⑦
間にいる男は女よりも男の方を向いてしゃべることが多くなった。女にとってはそっちの方が都合がよくグラスを見つめながら、これを飲んだらもう帰ろうと思っていた。初老の男は隣りの男の話にうなずいているが、視線は男の頭越しに女の方を見ていて、いつ席を立ち上がるのかと気になって仕方がないようだった。
老人は時たま先生に話しかける以外は静かに飲んでいた。規則正しいペースでグラスを空けるので、女将とはどれくらいの間隔で注げばいいのかある一定の呼吸が出来上がっていた。それにしても、今日は長い時間いるわね、と女将が三杯目のお酒を作りながら思っていると、喧騒からはみ出る二人の怒鳴りあう声が聞こえてきた。みんなも会話を止め、その怒鳴りあってる二人の方に注目しだした。入口から一番近いテーブルに座っていて、姪をからかっていた二人組みだった。一人は出っ歯でしゃべる度に唾が飛び、人差し指を突き立て相手を指差しながら、喚き立てていた。相手の方は、腕も足も同じぐらいの細さしかないのではないかと見紛うほどのとても痩せた男だった。この男も出っ歯の男と同じように人差し指を突き立てて喚いているが、時たま掛かる唾を拭うため袖で顔を擦る姿が何やら滑稽にすら感じられた。この二人はこれまでも酔いがまわってくると度々喧嘩をはじめ、その都度、材木屋や親方が止めてきた。注意されるとすぐにやめるので、この二人自身、そこまでを考えた上で怒鳴りあいをはじめていると見えなくもなかった。ただ一度だけ、そのときは二人が喧嘩をしたのではなく、入ったばかりの姪をあまりにからかうので、大工の見習いが出っ歯の方に飛び掛かっていったことがあった。椅子ごと二人は倒れ、テーブルの上のグラスや皿は落ち、痩せた方は何故こういう事態になっているのか状況がよく呑みこめず唖然とするだけで、姪はあたふたと何をどうしたらいいのやら、そのうち涙を溜め潤んだ瞳で、取っ組み合っている二人と女将を交互に見るだけだった。親方や他の客がなんとか二人を分け(その日材木屋はいなかった)その場は何とか収まった。見習いはこっぴどく親方に叱られ、二人組みも女将から「これ以上うちの子をからかうと店に入れないよ」と言われ、姪も「あんたもあんな奴らの言うことなんか気にしちゃダメ」、と店が終わった後で注意を受けた。他の客からの厳しい視線にしばらくは反省の態度を見せていた二人組みだったが、一週間と経たないうちに、また姪をからかいだした。しかし、見習いと女将の様子をうかがいながらなので、さすがに以前よりはしつこく言わなくなっていた。
二人の言い争いは激しさを増し、出っ歯の男が痩せてる男の胸ぐらをつかみ、自分の方に相手を引き寄せると、顔を近づけ、さらに強い口調で喚き立てた。痩せてる男の方が頭一つ分ほど背が高いので、顎をしゃくり上げながら相手を見下ろす形になった。痩せてる男が出っ歯を突き飛ばし、後ろによろめいた出っ歯の男が再び痩せの男に向かっていこうとしたところで、「よさねぇか!」という親方の声が響き渡り、二人の男の動きは止まった。二人が店内を見渡すと、材木屋も立ち上がり、二人の方に向かってくるところだった。二人はバツが悪そうに椅子を元の位置に戻して座ると、お互い眼を合わさずにグラスに口をつけだした。それを見届けると材木屋は席に戻り、親方はやれやれ、と言った表情で、また常連客としゃべりだし、それと共に店内には喧騒が戻りだした。女将がビールジョッキを二つ持ち、さっきの二人組みのところまで出向き「あんた達何度言ったらわかるの、次喧嘩したら本当に店には入れないからね」と言った後で二人の頭を軽くポンポンと叩くと、「ハイ、仲良くするんだよ」とビールを二つテーブルに置いた。二人は女将とは目を合わさず、しかめっ面で居心地が悪そうに無言でビールを飲み続けていたが、女将がカウンターに戻ってから数分もしないうちに、再び出っ歯の男の唾は辺りに飛び散らかるのだった。カウンターの中の女将はその光景を見て「あんなにすぐ元に戻るんなら、なんでいちいち言い争うんだろうねぇ」と先生にこぼすと、先生は「あれもこの店の行事の一つですよ」と酔いがまわってきたのか、少し赤みがかった顔に笑みを浮かべながら女将に言った。