あの娘は狐憑き
「あの祠に近づいてはならん」
陽の当たる縁側で老爺が言った。
「なんで?祠ってお祈りするところやろ」
あどけない少女は老爺の膝に頭を乗せたまま聞き返す。
「あそこは決まったヤツしか拝まれへん。儂らは呪われてまう」
―――五年後。少女は十七歳になった。老爺は死に、家には少女と父母と祖母が残された。
それは蛙の合唱の響く夜だった。部屋のどこも蒸し暑くじっとりとしていた。
家族全員で食卓を囲む中、母と祖母が口喧嘩をしていた。嫁と姑の関係にある二人は折り合いが悪い。何かにつけて祖母は罵詈雑言を母にあびせた。
その夜も夕餉に冷凍食品を使ったとかで祖母の口撃が始まった。少女は項垂れる母を見ていられなかった。仲裁に入ってこの場を収めようとした。それがいけなかった。
「お母さん外でお仕事しとって忙しいから、それくらいしゃあないやん。許したってえや」
「じゃあかぁしい !私は子供にこんなん出したことない。こんなもん食うとるから馬鹿なんねん。お前なんて山神様に喰われてまえばええ」
祖母は口から泡を吐き怒鳴りつけた。しわくちゃの唇が怒りに震えている。
誰も何も言い返さなかった。部屋の静寂が父母と少女をチクチク刺した。
老婆はずんずんと席を立ち廊下へ出て行った。父母はまだ祖母の怒号に怯えて下をむいていた。
少女は居てもたってもいられず家を飛び出した。畦道を走る彼女の視界は涙で歪み、滅茶苦茶に頭を振るった。
気づけば山中の奥深くにまで入り込んでいた。疲れ果てた少女は暗闇のなかに腰かけた。
祖母の声がまだ頭に反響していた。新月に星々は嬉々として輝き零れ落ちそうなほどであった。少女は満天の星空を恨めしく思った。
「山神様、私を食べてください」
少女のか細いつぶやきは闇に吸い込まれ消えていくように思われた。
「会ってみるか。山の神」
少女の頭上から声がする。声の主恐らく樹木に登っているようだった。声から察するに女の子である。
「おれは空夜。こっそりついてこい」
少女は驚いて声も出ない。少女よりは幾分小さな影が木から下りてきた。
うまく状況をつかめないままであったが、少女は涙を拭い空夜に従った。少女が空夜を信用した訳ではない。自暴自棄である。むしろこんな夜には渡りに舟ですらあった。
何度も空夜を見失いそうになりながらも追いかけた。空夜は山道だというのに猿のようにするすると進んでいった。
「お前、名前は」
「私、は…柊、日向」
息も絶え絶えに少女は答えた。
「もーちょっとの辛抱だぜ、踏ん張れよ」
軽く呆れたように空夜は進む。
やがて暗闇のなかにひとつの祠が現れた。坂の果てに鎮座するそれは、日向に黄泉平坂を思わせた。祠の周りは綺麗に整地されている。
「そこに隠れてろ」
「うん」
空夜に従い少女は少し離れた茂みに隠れた。
空夜は懐から何かを取り出し、跪いて祠に祀った。
「オサキ様、今月の供物に御座います」
空夜はそれまでと人が変わったように恭しい。
突如、祠の上に火花が散り、大きな焔が灯った。そこには三味線の撥のようなものを咥えた大狐がいた。
撥の先は煌々と燃え盛り、辺りを照らしている。眼は爛々。その尻尾は二股に裂けている。真っ黒な毛皮には光沢がある。
オサキ様と呼ばれた大狐は頭を垂れた空夜を見つめる。やにわに祠から跳躍した。
「えっ」
日向は恐怖に身体を硬直させた。しかし大狐は日向の事など見ていない。
大狐は突風と共に祠のなかへ吸い込まれていった。自分の何倍も小さい祠に。
風が止み、静寂から虫の声が戻ってきた。
「これがお前らのいう山神様、おれのいうオサキ様だ」
空夜はすっかりもとの調子に戻って振り返った。日向はあまりの出来事にその場を動けない。
やっと正面に相対してわかったのだが、空夜はボーイッシュなショートヘアであり、声を聴かなければ男の子と見紛う精悍な顔つきをしていた。そして修行僧が滝行の時に着るような真っ白の着物を纏っている。
「オサキ様はおれんちに憑りついてんだ。だからおれの髪の毛、もとい生命力をささげにゃならん……もしかしたら、次に狙われるのはお前かも……」
空夜は脅かすように低い声で言った。
「どうだ?怖気づいただろ!」
空夜は得意げに胸を張った。そして日向に降りかかった木の葉をぱっぱと払ってやった。日向は頭に葉っぱがついたままであったことに顔が熱くなるのを感じた。
「あ……ありがと、空夜さん。その、すごいもん見て吃驚した、けど、めっちゃすごかった」
そして自分でも素っ頓狂なことを口にしたと思い、より恥ずかしくなった。
空夜は日向の言葉に目を丸くした。そして吹き出した。
「お前、あんなワルそうなキツネの神様見て、怖くねえの。要は人間を喰らってんだし。普通はどんな肝試しの野郎共も逃げるか腰抜かしてちびっちまうんだぜ?」
「だって、ほんまに綺麗やったんやもん」
山神様も、空夜さんも。と日向は心の中で付け足す。
「ねえ、またここに来てもいい?」
空夜はぎゃは!と治安の悪い笑い声をあげた。
「ヘンな奴だな、お前」
それが二人の出会いだった。
「おい、おれへの供物」
「あ、はい」
日向はビニール袋を鳴らし駄菓子を取り出した。
「あまい!うまい!うまい!」
空夜はビショビショのままガブリチュウに舌鼓を鳴らす。
あれから数週間経ち、麓の学校は夏休みに入った。日向は駄菓子を空夜に献上することで祠へ通うことを許され、通いつめるようになっていた。空夜はどうやら修験道の修行をしているらしかった。もっとも、高校に通っていない空夜に修験道という言葉は伝わらなかったのだが。
滝行を終えた空夜は濡れた身体も気にせず甘味に現を抜かしている。濡れた道着からは華奢な身体の線が透けていた。
日向が貴重な高校二年生の夏休みを祠で過ごしている理由のひとつはここにあった。空夜は細すぎる。きちんと食べているのか不安なのだ。
「ほら、身体拭かんと風邪ひくで」
日向は空夜にタオルを手渡す。
「え、なんでタオルもってんの」
「空夜がいつも濡れたまま帰ってまうからやろ!?」
はあ、と気の抜けた返事をして空夜はタオルを受け取る。まじまじと日向のことを見た。
「やっぱりヘンな奴だな。祠が見たいってのに、なんでおれの修行まで見学してんだ。ヒマなのか」
「いや、それは……」
空夜のことを心配しているから。そう言いかけて、日向は辞めた。理由はそれだけではないのに、相手を想う口ぶりで場を濁すのはなんだか不誠実な気がしたからだ。
「学校、友達おるんやけど、おらんくて。家も居づらいし」
「どーいうこと?」
「なんとゆうか、誰とも深い関わり合いになれへんくて。おはよう、おつかれって言える仲のひとはいっぱいおるけど、休日に二人で遊べるような仲のひとがおらんねん。わかる?」
「はあ、まあ。でもさあ、それにしてはおれに首つっこみすぎじゃねえの」
「だって、私を必要としてんのは空夜だけやし、ひとりは寂しいし」
「ん?なんて?」
「なんも言うてへん!」
日向はうっかり本音を零して、焦る。急いで話を逸らすために脳を回す。
「あ、日本史の課題に役立ちそうやねん、その、修行の様子とか見とったら」
「かだい?」
「あーそう、宿題。空夜、護っとるくらいやから、この祠に詳しいんやろ?何祀っとるんかとか調べさせてえや」
「やめとけ」
空夜は不意に冷たくなる。そのまま空夜は日向の持っていた資料集を取り上げた。
「うわ、でけえ教科書」
「あっ、濡らさんとってよ」
「祠を調べ上げて大人に見せるつもりなら、これで頭拭く」
「ごめんって、詮索せえへんから返して」
懇願する日向をよそに空夜は資料集の頁をめくる。
「字ちっちぇーな……ん?」
空夜は急に見開きを覗き込んだ。
「……どしたん?」
「これ、この青いのって」
「ああ、海やん」
「すげえ、こんなに青いんだ」
「沖縄のやからなあ、特別青いで」
目を輝かせる空夜を見て、日向は彼女の機嫌がなおったようでほっとした。
「山頂!山頂からなら見えっかな?」
彼女は子供のように無垢な瞳で日向に問う。無理無理、ここ関西やからと日向が止める間もなく彼女は走り出した。その手には資料集が握られたままだ。
「待ってって……言ったやん……」
息も絶え絶えに日向は言った。空夜はあっという間に山頂にたどり着いていた。彼女は振り返りもせず町を見下ろしていた。
「電車……」
「え?」
「電車に乗ったら、どこまでもいけんのかな」
ふたりの眼前には、町と山と川と線路が広がっていた。青いのは空だけだった。
「おれ、見ないようにしてたんだ」
「え?」
「この景色。おれはどこにも行けないから」
「……祠を護るため?」
空夜は何も言わなかった。
日向は山から一切降りようとしない空夜が不思議でならなかった。日向の持ってきたお菓子を「今までこんなうまいもの食べたことない」などと言いながら幸せそうに食べるわりに、山を降りて自分で買いに行こうとはしない。
「空夜、一緒に学校行ってみいひん?それか、麓で買い物とかするだけでもええから。」
「無理無理、おれ戸籍無いし、狐憑きって知られたら」
「知られたら?」
空夜は答えに窮した。目が泳ぐ。
「なんでもない。薪取ってくる」
「あ、待って」
日向が止める間もなく足早に去って行った。
結局そのまま彼女は祠へ帰って来なかった。日が暮れる直前まで日向は待っていたが、甲斐はなかった。沢山の烏が塒に帰るなか、日向も夕暮れの山道の帰途についた。最後の蜩が夏の終わりを告げていた。
狐憑きであることが知られたら。彼女の言葉を何度も思い返す。
「ひなちゃん、最近帰るの遅いな。何しとん」
母親が帰宅した日向に声をかけた。
「学校で自習しとる」
日向は泥と枯れ葉に汚れた靴の踵をそろえ、コンと上り框に当てた。
「ひなちゃん」
母親はいつの間にかリビングから廊下に出てきている。
「この靴の汚れ方、山道歩かへんとおかしい。毎日毎日お菓子持って、どこいっとん」
「祠か」
突然祖母が現れた。
「あんだけじいちゃんが行ったらあかんゆうたのに、このダボ 。狐憑きに会ったんか」
「ごめん」
日向は祖母の剣幕に押し切られ、ただ謝ることしかできない。
「ごめんなさい」
「あんなんとつるんどるんやな!」
祖母は怒りに肩を震わせる。
「日向、お前は客間にでも籠っとれ。二週間は外へ出るな」
「そんな」
母親はあまりの罰の重さに驚きを隠せない。
「儂ら全員病気なってまうぞ。狐憑きってのはそういうもんや。じいちゃんもそれでのうなった 」
「言いがかりや!」
日向は食い気味に叫んだ。
「狐憑きが何したってゆうんや。私はどこも悪ない!」
「久しぶりー、空夜」
日向の次の来訪まで二週間が経っていた。
「日向……日向!?」
空夜は魚の入った竹籠を背負って祠までの道を下っているところだった。
「お菓子、いっぱいもってきたで」
日向は屋敷の引き戸の前で両手のレジ袋を空に掲げた。そしてにっこり笑った。
空夜は荷物を投げ捨て屋敷へ走った。
「わっ」
彼女は日向に抱きついた。日向はあまりの勢いに両のレジ袋を落とした。空夜はそのままずるずると崩れ落ち膝立ちになって日向のお腹に顔をうずめた。
「どうしたの、空…」
言いかけて、やめた。空夜のちいさな肩がふるふると震えている。
「もう……もう、二度と、来ないかと思った…!」
くぐもった声は切実なものだった。彼女はさらに腕に力をこめる。
「ごめん、空夜。急に来んくなって」
見たことのない空夜の姿に困惑しながらも、日向は泣いている彼女の頭を綿毛に触れるようにそっと撫でた。
「ちょっと痩せたんちゃう?お菓子もってきたから、食べ…」
「いらん」
え、と日向は驚く。
「お菓子なんてどうでもいい。どこにも行けなくてもいい。お前がいるなら」
日向は顔が熱くなるのを感じた。空夜が顔を伏せていてよかった、と内心ごちる。
「バレてもたんや、ここに来てたの。でも逃げて来てもた。あの人ら、怖くて山まで追ってこおへんから」
「バレたって、家族にか。じゃあ、なんで、なんで来た」
「なんでって、その……会いたかったから」
夕暮れがふたりを照らす。ヤマモモも季節は過ぎ、コナラが実を結び始めた。秋が近づいていた。
日向は相変わらず学校にも家にも居場所がなく、家族の目を盗んでは祠へ向かった。空夜と日向は同い年だった。ふたりは釣りをしたり一緒に教科書を読んだりした。空夜も日向も、自分のことを深く話すことはなかった。それで良かった。
ふたりは幸せだったが、それも長くは続かなかった。空夜が血痰を吐き、病に倒れた。
日向は初めて空夜の家に行くことになった。
空夜はトトロに出てきたような幽霊屋敷に住んでいた。屋敷は祠の近くだった。日向が鍵のかかっていない引き戸を開けると、よろよろと奥から歩いてきた空夜が出迎えた。屋敷のなかは埃っぽくたくさんの部屋が長い間放置されているようだった。
彼女の部屋だけ人の過ごしたあとがあった。布団のなかで彼女はぽつぽつと自分と家族のことを語り出した。
空夜は九歳で父親を喪った。それは遺伝性の病のためだった。しかし彼は病の床のなかで死んでいったのではない。彼は自身をオサキに捧げたのである。
オサキ様はグルメになったんだ、と空夜は言った。ここに移住して一旗揚げた曾祖父の代で狐――もといオサキに憑かれてからというもの、代々修行し身を清め、その身体の一部を捧げてきた。その代わり、ほかの人間を喰らわないようお願いしてきた。オサキは清らかな人間しか食べず、一族の願いだけを聞くようになった。
「それじゃあ、空夜の一族が人喰いの神様からずっと私達を守ってきたってこと?」
空夜は頷く。日向は唖然とした。
曾祖父も祖父母も両親も最期は自らをオサキに捧げた。空夜は早逝した母に代わって父親に育てられた。父親が自らの髪を捧げるので、空夜は修行をせずに小学校に通うことができた。それも父が病むまでの話だが。父はできる限りの生きる術を空夜に伝え、命の終わりを悟り、いよいよ祠へ身を捧げに行った。空夜は木陰からこっそりその様子を見た。
父が祠に吸い込まれる瞬間、母が見えた。若く美しい母だった。手を取り合い、狐霊と共に祠へ消えていった。
ここからは想像だけど、と空夜は前置きをして言った。きっと、父は母との再会を願ったんじゃないか。
「それじゃあ、空夜はお父さんがいなくなってからずっと髪を捧げてきたの……?」
「いや、父さんのおかげで数年は何も捧げずにすんだ。よっぽど、美味かったのかな。その間修行に集中できた」
空夜は苦笑した。
「おれも、最期は家族に会うんだ。それでおれんちは滅亡するけど、オサキもそのうち飢え死にするんじゃねえかな。それで、全部終わる」
「だめや、そんなの……。海、一緒に行こうや。学校も、駄菓子屋も」
日向の目は涙に潤む。空夜はそんな彼女をみてほほ笑んだ。
それからは、空夜を見舞う日が続いた。空夜は治療を受けさせてもらえないからと頑なに病院に行こうとしなかった。咳と血痰は増える一方だった。
日向にはなんとなく“その日”が分かった。だから深夜に家を抜け出し、祠へ急いだ。
しばらくして、空夜は日向の前に現れた。
「日向……?なんでここに」
「わかっとるやろ。あんたを止めるためや」
「何言ってるんだよ……オサキ様は飢えてるんだぞ。このままじゃどうなるか」
「だからって空夜が犠牲になることない!誓ったやん、一緒に生きようって」
「馬鹿か。お前だって飢えたオサキ様に喰われるかもしれねえんだぞ。町の人達だって」
「そんなんどうでもいい。町の人の命を空夜一人に預けとる私らがおかしい」
きっぱりと言い放った日向は空夜を抱き上げる。ずいぶん軽かった。
「おい、何すんだ、離…」
空夜にはもう抗う力もない。必死の言葉も咳にかき消された。
「病院行くから。じっとしてて」
「無駄だ……おれたちは治療してもらえない」
日向は無視してひたすら山道を下った。
「日向さん。その娘、狐憑きなんじゃないか?この町で一度も顔を見たことがない」
開口一番、医者はそう言った。
「それが、何だっていうんですか」
「僕は町医者だ。一度診察した人の顔は忘れない。父から聞いている。狐憑きの間に女が生まれたと。絶対に病院に入れてはならないと」
「迷信です。分からないんですか」
「今は忙しいんだ。急患を受け入れる余裕はない」
ふたりは病院から締め出された。
日向は眠ってしまった空夜を担いで祠へ戻った。
「オサキ様、私のすべてを捧げます。その代わり、空夜を解放してください」
突風とともに撥をくわえた二又の大狐が現れた。撥の先の焔が辺りを照らす。
「足りん。中途半端な行しかこなしていないお前は後回しだ」
日向の頭に声が響く。
「でも、私は町の人を守ってほしいなんて思ってない。空夜さえ解放すれば、あんたはこの町の人間喰い放題や」
「私はなによりも素晴らしい馳走に憑りつきずっと待っていたのだ。其奴以上の人間はおらぬ」
畜生、口車には乗らへんか、と日向は心の中で思う。
「そうなん。でも、口が無ければ喰えるもんも喰えへんよな」
日向は家の倉庫から持ってきた鉄の棒を茂みのなかから持ち上げる。
「貴様、なにを」
「こんダボ狐!!人身御供なんて今時流行らんねん!」
少女は祠に向かって思いっきり振りかぶった。
「空夜、空夜、起きて」
「ん……ひ、なた?」
そこは夕暮れの電車のなかだった。一両だけの車両のなかに、日向と空夜だけが相対して座っていた。
「なんだ、ここ……祠。祠はどうなった?ここはどこなんだ?」
ぼんやりとしていた空夜は我に返る。そして窓を見た。
電車は空を飛んでいた。眼下には、焔―――小さな町が燃えていた。
「あれ……おれたちの町じゃないか」
空夜は立ち上がり日向に振り返る。
「ここは天国か?なんで町が燃えてるんだ?答えろよ!」
「どうでもええやん、あんな小さな町なんて」
事も無げに日向は言った。空夜は茫然とする。
「大変やったんやで、ここまでくるの」
それから、日向は事の顛末を語った。
祠がオサキの口だと考えた日向は祠を破壊した。オサキはくわえていた撥を投げ捨て、直接空夜を喰らおうとした。刹那、日向が空夜をかばい、無理やりオサキの腹の中へ潜り込んだ。オサキは異物を吐きだそうとしたが、遅かった。既に日向はオサキの胃の中におり、その願いも叶えられてしまった。
馳走を目前に取り上げられたオサキは怒り狂い、燃え盛る山を降りて人間を喰らってまわった。
「なんで……なんでそんなこと……」
空夜はへなへなと座り込む。日向は彼女を優しく抱きしめた。
「これで、空夜は自由や。どこでもいける。まずは病院にかかってな」
「そんな……そんなつもりじゃ……皆を犠牲にしてまで生きたいなんて、思ってない、のに」
空夜の目に涙が溢れる。
「空夜、大好きやで。元気でな。ちゃんとご飯いっぱい食べるんやで」
日向の姿が薄れていく。
「いやだ、いくな日向、ひなたぁ」
日向は振り返り、微笑んでから、車両をつなぐドアから出て行った。
「空夜、私ら結婚せえへん?」
日向があまりにも唐突に言うので、空夜は吹き出した。
「いや、笑いごとちゃうねん!結婚って、私が空夜の家に入る、つまり私も狐憑きの一人になるわけやん」
「おお、そうだけど……」
「そしたらさ、ふたりで交互に供物を捧げられるやん?そんで余裕がでて、町の外まで遊びに行ったりできるかもしれへん」
「まあ……そう、かも?」
「よし、決まりや!伝えに行こ!オサキ様に!今日体調ええやろ?」
「本気かよ!お前も狐憑きになったら、町の人達からは総スカンなんだぜ?」
「ええわ、それくらい。空夜とずっと一緒にいられるんやから」
それからふたりは、祠の前でオサキに婚姻を報告した。内心認められるのか不安だった日向だが、修行をきちんとこなせと言われただけだった。
「ごめんな、空夜。指輪も盃もないけど、絶対幸せにするから」
空夜は赤面して、ただ頷いた。