⑥
外では雪が降り続いていた。通りの人影は週末にしては少なく、おそらく雪は今夜中にも積もると予想したのだろう、皆週末の夜を各々の家で静かに過ごしているようだった。そんな中、大通りから一本脇へ入った路地にあるこの店は中の人々のアルコールが回りだすに連れ、活気と喧騒は数時間前に入ってきた男のときに一時下がったものの、今やその前以上に上昇していた。
小太りの男の身振り手振りは飲みが進むに連れてさらに大きくなり、声はところどころ裏返ったりしていた。相棒は相変わらず話を聞いているのか聞いていないのか、煙草の煙を見たり、他の客、とりわけ女二人組みの話の方が気になる様子でチラチラと横見したり聞き耳を立てたりしていた。大工の見習いは肘をテーブルにつきもう半分うなだれていて、親方が呼びかけると、何とか頭を上げ返事をするのだが、目はとうに虚ろで、すぐにまたガクリとなった。親方もカウンターの客との会話に夢中なので、体はカウンターに向いていて、見習いのことをそれほど気にしてはいなかった。姪は見習いのことが気になり水を持っていくが、何も言わずに置いてくるので、うなだれている見習いは気付かず、もうできあがっている親方が飲み、また持って行っても親方に飲まれてしまい、それが三回ほど続いた後で、姪はようやく見習いの肩を叩くが見習いはちっとも気付かなかったので強く叩きだし、ついには肩をつかみ揺すりだした。すると、見習いの頭を支えていた肘はガクッと崩れ見習いは頭をテーブルに強く打ち、それに驚いた姪は見習いの頭に触れようと手を伸ばした。そのとき姪の肘が自分で持ってきてテーブルの端に置いてあったグラスに当たると、グラスは床に落ち、喧騒の中に一瞬高い音が響き渡った。店内は静まり返ったが、親方が「おっ今月に入って始めてなんじゃないか?」とひやかしたのでドッと笑いが起こった。女将さんも今日は特に忙しかったし、仕方ないと思ったのか苦笑いを浮かべて「切らないように気をつけて」と言ったあと、材木屋の男に「ちょっとあの坊やを起こして、奥に連れていってくれないかい?」と促した。材木屋の男が言われたとおり見習いを担ぎ上げ、親方が「悪いな」とやり取りしている間、見習いは「大丈夫、大丈夫」と材木屋の手を離れて一人で立とうとするが、足取りはおぼつかず、六人がけのテーブルがある奥に連れて行く途中もカウンターの客の背中やテーブルの端にぶつかっていた。奥の老人にぶつかったときは、材木屋が「すまねぇ、じいさん」と謝ったが、老人は特に気にするわけでもなく先生に孫の話を聞いていた。材木屋が椅子を並べている間に女将は毛布を持ってきた。毛布はかぶせるのではなく椅子の上に敷き、材木屋はそこに見習いを寝かせ「あんまり動くと落ちるぞ」と言うと席に戻って行った。女将は「あの子ったらまたお前に持っていくやつと親方に持っていくやつを間違えたんだね、ちゃんと言っておくからね」と見習いの額や頬を触りながら、語りかけたが見習いの意識はもう遠のき始めていて天井の電灯がぼやけて見える中、女将の手が冷たく、それがとても気持ちのよい感触だということがわかるのみだった。姪はテーブルや椅子を最小限動かしながら、実に手際よくほうきで割れたグラスを集め、ちり取りに入れていった。あまりに手際がいいので、その様子は物を運んでいったり、注文を受けたりするときの慌ただしさと比べると別人のようだった。だが、何のことはない、始めのうちあまりにグラスを割るので、客の気にならないよう、時間がかからないようにやるために習得していった結果の慣れに過ぎなかったのである。
初老の男女二人に挟まれた男は少しずつ会話をはじめだし、今はお酒のせいもあってかだいぶ饒舌になっていた。両脇にいる二人は男の話を親身になって聞いてくれた。話しながら身内よりもこのぐらいの間柄の方があまりにも苦痛を受けた体験を話すのにはよいのかもしれない、と男は思ったりした。初老の男女は男が間にいて自分のことばかり話すのを、はじめのうちは同情心から聞いていたが、そのせいで自分たちの会話ができないのにやや不満を感じはじめていた。とりわけ男の方は女がいつ帰ると言い出してしまうのかを考えて、やきもきしていた。初老の女が店に来るようになってから一年が過ぎた。店に来るようになる三ヶ月前に二十年あまり生活を共にしていた旦那を亡くしていた。店に来るようになったきっかけは、旦那の葬儀のとき女と同級生だった女将が「悲しいのはわかるけど一人で家に閉じこもっていちゃ体にも心にも良くないから、一度店に遊びに来て」といったのがはじまりだった。女は壁に掛かっている時計を見ながら、旦那が生きていたころは夜出るなんてほとんどなかったなぁ、と物思いにふけっていた。
旦那と出会ったのは、女がカフェで女給をしているとき、通りを挟んで斜め向かい側にある材木屋で働いていた、後に旦那となる男が昼休みのたびにカフェに来るようになったのがきっかけだった。女からすれば男の印象は、注文を尋ねても、実に無骨な表情のまま「コーヒー」とだけ言い、店を出るときの女の挨拶にも反応がないので、なんにでも自分に原因があると考えがちな女は、自分にどこか至らないところがあるのではと思っていた。しかし、一番分からないのは男が決してコーヒーを好きではないように感じられることだった。あれだけ砂糖とミルクを入れては、コーヒーの味はほとんどかき消えてしまうだろうと思い、それを飲む旦那も実に苦々しげな表情で一気に飲み干すので、あれじゃ味もなにもあったもんじゃないわ、と男が帰った後、砂糖とミルクを補充しながら首をかしげるのだった。あるとき、男は二日続けて来なかった。いつものようにお昼の時間になり今日は来るのかしら、と女は思いながら、ティーカップを拭いていた。男はほとんど毎日来ていたが、それでも月に何回かは来ない日もあった。しかし、二日続けて来ないということはなかったのである。いつの頃からか女は男が来ないとなにかしら、それは感情的なものでは決してなく、何気ない日常を構成する何かが、わずかながら欠けているような気がし始めていた。三日目のお昼も男は現れなかった。代わりにというわけではないが、入って来たのは、今同じカウンターに座っているあの豪快にビールを飲み干した男で、その時は今と比べ腕や肩の筋肉が一回りほど小さく、顔立ちにも若干の幼さが垣間見えていた。材木屋もちょくちょく来ていたが、旦那ほどではなく、注文するのはフルーツジュースか紅茶だった。オレンジジュースをテーブルに持っていったときに、女はそれまで挨拶以外は交わしたことがなかったが「あの人は今日は来ないのですか?」と緊張した表情で、しかしそれが特に知りたいと言うわでではないというような様子で話しかけた。材木屋は女を見上げながら「彼は作業中に怪我をして今は休んでいるんだ」と言い、オレンジジュースを飲んだ。女の表情は強張り、一瞬動きは止まったが、すぐに「怪我は重いのですか?」とできるだけさっきと変わらない感じで問いかけようとするが今度は早口で声もうわずっていた。材木屋は、なぜ女がそんなにあの男のことが気になるのか、と思いながらも怪我の内容を説明した。それによると、作業中に立ててあった材木が落ちてきて男の肩に当たったが、決して大事ではなく、仕事に来れないこともないが、親父(彼にとっては実の父親であるが他の従業員からもそう呼ばれている)が今週いっぱいは自宅で休めと言いつけたらしかった。その後の会計のとき、材木屋は男の家がこの道の角を曲がったところにあるパン屋の二階だということを女に教えた。女はそんなに近くに住んでいたことに驚きながらも、なぜ私にそんなことをわざわざ言うのだろうという少し戸惑った表情で材木屋にお釣りを渡したが、材木屋はそのことにまったく他意はないといった様子で女の表情を見るまでもなく店を出ていった。女は仕事が終わってからの帰り道、男の家の前を通った、と言うよりもそこはいつもの帰り道だったのだ。パン屋のショーウインドウにはもう残りわずかしか商品がなく、見上げると左右に窓があり、どちらが男の部屋なのだろうかと女は考えた。女はしばらくの間、両方の窓を見上げていた。パン屋の中では後片付けがはじまり外に出てきた店主が女の方を一瞬見たあと看板をしまい、やがて電気が消えた。初秋の風は昼間の心地よい涼しさから、少し冷たく感じられるくらいになり、陽はもう西の空にわずかばかりの赤味を残すだけだった。女が手に持っていた上着を袖に通したとき、右側の窓が開き男が顔を出した。女がアッと声を上げる間もなく男は女に気付き軽く会釈をした。女は怪我の容態を聞いたが、言ってしまったあとで、あまりに唐突だなと思い直した。すると男は「大丈夫でさぁ、この通り何の問題もありません、来週にはまたコーヒーを飲みに行きますよ」と右肩を上げ左手でトントンと叩いた。女は挨拶をして立ち去ったが数歩歩いたあと振り返り「コーヒーよりもフルーツジュースの方が飲みやすいですし体にもいいですわよ」と、出せる限りの精一杯の声で言った。男は彼女にこんな大きな声を出すことができるのかと、驚きながらも右手を思いっきり振った。男の姿は部屋の明かりでシルエットとなって女には確認できるだけだった。翌週、男は店に現われた。女が「ご注文は?」と聞くといつもの無骨な表情で「オレンジジュース」と言った。女は笑顔で「かしこまりました」と応え、厨房に戻るとオレンジをしぼるのだった。