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親方は見習いのことなど当に頭にないのか、椅子をカウンターの方へ向けたまま一人の男とずっとしゃべり続けていた。相手も椅子を横にして体は席の方へ向けたままの姿勢でしゃべり続けているので、テーブル席へ来くればいいものをカウンターからは動かず親方も席を勧めなかった。相手の男は役所に勤めていた男で、一年前に定年を迎えていた。男と親方の付き合いはこの店の中では比較的新しいもので、二年前にこの男が家を新築するというときに親方のところに頼んだのがきっかけだった。役所の同僚にやはり親方に家を建ててもらった者がいて、その同僚の家を男が訪れたとき、家の造りに関心し、どこの大工に頼んだのかと聞いたところ、親方の名前が出たのである。同僚の家はこれといって特徴的なところはない、二階建ての家屋だった。土地はそう広いわけではなかったが、小さいながらもしっかりとした庭があり、中の造りもリビングの窓が普通と比べると大きいと思える以外はこれといって際立ったところはなかった。ただ、光がたくさん入ってくるのは気持ちがいいと感じられた。男は自分でもなぜ同僚の家をそんなに気にいったのかはよく分からず、妻に親方のところに家を頼む理由を聞かれたとき、強いて言えば、あの簡潔さがいいとしか応えれなかった。妻は何にしても家を新築するのが夫婦の夢だったので、建ててくれるのであれば、細かいことはどうでもいいと思っていた。子供達三人のうち二人は独立し、末の三男も来年の春には進学のため、都会へ行ってしまうことを思えば、部屋数もそんなに必要ないので、広いキッチンという条件さえ満たしてくれれば、後は夫の書斎を作ろうが、庭を広くしようがどうでもいいと思っていた。家の建築が開始されると男は足繁く現場に通い、親方の設計図を指差しながらアレコレと質問したり、談笑したりしていた。しかし、仕事に注文をつけたりすることはなく、親方の現場の指揮ぶりに感服し「親方のところの職人さん達はじつに働きぶりがいい」と褒めたりするので、親方も機嫌が良くなり仕事の話をするのは好きなので、いろいろと説明をしたりするうち、親方が行き付けのこの店に連れられて来るようになった。男はお酒がそんなに好きという訳ではなかったが、店の雰囲気や女将さんの人柄を気に入ったことに加え、なにより家から近いというので、最初のころは親方に連れられて来るだけだったが、今では一人でも店に現われ、家が完成するころには常連の一人となっていたのである。去年の春に完成した家は、大きめの窓が陽射しをリビングいっぱいに吸収し、キッチンは妻の要望通り広かったが、子供達が去った今、二人分の食事を作るにはいささか持て余すわ、と住み始めてから妻は愚痴をこぼしたがキッチンにいる時間は明らかに前の家のときに比べ増えていた。書斎の窓からは庭が見えるようになっていた。庭にはまだ何もなく、これから何を植えようかと考えるのも楽しみだったが、一年経った今もわずかばかりの花木が植えられているだけで、その作業は遅々として進まないのだった。