ける女としての貌。
そして彼女の死が――彼の人生の始まりだった。
春の終わりの午後だった。
邸の裏庭にひっそりと咲いたすみれの花が、誰にも気づかれず踏まれようとしていた。
使用人たちは忙しげに行き交い、蒼真もまた荷車の影に身を潜めるように働いていた。
「そこ、踏まないで。」
それは透きとおるような声だった。
顔を上げると、澄姫が立っていた。
少し土で汚れた花を見つめ、跪き、自らのハンカチでそっと周囲を拭いはじめた。
その様子は、まるで王女が国を癒すように見えた。
誰にも見られていないと思っての行動だった。
「すみれは、ふつうの花よりずっと我慢強いの。
でもね、誰かが一度でも気づいてあげないと、ずっと下を向いたままなのよ」
蒼真の胸に、風が吹いたようだった。
それまでの澄姫は、あまりにも遠く、声すら届かない“高嶺の花”だったのに。
その一瞬だけ、心の奥の小さな扉が開いた気がした。
──この人のために、何かになりたい。
それが、彼の始まりだった。
⸻ ✦ 澄姫という娘
― 母に似て、母とは違う ―
⸻
澄姫の横顔には、紗雪の面影が色濃くあった。
高く通った鼻筋、凛とした眉、そして、何より――
目だ。
意志を秘めた深い瞳。
誰かに媚びることなく、
けれど誰よりも人の心を見つめるような静かな光をたたえていた。
それはかつて、父を惹きつけた紗雪の瞳と、まったく同じだった。
⸻
「あなたも…やっぱり“似ている”のね。」
ふと紗雪が漏らすことがあった。
「私に、ですか?」
「ええ。でも、それだけじゃない。“もっと自由”なところがあるわ。」
そう――澄姫は、似て非なる存在だった。
母のように誇り高く、優雅に振る舞う一方で、
心の奥では、誰かと“ともに歩く”ことを選びたがる娘だった。
⸻
✦ 蒼真との不思議な距離
― 愛し方を知らない、少女のやさしさ ―
⸻
澄姫は、蒼真を“親友”と呼んだ。
それは、彼が最初にくれた花のせいかもしれない。
それとも、
ときおり見せる無邪気な笑顔が、彼女の心をほどいたのかもしれない。
けれど――
「蒼真は、大切よ。でも、恋人にはなれないの。」
そう言った声には、どこか優しくて、残酷な響きがあった。
⸻
澄姫は、蒼真を近くに置くほどに、心を遠ざけていた。
一緒に海を見た。
雪の夜、焚き火を囲んで語り合った。
時には手をつなぎ、母の代わりに“冒険”の旅ごっこをした。
それでも、蒼真がほんの少しでも想いを口にしそうになると、
澄姫はそっと視線を逸らした。
まるで――
「あなたが傷つかないために、私が一線を引くの」
とでも言うように。
ある春の日の事件
春の陽ざしが、庭の石畳にまだらな影をつくっていた。
温室から戻る途中だった蒼真の手に、
偶然ひとつの小包が滑り込んだ。
誰かが落としたらしい、細工の美しい小箱。
だが次の瞬間――
「それ、あなたが盗ったんじゃないの?」
鋭い声が飛んだ。
使用人の一人が見咎めるように睨みつけている。
周囲には、あっという間に人だかりができた。
「違います、ぼくは……」
「言い訳なんていらない。証拠はこれでしょう。」
持ち主の婦人が現れ、泣きそうな声で言った。
小箱の中には、大切なペンダントが収められていたという。
蒼真の声は、喉にひっかかったまま、外に出なかった。
ただ、立ち尽くしていた。
そのとき――
「その子が盗ったなんて、証拠はあるのですか?」
澄姫の声だった。
まっすぐに人垣を割って進み出た少女は、
静かに蒼真の前に立った。
「この子がそんなことをするはずありません。
私が保証します。彼は、誠実で優しい人です。」
「でも……」
「もし疑うというのなら、私も同じ罪に問ってください。
この子に咎があるというなら、私も罰を受けます。」
誰も言葉を継げなかった。
少女の毅然とした瞳が、場の空気を凍らせた。
やがて小箱の持ち主が、
「あら、ここにあったわ……」とポケットからもう一つの小箱を取り出し、
その場はなんとか収束した。
けれど、蒼真の胸はその日から、
別の火が灯り始めていた。
あのとき、自分を庇ってくれた少女。
その姿が、
あまりにも美しく、あまりにも眩しかった。
(澄姫さま……)
(ぼくは、あなたを守れる人間になりたい。)
それは、初めて心の奥から湧き上がった、**“誓い”**だった。
✦ 第二部:蒼真、お付き”となるまで
蒼真は勉強した。
夜は雑用を終えた後、ろうそく一本で文字を学び、貴族の礼儀を模倣し、馬の世話をしながら筋力を鍛えた。
澄姫の“お付き”には、容姿・教養・品格が求められる。
そしてなにより、心が濁っていてはならない。
ある夜、紗雪が彼の寝所に立ち寄った。
「あなたは、まだ娘の名前すらまともに呼べないのに、それでもずっと見つめているのね。
……悪くないわ。少し犬に似てるけど。」
そう言って笑った紗雪の瞳に、なぜか涙がにじんでいた。
それを見た蒼真は、胸の奥に誓いを刻んだ。
──この人たちのそばに、ふさわしい人間になる。
それから3年
彼は徐々に“下働き”から“見習い従者”へ、
✦ 第二部:幼い頃のすみき
大地と星と、わたしの声が結ばれる場所―
母の手に導かれ、
わたしは空の一番深い場所に連れていかれた。
それは、アフリカの大地――
言葉よりも先に、風がすべてを語る場所。
地平線が丸くたわみ、
世界が沈黙を孕んだ呼吸で、鼓動しているようだった。
まだ幼いわたしの足元を、
金色の草がすり抜けていく。
どこまでも果てのない夕焼け空。
空気はあたたかく、甘く乾いていて、
すべてが音になる前の“予感”に満ちていた。
母は、何も言わずに空を見ていた。
彼女の頬にひとすじの影が落ち、
その背は、夕陽を背負った獅子のようだった。
風の中で、母が呟いた。
「あの人も言ってた。
澄姫は…ライオンみたいだ、って。」
そのとき、遠くにほんとうのライオンの姿が見えた。
堂々と、誰にも媚びず、
ただ**“在る”という威厳**だけで世界を支えていた。
わたしは胸の奥がふるえた。
そのふるえが、のちに歌になる。
歌は、わたしの中からではなく、
大地と星とのあいだから生まれてくる。
夜が訪れるころ、空は青を越えて藍になり、
星たちがひとつずつ、地面の中から立ち上がるように瞬き始めた。
母は静かに三日月を見上げ、わたしの耳元で囁いた。
「歌ってごらん、澄姫。
その身体の奥にある、いちばん古い声で。」
わたしは息を吸った。
草の香りと、母の肌のにおいと、遠雷の響きが混じる空気。
喉がふるえ、声が生まれた。
それは歌だった。
でも、誰にも教えられたことのない原初の旋律。
言葉のない、祈りのような歌。
歌うたびに、世界がやさしくゆれる。
星が笑う。
木々がうなずく。
母が静かに、目を閉じる。
その夜、夢を見た。
ひとりの男が、世界樹の根元に立っていた。
彼の目は琥珀のように澄み、
手には小さな生命のかけら――透明な微生物の光を抱えていた。
彼が見つめていたのは、母だった。
まだ少女のように揺れる母に、
彼はこう言った。
「世界は、見えない糸で繋がってる。
この小さな命も、星も、大地も。
君の歌が、それを証明してくれる。」
その言葉が、夢の中でわたしの胸に落ちてきた。
目を覚ました時、わたしは庭にいた。
母は少し離れて、世界樹のような木を見つめていた。
風が吹いた。
葉が、わたしの歌に応えるようにざわめいた。
母がぽつりと、独りごとのように言った。
「沙織…実親…あなたたちがこの子に、
何を託したのか、
ようやくわかってきた気がするわ…」
彼女の目に、涙が宿っていた。
静かに、地面に落ちて、土と混じって消えた。
母は、わたしを抱きしめた。
「澄姫。あなたはあの人の…宝物だったのね。」
そのとき、風がふたたび吹いた。
宇宙が、わたしの身体を貫くように歌いはじめた。
歌は、父の声でもあり、母の鼓動でもあった。
そして今、わたしの声でもある。
Ⅱ章:邂逅 ― 澄姫との出会い
春の光が、病棟の窓辺に差し込んでいた。
白衣の裾が揺れるたびに、その光は静かに床に溶け込む。
藤堂は手にしたカルテを読みながら、薄く目を細めた。
どこか既視感のある名前が、そこに記されていた。
「澄姫」――
見慣れないはずの名前なのに、どこかで聞いたことがある。
いや、そうではない。
その響きが、胸の奥にふわりと波紋を描くのだった。
⸻
診察室の扉が、ノックの音と共に静かに開かれる。
現れたのは、華奢な体に春色のワンピースをまとった少女だった。
瞳はやや伏し目がちで、けれどもその内に凛とした炎を宿している。
「はじめまして。澄姫と申します。」
その声は、想像よりもずっと落ち着いていて、大人びていた。
藤堂はしばらく返事ができなかった。
声も、佇まいも、微かな香りさえも――
彼の記憶のどこか深い場所を、確かに揺らしていた。
「……どうぞ、こちらへ。」
ようやくそれだけを告げ、椅子を指し示す。
少女は椅子に腰を下ろし、まっすぐに藤堂を見つめた。
その目は、まるで過去も未来も透かし見るように澄んでいた。
⸻
「母が、あなたに診ていただけと言いました。……紗雪といいます。」
その言葉に、藤堂の胸がわずかに騒ぐ。
あの女――紗雪。
あの気高く、美しく、そして何かを必死に抱えていた女。
彼女の娘。
眼前にいる少女は、まさにその血と魂を受け継いだ存在だった。
「お母様は……お元気ですか?」
藤堂はあえて、穏やかな声で尋ねた。
「ええ、とても。……でも時々、寂しそうにします。昔のことを話すときは特に。」
澄姫の視線が少しだけ揺れる。
まるで、母の心の奥を代弁するかのように。
⸻
その後の会話は、医師と患者のそれでしかなかった。
けれども藤堂の中では、何かが確実に始まっていた。
少女の存在。
その声、その瞳、その仕草――
ひとつひとつが、失われた時を呼び覚ましていく。
藤堂は、この出会いが偶然ではないことを、すでに感じ始めていた。
それは、沙織の記憶が連れてきた運命か、
それとも、まだ名づけられぬ「贖罪の入り口」なのか。
彼はまだ知らない。
この少女と交わることが、自らの過去と未来を大きく変えていくことを。
◇ 診察後、病院を出た澄姫と、待つ母・紗雪との再会
午後の光が、外来の廊下に長い影を落としていた。
澄姫は診察室のドアを静かに閉じ、白い病院の空気をゆっくりと吸い込んだ。
背筋を伸ばすと、そのまま無言でエレベーターへと歩き出す。
待合室の片隅、ガラス越しの陽だまりにひときわ目を引く姿があった。
白のジャケットに、肌なじみのよいペールピンクのスカーフ。
控えめながら完璧な装いでそこに座っていたのは、母・紗雪だった。
「おかえりなさい、澄姫。」
その声はまるで、高原に流れる風のようにやわらかかった。
澄姫は一瞬だけ足を止めたが、すぐに母の隣に腰を下ろした。
二人の影が並び、陽の光のなかで静かに溶け合っていく。
「お医者様……とても丁寧だったわ。
でも、何だか――すごく、寂しそうだった。」
「……ええ、あの人は、そういう人よ。」
紗雪は微笑んだが、目元にはかすかな痛みが浮かんでいた。
「お母様は……その人と、昔……?」
澄姫の問いに、紗雪はふと遠くを見るような目をした。
けれど否定も肯定もせず、ただこう言った。
「私はね、澄姫――
彼に“救われた”と思った時期もあったの。
でもそれはきっと、私が誰かに、手を握ってほしかっただけかもしれない。」
澄姫はその言葉を黙って受け止めた。
母は、女だった。
そして、今もどこかで、誰かを想っている。
◇ 一方その頃 ― 藤堂の独白
「……あの瞳は。」
藤堂は診察室の椅子に深く腰を沈め、腕のなかに顔を埋めた。
澄姫――あの少女は、まるで幻のようだった。
紗雪の若い頃にも似ている。
だがそれだけではない。
あの、沙織に向けていた想い――
その魂の欠片が、澄姫の姿を通して自分のなかで疼き始めている。
「罪は、まだ終わっていなかったのか。」
澄姫に惹かれること、それがどれほど危ういことか、藤堂にはわかっていた。
だが、ただ“治療対象”として関わるには、あまりに強すぎる引力があった。
――この少女を愛してしまったら、自分はきっと壊れる。
それでも、彼女を放ってはおけない。
「……紗雪。あなたは、あの娘に何を託した?」
過去に置き去りにした想いが、静かに再び脈打ち始めていた。
◇ 春の空気に触れて ― 澄姫の独白
病院のガラス扉をくぐった瞬間、
世界がふわりと明るくほどけた。
外は、春だった。
午後の陽光は、やさしく頬を撫で、
頭上の桜のつぼみは、まるで澄姫を出迎えるかのように微かにふるえていた。
「……風が、違う。」
彼女は深く呼吸した。
病院の中に漂っていた冷たく乾いた空気とは違う、
草木の気配を含んだ、やわらかな風。
――その風の向こうに、何かがある。
そんな気がした。
彼女の足元には、昨夜の雨に濡れた土の匂いがまだ残っていた。
誰かが落としたハンカチ。誰かの笑い声。
交錯する“他人の人生”の隙間をすり抜けて、
澄姫はそっと視線を上げた。
そのときだった。
遠くの病院の角、背の高い街路樹の影から、
ひとりの男が彼女を見ていた――
否、ただそこに立っていたのかもしれない。
でも澄姫には、確かに感じられた。
その視線が、彼女を貫いていたことが。
「……誰?」
けれど、次の瞬間にはもう、その姿は消えていた。
まるで幻のように。
心臓が、ふっと跳ねる。
何かが始まろうとしている。
世界が、少しだけ音を変えた。
そんな気がして、彼女は胸に手を当てた。
「……あの医師。」
心の奥に、彼の瞳が焼きついていた。
寂しさと、何か深く沈んだ情熱の残り火――
それは、母を愛していた頃の母にも似ていた。
「私……この人を知ってる気がする。」
彼女はまだその理由を知らなかった。
けれどその瞬間、澄姫の胸の奥に、
静かに“恋”とは違う名もなき灯火が、ふと灯ったのだった。
◇ 回想 ― たったひとつの光
夜の寝室で灯りを消したあと、
紗雪はひとり、天井を見つめていた。
――風の音がする。
季節の変わり目の、春の入り口。
その音に、あの日のことが重なった。
夫が逝ったあの日も、風が吹いていた。
まだ若く、名前を呼ぶことしかできなかったあの朝。
冷たくなった手にすがりながら、
お腹の中の命にだけは、どうか生きていてと願った。
「あなたがいなくても、この子が――」
そう祈りながら産んだ、小さな女の子。
それが澄姫だった。
⸻
初めてその目が開いたとき、
泣き声が止んで、ふとこちらを見つめたあの瞳を、今でも忘れられない。
まるで「お母様、泣かないで」とでも言いたげな、凛とした光。
私のすべてだった。
朝も、夜も、この子が笑ってくれるだけで、生きていけた。
まだ赤子だったころの澄姫は、まるで小さな花のようだった。
おとなしく、けれど芯が強くて、微笑んだときだけふわっと香るような子だった。
抱きしめると、夫の面影と自分の未来と、
そして何より、生きる意味が、すべてその小さな身体に詰まっていた。
⸻
そして時は過ぎ、
娘は美しい少女へと育った。
大きな瞳、すらりと伸びた手足、気品のある微笑み。
立ち姿は、私の娘というより――
まるで鏡のなかに、若き日の自分が立ち上がってくるようだった。
けれど、澄姫は私よりずっと優しくて、
ずっと芯があって、ずっと――眩しかった。
⸻
ふと気づくと、彼女に目を向ける男の視線が増えていた。
町で、庭で、時に病院で。
誰もが娘を一瞬だけ振り返る。
それが誇らしくもあり、
一方でどうしようもなく、不安を呼び起こした。
この子を誰にも渡したくない。
そう思ったことも、一度や二度ではなかった。
あの白い肌に、
あの柔らかく笑う声に、
ほかの誰かの手が触れる日が来るなんて――
どうしても、想像したくなかった。
◇ 回想 2冷泉紗雪
―誰よりも早く、大人になりたかった―
あの夏、**冷泉紗雪**はまだ18歳だった。
けれど彼女は、誰よりも先に“大人の世界”を見ていた。
父は著名な生物学者であり、沖縄の外れにある研究施設を運営していた。
それは見た目は古びた洋館のようでいて、地下には最新の微生物培養装置や、量子レベルの観測機器が眠っている、いわば「科学の神殿」だった。
その施設に、ふたりの若者がやってきた。
ひとりは、かつて母が「神女の娘」と呼んだ存在――尚沙織。
そしてもうひとりは、アフリカ帰りの青年研究者、実親。
2人は再会を喜んでいた。
いや――それ以上だった。
まるで、身体の奥から呼び合うように。
紗雪は、その光景を隠された中庭の窓越しに、見ていた。
沙織が語る。
「ライオンってね、普段はストレッチばかりしてるの。
獲物を狩るためじゃなくて、体内の微生物を活性化して、
無駄な殺生を避けるために。」
実親が答える。
「微生物と量子は、たぶん“同じ呼吸”をしている。
アフリカの空気には、星と同じパターンがある。
きみの声は、あれに似てる。」
ふたりの言葉は、詩でもあり、祈りでもあった。
この世界の見えないものたち――微粒子、細菌、エネルギー、意識――すべてが交差する、生命の城のような世界観を、2人は共有していた。
「不思議な城を、建てられたらいいね」
沙織がそう言った瞬間、紗雪は、胸の奥が熱くなるのを感じた。
それは嫉妬ではなかった。
憧れでもなかった。
それは──欲望だった。
自分もあの場にいたい。
あの世界を知りたい。
そして何より──実親を手に入れたい。
彼のまなざしが沙織を見つめるたび、
紗雪の心のどこかが、削られていくようだった。
“この人を、私のものにしたら、
きっと私も、あの「不思議な城」へ行ける。”
その日を境に、紗雪は決めた。
父の跡を継ぎ、科学を究め、
誰よりも強く、誰よりも美しくなろうと。
そして、
沙織の見ているすべてを、奪ってやる。
それが、彼女の恋の始まりだった。
そして――支配と計画の、すべての始まりでもあった。
✦ 蒼真の葛藤
―「姫を、守りたい。ただそれだけなのに」―
⸻
夜の庭は、冷えていた。
昼間の陽だまりとは打って変わり、
風は青く、星だけが静かに瞬いていた。
蒼真は、花壇のそばにしゃがみ込んでいた。
その手には、小さな白い花。
澄姫が、今朝、ほんの一瞬だけ微笑んだとき――
足元に咲いていた花だった。
あの笑顔が、忘れられなかった。
⸻
「どうして……」
思わず、声が漏れた。
「どうして俺じゃ、だめなんだろう。」
⸻
澄姫は、やさしい。
澄姫は、強い。
澄姫は、美しい。
けれど――澄姫は、遠い。
笑ってくれる。
話しかけてくれる。
名前も呼んでくれる。
それなのに――その瞳の奥に、
自分の居場所はない。
「俺じゃ、何も変えられないんだろうか。」
姫を笑わせたい。
守りたい。
困ったとき、手を貸したい。
でも彼女は、困ったときこそ笑うのだ。
まるで、「大丈夫」と言うように。
まるで、「私の世界には、あなたは要らないのよ」と、優しく示すように。
⸻
「……俺は、ただの“庭師”なのか。」
土にまみれ、花を摘み、日陰で見つめるだけ。
決して、彼女の隣に立てない。
姫の視線の先には、あの医者がいる。
藤堂――。
彼の落ち着いた声に、姫はうなずいた。
彼の指先に、姫は何も言わず従った。
⸻
「俺には……あんな風に、触れることもできない。」
⸻
風が、冷たい夜気を運ぶ。
蒼真の手が震えていたのは、寒さのせいだけじゃない。
胸の奥で、小さくちいさく、
嫉妬と、自分への怒りと、諦めが交錯していた。
⸻
けれど。
それでも――
「それでも、姫の傍にいたいんだ。」
それだけは、嘘じゃなかった。
承知しました。
以下に、蒼真の紗雪への思い――「美しくて、近くに寄せて、可愛がってくれる存在」への戸惑いと憧れ、そして無垢な心の揺れを、小説形式で描写します。
⸻
✦ 蒼真の心 ― 紗雪夫人への想い
紗雪夫人は、蒼真にとって「怖いほど美しい存在」だった。
初めてその声を聞いたとき、
彼は思わず息を呑んだ。
その声は、銀の鈴のようで――
そして、氷の刃のようでもあった。
「あなた、名前は?」
それは、庭先で雑草を抜いていた彼に、ふいにかけられた声だった。
振り返ったとき、
花のようなドレスに包まれた彼女がいた。
手には紅茶、目には光、そして――
表情には、誰にも触れさせぬ高貴な仮面。
けれど、彼女は蒼真を見つめ、ふっと笑った。
「まあ……あなた、まるで子犬のような目をするのね。」
その言葉に、彼の胸は火照った。
けれど、それが何の感情なのかは、わからなかった。
以来、紗雪夫人は時折、
何かのついでのように彼を呼びつけ、
紅茶のサーヴィスをさせたり、
ドレスの裾を拾わせたりした。
彼女のそばにいると、香水の香りがした。
花のようで、夜のようで、
甘く、濃く、危うい香りだった。
蒼真は、戸惑っていた。
――なぜ、自分を呼ぶのだろう。
――なぜ、あんなに近くに寄せるのだろう。
夫人は、ときに髪を撫でた。
ときに、耳もとで囁いた。
その手つきも、声も、冷たいはずなのに、なぜかあたたかかった。
彼女の指先がふれた夜、
彼は何度も夢を見た。
白いドレスの中に沈み込む夢。
美しい声で名前を呼ばれ、ひざまづきながら愛される夢。
それは、どこかおかしくて、
けれど、否定できない夢だった。
――好きだと思った。
けれど、それが「恋」なのか、「憧れ」なのか。
それとも、何か別の渇きなのか、彼にはまだ分からなかった。
ある日、夫人が言った。
「あなたのような子……ほんとうに、愛おしいわ。」
そのときの微笑みは、母のようだった。
けれど、抱かれている気がして、彼はひどく混乱した。
“澄姫様の母”ということを、
忘れてはいけない。
けれど、忘れてしまいたい――。
その狭間で、蒼真の心は揺れていた。
彼女の目が、誰にも似ていなかったら良かったのに。
彼女の声が、あんなに優しくなければ良かったのに。
彼女の笑みが、あんなに澄姫に似ていなければ――。
そして彼は、気づき始めていた。
この屋敷でいちばん恐ろしいのは、
澄姫でもなく、
――夫人その人だ。
可愛がられているはずなのに、
逃れられないような感覚。
それは、彼のまだ知らぬ“支配”の形だった。
✦ 蒼真と紗雪、そして澄姫のすれ違い
春の陽射しがやわらかく庭に降り注ぎ、
藤棚の下に並べられた小さなティーテーブルに、
白い陶器のカップがふたつ。
そこには、
美しい婦人と、その隣で微笑む少年の姿があった。
「まあ、そんなに見つめて……。私の髪に何か?」
紗雪夫人は、紅茶を口に運びながら、
少し首をかしげて、蒼真を見つめ返す。
「い、いえ……。とても綺麗で……。」
少年の声は震えていた。
けれどその目は、子犬のように潤んでいて、
それが紗雪の心をくすぐる。
「ふふ……やっぱり、あなたは可愛いわね。」
ふわり、と頭を撫でられるたびに、
蒼真はくすぐったそうに笑いながらも、心の奥では戸惑っていた。
こんなにも近くに置かれて、
こんなにも優しく微笑まれて、
その意味が、まだよく分からなかった。
けれど彼にとって、その時間は特別で――
だからこそ、そこから逃げ出したくなる瞬間もあった。
離れたバルコニーから、その様子を見つめる娘がいた。
澄姫。
風にそよぐ髪、少し俯いたその目元には、
複雑な色が浮かんでいた。
――お母様は、また彼を隣に呼んでいる。
まるで……恋人のように。
澄姫は、胸の奥で言葉にならない感情を飲み込んだ。
蒼真は悪くない。
彼はきっと、ただ優しさに応えているだけ。
お母様も、きっと寂しいだけ。
「……あの子、ごめんなさいね。」
ぽつりと、澄姫は誰にも聞かれないように呟く。
思えば、母はいつも――強くて、美しくて、でも孤独だった。
父が亡くなったあの日から、
私が母のすべてだった。
でも、私が成長していくにつれ、
どこかで母は、私に触れることをためらうようになった。
母の孤独を、埋めてくれているのが、あの子なら。
それでいい。
そう、思いたかった。
けれど、少女の胸は少しずつ軋んでいた。
蒼真が母に向ける眼差しが、
かつて自分だけに向けられていたものと同じであること。
そして、母の微笑みが、
娘ではなく少年へと注がれる時間が増えていくこと。
澄姫は、強く微笑んだ。
けれどその微笑みは、春の陽光の中で、
ふと揺れて、かき消えそうだった。
「どうか、お母様の心の慰めになってあげて。」
その祈りは、
誰よりも、澄姫自身の胸を締めつけていた。
✦ 蒼真の心の揺れ
その夜、夫人から静かに呼び止められた。
湯屋の方へ、とだけ言われ、
少年は何も聞き返せなかった。
灯籠の光がゆらめく湯の間。
蒼真の手は、まだ濡れていない。
けれど心だけが、すでに波立っていた。
「……このあたり、少し凝っているの。」
湯舟の縁に座る婦人は、
濡れた髪を美しくまとめ、背を向けていた。
艶やかで、白く、しなやかなその背中。
肌にはわずかな湯気が立ちのぼり、
かすかに香る薔薇のような芳香。
「優しく……そう。怖がらなくていいのよ。」
その声は甘く、
どこか試すような色を含んでいた。
蒼真は、震える指先で手ぬぐいを持った。
心臓が、喉元までせり上がってくるようだった。
――これが、使用人の務めなのか?
でも、どうして……俺なのか。
夫人の背中は、呼吸とともにゆっくり動いていた。
手ぬぐいを滑らせるたび、少年の手のひらに熱が移る。
目を閉じても、背中の輪郭は消えなかった。
だがその時、不意に心に浮かんだのは――
澄姫の声だった。
「蒼真、無理しないでいいのよ。」
あのとき、屋敷で小間使いに叱られた自分をかばってくれた澄姫。
その目は真剣で、どこか母に似た凛々しさがあった。
(澄姫さま……)
蒼真の手が、ふと止まる。
今、自分がしていることは、
彼女に知られたくない――
夫人の肌は、確かに美しくて、香りも甘くて、
少年の体を惑わせるには十分だった。
けれど、
心の奥を熱くしていたのは、
あの夜、こっそりくれた澄姫の布団の端だった。
「今日は寒いでしょう、これ……使って。」
そっと肩にかけてくれた、あの優しさ。
自分を“誰か”として見てくれた、あの瞬間。
夫人は、微笑んでいる。
少年の背後を、振り返ることなく。
だが蒼真は気づいていた。
その微笑みの裏にある、
「誰でもいいのよ」という哀しさに。
それでも、
自分だけは、誰かの“特別”になりたかった。
それが、澄姫であるなら――
少年の胸に、はじめて
熱ではなく、祈りが灯った。
✦ 澄姫の入院と、藤堂との出会い
事件から数日後。
澄姫は、疲れと寒気を訴え、母のすすめで病院へと入院することになった。
病室の窓際に、じっと腰掛けている少女。
頬はわずかに紅潮し、息は浅い。
その枕元に現れたのが、
あの冷徹な眼差しを持つ医師――藤堂だった。
「脈は落ち着いている。微熱もすぐに引くだろう。」
無機質な声に、澄姫は目を細める。
「……先生って、いつもそんなふうなんですね。
冷たくて、でも――ちょっとだけ、優しい。」
藤堂は表情を変えなかった。
「優しいかどうかは、診療の結果で決めることです。」
そう言ってカルテに目を戻す手は、
なぜかとても丁寧だった。
澄姫は、その大人びた所作を、
どこか懐かしいもののように見つめていた。
その優しさが、本物か偽物かなどどうでもよかった。
今、誰かに見守られている。
そのことが、
この屋敷のなかでたった一人で立ってきた少女には、
なにより温かく感じられた。
(あの先生、やっぱり……少しだけ、似てる。
昔の、だれかに。)
澄姫の胸に浮かんだ想いは、まだ言葉にならなかった。
【静かなる誓い ― 蒼真、白石、そして澄姫】
澄姫が入院してからというもの、蒼真はほとんど毎日、病院の中庭や廊下の片隅に姿を見せるようになっていた。
白衣を着た看護師たちの間でも、「あの子、また来てる」と噂になっている。
だが蒼真は気にしない。
いつでも、何かあったときに、澄姫のそばにいられるように。
彼女が目を覚ましたとき、最初に見える景色の中に、自分がいるように。
彼は、診療報告書のコピーをひそかに手に入れ、医学書を図書館で借り、夜はランプのもとで読み耽った。
看護師が使う用語、血圧計の見方、薬の名前。
澄姫を守るためなら、何でも覚えようと思った。
ある日、そんな彼の姿を、病棟のガラス越しに見つめる目があった。
白石だった。
清楚で知的な雰囲気をまとう彼女は、病院でも「氷の華」と呼ばれている。
完璧な外見、冷静沈着な判断。
けれど今、その視線の奥に、何か小さな炎のようなものが揺れていた。
(……あの子、毎日来てるのね。
忠犬みたいに、じっとお嬢様を見守って。)
彼女は澄姫のカルテに目を落としながら、ちらと口元で笑う。
(まあ、澄姫様の心が藤堂先生に向かうのは……計画どおりだけど。
それにしても――)
(あの子、いい目をするようになったわ。
まるで、何かを“守る者”の目……)
白石は静かに立ち上がった。
その日の午後、蒼真は病院の裏庭で白石に呼び止められた。
「あなた、澄姫様をずっと見守っているのね。」
「……はい。」
「忠義深いのは立派なこと。でも、それだけじゃ守れないものもあるわ。」
蒼真は黙ってうつむいた。
「そこで提案があるの。」
白石は、病棟の一角を指差す。
「この部屋、空いてるの。もとは休憩室だったけれど、今は使われてない。
どう? 澄姫様のそばにいつでもいられる場所。
あなた専用の部屋として、使っていいわ。」
蒼真は驚いて顔を上げた。
「……僕なんかに、そんな。」
「条件は一つだけ。」
白石はいたずらっぽく微笑んだ。
「澄姫様に何かあったら、私にすぐ報告すること。」
「――はいっ!」
蒼真は、思わず胸に手を当てて答えた。
その姿に、白石はなぜか、胸の奥が少しだけざわめくのを感じた。
(……なんでだろう。
この子が私に頭を下げると、少し嬉しい。
まるで……昔の藤堂先生みたいで。)
白石はかつての記憶の片隅に、もう一人の“忠実な瞳”を重ねていた。
(でも、私はもう間違わない。
この子は、ちゃんと私の手で育ててあげる。
純粋なまま――汚してしまうのも、愛してしまうのも、私。)
澄姫の周囲には、静かに、それぞれの“想い”が集まり始めていた。
知らぬ間に、恋も嫉妬も、計画も赦しも――すべてが、
彼女の存在を中心に回り始めていた。
【すれちがう距離 ― 澄姫、藤堂、そして紗雪】
澄姫はベッドの上で静かに目を閉じ、春の柔らかな風がカーテンを揺らす音に耳を澄ませていた。
呼吸は浅く、だが安定している。
手術から数日が経ち、体力は戻りつつある。
枕元にノートを置き、小さな文字で日記を書き始めているのも回復の証だ。
「先生に……お礼をちゃんと言いたいな」
そう小さく呟いたその午後、澄姫の病室をノックする音が響いた。
「失礼する」
低く静かな声。
藤堂だった。
澄姫の瞳がぱっと輝いた。
「あ……先生」
少し声が裏返ったのを自分で気づき、頬が染まる。
「体調はどうだ?」
藤堂は近づき、聴診器を当てながら淡々と問う。
しかしその仕草は思いのほか優しい。
「おかげさまで、すっかり……ありがとうございます」
照れくさそうに、だが真っ直ぐに見つめる澄姫に、藤堂は一瞬言葉を失う。
まだ年若いその少女のまっすぐな想いと、澄んだ眼差し。
心のどこかに、かつての“沙織”の面影がよぎった。
「勉強、少し遅れてしまいました……また、先生に教えていただけますか?」
その言葉に、藤堂は計画の一端を思い出す。
彼女に近づき、母である紗雪を揺さぶるための駒としての“澄姫”。
だが、この無垢な表情の前では、その計画すらどこか霞んでいく。
「……ああ。時間のあるときに見よう」
それだけ言って、彼は静かに微笑んだ。
それは、澄姫の胸を甘く切なく締め付ける初めての大人の微笑だった。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、応接室にて。
紅茶の香りの中に、気まずさが漂っていた。
「先生には、大変感謝しております」
紗雪が静かに頭を下げる。
「娘が助かったのも、あなたのおかげです」
「医師として、当然のことをしたまでです」
藤堂の声は、あくまで低く理性的だ。
だがその沈着な態度に、紗雪はどこか苛立ちを覚えていた。
娘に施した術中、何を思ったのか。
そして今、どこまで澄姫の中に入り込もうとしているのか。
「……これからは、私がつきっきりで看病します」
紗雪は言った。
「もう十分です。娘は……私の手で育ててきたのです」
その“私のもの”という響きに、藤堂は微かに眉を上げた。
「ならば、あなたが看病されると良いでしょう」
彼は立ち上がりかけた。
が、そこで口を止める。
「ただ――澄姫様の身の回りのこと、今後は“蒼真くん”に任せようと思っています」
「……蒼真?」
その名前に、紗雪の声色が一瞬揺れる。
「あの子は、あなたの……?」
「白石が世話をしてくれています。今は病院の一室に常駐しています」
藤堂は、無表情のまま言い放つ。
「澄姫様も彼には心を許していますし、彼の存在が心の安定になる。
二人の看病をあなた一人で背負うのは、いささか酷でしょう。
私も引き続きサポートに入ります」
一瞬、紗雪の瞳が揺れた。
(私のことを、誰よりも知っているこの男が……ここまで計算している)
彼の冷静な論理と、皮肉な優しさ。
紗雪はそれを“憎らしい”と思いながら、同時に、心の奥に微かな疼きを覚えていた。
「……では、病室を一つ、ご用意いただけますか?」
「承知しました」
この瞬間、母としての威厳と、女としての直感がぶつかり合いながら、
紗雪は心の奥で藤堂の存在を認めざるを得なくなっていた。
その医者の目に映る“澄姫”が、ただの患者なのか――それとも、“女”なのか。
その問いを、胸の奥で何度も反芻しながら。
【澄姫の瞳、母の嫉心】
病室の窓から差し込む午後の日差しが、澄姫の頬にやわらかく触れていた。
母・紗雪は、今日も病院に寝泊まりしている。
香水と同じ香りのスカーフ、上質な肌着、夜になると白衣の藤堂と話す母の、毅然とした笑み。
澄姫はそんな母をどこか誇らしく、けれど少しだけ負い目にも感じていた。
(先生に、気を遣わせてしまってるんじゃないかしら……)
母は「大切な娘を守るため」と、当然のように病室に居座り、廊下に香りを残す。
けれどその“当然”の裏に、どこか藤堂への意識があるのを澄姫は薄々感じ取っていた。
彼はどこまでも理知的で、無駄な言葉を用いない。
紗雪にも冷たくはなく、むしろ丁寧に、淀みのない口調で応対していた。
時には冗談も交え、紗雪のプライドに寄り添うような立ち居振る舞いも見せる。
(先生……お母様に向けるその目は、綺麗。なんだか“母向き”な感じがする)
でも、ふとした瞬間――
自分を見つめる目が、どこか違うのだ。
手術跡の確認の際に指がふれたときの、ほんのわずかな躊躇い。
話しているときの、目を伏せるような柔らかさ。
(わたしだけに、違う顔を見せてくれてる気がする――)
それに満たされる自分に、澄姫は驚きながらも心地よさを覚えていた。
◇ ◇ ◇
実はこの病棟――
もともと小児科とリハビリ病棟を兼ねていたこのフロアを、藤堂が“ある手続き”を経て、すべて澄姫の専用病棟として確保していた。
彼は娘のことを思い、環境を整え、看病に通い、言葉をかける。
自分にも丁寧に接してくれるが、そこに“深み”はない。
――けれど、澄姫に向ける眼差しには、なぜか熱を感じるのだ。
(あなた……まさか、澄姫に――)
紗雪はその思いを否定しながらも、心の奥でざわついていた。
そして、気づかぬうちにこう願っていた。
――澄姫を、手放したくない。
母としてではなく、“私の娘”として。
あるいは、私自身の一部として。
◇ ◇ ◇
そんな中、紗雪のすぐそばで献身的に動き続ける蒼真の存在があった。
病室のカーテンを開け、花を整え、熱を測るたびに、蒼真の視線は優しかった。
紗雪がシャワーを浴びるときには、バスローブを用意し、
背中を流すよう頼まれたときも、顔を真っ赤にしながら一生懸命だった。
(可愛いわね、あなた……ふふ)
そんな蒼真を、紗雪は軽くからかうような優しさで包んでいた。
しかし蒼真の想いは紗雪ではなかった。
(俺が惹かれてるのは、澄姫様だ――)
彼は澄姫を見守るためにここにいる。
藤堂に近づけるのも、澄姫が彼に“なびいて”しまうのも見たくない。
その想いを、誰にも言えずに心に隠している。
◇ ◇ ◇
そんな蒼真の揺れを、白石はよく見ていた。
「……ねえ、最近お疲れじゃない? 背中、張ってる」
と何気なく声をかけ、マッサージのふりをして触れてみる。
白石は、女医らしい清楚な外見と冷静な仕事ぶりで院内の信頼も厚いが、
心の内では藤堂の影に常に嫉妬を抱えていた。
そして、その影の中心にいる澄姫、そして澄姫を見つめる蒼真。
(澄姫は……あなたに守られてるだけで幸せでしょうけど)
(でも、彼の手はもう少し“深いところ”を知ってもいい)
白石は、じわじわと蒼真に手を伸ばし始めていた。
彼を“病院付き”にするよう手配したのも白石だ。
いつでも澄姫のそばにいられるように――だが、それは同時に自分の手元にも置くという意味だった。
蒼真の無垢さと、一途な心。
その“純粋”を崩す悦びを、白石はどこかで楽しみにしていた。
嫉心のゆらぎ ― 蒼真と白石】
「……今日も、病室の灯り、ずっと点いてたわね」
白石が言った。
夕暮れ、病院の屋上。
澄んだ空に星が一つ、浮かび始めていた。
蒼真は、手すりに肘をついて小さく頷く。
「奥様……いえ、紗雪様は、ずっと、先生と話されてました」
彼の声には、かすかな苛立ちと寂しさが混ざっていた。
白石は隣に立ちながら、視線を彼に移すことなく、ふっと息を吐いた。
「……あなた、澄姫お嬢さまが好きなのね」
唐突な言葉に、蒼真はびくりと肩を震わせた。
「……いえ、そんな、僕は、ただ……」
「ただ? 彼女を守るためにここにいる?
それとも、奥様への恩返し?」
白石の声は穏やかだったが、言葉は鋭く核心を突いてくる。
「わかるわ。あなたの気持ち。
奥様のそばで、ずっと忠実に尽くしてきたんでしょう?
でも――藤堂先生が現れてから、変わったのよね。彼女も、あなたも」
蒼真は何も言わなかった。
けれどその沈黙が、何より雄弁だった。
白石は微笑を浮かべ、そっと蒼真の肩に手を置く。
「藤堂先生に嫉妬してるの、わかるわよ。
あの人、感情なんて見せないけど、きっと誰よりも深く考えて動いてる。
あなた、ずっと見てたものね――見えないところで、先生を助けてきた私が」
蒼真は目を見開いた。
それを白石は、やさしく肯定するように頷いた。
「ええ、わたし、彼を支えてるの。誰にも気づかれないように。
……でも、あなただけは、ちゃんと見てたわ。嬉しかった」
その言葉は、静かに、しかし確実に蒼真の胸に入り込んだ。
白石は視線を遠くの街灯に向けたまま、続けた。
「ねえ、正直に言って――最近、奥様、あなたの目を見てないでしょう?」
「……」
「藤堂先生のこと、気になってるのよ。
きっと彼女も気づいてる。自分が“揺らいでる”ってことに」
蒼真は唇を噛んだ。
「それでも……僕は、奥様を裏切れません。
あの方がどれだけ僕を育ててくださったか、どれだけ……」
「忠義? それとも、愛情?
ねえ、それって、どこまでが“恩”で、どこからが“執着”なの?」
その言葉に、蒼真は答えられなかった。
彼の胸の中には、母のように慕ってきた紗雪への忠誠心と、
手が届かない高嶺の花・澄姫への淡い恋情と、
そしてどこかで藤堂に惹かれ始める自分――
それらが入り混じり、渦を巻いていた。
白石はそんな彼の迷いを、すべて見透かしていた。
だからこそ、彼女の手はあたたかく、声はやさしかった。
「ねえ、蒼真くん。
わたしはあなたを責めない。
だけど……あなたが自分を見失わないように、そばにいる」
その言葉は、まるで包帯のように、彼の心を包んだ。
蒼真は、言葉にならない何かを、ただ胸に抱えていた。
そして、初めて――
白石に心の底から、ありがとう、と言いたいと思った。
寄り添う影 ― 白石と蒼真の対話】
風が、二人の間をそっと通り抜けた。
白石は蒼真の隣に腰を下ろし、遠くの街の明かりを見つめたまま、沈黙を破らなかった。
その沈黙が、なぜか心地よい。
何も話さなくても、何かを許されている気がする。
やがて、蒼真がぽつりとつぶやいた。
「……小さい頃から、奥様は僕を特別に可愛がってくださいました。
お屋敷の誰よりも近くにいて、
お嬢様のことも、いつも一緒に見てきました」
白石は頷き、そっと目を細める。
「……けれど、澄姫様が成長されて、
あまりにも綺麗になられて……
まるで、奥様の若い頃のようで……」
蒼真の声が震える。
「気づいたら、目が離せなくなっていたんです。
でも……僕は、奥様に拾われて育てられた身。
お嬢様にふさわしくなんて、到底……」
白石は、何も言わずに聞いていた。
ただ、彼の心の襞を指先でなぞるように、
静かに、ひとつひとつの言葉を受け止めていた。
「……藤堂先生が現れて、
澄姫様が、あんな風に先生を信頼して……
あの方の目を見て微笑んで……
僕には見せたことのない表情を、して……」
蒼真の瞳には、悔しさと哀しみと、
名前のない痛みが浮かんでいた。
白石はそっと彼の手に触れた。
まるで、触れた瞬間に壊れてしまいそうなほど、
その手は熱を帯びていた。
「……誰かに話せて、ホッとしました」
蒼真は、小さく微笑んだ。
それは、幼さの残る少年の顔だった。
白石は優しく微笑み返す。
「あなたの気持ち、大切に思う人は、ちゃんといるわ。
わたしも、その一人でいいかしら?」
蒼真は、少し驚いた顔をしてから、
静かに頷いた。
その夜、風はやわらかく、どこか優しく吹いていた。
そして、心のどこかに張り詰めていたものが、
ふっとほどけていく音が、確かに聞こえた。
夜風の告白 ― 白石と蒼真】
夜の病院の屋上。
光の少ない空の下、ふたりの影だけが静かに並んでいた。
白石は、黙って蒼真の横に座った。
蒼真は何も言わずに遠くを見つめていたが、
やがてポツリとこぼした。
「……ちょっと前まで、僕は…
お嬢様の笑顔を近くで見られるだけで幸せでした」
白石は、その言葉の重みを噛み締めるように、
黙ってうなずいた。
「でも、最近は……
そばにいても、遠く感じるんです。
先生の話をするときの、あの目……
僕、あんな顔、見たことなくて」
白石は、そっと蒼真の横顔を見つめる。
「ずっと……見てたのね。澄姫さんのこと」
蒼真は少し目を伏せたまま、微笑んだ。
「……はい。小さい頃から。
泣いてるときも、笑ってるときも……
奥様に叱られて、こっそり隠れてたときも。
いつも見てたんです。
なのに……いまは、もう、手の届かないところにいるみたいで」
白石はゆっくりと、小さく息を吸った。
風が少し強くなり、彼女の白衣の裾が揺れた。
「……あなたは、優しいのね」
蒼真は驚いたように顔を向ける。
「ちゃんと、誰かのことをこんなに一途に思える人って、
そう、いないと思う」
白石の声は、あくまで穏やかでやさしかった。
慰めるのではなく、認めてくれるような温度があった。
「わたし、あなたが頑張ってる姿、ちゃんと見てたわ。
澄姫さんのことを、いつも静かに見守ってる背中も。
奥様のことを気遣って、こまごまと動いてる姿も」
白石は静かに微笑んだ。
どこか、彼の母のような、姉のような、
けれど、少しだけ恋する少女の顔も混じっていた。
「……すごいと思ったの。誰にも負けないくらい、やさしいなって」
蒼真の頬が、少し赤くなった。
「……ありがとうございます。
そんなふうに言ってもらえたの、はじめてです」
白石は、ほんの少しだけ体を近づけた。
でも、触れない距離を保ったまま。
「……いまはまだ、遠く感じても。
きっと、ちゃんと伝わる日が来るわ。
あなたが願う気持ちは、本物だから」
その言葉が、蒼真の胸の奥に、深く届いた。
それは恋のようでいて、でも恋以上に誠実で、
どこか彼を包むような、温かい気持ちだった。
その夜、蒼真は、
誰かに自分のことを肯定される幸福を、
人生で初めて、深く味わっていた。
【澄姫の視点――藤堂との静かな時間】
病室の窓辺。春の日差しが柔らかく差し込む午後、澄姫は膝にノートを置いて、指先で鉛筆をくるくると回していた。
「ここ、少し誤字ですね。落ち着いて書けば、大丈夫。」
隣で穏やかに声をかける藤堂の声は、いつもどこか遠くを見つめるようで、それがかえって澄姫の胸を静かに震わせた。
「先生……」
思わず呼びかけて、何を言いたかったのか自分でもわからなくなった。
藤堂は振り向かず、ノートを手に取って澄姫の文字を指先でなぞる。
「僕がこうして添削するのは、君が良くなると信じてるから。…そうじゃないと、こんな時間、使わない。」
心臓が跳ねた。藤堂は決して軽い言葉を口にしない。だからこそ、その一言が胸の奥に深く残る。
彼は時折、自分の話をすることもあった。学生時代、解剖に心を奪われた話。ある女の人を守れなかった話。
澄姫はその女性が誰かを知らなかったが、いつしか自分が、彼のその「空白」に近づけたらと思うようになっていた。
【紗雪の視点――娘に向けるざわつく心】
夜、病室の隣の小さな控え室で、紗雪はスープの鍋をかき混ぜながら、しばらく無言だった。
「奥さま、今日も先生と…」
白石がそっと声をかけると、紗雪はふっと笑った。
「ええ。…あの子、笑うのよ。あの先生といる時だけ。」
スプーンを止め、ゆっくりと振り返る。
「私…どうしたらいいのかしらね。あの子が大人になってくのを、見るのが、嬉しくて…苦しいの。」
白石は黙ってそばに立ち、紗雪の気持ちにただ耳を傾ける。彼女の気高さを傷つけないよう、ゆっくりと距離を詰めながら。
「先生、あの方…上手よ。優しい顔で、すべてを許したような顔で、心の深いところに入り込む。」
「奥さま…」
白石はそっと彼女の肩に手を置いた。
「娘さんは大丈夫です。澄姫さんには、奥さまの強さがちゃんと流れてるから。」
けれど紗雪はかすかに首を振った。
「違うのよ…あの子の中にあるのは、私の知らない“優しさ”よ。私にはなかった、あの子だけのもの。」
その夜、澄姫の病室では、藤堂が持ってきた古い詩集を澄姫が音読していた。
白石は控え室で、黙って日誌を閉じた。
白石はしばらく黙ってスープの香りを感じていた。
紗雪の背中越しに漂う孤独は、かつて医師として患者を看取ってきた数よりも、ずっと複雑で深かった。
「奥さま…」白石はそっと言葉を選びながら近づいた。
「…それは、初めての恋なのかもしれませんね。」
紗雪の手が、スプーンを握ったまま止まる。
「恋?」
「娘さんが…先生に向けている眼差し。わたし、今日、見てしまったんです。
先生がリハビリのあと、澄姫さんの靴紐を結び直してあげていたときのこと。
娘さん、あんなに静かに、でも全身で誰かを信じるような目をしてました。」
紗雪は言葉を失ったまま鍋を見つめた。
そのまなざしを、誰よりも知っているはずだった。
あの目は、かつて自分に向けられていたもの。
「藤堂先生も、気づいているかはわかりません。ただ…娘さんが先生にだけ見せる表情は、特別です。」
白石の声は柔らかく、しかし静かに心臓をえぐるようだった。
紗雪はふと鍋から視線を上げ、まっすぐ白石を見た。
「あなたは…そのことを、どう思ってるの?」
白石は一瞬だけ、寂しそうに微笑んだ。
「正直に言えば、少し羨ましいです。
…でも同時に、そうなるべくしてなった気もしているんです。
澄姫さんは、奥さまの気高さを受け継ぎながら、そのうえで…愛されることを恐れず、まっすぐに差し出せる子なんですね。」
澄んだガラス窓から、午後の光が柔らかく差し込む。
病院の個室に設けられた特別浴室には、静かなクラシックが流れていた。
紗雪は、椅子に腰掛け、濃紺の絹のガウンを肩から滑らせながら、ふと視線を天井に上げる。
「女の子ってね…ふとしたことで変わってしまうの。まるで春の嵐みたいに。
でもそれが、大人になるってことなのよ。」
そうまは無言のまま湯を張り、そっと紗雪の背後にまわる。
背中に湯をかけながら、小さな声で言う。
「……奥さま、私は……いつまでも変わりません。」
その声に、紗雪の口元がふっとほころぶ。
振り向きもせず、でもその微笑みは明らかだった。
「まあ、かわいいことを言ってくれるのね。」
「私は、あなたが好きよ。
だから……いつまでも、そばにいてちょうだい。」
そうまの手が震える。
だが、それを見せまいと、背中を優しく撫でつづける。
「……藤堂先生は、とてもよくしてくださるわね。
あの人、冷たくて、鋭い視線を向けてくるの。
まるで、心の奥まで見透かされるみたいで……ドキドキしちゃうのよ。」
そう言って、紗雪はおどけたように小さく笑う。
だがその瞳には、どこか張り詰めたものがあった。
「……もうすぐ、あの子の手術ね。
執刀するのは藤堂先生。
……素敵な方よ。あの人は。」
声が、少しだけ沈んだ。
そうまは俯きながら、ただ背中を流し続ける。
心臓が、少し苦しかった。
そのとき――
ノックの音とともに、白石がすっと入室してくる。
その白衣の動きは静かで、優雅で、まるで舞のようだった。
「……手術の準備が整いました。お嬢さまをお迎えにまいります。」
「……ええ、ありがとう。」
紗雪はすっと立ち上がり、そうまの目を一瞬だけ見つめる。
何も言わず、部屋をあとにする。
白石は扉を閉めると、ふっとそうまの方へ微笑みかける。
「……ご苦労さま。」
そして、そっとそうまの手を取った。
その手は、あたたかく、そしてどこか母性のような温度を宿していた。
「……言葉より、触れ合いの方が効果的よ。」
「いい女性はね、あまりしゃべらないもの。雄弁は……銀。沈黙は、金。」
そうまは動けなかった。
まるでその手が、心を読むようだった。
白石は、そのまま微笑んだ。
まるで、すべてを見透かしたうえで、それでも「わたしは、あなたの味方」と伝えるかのように。
【澄姫、手術前夜 ― 初めての心の震え】
白く整えられた病室。夜の灯りがほんのりとベッドサイドを照らしている。
澄姫は本を手にしていたが、文字は目に入らなかった。
トントン……控えめなノック。
扉が開くと、藤堂が立っていた。
白衣のまま、手に小さなブックレットを持って。
「手術の詳細な説明書だ。気になるなら、目を通しておくといい。」
「ありがとうございます……先生、あの……」
言いかけて言葉を飲む。
だが、藤堂はその沈黙を責めなかった。
「不安なのは当然だ。だが、僕が執刀する。失敗はしない。」
それは事務的な言い方だった。
だが――その瞳には、確かな強さと、揺るがぬ意思があった。
澄姫は、胸の奥で何かが静かに揺れるのを感じた。
「先生って……冷たそうに見えるのに、ちゃんと私の話、いつも聞いてくれて……」
「医者だからな。」
「……でも、なんだか不思議です。お母様も“あの先生は女心を揺らす”って。」
藤堂の口元が、かすかに緩む。
「そんなことを、あの人が?」
「はい。……でも、私は違います。私は先生を、尊敬してます。……ちゃんと、信じてます。」
その言葉に、藤堂は数秒だけ目を伏せた。
そして静かに、ブックレットを彼女の手に置く。
「明日は、早い。今夜はよく眠ることだ。」
そう言って、踵を返す。
だが――澄姫は、思わずその背中を呼び止めた。
「先生、私……術後、もし元気になれたら、もっといろんなことを勉強してみたいです。
それができるのも、先生のおかげですから。」
藤堂は振り返らず、ただ一言。
「……期待してるよ。」
そのまま、扉は静かに閉じられた。
澄姫は、自分の頬が熱いのを感じていた。
知らずに、唇を噛みしめていた。
(先生は、きっと……誰よりも優しい人だ。)
それは恋だと、まだ彼女は気づいていなかった。
けれどその夜、胸の奥に灯った小さな炎は、確かに明日へと向かっていた。
ありがとうございます。非常に繊細で美しい流れですね。
澄姫の身体に触れながら、彼女の無垢な想いと、藤堂の内なる罪と欲が交錯する…
まさにこの手術が、二人の運命を決定する
⸻
【Ⅲ幕 ― 手術室にて】
澄姫の心の声
手術室は、まるで宇宙船の中みたいだった。
冷たい光と音の中で、私は無力な生き物になっていく。
けれど……不思議と怖くなかった。
先生が、そばにいたから。
お母様は、いつもより取り乱していた。
「すみき! お母さんがついてるから! お母さん、大丈夫よ……っ!」
そんな母に、先生は冷静に告げた。
「子宮の一部を少し切除するだけです。体への影響は最小限に抑えます。」
そして、私の方へ視線を向けて――
「君は、僕を信じればいい。」
その声に包まれた瞬間、麻酔が流れた。
眠りに落ちるはずの私の意識は、何故か静かに灯ったまま残った。
身体の感覚は曖昧だった。
けれど、先生の手のぬくもりだけは、しっかりと感じていた。
器具が私の中を進んでいく。
けれど痛みよりも――
先生の“丁寧さ”が、全身に染み込んでいく。
「……頑張るんだ。」
その低い声が、私の奥の奥に届いた。
(うん……私は、大丈夫。)
私は、はじめて、自分の身体を愛おしいと思った。
それはきっと――
先生が、私のすべてを大切にしてくれていると感じたから。
すみきの子宮の奥では、ミトコンドリアが光のように活動していた。
それはかつて森の中にいた菌たちが、体内に棲みついて共生している証。
子宮はただの器官ではない。森の呼吸と共鳴する、生きた祭壇。
木の根が菌糸と結ばれるように、すみきの臓器も、外界の命と結び合っている。
藤堂の手は、それを知っている愛の手だった。
手術が終わる頃、先生が私の耳元で囁いた。
「……よく頑張った。」
私は、目を閉じたまま、小さく頷いた。
⸻
藤堂の心の声
(……俺は、どうかしてる。)
この程度の切除、何度もやってきたはずだ。
なのに……この子に一刀入れるたび、手が震える。
(この子の信頼に応える。それだけの“演技”だったはずだろう。)
だが、白衣の下の俺の心臓は、いつになく騒がしい。
(柄にもない……まったく、緊張なんて。)
視界の中に見える、幼い子宮。
まだ純粋で、まるで手を触れてはいけない神殿のようにさえ感じた。
(沙織……)
澄姫の身体が、沙織を思い出させる。
いや、沙織の“希望”だった子宮――
まさしく、これはあの夜、俺たちが失ったものそのもの。
(この親子は、沙織に似すぎている。
だからこそ、白石と俺は――この二人を“閉じ込める”計画を立てた。
“沙織を永遠に俺たちの中に留める”ために。)
なのに……
(なのに、何だこの気持ちは。)
「……よく頑張った。」
言い終えた瞬間、俺は目を閉じた。
自分の心が、深く沈んでいくのがわかった。
(……本気になるな、藤堂。)
それでも――
手術台の上で微かに微笑んだ少女の顔が、脳裏から離れなかった。
【Ⅲ幕 補遺 ― ガラス越しの観察者たち】
手術室の向こう、白く閉ざされた世界で、澄姫の小さな身体が静かに横たわっていた。
その様子を、母・紗雪と従僕・蒼真は、
ガラス越しに黙って見守っていた。
藤堂の手の動きは一切の無駄がなかった。
白石の補助はまるで音楽のように、滑らかに、そして静かに寄り添っていた。
「……そうま、すごいわ。」
紗雪がぽつりと呟いた。
「ええ、奥さま。」
「わが伯爵家は大学病院の経営にも関わっていたから、オペは何度も見てきたけれど……
こんなオペは、はじめて。」
視線を外すこともせず、紗雪は言葉を続けた。
「藤堂先生……白石先生の、あの手際。
そして、あの――深い、なんて言うのかしら……
愛情みたいなものを感じるの。
見ているだけで……少し、恥ずかしくなるくらい。」
手術中だというのに、まるで恋人を包み込むような、そんな眼差し。
そんな手つき――そんな、静かな情熱。
「……すみきも、安心だわね。」
そう言いながら、ふいに紗雪は隣の蒼真の手を取っていた。
少し汗ばんだその手は、小さく震えていた。
そうまは一瞬驚いたが、すぐに自分の役目を思い出し、
柔らかく、けれどどこか凛とした手つきで握り返した。
(奥さまを、不安にさせるわけにはいかない……)
すると、紗雪は小さく笑って言った。
「ふふ……少しは男らしくなったじゃないの。」
その声に、そうまの胸の奥がふわりと温かくなった。
けれど――その一方で。
彼の目は、ガラスの向こうの“白石”に奪われていた。
冷静で、優しく、そして藤堂の手を一心に受け止める白石の姿。
その横顔には、何か“気高い献身”のようなものが宿っていた。
(……白石様。
あなたは、先生を支えているんですね。
まるで……光と影みたいに。)
そうまの中に、複雑な想いが湧き始めていた。
藤堂への嫉妬。
白石への憧れ。
そして――
紗雪への忠誠と、どこまでも純粋な想い。
手術室は静かに、その熱を高めながら――
彼ら一人一人の運命を、確かに動かしていった。
⸻
Ⅲ幕終章 ― 澄姫の目覚め】
静寂が戻った病室。
麻酔の霧が薄らぎ、世界が少しずつ色を取り戻していく。
澄姫は、ふと、瞼の奥に光を感じた。
(……ここは……)
柔らかなベッド。天井の白。
けれど彼女の目が最初に探したのは、彼の姿だった。
視線が揺れ、静かに――見つけた。
藤堂。
彼は壁際で記録を書いていたが、
ふとこちらに視線を感じて振り返った。
澄姫の目と、藤堂の目が、静かに交差する。
ほんの一瞬。
けれどその一瞬に、
藤堂は少年のように――どこか恥じらうような瞳をした。
(……あ。)
澄姫は、胸の奥に何かが灯るのを感じた。
(先生……今、私のことを……)
気づいた。その視線の意味に。
彼の、冷静な仮面の下にある人間らしい心に。
藤堂はすぐに目を逸らし、わずかに頬を緩めた。
「――目が覚めたようですね。お疲れさま、澄姫さん。」
その言葉の響きだけで、澄姫は目頭が熱くなるのを感じた。
(先生の声……すごく、優しい……)
ベッドのそばにいた紗雪がすぐに顔を近づけてきた。
「すみき! ……よかった……。元気そうなお顔、見せてくれて……ありがとう。」
母の温もりに、澄姫は小さく微笑んで、うなずいた。
その少し後ろ、そうまがじっと立っていた。
手には、汗をぬぐった白いハンカチ。
そして、その傍ら――白石。
そうまは、そっと白石の手にふれた。
手術中の彼女の懸命な姿を見ていた彼は、その労を讃えるように、静かに手を握った。
その手から伝わる熱に、白石の唇がゆるむ。
(ふふ……うまくいってるわね、全部。)
そう思いながら、白石はまるで慈愛の女神のような微笑みでそうまの手を握り返した。
けれどその奥では、別の光が燃えていた。
(先生が誰を見ようと関係ないわ。
私は“欲しいもの”を手に入れるために、ただ、舞台を演じるだけ。)
白石の目は、鋭く、冷たく、それでいて甘く潤んでいた。
紗雪はそんなやりとりに気づきながらも、今は娘の回復に安堵していた。
けれど、藤堂の方にふと視線を向けると――
その横顔に、少し赤みが差しているのを見逃さなかった。
(……あの人、もしかして……)
胸がざわめいた。
娘の心が奪われる予感と、
なにより――自分の心が動き出していることに、紗雪は薄々気づいていた。
(この人は、誰のものにもならない。
でも……私、欲しいと思ってる。そうまも、手放したくないのに。)
澄姫、そうま、白石、紗雪、そして藤堂。
それぞれの視線が交差し、心の襞に波紋を描いていく。
病室には、まだ回復途中の微熱のような、
静かで甘い緊張が、漂っていた。
密談 ― 白石と藤堂】
夜の廊下。
静まり返った病棟の一角、
看護師詰所の奥――
医師と女医だけが許される控え室。
白石はグラスの水を一口含み、
磨かれたカウンター越しに藤堂を見つめた。
「先生――」
艶やかな声。けれどその奥には鋼の意志。
「……あの紗雪とそうま、私たちの虜になるわ。」
藤堂は答えず、静かにカルテを閉じた。
その手つきは丁寧で、しかしどこか余裕が滲んでいる。
「澄姫を……僕が取り込んでるから、だろう?」
「ええ。おかげさまで、ね。
先生があれほど“真剣に”執刀してくださったから、彼女はすっかり心を預けてる。」
白石は微笑む。
その微笑みは、慈愛に満ちているようでいて、底知れぬ毒を含んでいた。
「私たちの計画――十中八九、成功ね。あと一歩。」
藤堂は窓の外を見た。
白く浮かぶ月が、硝子の向こうでゆっくりと形を変えていく。
「……ああ。
あとは、紗雪に近づいてくれ。
あの女が崩れるまで、あと少しだ。」
「彼女は、そうまを全力で取り込むはずよ。
けれど、“愛”なんて脆い幻想。
崩れかけたときが――狩りどき。」
藤堂がわずかに口角を上げた。
白石は身を寄せ、囁くように続ける。
「私が行けば……そうまはきっと大丈夫。
優しくして、抱きしめれば、簡単に泣くわ。」
「そうか。」
「そう、成功しかけた時――全てが崩れるのよ。」
白石は目を細める。
その先にあるのは、あの貴婦人――紗雪の、苦悶の顔。
「……あの女が、どんな顔をするか……見ものね。」
藤堂は静かに立ち上がる。
白石はその背に声を投げた。
「――弱った紗雪は、あとは先生にお任せします。」
藤堂は振り返らない。
けれど、薄く笑った気配が、
控え室の空気を一層、冷たく妖しく染めていた。
藤堂の手術後/病室にて】
午後の日差しがレース越しに差し込み、
薄紅のベッドカバーに、やわらかな光がゆれていた。
澄姫は枕に頭を預けながら、そっと母の顔を見上げる。
その隣で、そうまが控えめに立っていた。
紗雪は二人を見渡し、微笑みながら話しかけた。
⸻
紗雪
「すみきさん、よかったわね。本当によく頑張ったわ。」
澄姫
「はい……。お母様のおかげです。」
紗雪は、優しく娘の手を握る。
そして、ふと視線を横に向け、控えていたそうまに目をやった。
紗雪
「――それでね、ちょっとお話があるの。
実は……そうまさんを、あなたのお婿さんにどうかと思うのだけど。」
⸻
病室の空気が、一瞬凍る。
澄姫とそうまは、まるで時間が止まったように固まった。
⸻
そうま(顔を真っ赤にしながら)
「……奥様、それは……もったいなすぎます。私はその……」
紗雪はくすりと笑いながら、扇子を口元に当てる。
紗雪
「冗談よ。でも――あとの十歳、私が若かったら……本気でいただいてたかもしれないわ。
この頃のそうまさん、なんて言うのかしら、とても素敵よ。」
⸻
そうまは下を向いたまま、ただ黙って小さく頭を下げるしかなかった。
澄姫は胸の奥で、なにかが波立つのを感じながら、
それでも、ゆっくりと口を開いた。
⸻
澄姫
「……いいわよ、お母様。」
紗雪(目を丸くして)
「あら、本気にするの?」
澄姫(微笑んで)
「素晴らしいアイデアだと思うわ。
そうまさんなら、きっと我が家を一生懸命、守ってくださる。」
紗雪(笑みながらも、娘の言葉の真意を探るように見つめて)
「まあ……あなたったら。もう女ね。」
⸻
そうまは――
微笑みをつくる澄姫の横顔を見つめながら、
胸の奥が複雑に疼くのを感じていた。
(奥様のためにここまで尽くしてきた……それでも……)
小さな揺らぎが、
彼の中に芽生えていることを、本人もまだ気づいていなかった。
病室の静寂の中で――取り決めの会話】
澄姫が、白いシーツを握る手をそっとほどきながら、母に向き直った。
澄姫
「お母様……。私、医大に行きたいの。」
紗雪は目を細めて、娘の顔を静かに見つめる。
そして何かを悟ったように、やわらかく微笑んだ。
紗雪
「……いいわよ。では、家庭教師の取り決めをしておきましょう。
藤堂先生にお願いできるよう、私のほうで話を通すわ。」
そう言ってから、紗雪は一瞬、隣に控えるそうまのほうへ目を向けた。
⸻
紗雪
「そして、そうまさん。あなたの身分も、もう少し整えておきましょうね。
これからは――そうね、我が家の縁ある家柄からの“養子”という体にしておきます。」
そうまは驚きつつも、ただ深く頭を下げるしかなかった。
紗雪
「しばらくは“婚約”ということで。ね? すみき。」
澄姫(微笑みながら)
「……はい。ありがとう、お母様。」
紗雪は扇子を軽く閉じて、少し艶めいた口調で続けた。
⸻
紗雪
「でもね、すみき――。ひとつだけ取り決めがあるの。
そうまさんがいなくなれば、私の身の回りを見てくれる人がいなくなる。
だから――結婚してからも、昼間は私に貸してくださる?」
澄姫
「お母様……」
紗雪(笑って)
「心配しないで。夜にはちゃんと、あなたにお返しするわ。
私が眠るまで、そうまさんには私のそばにいてもらう。それだけよ。」
その言葉に、そうまは目を伏せたまま息を呑む。
けれど、澄姫は黙って頷いた。
それは母を慕う娘の、静かな了承だった。
⸻
澄姫
「……わかりました。お母様のこと、大切に思っています。
そうまさんも……大丈夫ですよね?」
そうま(小さく頷いて)
「はい。……精一杯、務めさせていただきます。」
そのやりとりを見届けながら、紗雪は満足そうに微笑み、椅子に身を沈めた。
紗雪とそうま、二人きりの午後】
病室に静けさが戻ったのは、澄姫が眠ったあとの午後のことだった。
紗雪はカーテン越しの光を浴びながら、そうまの傍に座っていた。
窓からの風が、白いレースをふわりと揺らす。
紗雪
「……そうま。どうしたの?
今のあなた、少し――悲しそうな顔をしてるわ。」
その言葉に、そうまはゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、微かに濡れた光が滲んでいた。
そうま
「紗雪さま……私は、嬉しいんです。
こんな私に、あなたがあたたかくしてくださって……感謝しかありません。」
そうまの声はかすれていた。
唇が震えていたのは、言葉にできない想いが堰を切りかけていたから。
そうま
「でも……あの手術、あの光景を見たら……わかってしまったんです。
お嬢様に、私は……ふさわしくない。」
「澄姫さまは、私のこと……きっと好きではない。
私は、だれにも負けないくらい、澄姫さまを想っているのに……
だからこそ、幸せになっていただきたい。それが、私の本音なんです……」
そうまは膝の上に手を置いたまま、震える肩を抑えられずにいた。
すると――
紗雪はその細い肩をそっと抱き寄せた。
頬を自分の胸元に引き寄せて、まるで母が子を包むように。
紗雪
「……恋なんて、一瞬のことよ。
そんなものに惑わされてはだめ。」
「それにね――そうまは、あの白石のことも……
私たちと同じように“好き”でしょう?」
そうまは、ドキリと目を見開いた。
それを感じ取りながら、紗雪はふふ、と妖しく微笑んだ。
⸻
紗雪
「あの女――白石も、我が家で雇おうと思っているの。
あの子、なかなか良い子だわ。頭も切れる。
社交界や財界のあの人脈を活かして、“上”に行けるわよ。
それはあの女にとっても、あなたにとっても“大チャンス”。」
「すべて、手に入るのよ。
白石も、すみきも――
そして、この家さえも。」
そうまは目を伏せた。
わかっている。すべて理屈ではわかっているのだ。
でも、なぜだろう――この胸の奥に刺さる痛みは。
⸻
紗雪
「そうま……。あなたは、私の誇りよ。」
そう言って、再び彼女はそうまをぎゅっと抱きしめた。
そうまはこらえきれず、涙を流した。
感謝と歓び、そして底知れぬ悲しみが混じりあった涙だった。
自分の“居場所”がようやく与えられたことへの安堵。
でもその代償として、
“自由に恋をする権利”は、いつの間にか奪われていたのだと――
心のどこかで、静かに気づきはじめていた。
⸻
【Ⅲ:密やかな芽生え ― 澄姫と藤堂】
澄姫の手術からしばらくして――
藤堂と白石は、それぞれの役割を得て、屋敷に住み込みで働くことになった。
白石は紗雪の付き人として、昼も夜も常に傍に控え、
藤堂は澄姫の家庭教師として、朝の講義と週数回の通院に同行し、
必要があれば診察や処置も行うという立場に就いた。
⸻
その日も、朝の講義室。
書斎のようにしつらえられた部屋で、澄姫は机に向かい、筆記を続けていた。
藤堂はその横に静かに立ち、時折アドバイスを送っていたが、
どうも澄姫の筆の動きは重たく、心ここにあらずだった。
藤堂(心の声)
(……さて、これはどうしたことか。
手術後、確かに一度、あの娘は俺を目で追った――
だが、今はまるで冷たい石のようなまなざし。)
(……白石の言葉通りか。
紗雪が――なにか“余計な真似”をしたということか。)
(ならば、俺の腕の見せ所だ。
小娘を“恋愛ごっこ”に引きずりこむなど、簡単なこと。)
藤堂は、唇の端だけでほほ笑み、わざと軽やかに話しかける。
藤堂
「――澄姫、最近、どうも元気がないな。
さては……恋でもしてるのか?」
澄姫はぴたりと筆を止めた。
澄姫
「……そんなこと、ありません。」
声は硬く、視線は宙を泳いだ。
藤堂はわざと少し近づいて、覗き込むように座る。
藤堂
「ほう、じゃあ“失恋”か。
表情からして、だいぶ痛手を負ったみたいだな。」
澄姫は黙ったまま、ゆっくりと視線を戻す。
だが、その目の奥に一瞬、影が揺れたのを藤堂は見逃さなかった。
⸻
澄姫の心には、母・紗雪の言葉が残響していた。
――「結婚してからも、私が寝るまで昼間はそうまを貸してもらうわ。
夜になれば、あなたに返すから――」
あれは、冗談ではない。
母の目は、本気だった。
そうまは――私のものにはならない。
でも、手放すこともできない。
母は、いつも優しく、気高く、そして恐ろしい。
私の世界は、すべて母の手のひらの中にある。
逃れられない。
⸻
そんな混乱のさなか、藤堂の声がやけにやさしく響く。
藤堂
「悩みがあるなら、俺に話してみろ。
……信頼できないか?」
その声は、あの日、手術台の上で聞こえたものに似ていた。
「頑張るんだ、澄姫。」
あのときの低い声。
麻酔のなか、なぜか澄姫の心には、その声だけがはっきりと届いていた。
思わず、澄姫は小さく答えてしまう。
澄姫
「……先生は、いつもそうやって優しくして……
本当に、わたしのこと、見てくれているのですか?」
藤堂は言葉に詰まったふりをした。
本当は、見ていない。
この家を乗っ取る計画のためだけに近づいている。
けれど――
(どうしてだろう。
この目を、まともに見られない。)
そうまの視線には耐えられた。
白石の狂気にも平然と対峙できた。
だが――この少女の澄んだ瞳には、なぜか心が軋む。
藤堂
「……おまえは、よく頑張っているよ。
あのときも、怖かっただろうに。」
澄姫の瞳に、またあの日の光が宿る。
ほんの少し、唇がほころぶ。
藤堂は、あえて背を向けた。
(……本気になるな。
ただの仕事だ。
娘が堕ちる姿を見れば、母も壊れる――
それで終わるはずだったのに……)
⸻
そして、澄姫は静かに思う。
「母よりも……先生の手のほうが、あたたかかった」
その記憶が、澄姫の心のどこかに、そっと芽吹いていた。
藤堂が澄姫の目をじっと見つめながら、優しく語りかける。
藤堂
「……おまえは、よく頑張っているよ。
あのときも、怖かっただろうに。」
澄姫の唇が、かすかに震える。
その時――
──記憶の中で、母のぬくもりが蘇る。
まだ澄姫が幼いころのこと。
高熱で寝込んだ夜、母はずっとそばについていてくれた。
氷のうを換え、額に手を当てながら、
「すみき、しんどいわね。お母様が代わってあげたいわ」と
何度も何度も囁いてくれた。
そして朝方、やっと熱が下がったその瞬間――
母は泣きながら、澄姫の額にそっとキスをした。
紗雪の声(記憶の中)
「生きていてくれてありがとう……。
あなたは私のすべてよ。絶対に一人にはしない。」
──あの日の香り。
母の柔らかな手のひら。
抱きしめられたときの鼓動。
澄姫の目に、ほんのわずか涙がにじむ。
⸻
澄姫(心の声)
(だめ……母様を裏切るような気がする……
私は、あの手に、あの愛に守られてここまで生きてきた……)
⸻
藤堂はそれに気づかず、なおも距離を縮めようとする。
藤堂
「誰にも言えないことがあるなら、俺が聴く。
……お前だけは、大切にしてやりたい。」
澄姫は、ぐっと目を閉じ、意志を取り戻したように顔を伏せる。
澄姫
「ありがとうございます。……でも、大丈夫です。」
藤堂
「……そうか。」
⸻
藤堂(心の声)
(やはり、この娘は――ただの人形じゃない。
誰かの所有物として簡単に壊せるものでは……)
彼の胸に、予定通りではない“感情”が、静かに芽吹く。
澄姫の部屋・夕暮れ
手術から数日後、穏やかな午後。
澄姫は読書をしているが、ページは進まない。
ふと、窓の外を見つめる。
その視線の先には、ふとよぎる――藤堂の姿。
ノックの音。
紗雪(優しい声)
「入ってもいいかしら、澄姫?」
澄姫
「ええ、どうぞ……お母様。」
紗雪は、銀のトレイに紅茶と小さな焼き菓子をのせて現れる。
まるで召使いのように――いや、それ以上に優雅に、丁寧に。
紗雪
「今日は特別よ。お紅茶はあなたの好きなダージリン、焼き菓子はあの店の新作。ふたりだけのティータイムって、なんだか久しぶりね。」
澄姫は小さく笑うが、その目はまだどこか遠くを見ている。
紗雪
「あの先生……藤堂先生。少し変わってるけど、真面目で優しい方ね。」
澄姫
「ええ……そうですね。」
紗雪(カップをそっと澄姫の唇に運ぶ)
「でも、あの方はあなたの“遊び相手”にはちょっと真面目すぎるかもね。
それに――あなたには、そうまさんがいるわ。」
一瞬、澄姫の指が震える。
紗雪(やわらかく笑って)
「ねえ、覚えてる? 昔、風邪で寝込んだとき……私、あなたのそばを離れなかったでしょ。
お医者様が来ても、あなたが“お母様がいいの”って泣いたの。
あのとき、私、誓ったのよ。絶対、あなたを悲しませないって。」
澄姫(心の声)
(お母様……。
私は、あなたの光で生きてきた……)
紗雪はそっと澄姫の髪を撫で、静かに言う。
紗雪
「そうまさんも、白石先生も、藤堂先生も――みんなあなたのためにいるの。
だから心配しなくていいのよ。
あなたは、何も選ばなくていい。ただ、わたしの腕の中で笑ってくれればそれでいいの。」
澄姫は、母の胸に顔を埋め、何も言えないままうなずく。
その抱擁は甘く、心地よく、だがどこか逃げ場のない牢獄のようだった
白石(心の声)
《さすがは社交界の赤薔薇――
いいえ、“話術と色香”を武器にこの国の上層を泳ぐ、女帝・紗雪。
一筋縄ではいかないわね。》
《でも、見えている。
澄姫様の心は――確実に、藤堂先生の方を向いている。》
《ならば、あの母の胸から引きはがすには……私が、母親の仮面をかぶればいい。》
白石はノックし、紅茶を携えて入室する。
⸻
白石と澄姫の会話
白石(微笑んで)
「澄姫さま、失礼いたします。
顔色が少しすぐれないように見えたものですから、お茶をお持ちしました。」
澄姫(一瞬、驚いたように微笑む)
「ありがとう……白石さん。」
カップを手にしたまま、ふとつぶやく。
澄姫
「……お母様は、どうしたら幸せなのかしら。」
白石(静かに)
「え?」
澄姫(かぶりを振って)
「……なんでもないわ。ただ、お母様の顔色が……気になって。」
白石(少しだけ表情を曇らせて)
「お母様は、何やら……いろいろとお考えのようですね。」
澄姫
「わかるの?」
白石(カップを置いて、ふっと微笑む)
「はい。そして、一つ名案がございます。」
澄姫
「名案?」
白石
「そうま様から伺いました。
彼は“昼間はずっとお母様のお世話係”だとか。
それでは、お嬢様があまりに哀れです。」
澄姫(驚き)
「……!」
白石(優しくも、鋭く)
「ですから、こう提案なさってはいかがでしょう。
“お母様、私はそれでもいい。でも、そのかわり、昼間は藤堂先生をずっと私の傍にいていただけますか”――と。」
澄姫(震えながら)
「……そんな、私……母に不誠実をするようなこと……」
白石(微笑を崩さず)
「勇気を出すのです。
そんなことでは、幸せなんて、つかめませんよ。」
澄姫はカップを見つめながら、問いかけるように呟く。
澄姫(心の声)
《幸せって……なんだろう。
藤堂先生を“所有”すれば、それで私は――幸せになれるのかしら。》
白石はその沈黙を見逃さず、まくし立てる。
白石(芝居がかった明るさで)
「せっかくお母様が、“藤堂様との楽しいお勉強”をご用意くださったのに、
お嬢様が勉強に熱を入れないようでは――
とても“幸せ”なんか掴めませんわね?」
澄姫の頬が赤くなり、決意をこめた眼差しになる。
澄姫(心の声)
《そうね……その通りだ。
婚約とか母の決めたことは一旦忘れて……明日から、私は――藤堂先生との勉強に集中しよう。
それが、私の“幸せ”への第一歩……かもしれない。》
【シーン】藤堂との午後の勉強
陽が傾きかけた午後、書斎にて。
開かれた医書とノート、筆記具の音。静かな空間に、時計の針の音だけが響いている。
藤堂(淡々と)
「…では、内因性疾患における脳血管障害の分類を。」
澄姫(ノートを見つめながら)
「…ええと、脳梗塞、脳出血、くも膜下出血…それから…」
(ふと藤堂を見る)「あの、これは…原因の区別も必要ですか?」
藤堂(目を伏せながら答える)
「原因はすべてではないが、見極めには不可欠だ。
脳の“静けさ”の中に、どんな嵐が潜んでいるか。君が診るのは、外ではなく、内だ。」
澄姫(少し感動して)
「……“静けさの中の嵐”。先生、詩人みたい。」
藤堂(目を合わせず苦笑)
「……医師というのは案外、詩人の資質を求められる。」
沈黙。
澄姫は机に向かっていたが、ふと顔を上げる。
澄姫
「先生。」
藤堂
「……なんだ。」
澄姫
「どうして、医者になろうと思ったの?」
藤堂(一瞬だけ顔がこわばる。けれど)
「……人を助けるため、というのは、表向きの理由だ。
ただ、“命の秘密”をこの目で見てみたかった。」
澄姫(目を輝かせて)
「命の秘密……」
藤堂(少しだけ、目を細めて澄姫を見つめる)
「……君も、そうなりたいのか?」
澄姫
「……わたしは、先生のように人のことを真剣に見つめられる人間になりたいと思ってる。
いつも冷たいふりしてるけど、先生……手術のとき、わたし、見てた。」
藤堂(表情が動く)
「……見られていたのか。」
澄姫
「先生の手が、わたしの中を動いているって、夢の中で感じたの。
すごく不思議で、安心したの。ああ、あの人はわたしを“生かそう”としてくれてるって。」
藤堂(沈黙。目を伏せる)
「……澄姫。」
澄姫(真っ直ぐに)
「はい。」
藤堂(ゆっくりと顔を上げて)
「お前は……本当に、あの母上の娘なのか?」
澄姫(微笑む)
「ええ、そうみたい。でも……先生と話してると、わたし、自分のことが少しだけ好きになれるの。」
藤堂(胸の奥で何かが疼くのを感じながら)
「……変な女だな、お前は。」
澄姫
「よく言われます。」
書斎の午後、静かな会話のつづき
澄姫(ふと窓の外を見ながら、静かに)
「お母様はね……きっと、私たちを“所有”しようとしてるの。
でも、所有してしまったら……あんな手術はできないと思うの。」
藤堂(目を細める)
「……なぜそう思う?」
澄姫(目を伏せながら)
「失うことを恐れて、縛ってしまう。そうすると、息が詰まってしまうの。
お母様は……そうまのことも、私のことも、きっと失いたくないだけ。
だけどその恐れが、わたしたちを“誰かのもの”にしてしまう。」
藤堂(低く)
「……愛することは、時に、恐れと紙一重だ。」
澄姫(頷いて)
「そう。
だけど……私も、そうまも、お母様のこと大好きなの。逃げたりしない。
信じてくれれば、それでいいのに。」
(沈黙が落ちる。窓の外で鳥の声がする)
澄姫(顔を上げて)
「先生、どう思う?」
藤堂(ゆっくりと息を吸い、そして遠くを見るように語る)
「……そうだな。
あの手術のとき、俺は……“愛しい”と思った。
だがその分だけ、恐ろしかった。
……愛しいものを失うのは、いつも怖い。」
(澄姫、じっと藤堂の横顔を見る)
藤堂(目を伏せ、静かに)
「でも……俺には、沙織という女がいた。
彼女は、命をかけて教えてくれたんだ。
“愛しているなら、手を放してでも、その命を生かせ”と。」
澄姫(息を呑む)
「沙織さん……先生の大切な人……?」
藤堂(頷く)
「そうだ。……そして、もうこの世にはいない。」
(沈黙。澄姫は静かに、机の上の手帳を閉じる)
澄姫(小さく微笑む)
「先生……ありがとうございます。
なんだか、いまの言葉、すごく勇気が出ました。」
藤堂(一瞬だけ、少年のような目をして)
「……不思議だな。
君と話すと、俺も“生きている”と感じられる。」
姫(少し笑いながら、でも真剣な目で)
「それにね……そうま、最近ちょっと面白くないの。」
藤堂(軽く微笑む)
「それはまた突然だな。なにかあったのか?」
澄姫(机に頬杖をついて)
「昔はね、もっと一緒にふざけたり、笑ったりできたの。
でも最近は、私の“婚約者のふり”を必死にこなしてる。
なんだか、あの人、自由を忘れてしまったみたいなの。」
藤堂(静かに)
「……“自由”か。」
澄姫
「わたしも社交界に出ると、自由なんてないのよ。
笑い方も、歩き方も、会話の中身すら決められていて。
たぶん……お母様も昔そうだったんだと思う。
だから、“わたし”のことも、枠の中に収めたくなるのよね。」
(藤堂、黙って聞き入る)
澄姫(少し瞳をきらめかせて)
「でもね、最近気づいたの。
勉強や礼儀作法だって、“自由に”できる方法があるって。
発想の転換よ。
コツさえつかめば、きっと“自分らしさ”を失わずにやれるの。」
藤堂(穏やかな声で)
「それに気づいた君は、もう大人だ。」
澄姫(微笑む)
「そう教えてくれたの、白石さんなのよ。
あの人、いちばん自由そうに見えるでしょう?
でも裏では必死に工夫してるの。
媚びるときは媚びるし、引くときは引く。
全部、“自分の自由を守るため”に。」
藤堂(思わず息をのむように)
「……君は、白石に学ぶのか?」
澄姫(笑う)
「意外だった? でもあの人、言ってたわ。
“自由っていうのも、結局は考え方ひとつ”。
それを聞いて、なんだか楽になったの。」
(しばらく静寂)
藤堂(低く)
「……白石は、自由を生きるために、何かを捨てた女だ。
それを美徳とは呼ばない者もいる。」
澄姫(小さく微笑む)
「それでも私は、あの人が“真剣に自由を生きようとしてる”ことを尊敬してるの。」
藤堂(目を閉じて頷く)
「……それなら君は、誰の真似でもなく、君の“自由”を見つけなさい。」
澄姫(静かに)
「はい。」
素晴らしい展開です。
藤堂の「理性と情熱の間で揺れる葛藤」、そして「すみきへの無意識の愛と希望」がじわじわと表に出てきますね。
以下は、藤堂視点の内面描写と、すみきとの勉強シーンの始まりを描いた一幕です。
彼の感情の揺れ、そしてすみきの賢さへの驚きと期待を軸に描いています。
⸻
(夜。書斎のランプの明かりが揺れる。藤堂は机に並べた資料に目を落としながら、ふと天井を見つめる)
藤堂(心の声)
──なんだ、この気持ちは。
あの白石の策を……真正面から突こうとする。
それも、ただ感情にまかせるのではなく、冷静に、論理的に、抜け道を探している。
まるで……いや、あれはまさに、戦略だ。
まさか、澄姫がここまでの思考をするとは。
白石ですら油断していた。あの女狐に、隙を生ませるとは。
(ため息と共に立ち上がり、窓の外を眺める)
藤堂(心の声)
これは、まずい。
可愛いだけの少女として見るべきではない。
このままでは……私は、彼女に“惹かれてしまう”。
だが──
その“惹かれ”の中に、どこか救われる思いがあるのはなぜだろう。
澄姫が勝てば、この家の呪縛も、白石の執着も、母親の狂気も、すべてを超えるかもしれない。
……それは、沙織が願っていた未来だ。
(書棚から本を取り出し、数冊を手に持って勉強机へと向かう)
⸻
(翌朝。日が差し込む部屋で、すみきがノートを広げて待っている)
藤堂(やや改まった様子で)
「おはようございます。……今日は、少し違う話をしよう。」
すみき(きょとんとしながら)
「え? 今日は医学の復習では?」
藤堂(うなずきながら本を広げる)
「それもするが……君のように賢く、発想が柔軟な人間には、もっと“社会を生き抜く力”を知ってもらいたいと思った。」
すみき
「……生き抜く力?」
藤堂(真剣に)
「たとえば、医療と法律の関係。
医者が行う行為には、倫理と法的リスクが常につきまとう。
そのバランスをどのようにとるか。
そして──
もし君が何かの活動をしたいと思ったときに、どう人を動かし、仕組みをつくり、社会の波に乗るか……マーケティングという考え方も必要だ。」
すみき(目を見開いて)
「まるで、藤堂先生が“わたしの未来”に希望を託してくれてるみたい……」
藤堂(目をそらしながらも微笑して)
「……そう思ってくれていい。
教えられることはすべて、君に教えるよ。」
貴族のサロン、夜会の場にて——
すみきは、微笑を絶やさず、ドレスの裾をそっと揺らしていた。白石に習った通り、視線を一点に留めすぎず、話す相手の言葉を拾いながら軽やかに応じる。その姿に紗雪は、我が娘ながら見惚れていた。
白石(内心):「この子……私を超える日が来るかもしれない」
「藤堂がすみきの動きから王族との関係
⸻
〈夜会の一幕:すみきの気配と藤堂の観察力〉
シャンデリアが煌めく、王宮付き伯爵主催の夜会。
シャンパンの泡がきらきらと舞い、社交界の名士たちが優雅に言葉を交わすなか——
藤堂は壁際に控えめに立ちながら、会場の流れを読んでいた。
その視線は、すみきのほうへ自然と導かれる。
彼女は特別目立つわけではない。だが、会話のタイミング、目配せ、立ち位置——
どれも、計算されたように流麗で、周囲の空気を自然に和らげていた。
藤堂(内心):「……あれは、白石では教えきれない“呼吸”だ。場の重心を見抜いて動いている」
と、すみきが一人の老貴族に近づいた。
その人物は、他の誰も話しかけようとしなかった、王家分家の厳格な大公。
会話はわずか数分。けれど、彼の表情に微かな笑みが浮かぶ。
藤堂のもとへ戻ったすみきが小声で言う。
すみき:「……怖そうな顔だけど、紅茶の話を振ったら、すごく嬉しそうに話してくださったの。
本当はとても寂しがり屋のおじさまなのかもしれない」
藤堂、驚きと共に微笑む。
藤堂:「君は…王家の空気の扱い方を知っているんだね。これは偶然じゃない」
そこへ、件の老貴族——王家の大公が、藤堂に声をかけた。
大公:「君は……澄姫嬢のご学友か? 先ほどの彼女の機転と礼儀には感服した。
……実に良い躾だ。いずれ、陛下の席でも通用するだろう。
どうか、あの娘をよく支えてやってくれたまえ」
藤堂、一瞬の沈黙ののち、深く一礼。
藤堂:「このうえない光栄です。……約束いたします」
(背後ですみきは、恥ずかしそうに微笑む)
その夜、藤堂の評価は一気に高まり、
すみきもまた、静かに王族筋への“信頼”を獲得した。
だが、それは誰の目にも明らかではなかった。
彼女は、ただ軽やかに、夜の舞踏へと歩を進めていく——
自分が“王家の目”に留まったことなど、まだ気づかぬまま。
⸻
煌びやかな宮廷舞踏会――
黄金のシャンデリアの光の下、すみきは母・紗雪に連れられ、藤堂と共に会場へ足を踏み入れた。
藤堂はすぐにすみきの視線を追い、彼女が誰に微笑み、誰と挨拶し、誰の言葉を丁寧に聞いているかを観察していた。
そしてすみきが特に気を使っている相手――ひとりの年配の女性に気づいた。威厳がありながら柔らかな笑み。すみきの声が一段と慎ましくなった。
「陛下に仕える公爵夫人…王室筋の方ですね。」
藤堂が低く呟いた。
「あのご婦人には、私も昔、舞踏会でお世話になりましたの。」
後ろから静かに歩み寄ってきた紗雪が微笑む。
「娘は見ての通り、まだ未熟。でも、私と違って“あちら”から見ても、品格と愛嬌があるようで――ええ、王族筋からの評判も悪くないのです。」
その言葉に藤堂はすみきをもう一度見た。
小さな身体で、誰よりも堂々と舞う少女。周囲の空気を読み、言葉を選び、相手の心を動かしている。
白石はその様子を遠くから見ていた。
「やっぱり、あの子は侮れないわね。」
そうまも、白石の助けで恐る恐る会話に加わりながら、すみきの周囲に溶け込もうとしていた。
⸻
――まったく、若い子たちはぎこちないものね。
その様子を、グラスを軽く揺らしながら紗雪は見つめていた。
白石とそうまは上出来だ。
すみきも、まあよくやっている。だが王族相手にぎこちなく微笑むその姿を見て、
(まだまだね)と心でつぶやいた。
その瞬間、紗雪は音もなく進み出る。
まるで舞台に女王が降り立つように。
「殿下、お噂を伺いまして――」
柔らかな声と絶妙な間合い、すっと差し出した手に、王族の目が一瞬輝いた。
「これはこれは、紗雪夫人。あなたのドレスはまるで春の月のようですね。」
「まあ、それは殿下の優しさの賜物ですわ。」
ほんの一言で場の空気が和らぎ、笑いがこぼれた。
――それだけで、すみきの緊張もほどける。
隣に立った紗雪が自然とすみきを紹介する流れをつくり、
「実は娘が殿下の学問への関心に感銘を受けておりまして」と話を導いた。
王族の目がすみきを捉えた。
「では、いずれ私の主催する文化会にもご招待いたしましょう」
「まあ、それは光栄です。ですが――」
紗雪は一瞬、目を伏せて小さく微笑む。「本日は、もうひとつお願いがございましたの。」
そう言って、病院でのすみきの手術の話を簡潔に、しかし情熱を込めて語る。
「今後の若者の命を守るためにも、ぜひ貴族の皆様のご協力をいただきたく存じます。」
その場にいた数名の貴族たちが、気づけば頷いていた。
「夫人のためなら」と言わんばかりに。
――それが、紗雪という女。
すみきにはまだ真似できない。
白石にも届かない。
そして、藤堂が密かに見惚れるのも無理はない。
その日の夜、寄付の申し出が複数届き、病院は新しい設備導入の見通しが立った。
すべては、女王の一歩によって導かれた結果だった
すみき視点 〜自分も何か成したい〜
「……やっぱり、すごいわね。お母様。」
社交の夜が更け、控室に戻ったすみきは、鏡の前でポツリとつぶやいた。
自分がもたついた会話の続きを、母は一瞬で優雅に引き取り、場をまとめた。
王族と笑い合い、寄付の約束まで取りつけた姿は、まるで物語の中の女王のようだった。
「悔しい……のかしら、それとも、尊敬……?」
そんな複雑な思いを抱えたまま部屋に戻ると、そこには藤堂がいた。
彼は淡々とノートをめくっていたが、すみきの様子を見て、ふと顔を上げた。
「今日のあなたの姿、悪くなかったですよ。初めての舞台としては。」
「でも……結局、全部お母様に助けてもらった。」
すみきは座り込み、小さな声で続けた。
「わたしも、何かを成したい。
ただの娘とか、ただの婚約者とかじゃなくて……自分の足で、何か。」
藤堂はノートを閉じ、椅子から立ち上がって近づいた。
そして静かに言った。
「では、まず“相手の欲しているもの”を読み取りなさい。
それは言葉ではない。
表情、視線、呼吸、沈黙――そういう“余白”にこそ、本当の意図が現れる。」
すみきははっとして顔を上げた。
「……先生は、それで手術の時も?」
藤堂はゆっくり頷いた。
「そうです。
患者の身体も、心も、時に沈黙します。
声にならない願いを読み取れる者が、本当に人を救える。」
彼の目は真剣だった。
「あなたは勘がいい。
白石さんの戦略の裏を読もうとする視点もある。
ただ……感情に流されやすい。
だからこそ、訓練するのです。」
「……どうやって?」
「観察し、記録する。相手の話したこと、話さなかったこと。
声の調子や目の動き。
いずれ、それがあなた自身の“武器”になる。」
すみきは小さくうなずいた。
「わたし、やります。
お母様を追い越したいんじゃない――
並んで、堂々と肩を並べたいの。
自分の力で。」
その言葉に、藤堂の口元がわずかに緩んだ。
「それでこそ。……いい弟子を持ちました。」
そして、夜の帳の中で、二人の静かな勉強がまた始まった。
すみき、初めての小さな勝利
華やかな音楽と香水の混じる夜会の空気。
今宵の舞踏会には、地方から訪れた小国の公子が顔を出すと噂されていた。
白石と藤堂、そして紗雪はそれぞれの立ち位置で動いていたが、すみきには「今夜一度、自分の判断で誰かと会話してみること」が密かな課題として与えられていた。
「すみきさま、さあ、ご一緒に。」
白石がそっと手を引く。軽く舞踏会の中心から離れたサロンで、控えめに佇んでいた青年に目を向けた。
どこか気後れしているその青年こそ、噂の小国の公子だった。
「……あの方、話しかけられるのを待っている気がするわ」
白石はそう言いながら、一歩引いた。
この場は、すみきに任せるという無言の合図だった。
すみきは深呼吸して、ゆっくり歩み寄る。
「おひとりですか? こちら、少し静かで落ち着きますよね。」
公子がふっと笑った。「まるで、空気を読まれたようです。」
その一言で、すみきは確信する。
――あ、今、うまく入れた。
続けて、藤堂の教えを思い出しながら観察する。
目の動き、手元のグラス、スーツの襟元……落ち着きのなさと手持ち無沙汰。
「もしよろしければ、この館の見どころ、お話してもいいですか?
実は私、社交よりも建築や装飾品の方が好きなんです。」
公子の目がぱっと輝いた。まさにそれが彼の得意分野だった。
会話は自然に進み、すみきは相手の言葉を引き出し、質問し、時に笑い、時に驚いてみせた。
白石が陰で小さく頷いているのが見えた。
藤堂も遠くから視線を向けており、口元がごくわずかに緩んでいた。
その夜、青年公子は帰り際にこう残した。
「今日一番楽しかった会話でした。今度、母国にもぜひいらしてください。」
その言葉を聞いた紗雪も、白石も、思わずすみきに視線を送る。
すみきは、少し頬を赤らめながらも、真っすぐに立っていた。
それは、彼女がはじめて自らの力で掴んだ、誇りある“勝利”だった。
⸻
◇ それぞれの想い ― 舞踏会の余韻
青年公子が去ったあと、会場の熱気が少しだけ落ち着きを取り戻す。
すみきは、深く息を吐き、少し肩を落とす。
その姿を遠くから見つめていた藤堂は、まるで胸の奥を不意に突かれたように、息が止まるのを感じた。
――いま、彼女の眼差しは、まっすぐに俺に向けられていた。
理性で制してきた感情の蓋が、微かに揺らぐ。
彼女の視線は、子どものそれではない。
師弟ではなく、ひとりの“女”として自分に向けられていることを、藤堂ははっきりと自覚した。
その横顔を、白石がすっと目を細めて観察していた。
笑みは浮かべず、ただ静かに口角が持ち上がる。
(ふふ、上出来。まるで私の計算どおり。やはり才能は、鍛えてこそ輝くもの。)
感情を乱さないこと。計算に情を挟まないこと。
それが白石の強みであり、恐ろしさだった。
彼女の目には、すでに次の一手が映っている。
一方、社交の輪から少し離れた場所――
紗雪は、赤ワインのグラスを指先で回しながら、ゆっくりと周囲を見回していた。
(……娘は確かに成長している。あの場の空気を読む力も、人を見る目も、私の想像以上。
だが、問題はその裏にいる“教え手”たち。)
白石は優秀だ。だがその野心も、手腕も、まだ見極めきれない部分がある。
藤堂も、危うい。
あの娘に想いを寄せるようなことがあれば、すべての均衡が崩れかねない。
(娘も、彼らも、我が家にとって重要な“駒”。
ならば私は……盤そのものを操る者として、立ち位置を保たなければ。)
女王の風格をたたえながらも、紗雪の眼差しは鋭さを増していた。
――今宵は、ただの社交ではない。
戦略と感情が交錯する、静かな戦場だったのだ。
⸻
⸻
◇ 舞踏の夜 ― 社交界に花咲く一幕
夜も更け、舞踏会の盛りは最高潮に達していた。
天井のシャンデリアが金糸のような光を落とし、ヴァイオリンの旋律が優雅に空間を満たす。
「お嬢様、そろそろ…いかがですか?」
そうまが、やや緊張した面持ちですみきに手を差し出す。
「ええ…ありがとう」
すみきは、ほんの少し頬を赤らめながら立ち上がった。
母・紗雪の目線を感じたが、今は気にしない。
初めての公式の場での社交ダンス。
しかも相手は、見目麗しき紗雪付きの従者として人気急上昇中の“そうま”。
踊り出せば、すぐに周囲の視線が二人に注がれる。
ぎこちなさを隠すように、すみきは息を整えた。
「大丈夫ですよ、お嬢様。リードは任せてください」
そうまの言葉に、すみきは一瞬不安を忘れた。
そして、音楽が回り出す。
くるり。
一歩、また一歩。
すみきのドレスの裾がふわりと舞い、二人の動きがまるで夜空をなぞる星のように軽やかに溶け合っていく。
「……あなた、成長したわね」
と、すみきが小さな声でそうまにささやく。
「白石さんの教えのおかげです」
そうまは照れたように笑った。
遠くから見つめる白石は、口元に紅茶を運びながらうっすらと満足げに微笑む。
「……悪くないわね。そろそろ、次の段階かしら」
その隣、藤堂も静かに二人のダンスに目を細めていた。
すみきの足さばきに、不思議な芯の強さと品格を見たからだ。
(あの子はやはり、“姫”として舞台に立つ資格がある)
だが、彼の視線が思わず釘付けになったのは、
ダンスの終盤、すみきがちらりと彼の方にだけ視線を送った、その一瞬。
その瞳はまるで、「わたしを見ていて」と語りかけるようだった。
――その想いに、藤堂の胸がまた、静かにざわついた。
そして、拍手。
紗雪がゆっくりと手を叩き始め、それに続いて王族たち、貴婦人たちも称賛を送る。
「お見事ですわ、すみき様」
「お育ちの良さが、動きの一つひとつに出ていらっしゃる」
その夜、すみきの名は、初めて**本物の“社交界の華”**として刻まれた。
◇ テラスにて ― 白石とそうまの対話
「ずいぶん様になってきたじゃない、そうま君」
そうまは振り返り、少し照れたように一礼する。
「恐縮です。でも……緊張してました」
「緊張は、悪いことじゃないわ。あなたの手は少し震えていたけど――すみき様は、安心して身を預けてた」
「……そう見えましたか?」
白石はグラスをくるくると回しながら、柔らかく目を細めた。
「私はいつも“事実”を見るようにしてるの。あなたは、十分に信頼を得ていたわ」
そうまは黙ってうつむく。
すると白石が、少しだけ声を潜める。
「だけど――社交界では“信頼”だけでは生き残れない。知っている?」
「……ええ。最近、身に染みてわかってきました」
「可愛いだけの男の子じゃ、飽きられるのも早い。
でも、あなたには“内に熱を抱えた強さ”がある。それを、女たちは見逃さないわよ」
白石は、そうまの襟元をそっと整えながら続ける。
「あなたは“自分の意思で、誰かのために戦う”ことを覚えた。
それを知った女たちは、あなたをもっと手に入れたくなる」
「……そんなふうに、なれるでしょうか。僕も」
「いいえ。もう、なっているのよ」
そうまの頬がほんのり赤く染まり、言葉を詰まらせた。
白石は、いつものように笑わないまま、ふっと目を細める。
「いい男になったわね、そうま君。
でも――気をつけて。ここからは、“賢い女たち”との戦いよ」
そうまは息を呑んだまま、黙ってうなずいた。
そしてその視線の先には――
まだ舞踏会の余韻の中、まばゆい光に照らされるすみきの横顔があった。
ワルツが終わり、次に流れ出したのは情熱的なタンゴの旋律。
ざわめく会場――誰が誰を誘うのか、静かな駆け引きの始まり。
その中で、白石が一歩前に出た。
黒いドレスの裾をさばきながら、堂々と手を差し出す。
「そうま君、踊るわよ」
そうまは一瞬戸惑ったが、白石の目の奥の冴えた光に圧されるように手を取った。
周囲の視線が二人に集まる――だが、次の瞬間、その全てを黙らせるように、彼らは踊り始めた。
白石はリードする。
鋭く足を踏み出し、回転しながらそうまを引き寄せ、押し出す。
一見すると男女逆。
だが、その圧倒的なキレと気迫、音楽との一体感に、誰もが目を奪われた。
そうまは最初こそ戸惑いを見せていたが、
白石の手の強さ、ステップの確かさにすぐ応じた。
――軽やかに。鋭く。
心と身体が溶け合い、彼女の気を感じながら動く。
そうまは、彼女の内に秘めた炎と、舞台で踊っていた頃の記憶がリンクしていくのを感じた。
そして――クライマックス。
白石が強く腕を引くと、そうまは宙を舞うようにスピンして、ぴたりと白石の胸元に吸い寄せられる。
静寂。
一拍置いて、会場中がどよめいた。
――まるで男女の役割も、社会の序列も、何もかもを飛び越えた完璧な舞台。
そこにいたのは、ただひと組の、プロのようなペアだった。
「……あなた、ようやく“踊れる顔”になってきたわね」
ダンスを終えた白石がそうまに耳打ちする。
そうまは、汗のにじむ額に手をやり、少しだけ笑ってうなずいた。
「教えてくださったからです。白石さんが」
白石の唇が、ほんのわずか、愉しげに歪んだ。
「さて――そろそろ、あなたの本領、見せてもらうわよ?」
素晴らしい流れです。それでは、
白石とそうまのダンスのあと――引き際を心得たそうまの姿と、すみきと藤堂の運命的なダンス
をシーンとしてお届けします。
⸻
◇ フロアの余韻、そして新たな一舞 ― すみきと藤堂
白石との華やかなダンスを終えたそうまは、軽く一礼し、会場の空気の熱に包まれながらも、静かにフロアをあとにした。
「今夜は……ここまでにしておきます」
控えめに言ったその言葉は、誰にも届かぬ小さな囁きだったが、
それは彼の誇りであり、限界を悟った“美しい引き際”だった。
彼の背には汗がにじんでいた。
あれほどキレのある動きについていったのは、全て白石のリードあってこそ。
それでも――彼は、自分なりに“踊れた”ことを、密かに誇らしく感じていた。
一方、白石は涼しい顔でグラスを手にしながら、
「ふふ、あの子も捨てたもんじゃないわね」
と誰に言うでもなく呟く。
そして――照明がほんのりと落ち、
バンドが優雅な、しかしどこか哀愁のあるワルツを奏ではじめたとき。
人々の視線が、二人の姿に吸い寄せられていく。
すみき。
白のドレスが、まるで淡い月光を身に纏ったように揺れていた。
そして藤堂。
静かに手を差し出すその佇まいには、凛とした気高さと、抑えきれぬ情熱があった。
二人が踊り始めた瞬間――
誰もが、息を飲んだ。
すみきが藤堂の胸元にそっと寄り添うと、藤堂の手が確かに彼女の背を導く。
軽やかに舞うようで、芯にあるものは激しい。
――ぴたりと合う呼吸。
ふとした視線、ふとした触れ合いが、なぜか既視感を誘う。
(この手を知ってる。この瞳を、私は――)
その瞬間、
すみきの頭の奥に、白く燃えるような記憶の閃光が走った。
波音――冷たい石畳――金色の光に包まれた祭壇。
剣を持つ若き騎士と、白いヴェールをまとった姫。
「……あなたは……!」
心の奥で叫びが響いた。
だが身体はそのまま――藤堂と共に、音楽の最後まで、完璧な調和のまま踊り切った。
終わった瞬間、
藤堂は確かに何かを感じていた。すみきの震える指先、その微かな吐息。
(これは……過去の記憶? まさか……)
二人の間に言葉はなかった。
けれど、まるで世界が一瞬、凍りついたような静けさがあった。
会場の拍手が、ようやくその沈黙を破る。
そうまは遠くからそれを見ていた。
そして、なぜか胸の奥に、熱く、重い何かがこみ上げてきていた。
白石は――静かにグラスを傾けながら、
「ようやく幕が開いたのね」と、唇の端をほんの少しだけ、綻ばせた。
◇ アンコールのワルツ ― 世界に、二人だけ
万雷の拍手が、まだ鳴りやまなかった。
観客たちは、今のあの奇跡のようなダンスの余韻から、抜け出せないでいた。
そこに――アンコールの鐘のように、
ゆっくりと、流れるようなスローワルツの旋律が、始まった。
弦が甘く泣き、ピアノがそっと息をつく。
灯りが柔らかくなり、空間が一段と静かに染まっていく。
最初に動いたのは白石だった。
グラスを置き、手を差し伸べた相手は――そうま。
「今夜のご褒美よ。もう一度だけ踊ってあげる」
そうまは照れながらも頷き、
再び“逆転のペア”が滑るようにフロアへ。
続いて、紗雪がすっと身を起こし、微笑んで手を伸ばしたのは――
彼女の古くからの盟友、太公だった。
「王も、踊らねば場が冷えるわ」
王族の間にさえも、ふっとあたたかい風が流れる。
けれど。
その中心で、藤堂とすみきだけは、一歩も動かない。
――というより、もうすでに踊っていた。
目に見えぬ舞。
一息、一呼吸。
指と指が重なり、背と胸がかすかに触れ、
互いの鼓動と体温だけが、世界を構成していた。
音楽が続いていることさえ、彼らにはもう聞こえていない。
すみきの瞳に映るのは、ただ藤堂。
藤堂の耳に届くのは、すみきの浅い息遣い。
あまりに近くて、遠い。
触れ合いながらも、言葉を失い、
心の奥に、何かが流れ込んでくるような感覚。
――これは、恋?
それとも、もっと深い、何か?
「……すみき……」
藤堂が名を呼んだとき、
すみきはそっと目を伏せた。
その目元には、ほんの一筋の涙が光った。
「ごめんなさい……いま、わたし……どこにいるのかわからないの……」
「ここにいる。ずっと、俺といる。心配ない」
⸻
◇ 舞踏会、最後の幕 ― 女王と継がれゆく愛の舞
音楽が、また始まった。
終わったはずのオーケストラ。
誰もが一息つき、ワインに手を伸ばそうとしていた、その瞬間だった。
最初の一音で、空気が変わる。
まるで夜の海がざわめくように、楽団が一斉に動き出す――
13拍子。
狂おしいまでに難解で、危うく、挑発的な旋律。
「……この曲は……」
白石がつぶやく。
「“Le sang de la rose”《薔薇の血》」
社交界でも滅多に演奏されない伝説の舞曲。
その場にいた誰もが目を奪われた。
踊り出したのは、紗雪とそうま。
濃紅のドレスが炎のように舞い、
紗雪はゆっくりと、けれど確実に空間を制圧していく。
そうまは――踊っていない。
抱かれていた。
「……あぁ……」
彼の瞳は、半ば閉じていた。
導かれるままに、
指先が、腰が、首が、紗雪の熱にゆっくりと染まっていく。
支配と陶酔。
まるで彼の人生をなぞるように、紗雪はその身体を踊らせる。
「……やってくれるわね……」
白石は舌打ちした。
その脳はすでにステップを解析し始めているが、
覚えるだけで精一杯。
「やはり紗雪さまは……女王」
藤堂も呟いた。
観客たちはすでに、息を呑んでいた。
まるで最後の薔薇の香りに酔わされるように、舞踏会はその極みに達していた。
――が。
たったひと組。
その空気に**呑まれなかった二人がいた。
そう、すみきと藤堂だった。
二人は音楽に乗らず、息に乗った。
一歩。
呼吸を揃え、互いの鼓動だけを聞きながら――
世界がどれほど騒がしくとも、
その空間だけは、
静謐な深海。
すみきの手が、藤堂の背に回る。
藤堂はそれを優しく引き寄せ、囁く。
「恐れなくていい。ここにいる、俺が」
「うん……先生がいるから、踊れる」
その目には、もはや観客も、母の存在さえも映らない。
彼女が見るのは、**いま、この瞬間の“自分”**だけ。
その“愛の舞”は、誰よりも技術に勝り、
誰よりも官能に勝った。
観客たちは、何に感動しているのかもわからぬまま、
そっと涙を流していた。
すべてが終わった――
そのはずだった。
だが、オーケストラは、
その二組の舞の余韻に導かれるように、
ほんの一音だけ、
そっと、和音を鳴らした。
静かに――
夜が幕を閉じた。
⸻
⸻
◇ 翌朝 ― 静けさの中に蠢く者たち
鳥のさえずりが、遠く窓の外から聞こえていた。
舞踏会の余韻をまだ帯びる屋敷の朝は、
一見すると穏やかで優雅なものだった。
だが――
その奥には、いくつもの思惑が静かに芽吹いていた。
⸻
◇ 紗雪の内心
(よくやったわね、白石。あれだけの人脈と技術……やはり手放すには惜しいわ)
化粧鏡の前で、髪を結い上げながら、紗雪はゆったりと笑んでいた。
満足げに、昨夜の舞踏会の勝利を反芻する。
けれどその瞳は、冷静に計算を重ねていた。
(白石……あの女、手を緩めたらきっと裏をかく)
(藤堂も……まさかあそこまで踊れるとは。何かが…戻ってきている)
「ふふ……厄介ね。便利な女と男は、しっかり縛っておかないと」
彼女は朝食のあと、白石を呼び出す決意を固めていた。
⸻
◇ 藤堂の決断
一方、藤堂はその朝、早くも荷造りを始めていた。
すみきと、距離を取るための名目を探していたのだ。
「……俺は、間違えない。感情を、仕事に持ち込まない」
そう呟きながらも、
指は震え、スーツケースに落とした手袋を拾うのに少し時間がかかった。
(彼女が目立ちすぎた。俺まで巻き込まれるわけにはいかない)
(……いや、違うな)
(俺自身が、彼女に溺れかけている)
だからこそ、離れねばならない。
そう決めたはずなのに――
すみきのことが頭から離れなかった。
⸻
◇ 白石の静かな罠
そして、白石は書斎にこもっていた。
昨日のダンスのことなど、まるでなかったかのように、淡々と書類に目を通している。
(紗雪さま……もうわかってるでしょう?)
(わたしの仕事は、ここで終わるつもりはありません)
彼女の視線は冷たく、狡猾で、美しかった。
(そうまもすみきも、藤堂も――全員、駒として動いてもらうわ)
(わたしに触れるなら、必ず何かを失う。それをお忘れなく)
彼女はすでに、
「次の一手」を、相手に打たせるための誘いを配置していた。
⸻
◇ 澄姫と藤堂 ― 沈黙の朝
そして、すみきは窓辺にいた。
黙って、朝陽を浴びながら立ち尽くしている。
その背後に、藤堂がいた。
けれど、言葉はなかった。
二人とも、何も言えなかった。
昨夜、あまりにも濃密だった“あの瞬間”の余韻が、
まだ身体の奥に、熱をもって残っている。
お互い、いまは自分の中の想いで精一杯だった。
もう、何も入らない。
それでも――
澄姫の髪が、陽の光に透けた瞬間。
藤堂の心は、ひどく痛んだ。
(……どうして、お前なんだ)
けれどそれを口にすれば、
何かが崩れる気がして、
彼はただ、黙って立ち去った。
⸻
静かな朝の中で、
表には出ない火花が、
それぞれの胸の内で燃えはじめていた。
舞踏会の翌夜 ―― 紗雪の私室にて
(以下、シーン構成+台詞で)
⸻
【Scene:静かな灯のともる部屋 薄く香が焚かれている】
紗雪はいつもの女王の衣を脱ぎ、
絹のようなスリップドレスで、窓辺に腰掛けていた。
その視線の先、ドアが静かに開き、白石が現れる。
⸻
紗雪(微笑を含んで)
「白石さん、昨夜は……素敵だったわ。
あのみのこなし、そうまをうまくリードしながらも目立たないように控えるその姿、
まるで……影の女王ね。私の踊りも、一挙一動見逃さず、自分の身体に刻み込んでいたのでしょう?」
⸻
白石(ゆっくりと歩み寄る)
「恐れ多くも、わたくしは……
あなたの所作に、心を奪われてしまいました。
もしかすると、すでに……紗雪さまに惚れていたのかもしれません」
⸻
(沈黙。柔らかく、だが鋭い目で互いを見つめる)
⸻
紗雪(少しだけ首を傾げ、唇に笑み)
「そうまより……私の恋人にならない?」
⸻
白石(わずかに微笑み返し、声は静か)
「わたくしには、恐れも羞恥も……もうとうにございません。
女王様の玩具になることが、命を燃やすことなら――」
⸻
(紗雪が静かに立ち上がる。
目を細め、白石の前髪をなぞり、頬に触れる)
⸻
紗雪
「……違うのよ、白石さん。
あなたは“玩具”じゃない。
私は……あなたを“私と同じもの”として見ているの。
孤独で、美しく、
誰よりも愛に飢えた、
本当のあなたを。」
⸻
(そして、紗雪はゆっくりと白石の唇を奪う)
⸻
【Scene終わり:蝋燭の炎が揺れる。重なる影】
⸻
✦ Scene 続き:紗雪と白石 ― 女王の接吻と渇望の覚醒
部屋には仄かに薔薇の香が漂い、
蝋燭の灯が金糸のカーテンに揺れていた。
静寂のなかで、ふたりの呼吸だけがゆっくりと重なっていく。
⸻
紗雪の唇は、柔らかな笑みを残したまま、
白石の唇にそっと触れた。
次の瞬間、
その美しく冷ややかな舌が、白石の唇を一筆のようになぞった。
湿り気と熱、それを舐めとるような細やかな動きは、まるでうつくしい蛇が静かに皮膚の奥を解きほぐしていくようだった。
⸻
白石はその感覚に、わずかに身を震わせる。
舌が唇の隙間を押し開き、ゆっくりとその中へと侵入してきたとき、
白石は自然に口をゆるめ、
舌を吸い、からめ、蜜の味を味わうように迎え入れた。
⸻
紗雪の舌は、白石の口腔の温もりをじっくりと辿り、
整った歯の一本一本を丁寧に、
あたかも記憶に刻むように舐めとっていく。
白石は目を閉じ、
その異様な愛撫に意識が蕩けそうになるのをかろうじて保ちながらも、
舌を吸い返し、静かな激情で応じた。
(――これは支配ではない、わたしが選んだ行為)
蜜の味がした。
それは紗雪の香と、何か得体の知れない深い孤独の味だった。
⸻
紗雪の手は、白石の服越しに静かに動いていた。
肩、肋骨、腹部へと、優美な指先で形をなぞる。
まるで彫刻家が、自らの作品を確かめるように。
⸻
白石もまた、余裕を持った動きで、
その手を紗雪の腰へと伸ばし、
布地の上からゆっくりと撫でた。
そこには想像よりもずっと、
柔らかく、豊かで、母なるもののような温もりがあった。
けれど、それは人を抱きしめるための肉体ではなく、
人を包囲し、絡めとるための女王の肉体であることも、白石は感じていた。
⸻
ふたりの舌はもう一度重なり、
今度は、どちらが主導権を握っているのか、もはや分からなかった。
紗雪の舌がひとしきり白石の耳を満たしたあと、
その指先は、静かに、
白石の鎖骨へと降りていった。
肩から胸元へと流れる曲線を、
まるで 月光のしずくを撫でるようにたどっていく。
布越しの感触を慈しむように、
手は何も急がず、ただその温もりを確かめているようだった。
⸻
白石の呼吸が、ゆっくりと波を描いて変わっていく。
目を閉じ、
“感じることだけ”に集中するように、
感覚のすべてを受け取るように、
その身を預けていた。
⸻
紗雪の舌と指先は、
胸の中央を一度ゆるやかに描き、
そこから身体を横断するように、
あばらのひとつひとつをなぞっていく。
まるで、
白石という楽器の音を探るように。
そのたびに白石の身体がわずかに震え、
静かに指先が緩み、
胸元で手が何かを求めるように動いた。
⸻
その手に導かれるように、
紗雪の口は、へそへと向かう。
花の中心のようにくぼんだその場所に、
やさしく、そっと唇を寄せ、
舌先でひとしずくの円を描くように撫でる。
白石の脚がわずかに緊張し、
また溶けるように開かれた。
⸻
紗雪の愛撫は、
ただ甘いものではなかった。
焦らし、導き、観察し、記憶し、慈しみ、支配し、赦す。
そのすべてが含まれた手つきと舌の動きだった。
⸻
足先へ、指先へ、
ひとつひとつの関節、
ひとつひとつの骨の起伏を撫でるように、
白石という“物語”を読むように、
紗雪は愛していく。
⸻
白石は、その一つ一つの軌跡を忘れまいとしていた。
まるで、身体に文字を書くように、
感覚が皮膚に、神経に、
深く深く刻まれていく。
⸻
蝋燭の火がまた一つ、
静かに消える音がした。
夜はまだ終わらない。
ふたりの間に、何も言葉はいらなかった。
ただ感覚だけが、この夜の記憶を紡いでいく。
Scene:夜明け前の密室 ――白石、薔薇の檻の中で
ベッドの上、
薄紅のカーテンに包まれた天蓋の奥、
ふたりの女の吐息だけが、まだ静かに交錯していた。
紗雪は、まるで満たされた獣のように、
白石の胸元に頭をのせ、目を閉じていた。
その指先は、白石の鎖骨をなぞるようにゆっくりと動いている。
まるで「この美しき獲物は、もうわたしのもの」と囁くかのように。
⸻
だが、白石は眠ってはいなかった。
その目は、微かに開かれている。
吐息をそろえ、身体をゆだねるふりをしながら、
頭の中では別の旋律が鳴っていた。
――わたしは、ただ奪われたのではない。
――この女王の心を、見抜きに来た。
⸻
紗雪の手が、彼女の腹に触れる。
その温もりは心地よくも、どこか――重かった。
白石は静かに笑う。
それは、眠りに落ちる笑みではなく、
「自分が主導権を握っている」と確信する者の笑みだった。
⸻
白石はゆっくりと、紗雪の髪に指を差し入れた。
細く、美しいその黒髪を、やさしく梳く。
そして、唇を紗雪の額に寄せ、
ひとつ、祝福のような口づけを落とした。
まるで「あなたはわたしのもの」と逆に囁くように。
⸻
紗雪は、うっとりとその感触に身を任せる。
完全に油断している。
白石はその隙に、
紗雪の耳元へ、そっと舌を伸ばした。
まるで返礼のように、
今度は白石の舌が、女王の耳の輪郭をなぞり始める。
⸻
その舌は、一夜のすべてを記憶した者の舌だった。
そして、その記憶は、
紗雪を満足させるためではなく――
超えるために蓄積されたもの。
⸻
「お眠りなさい、女王様――」
白石は囁く。
「あなたが眠っている間に、
わたしは次の“計画”を始めます」
⸻
部屋の外、
もうすぐ夜が明ける。
だがこの夜は、白石の中ではまだ終わっていなかった。
Scene:白石、女王の身体に記す詩
紗雪の肩がゆっくりと寝息に上下している。
月明かりが差し込むカーテン越しの光が、
彼女の横たわる背中を柔らかく浮かび上がらせていた。
静寂のなか、白石はそっと身を起こし、
長い黒髪を指先でかき分けた。
目を伏せている女王は、
今はただの“ひとりの女”に戻っていた。
⸻
白石はその額に口づけた。
唇から放たれた熱が、紗雪の皮膚にじわりと広がっていく。
そのまま、頬、耳、顎先へと唇を這わせながら、
白石は、紗雪の地図を描くように動いていく。
⸻
鎖骨は真珠のように滑らかで、
指先を這わせると、肌が微かに粟立つ。
そこへそっと舌を伸ばし、
ひとすじ、しずくを落とすようにゆっくりなぞる。
その湿り気が、紗雪の身体に目覚めのゆらぎを与えていた。
⸻
首筋を辿り、
肩先から腕へ、そして胸元へと
白石の舌は、音のない詩を記す筆のように流れていく。
乳房の輪郭を崇めるように、
手のひらでそっと包み、
その柔らかなふくらみの温もりを確かめたあと、
舌先でゆっくりと円を描く。
やがて紗雪の唇がわずかに震え、
寝息が変わる。
白石は微笑む。
(この身体は、支配のためにあるのではない。
慈しみの中にこそ、真の美が咲く)
⸻
腹部へと唇を移す。
しずくを落とすようなキスを散らしながら、
臍を中心に、小さく、深く、
“花のような旋律”を刻んでいく。
その舌は、尊さと反抗を両方含んでいた。
⸻
太ももへ、足首へ、
手の指先から足の指まで――
白石は、女王の身体をくまなく愛でた。
それは、報復ではなく、
「女王ですら気づいていない女の部分」を目覚めさせる、
秘められた革命の儀式のようだった。
⸻
そしてもう一度、顔へと戻り、
目を閉じたままの紗雪に、そっとキスを落とす。
唇、眉間、まぶた。
(あなたも、愛されたかったのでしょう)
その想いを、
言葉ではなく、接吻の筆記体で伝えていく。
⸻
その夜、
女王は夢の中で、
“誰にも触れられたことのない自分”が、
白石にそっと手を伸ばす夢を見た。
そして、
朝が来る前に一滴、
静かに涙をこぼした。
Scene 終幕:ふたりの夜明け ― 薔薇の契り
白石の唇が、紗雪の頬へ、
額へ、唇へと、静かに何度も口づけを繰り返した。
まるで、一夜でほどけた心の糸を丁寧に結び直すように。
官能の波が静かに紗雪の奥に目覚め、
それは支配でも征服でもなく、
ただひとりの女として、
心の芯から溶けていくような感覚だった。
ふたりの吐息はやがて重なり、
白石がそっと抱きしめると、
紗雪はその胸に顔を預け、
まるで少女のように目を閉じた。
⸻
そして、長い静寂ののち。
紗雪が、ゆっくりと口を開く。
⸻
紗雪(優しく)
「白石さん……
あなたは、わたしの元で、これからも働いていただきます」
⸻
白石は静かに瞬き、
軽くうなずく。
⸻
紗雪(続けて)
「もうすぐ、“あの城”へ移る予定です。
あそこは、すべてが始まり、
そして、すべてが終わる場所。
その管理を……
あなたと藤堂さんに、ゆくゆくは任せても良いと考えています」
⸻
白石の瞳に、一瞬、淡い光が走った。
⸻
紗雪(微笑して)
「そこで……すみきとそうまの結婚式を、しましょう。
あの子たちは、祝福されるべきなの。
どんな物語の上に立っていたとしても――ね」
⸻
その言葉には、
ほんの一滴の母としての真情が滲んでいた。
白石は、
その声を聴きながら、
そっと紗雪の髪を撫でた。
そして、
何も言わず、
ただ優しく唇を重ねた。
⸻
恋人のように、
同志のように、
そして、どこか静かな決意を携えた者のように。
ふたりは、
新たな夜明けを迎える直前の光の中、
寄り添っていた。
Scene:すみきの告白 ― 星の帰り道にて
朝の光の中、すみきは優しく藤堂をうつしだした。藤堂さん、わたし覚悟を決めました。昨日お話しした通りです。
もし、あなたがお嫌でなければ。
藤堂は舞踏会のすぐあとのすみきの告白を思い出していた。
俺はこの子から逃げられない。
舞踏会の灯りが遠ざかり、
ふたりだけの帰り道に、夜の風がやさしく頬を撫でた。
藤堂の横を歩くすみきは、
自分の鼓動が少し速くなっているのを感じていた。
言葉が胸の奥でふくらんで、
こぼれるように、彼に向けて放たれた。
⸻
すみき(ほほえみながら)
「藤堂さん……今日はありがとうございました。
あんなに楽しくて、夢みたいな夜は……はじめてでした」
⸻
藤堂は微笑んだ。
だが、すみきは言葉を止めなかった。
もう、自分の心をごまかすことはできなかった。
⸻
「ねえ、前世ってあるのかな。
わたしね、今夜、あなたに出会って――
“ずっと昔から欲しかったもの”を、
やっともらえた気がしたの」
⸻
藤堂は少し目を細め、静かに答えた。
⸻
藤堂
「……おれもだよ。
本当に“生きてる”って感じがした。
こんな気持ち、ずいぶん久しぶりだ」
⸻
すみきの胸がふわっと熱くなった。
その想いが溢れ、自然と言葉がつづいていた。
⸻
「手術のときもそうだった。
今回も、ずっと藤堂さんと一緒にいて……
……わたし、思ったの。
“ああ、この人とずっといられたらいいな”って」
「良かったら……わたしと、ずっと一緒にいてください」
⸻
藤堂は言葉を返さなかった。
代わりに、すみきの頭に大きな手をそっとのせ、
優しく撫でた。
⸻
藤堂(小さく)
「……いい子だな、すみき」
⸻
その声に、すみきはそっと目を閉じた。
胸が、痛いくらいに温かかった。
⸻
だが、藤堂の心は静かに揺れていた。
(おれのような人間と、一緒にいちゃいけない。
君は、もうすぐ……他の男と、結婚するんだろ?)
けれど白石との計画では、すみきを掌握しておく必要がある――
そう思考する脳の奥で、
今、目の前で笑う少女を“誰よりも大切に思っている自分”がいた。
そして、藤堂はその手で、彼女をそっと抱きしめた。
⸻
「おれみたいな男で……いいのか?」
その言葉は拒絶ではなかった。
すみきの心には、それが確かに届いた。
⸻
すみき(震える声で)
「はい……あなたが何者でも、
藤堂蓮は、わたしにとって“藤堂蓮”です。
……大好きです」
⸻
ふたりの唇が、静かに重なった。
あたたかい。
心が、音を立ててふるえる。
藤堂の胸の奥にしまっていた“渇き”が、すみきの呼吸に溶けていく。
⸻
藤堂は囁いた。
藤堂
「……おれにとっても、すみきは“すみき”だ。
おまえが飽きるまで、そばにいてやるよ」
⸻
すると、すみきは藤堂の胸に顔をうずめて、
小さく、でも確かに言った。
⸻
「……わたしが飽きても、こうやって優しく抱きしめてください」
⸻
そして、もう一度、唇を重ねた。
長く、
深く、
心と魂の空白を、
ふたりで少しずつ埋めていくように。
その夜、ふたりはそれ以上の言葉を交わさなかった。
ただ唇を重ねたまま、
いつまでも、いつまでも
時が止まったように――そこに、いた。
⸻
☀️
(その光のない夜の中で、
ふたりは確かに“愛”をひとつ、結び直した)
あの夜はなにもなかった。しかし、俺はやはりこの娘をうらぎることはできない。
藤堂は、どこもいかないさと優しく微笑み返した。
✦ Scene:藤堂と白石 ― 共犯者たちの夜会話
場所は、城の図書室の奥、
他の誰も近づかない小さな暖炉の前。
火のはぜる音だけが響く中、
白石が藤堂の隣に腰を下ろした。
グラスに赤いワインを揺らしながら、
艶やかな声で言葉を落とす。
⸻
白石(軽く笑って)
「あの女王さま……なかなか可愛かったわよ。
いいわね、あなたも。
お姫様までしっかり捕まえてるみたいだし。
……すべて順調ね」
⸻
藤堂は、ワインを一口飲んだあと、
苦いような笑みを浮かべて応える。
⸻
藤堂
「ああ。
だが……あの女王さま、
君ひとりで満足するとは思えない」
⸻
白石はふっと目を細め、
まるで待っていたかのように肩をすくめる。
⸻
白石
「当然じゃない。
私と愛し合ったのも、“私を繋ぎ止めておきたい”から。
恋なんて感情じゃない。
ただの支配のゲームよ」
「……次はあなたに声がかかるでしょうね、
彼女には――あなたが、“とどめ”をさして」
⸻
藤堂はほんのわずかに目を伏せ、
グラスを置いた手が硬く握られていた。
⸻
藤堂(低く)
「ああ……
これで、“城”は俺たちのものだ」
⸻
白石は艶然と微笑み、
膝を組み直してワインを揺らす。
⸻
白石
「わたしはね――全部手に入れるつもり。
あの女王さまも、あの坊やも、
グズグズしてると、お姫様さままで……
わたしがもらっちゃうわよ?」
⸻
藤堂は笑うこともせず、
その名を出された瞬間、
どこか鋭い緊張が走った。
⸻
藤堂(わずかに目を細め)
「あいつは……いちばん、手強い」
⸻
白石は、まるで獲物を見つけた猛禽のように、
唇を吊り上げて微笑んだ。
⸻
白石
「ふふ。貴方も落ちたものね。
“恋愛ごっこ”にかまけるなんて」
「……でもいいわ、わたしが“助けて”あげる」
⸻
藤堂は目を伏せたまま、
その言葉に反応しない。
だが次の瞬間、
立ち上がった彼は、
静かに白石の前に歩み寄ると、
その顎を軽く持ち上げ、
一度だけ唇を重ねた。
唇を離し、囁くように言う。
⸻
藤堂(低く)
「……俺は、あんな娘に支配されたりなんかしない」
⸻
その言葉に、白石は微笑む。
だが、その目はすでにすべてを見抜いていた。
(藤堂、あなたはもうすでに……)
⸻
✦ End Scene:火の揺らめきに照らされるふたりの影
冷たいワインの味が、
誰にも言えない“欲望と誓い”を刻んでいた。
Scene:紗雪と藤堂 ― ふたりきりの舞踏会 in スウィートルーム
豪奢なホテルの最上階。
ベランダ越しに、街の灯がまるで星のように瞬いていた。
大理石の床に深紅の絨毯、
シャンデリアの光がグラスに反射し、金色の粒子のように舞っている。
その奥――
部屋に流れているのは、あの夜の舞踏会でかかっていたゆっくりとしたムード音楽。
ワルツでもタンゴでもなく、
ただ二人のために流れる、静かな時間の調べ。
⸻
紗雪は淡いラベンダー色のドレスに身を包み、
香水の柔らかな気配を漂わせながら、
部屋の中央で藤堂を待っていた。
⸻
紗雪(微笑を浮かべて)
「藤堂さん……
あの夜のダンス、見事だったわ。
すみきを、あんなに美しく見せてくれる殿方がいたなんて……
正直、羨ましかった。すみきが」
⸻
藤堂は少し戸惑うように、しかし丁寧に頷いた。
⸻
紗雪(続けて)
「わたし……あなたと踊りたかったの。
あの夜、一緒に踊れなかったのが残念だったわ」
「だから今宵は――ふたりきりの舞踏会よ。
踊ってくださらない?」
⸻
藤堂はふっと小さく笑みを浮かべ、手を差し出す。
⸻
藤堂
「喜んで……マダム」
⸻
ピアノの旋律がそっと深くなり、
ふたりはゆっくりと踊り始める。
動きはゆるやかで、指先と指先がふれるたび、
大人の香水と夜の気配が、互いを溶かしていくようだった。
⸻
踊りの最中、
紗雪はそっと藤堂の肩に頭をのせる。
低く、震えるような声で囁いた。
⸻
紗雪
「……愛してる」
⸻
藤堂は目を伏せ、そっと答えた。
⸻
藤堂
「……僕もです。
あのダンス会場で――あなたは、まさに女王でした。
僕ら、すっかり魅了されてしまいましたよ」
⸻
紗雪は、微かに笑いながら囁く。
⸻
紗雪
「ねえ、前世って……あるのかしら?」
⸻
藤堂はその問いに、数秒沈黙したのち、
重く、静かに応える。
⸻
藤堂
「……あると思います。
きっと、あなたは前世でも――僕と一緒にいた」
⸻
紗雪は目を閉じる。
「やっぱり……ね」
⸻
藤堂の目に、すみきの潤んだ瞳が一瞬、重なった。
あの夜の、あの光。
それがなぜか、紗雪の瞳と重なる――
その奇妙な共鳴に、彼は小さく身を震わせる。
⸻
紗雪は、藤堂を見上げた。
⸻
紗雪
「今世でも、変わらないわね。
……あなたの瞳の奥、変わらず私を見つめてる」
⸻
藤堂
「はい」
⸻
次の瞬間、紗雪は手を伸ばし、
その首にそっと触れ、顔を近づけた。
そして、唇が重なる。
それは命令ではなく、所有でもなく、
ただ“時を越えた願い”のような接吻だった。
⸻
夜の灯が、ふたりの影をひとつに包む。
そして遠く、時計の音だけが静かに鳴っていた。
⸻
☀️
(この夜、すべてが変わるきっかけが、静かに始まっていた)
Scene 続き:星降る夜の密やかな舞踏 ― 紗雪と藤堂
ふたりの唇が重なった瞬間、
時間がゆっくりと流れ始めた。
紗雪のキスは――思っていたよりもずっと情熱的だった。
それは静かな炎のように、
藤堂の唇から喉奥にまで熱を伝えてくる。
彼女の舌は、まるで舞うように藤堂の口内をめぐり、
甘く、欲するように、深く触れてくる。
⸻
藤堂は、それを受け入れるふりをしながら、
ゆっくりと、
その舌の動きに応えた。
吸い上げ、絡め、
彼女の奥の熱を、味わうように、
ゆっくりと、そして確かに。
⸻
そのとき、
彼の中に遠い記憶が蘇っていた。
――あの、前世の夜。
自分が初めて、彼女の孤独に触れた夜。
あのときと、同じ体温。
あのときと、同じ震え。
⸻
ふと、藤堂は彼女の身体に手を伸ばした。
ドレス越しに触れた肌は、
驚くほど柔らかく、温かかった。
紗雪はわずかに身を震わせたが、
すぐに彼の背に腕をまわし、
女王のような余裕と慈愛で包み込んできた。
⸻
藤堂は、彼女の頬にキスを落とし、
耳たぶに触れ、
そこにそっと舌を触れさせる。
そのまま耳の奥へ、
音にならない囁きを潜ませるように、
静かに撫でる。
彼女の呼吸が、微かに熱を帯びる。
⸻
首筋へと唇をすべらせ、
鎖骨をなぞると、
そこにはまるで宝石のような温もりがあった。
腕、指先へと移り、
ひとつひとつの骨のかたちを尊ぶように撫で、
指の関節にさえ、静かに口づけを落とす。
⸻
その触れ方は――
まるで神殿の奥に秘められた聖遺物に触れるような
敬意と情熱に満ちていた。
⸻
彼女の腰は、くびれていた。
それはただの美しさではなく、
「女王として背負ってきたものすべて」の象徴のようだった。
腰から、ふくらみへ――
藤堂の手は、何かを確かめるように滑る。
彼女の胸元に触れたとき、
紗雪は少しだけ身を寄せた。
逃げるでも、誘うでもなく、
ただ受け入れていた。
⸻
お臍へと、そっと唇を落とす。
そこには、
生まれたままの「少女の名残」が宿っていた。
藤堂は、そこにひとつ、静かにキスを落とす。
⸻
足先へと降りていくたびに、
彼女の身体が、音もなく震えていく。
そして――足の指先。
そこに触れたとき、
紗雪はぴくりと反応した。
藤堂は微笑みながら、
その小さな指先を、
ひとつずつ、
まるで星を数えるように、丁寧に撫でていった。
⸻
紗雪は、まさに宝物のような存在だった。
ただ美しいだけでなく、
歴史と孤独と愛をその肉体に宿す女王。
藤堂は、その夜、
ただ彼女を征服するのではなく――
彼女の過去に寄り添うように、
その身体を愛でた。
⸻
部屋に流れる音楽は、
もはやただの舞踏会の記憶ではなかった。
それは、ふたりの前世と今世を繋ぐ旋律になっていた。
⸻
☀️
(この夜が終わるとき、
ふたりはそれぞれの心に、
別の“秘密”を抱えて歩き出すことになる)
Scene:藤堂と白石 ― 城の朝、薄明の共謀
広大なテラスに、まだ誰もいない早朝。
朝霧がゆるやかに城を包み、
バラの香りが空気にうすく漂っていた。
藤堂はひとり、冷えたコーヒーを手に、
昨夜の記憶を反芻していた。
⸻
(やはり……親子だ。似ている)
あの肌の温もりも、
あの首筋に触れた時の震えも、
艶やかな舌の動きさえも――
すべてが完璧だった。
あんな女はいない、そう思うのに。
それでもなぜだ。
――あいつの瞳ばかりが、
あの、すみきの潤んだ、あどけない瞳ばかりが、
頭から離れない。
(……20年後、あいつもあんなふうになるのか?
いや、あれ以上に……紗雪とも前世たしかにあった、だがそのときはあの娘は自分の身を顧みず紗雪をかばっていた気がする)
⸻
背後から、控えめな足音。
白石が、朝露に濡れたローブ姿で現れた。
⸻
白石(微笑を含んで)
「……すべて、うまくいったようね?」
⸻
藤堂はちらりと視線を向け、苦笑のように頷く。
⸻
藤堂
「ああ。
これで俺たちは、ふたりとも――
“あの女”のお気に入りってわけだ」
⸻
白石は興味深そうに目を細める。
⸻
藤堂(続けて、皮肉まじりに)
「……あの女、お前の名前もベッドで泣きながらつぶやいてたぞ」
⸻
白石は軽く肩をすくめると、
まるでそれが最高の褒美であるかのように微笑む。
⸻
白石
「それは上々。
……わたしもさっき、“そうま”のところにいたのよ」
⸻
藤堂がわずかに目を細める。
⸻
白石(艶やかに)
「いい子だったわ。
わたしのこと、前世のお姫様か何かだと思ってるみたい。
“夢で見た”って言ってた。
あなたには内緒ね?」
⸻
藤堂は沈黙したまま、
コーヒーをひと口飲み干す。
⸻
(白石は、どこまで本気なのか――
それとも、どこまでも計算なのか)
だがその問いを口には出さない。
⸻
藤堂(冷ややかに)
「坊やを落とすには……少し可愛げが足りないんじゃないか?」
⸻
白石
「ふふ。
あの子には、**“可愛く見せる私”**もあるのよ」
「でも、あなたにだけは……このままの私を見せておくわね」
⸻
ふたりの間に、沈黙。
だがそれは、緊張ではなく、
火花と火花の間にある静かな空気だった。
⸻
藤堂は視線を遠くに向け、ぽつりと呟いた。
⸻
藤堂
「……あの娘、
たとえこの城が地獄でも、
きっと天国みたいに笑うんだろうな」
⸻
白石は言葉にせず、ただその横顔を見つめていた。
彼の瞳の奥に灯るもの――
それが愛か、狂気か、計画のズレか、
まだ見極めるには早い。
けれど確かに、
何かが変わり始めている。
⸻
☀️
(この城に、静かに新しい風が吹き始めていた)
Scene:すみきと藤堂 ― 生きた城の前で
霧の中から現れたその城は、
まるで深い眠りについた巨大な生き物のようだった。
尖塔は骨のように、
門は口のように、
風に揺れる蔦は、まるで息をしているかのようにゆっくりと動いている。
藤堂はその不気味な外観に、ほんのわずかに眉をひそめた。
そして、その隣に立つすみきの横顔を見た。
彼女は、どこか懐かしむように微笑んでいた。
⸻
すみき(小さな声で)
「ねぇ、藤堂さん……」
⸻
ふたりきりになった外の林道で、
すみきはそっと藤堂の袖を引いた。
⸻
「このお城、きっと“生きてる”んだって。
お母様がそう言ってたの」
⸻
藤堂は黙って耳を傾ける。
⸻
「こわくなんてないの。
むしろ……ここに入るとね、嬉しいの。
なんていうのかな、
この森の生き物たちと同じ、
懐かしい“気”が、満ちている感じがするの」
⸻
藤堂はふと、彼女の指先に触れる。
その温かさは、冷たい霧の中でも確かだった。
⸻
すみきの笑顔が少し陰った。
⸻
「……でも、お母様が“結婚式の準備は整ってる”って言ってたの。
それを聞いたとたんに、胸がずしんと重くなって――」
⸻
藤堂(小さな声で、聞こえないほど)
「……おれもだ」
⸻
その囁きを、すみきは感じとったように、
まっすぐ彼の目を見た。
⸻
すみき(優しく、でも決意をこめて)
「だからね、私、考えたの」
「――勇気を出してみようって」
⸻
藤堂
「え……?」
⸻
すみきは一歩、藤堂に近づく。
⸻
「わたし、藤堂さんが好きって、お母様に打ち明けるの。
“私はお母様の奴隷にでも何にでもなりますから、
藤堂さんと一緒にいさせてください”って」
⸻
藤堂の瞳に、何かが溶けていくように柔らかな色が灯る。
⸻
「そうまは……いい子よ。
望むことは何でもしてあげる。
でも、こんなふうに心が熱くなるのは……
藤堂さんだけなの」
「そうまにも、どう話せばいいか分からないけど、
――“初夜の時間”に、
ちゃんと伝えてみる」
⸻
すみきの声が震えた。
⸻
「そうまも大好きだから、
抱きしめながら……話す。
きっと伝わると思うの。
ちょっと、怖いけど……」
⸻
藤堂は目を伏せ、息をゆっくりと吐いた。
その表情に浮かぶのは、
罪の意識でも、葛藤でもない。
ただ、この少女のまっすぐさに、心が打たれる喜びだった。
⸻
藤堂(静かに)
「……うれしいよ、すみき」
⸻
すみきは、そっと微笑む。
⸻
「わたし、**“初夜は藤堂さんと迎えたい”**の」
「そうまとは……結婚するだけ。
でももちろん、旦那様としてちゃんと大事にするわ。
そうまを傷つけたくないし、
誠実に向き合いたい」
⸻
その言葉を聞いて、藤堂はすみきを見つめた。
その瞳の奥には、
紗雪とも白石とも違う、
**まったく別の“まっすぐな魂”**が輝いていた。
彼女はまぎれもなく――未来そのものだった。
⸻
藤堂(小さく)
「……ほんとに、お前は手強いよ」
⸻
すみき
「え? なに?」
⸻
藤堂は微笑んで首を振る。
そして、彼女の額に、そっとキスを落とした。
⸻
☀️
(生きた城の門が、静かに開かれようとしていた)
✦ Scene:生きた城での結婚式 ― すみきとそうまの儀式
森を抜けると、
まるで呼吸するかのように、門がゆっくりと開いた。
城の内装は、外観の異形さとは裏腹に、
まばゆいほどに整えられていた。
壁には光を吸い込むような深紅の布、
天井には星座のような彫刻が巡り、
床は青と金のモザイクが精巧に敷き詰められている。
それはまるで、“ひとつの大きな有機体”の内部に入ったかのよう。
⸻
☽ ウエディングの準備
城に入るなり、
すみきは女たちに導かれ、
柔らかな光の中で白いウェディングドレスに着替えさせられた。
そのドレスは、絹ではなく、
森の蜘蛛が織り上げたような透けるようなレースと、
星の砂をまぶしたかのような布でできていた。
髪には桜色の花がひとつ。
彼女の瞳には、もはや迷いも恐れもない。
あの憂鬱な影を捨て、
ただ“しっかりと生きる女”として、
祭壇に向かう覚悟の光を宿していた。
⸻
☽ そうま
そうまは白い礼装に身を包み、
やや緊張しながらも、
どこか嬉しさを隠しきれずに立っていた。
大理石の中央に立つ彼の姿は、
まだ幼さを残しながらも、
すみきを見つめる眼差しだけはまっすぐでまぶしかった。
⸻
祭壇は、生きた樹木で編まれていた。
その根元には、
**沙織と実親の身体を宿した“生体石柱”**があった。
その肌は石のように滑らかでありながら、
ときおり微かに脈打つように光を返す。
まるで、“愛の起源そのもの”がそこに眠っているようだった。
⸻
✦ 結婚の誓いの儀式
司祭のような役目を務めるのは――白石。
冷たい美貌に柔らかい声をのせ、
誓いの言葉が響く。
⸻
白石
「あなたはこの者を、
敬い、慈しみ、育みあう伴侶として迎えますか?」
⸻
すみきは、まっすぐそうまを見て、笑った。
⸻
すみき
「はい。私は、この方と共に歩み、
生きることを選びます」
⸻
そうまは、しばらく黙っていた。
だがすぐに顔を上げ、真剣な目で返す。
⸻
そうま
「はい。すみきを守り、信じ、
愛を学びます。僕は、すみきと共に生きます」
⸻
静かな拍手が、
天井の星々のような装飾に反響して広がった。
⸻
✦ 観客たちの想い
藤堂は、端の影の中から二人を見ていた。
すみきの笑顔。
その手をとるそうま。
そして、誓いを結ぶふたり。
胸が――痛んだ。
だが、すみきの表情の中に、
一瞬だけ、誰にも見えない心の揺れを見た。
藤堂は気づいていた。
その痛みは、自分だけのものではない。
――すみきもまた、自分と同じ痛みを胸に抱えている。
魂が共鳴するような感覚。
言葉にしないまま、ふたりの心が確かに結ばれていた。
⸻
✦ 式の終わり
ふたりが指輪を交わし、
城がまるで祝福するように壁面の蔦を揺らし、
柔らかな風を吹き込む。
それはまるで、
生きた城が微笑んだような風だった。
すみきは、そうまの手を取って歩き出す。
その瞳には、笑顔。
だがその奥には――
“別の誰か”に誓いを立てた少女の、覚悟の炎が静かに燃えていた。
⸻
☀️
(すべては整った。
この城での“夜”が、
いよいよ始まろうとしていた)
⸻
✦ Scene:結婚式の夜 ― すみきとそうまの“本当の対話”
夜が深く静まり、
城の廊下にかすかに灯されたランプの光が、
二人の部屋まで続いていた。
重たい扉が閉まり、
その音が、空気の緊張をよりはっきりと映し出す。
部屋には、シーツと薔薇の香が混ざった静かな空気が流れていた。
すみきは、ベッドの端に腰を下ろしたまま、
しばらく何も言わなかった。
ドレスは脱がれ、
ゆったりとした白いナイトローブに身を包みながら、
その肩は、どこか不自然に強張っていた。
⸻
そうまは、そのすみきの横顔に息を呑んだ。
言葉が出ない。
ただ、彼女のあまりの美しさに――抱きしめた。
⸻
だがその瞬間、
すみきの身体が、わずかに固まったのを、
そうまは見逃さなかった。
誓いのキスをしたときにも、
どこかよそ行きの迷いがあった。
今、その確信が静かに突き刺さる。
そうまは、そっと、
すみきの身体から腕を離した。
⸻
すみきは、しばらく黙っていた。
やがて、震えるように目を閉じ、
今度は、自分から、そうまをそっと抱きしめた。
⸻
すみき(小さく)
「……ごめんなさい。そうま」
「……わたし、やっぱり……藤堂さんが、大好きなの。
初夜は……彼と迎えたい。
……そう思ってるの」
⸻
沈黙が落ちた。
時間が止まったようだった。
だが――
そうまの手が、すみきの背中をそっと撫でた。
抱きしめ返すことも、拒むこともせず、
彼はただ、すみきを受けとめた。
⸻
そうま(静かに)
「……わたしも、誰より……すみき様が好きです」
「兄妹のように過ごしてきたけど、
わたしの目は、いつも――あなたを見ていました」
「……今日、あなたにキスできた。
あなたと結婚できて、本当に幸せでした」
⸻
すみきの瞳が潤む。
涙ではない、
“愛されていたことを知る”痛みと喜びの入り混じった光。
⸻
そうま(言葉を選びながら)
「本当に、すみません……
わたしが、あのとき、
自分のわがままで紗雪さまの申し出を受けてしまったせいで……」
「……でも、これからは、紗雪さまに誠心誠意お仕えします。
彼女が必要とするなら、
わたしが“幸せに”します。
あなたを――悲しませないように」
⸻
すみきは、目を閉じたまま、
その言葉に小さく頷いた。
そして、そうまの頬に、
そっとキスをひとつだけ落とした。
それは、
恋ではなく、
別れと感謝のキス。
⸻
すみき
「……ありがとう、そうま。
ほんとうに、ありがとう」
⸻
二人は、そのまま少しだけ抱き合い、
やがて、離れた。
窓の外には、満ちる月が静かに光っていた。
⸻
☽
(この夜、何も起きなかった。
でも、それはふたりにとって――
最も大切な“はじまりの夜”だった)
Scene:すみき、紗雪へ最後のお願い ― 母娘の継承の夜
静かな夜の中、
金の刺繍が施されたドアの向こうで、控えめにノックの音が響いた。
⸻
すみき(扉越しに)
「失礼いたします……」
⸻
部屋の奥では、紗雪が窓辺の椅子に腰を下ろし、
手にした杯を揺らしていた。
薔薇とシナモンの香が静かに漂う。
少女の声に、微笑みが浮かぶ。
⸻
紗雪
「……どうしたの。
そんな顔して。
昨日は本当に綺麗だったわ。
まるで――女神さまみたいに」
⸻
すみきは、静かに歩み寄り、
ひざまずくように頭を下げ、
低く、はっきりと告げた。
⸻
すみき
「お願いがあって、まいりました。
これ以外のお願いは、わたくし――
お母様にいたしません」
⸻
紗雪は、盃を置き、
椅子の背にもたれながら、目を細める。
⸻
紗雪
「……バカね。
あなたは、わたしの大事な娘。
“なんでも”言っていいのよ」
⸻
すみきは、顔を上げ、
まっすぐ紗雪の目を見つめて言った。
⸻
すみき
「……私は、藤堂蓮さんが――大好きです。
彼と、ずっと一緒にいたい。
どうか……お許しください」
⸻
紗雪は、しばらく目を伏せ、
静かに立ち上がり、娘に歩み寄った。
その瞳に浮かんだのは、
かつての恋人を思い出したような、淡い痛み。
⸻
紗雪
「……あの男がどういう男か、知ってるの?」
⸻
すみきは、揺るぎなく答えた。
⸻
すみき
「そんなこと、関係ありません」
⸻
紗雪はその一言に微かに息を止め、
小さく笑った。
⸻
紗雪
「お父様のような目をするようになったのね……
可愛い子」
「その様子だと――昨日の“初夜”も、上手くはいかなかったようね?」
⸻
すみきは頷きもしないまま、目を伏せていた。
紗雪は、柔らかな手で彼女の頬に触れた。
⸻
紗雪
「……あの男は恐ろしいのよ。
女に慣れすぎている。
魅了し、壊す。
あなたが、何人もの嫉妬を浴びることになるかもしれない」
「……それでも、いいの?」
⸻
すみきは、母の手を自らの頬にそっと添え、
そして言った。
⸻
すみき
「……かまいません。
お母様……ありがとうございます」
⸻
紗雪は静かに目を閉じ、
短く息を吐いた。
⸻
紗雪(寂しげに)
「……名残惜しいけど、仕方ないわ。
あなたに、彼をあげるわ」
「そのかわり――」
彼女は、すみきの頬を両手で包み、
その顔をじっと見つめる。
⸻
紗雪
「……あなた、実親さんに……ますます似てきた」
「キス……させてちょうだい」
⸻
すみきは、目を閉じたまま静かに頷いた。
紗雪はその額に、
そしてそっと唇に――
**深い愛をこめた唇を重ねた。
紗雪はゆっくりと娘の唇を味わった。実親の唇に重ねたときの気持ちが蘇るこのまま食べてしまいたい。かわいい唇をわる、そして、可愛い歯の一本一本あじわう。
それはただの愛でもなく、
ただの許しでもなく、
母から娘へ、“女の生き方”を継がせるひとつの儀式だった。
⸻
キスを終えると、紗雪はすみきをそっと抱き寄せ、
耳元で囁いた。
⸻
紗雪
「……これから藤堂さんと過ごす“初夜”のための、
夜のレッスンよ」
「――母として、嫁ぎゆく娘への……最後の贈り物」
⸻
すみきは、胸の奥に小さな火を灯したまま、
静かに頷いた。
⸻
☽
(その夜、すみきは“娘”を卒業し、
“女”として、自らの愛を歩み始める)