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 材木屋の男が、ビールをもう一杯頼み「先生の分も」と付け加えたが「私はウオッカを」と言うと、材木屋の男は「先生はほんとに見かけと違って男っぽい飲み方をするなぁ」と先生の肩に手を掛けながら言った。先生は口もとに笑みを浮かべたまま逆を向き、老人に「もう一杯お飲みになりますか」と聞いた。老人は、ウィスキーと溶けた氷の水が混ざり合ったものが、わずかに底に溜まっているグラスをつかみながら何やら口を動かしているが、それは声にはなっていなかった。「じいさん、週末だ、飲め飲め、先生もせっかく勧めてるんだ」と材木屋が促すと先生は「あまり無理をなさらないで」と小さな声で言い、老人は時計をチラチラ見ながら、なおも口をもごもごさせ声にならないものを発していたが、意を決したようにグラスを上げて「もう一杯おかわりを」と言ったものの女将は逆のカウンターにいて気付かなかったので、後でこっち側へ来たときに先生が代わりに注文をすることになるのだった。

 店のドアが開き、また冷たい空気が店内に流れ込んだ。入って来た男に店内にいた全員が注目したので、店は一瞬だけ静まったが、皆男が入ってくる前の状態に戻そうとするかのように会話を再開したので、店の中はすぐにざわめきに包まれた。女将が「ここへどうぞ」とカウンターの真ん中のところを指し示すと、カウンターに座っていた客は全員少し詰めたので、一人分が座れるスペースが空いた。煙草を吸っていた小太りの男の相棒が、煙草をくわえたまま自分のテーブル席から椅子を一つ取りカウンターの空いたスペースに置いた。入ってきた男は椅子を置いてくれた男に礼をいい、重くゆったりとした動作で腰掛けた。女将が「寒くはないの?」と言ったが、男は首をゆっくり横に振り、ビールを注文した。店の客はそれぞれ勝手気ままにしゃべったり、飲んだりしているように見えるが、男が入って来てからしばらくは、明らかに皆多かれ少なかれ、この新たな来客者を気に掛けずにはいられないようだった。女将が「あんまり気を落とすんじゃないよ。亡くなってしまったものはもう言ったって始まらないじゃないか。前だって何とか乗り越えただろ。さっ、今日は楽しく飲んで」と仕事を一時中断し、男の肩をポンポンと二回叩いた。男の両脇にいた初老の男と女も、だいたい女将と似たような慰めの言葉を掛けて男を気遣った。初老の男の隣に座っている二人の若い娘たちは会話を続けているが、やはりこの男のことが気になるのだろう、先ほどより小声になり男が入ってくる前、店内の喧騒を生み出していた大きな要因にはなりかねていた。

 店内の者は女将さん達のやりとりを見たあと、口々に男に言葉をかけだした。材木屋の男がこういった状況には慣れてないのか、精一杯のはげましの言葉を不器用ながらに言い、小太りの男はそのおせっかいとも思える性格そのままの、まったく関係ない話題まで持ち出してきて励まし、相棒は男を見ながら頷き、自分の友人の言うとおりだという賛同を示していた。老人は相変わらず無愛想な面でウィスキーに口を付けていたが、先生がこういう時にふさわしい事柄を、何かの本で読んだエピソードとして話すと、自分もそうだそうだと、急に言い出した。少し小声になっていた二人の女も「また子供はできます、できます、きっと神様はまた授けて下さいます」と訴えるように言った。他の客たち、先生たちとは逆の方に座っている酔いのせいでロレツが上手くまわっていない頬にアザがある男も言葉をかけていたが、男が他の者の話を聞いていたのと、アザの男の声が小さかったので、届いてはいなかった。アザの男の隣りにいる、常に笑顔を絶やさない陽気な成年でさえ「酔っ払って独り言を言い出しているのだな」と思っていた。

アザの男とこの陽気な成年がカウンターの入り口側に座り、老人が奥の方というのは、この店ではほとんど変わらない位置関係だった。店が飲み屋として開業してすぐの頃から、老人は一番奥の定位置を確保するようになっていたのだが、そこへアザの男が席はまだ他に空いていたにもかかわらず老人のとなりに座りだした。アザの男はいつも一人、端へ腰掛けている老人に興味をもったのである。老人は基本的には無口で、アザの男がただ一人で延々としゃべり続けていた。しかし、アザの男の言葉に、まれに老人は反応し、お得意の比喩と引用に富んだ演説を始めるときがあった。アザの男は最初のうちは、老人は博識なのだ、と教えを請うような姿勢で話を聞いていたが、ときとして老人は、アザの男の無知を馬鹿にしたような物言いや、この町の文句まで言い出すので、あるときからアザの男は老人の隣りには座らないようになり、一番反対の席に付くようになったのだった。そして毎晩一人で飲んでいるところに、自分が老人に近づいていったのと同じように、今、隣に座っている、何が毎日そんなに楽しいのか、いつもいつもいぶかしげに思わせるこの陽気な成年がいつごろから座るようになったのである。アザの男は家に帰ると、妻に店でのことを話すのが日課になっていて、前は老人や他の客のことだったが、今ではほとんど陽気な成年のことになっていた。「あいつは、毎日なにがそんなに楽しいんだか。なんで俺の話をそんなに聞きたがるんだ」と不満そうに述べていたが、妻は今となっては夫の半生を示す唯一の証拠品でその存在を支えるといってもいい、壁に掛かっている制服にブラシをかけながら無関心に相槌を打っているようで、この偏屈な夫に年が二回り以上離れてるとはいえ、話し相手がいることにホッとしている様子だった。


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