⑳
男の家は代々、鼠には並々ならぬ関心(というより他人から見ればもうこれは信仰に近いくらいのものだったが)を持っていて「鼠を敬うべし」いうのは先祖代々の家訓になっているほどだった。ことの始まりはこの土地に移り住んできた開拓団の中に彼の先祖がいて、土地を開墾していくが、始めの二~三年は作物がほとんど収穫できず、山菜をとったり薪を町に売りに出てわずかばかりの食料品と変えていた。しかし、冬場は山菜は取れないし、薪は自分達が使う分しかないので食べる物に困ることになった。政府からの援助は本当に食い繋ぐという言葉も当てはまらないくらいのもので、皆冬が過ぎるのをじっと耐え忍んでいる状態だった。そのため、大人はもとより子供などが病にかかるとまず助かる見込みはなかった。そんな中、開拓団としてきた男の先祖の子供三人のうち二人が流行り病にかかった。うち一人は寝込んでから五日目の朝を迎えることなく家のすぐ目の前にある、今は葉をつけていないが、春には鮮やかな黄色い花を咲かせる大きな木の下に埋葬され大地の一部となった。男の先祖は悲観にくれている間もなかった。もう一人の子の容態は明日にでもまた、雪で埋まった土を掘り返さなければならなくなってもおかしくない状況だった。開拓団の中にいた医者ではないが実家が病院だったという男に診てもらっても「何にしても栄養のあるものを食べさせないことには」というだけだった。男の先祖も栄養のあるものをなんとかして食べさせてやりたいが、食料と換えられそうなものは家の中を見渡してもなく、それ以前に隣町への道はここ数日の雪で鎖されていた。男は眠るときに「また明日あの子の苦しんだ表情を見るのか、いや、見れないときはもう天に召されてしまったときか。でも、これ以上苦しむぐらいなら、いや、なんて事を考えるんだ。でも、もうこれ以上は」と考えが廻るばかりで一向に眠りにつくことができなかった。暖炉から薪が燃える音が聞こえる中、男は一昨年前の春にここへ着いたとき、他の者よりも家作りに倍以上の時間を費やしてよかったと思った。おかげで農地の整備は遅れることになったが、その分他の家よりはずっと暖をとれる構造になっていたからだ。そんなことが頭を過ぎりながらも、息子をどう救うかに頭の中はほとんど支配されていた。天井裏でカサカサと音がする。あの鼠どもはこんな状況でもよくやってるもんだ、と思いながら暗闇の中様々な表情に見える天井の木目を見つめていた。「あれを食わせてみてはどうだろう」これは当時としては、まったく考えられないことだった。鼠は不浄な生き物とされており、触ることすらもはばかられ、その駆除には特別な資格を持った者しか(それを行う人達は軽蔑の視線を免れれないことになるのだが)あたれないことからも、どういう存在だったかが推測できるだろう。したがって食べるなどというのは論外といってもよかった。しかし、今となっては一人になってしまった息子を死なせるぐらいならと、男は鼠を簡単な仕掛けで捕まえると意を決して調理にとりかかった。皮を剥ぎ、尻尾と頭の部分は切り落とし、十分に沸騰した鍋の中に入れ煮ていった。グツグツと鼠の肉は鍋の中で踊り、他の肉を煮るときよりも長く煮ていたことからも鼠への侮蔑の念がわかるというものだった。十分に煮えきった鼠の肉に塩で簡単な味付けをし、男は手でちぎってしばらくそれを見つめ口に入れるのを躊躇しながらも、思い切って口の中に投げ込んだ。一口、二口、と噛むと塩味の後からくる歯ごたえはあまり他の肉と変わらず、これならなんとか食えそうだ、と皿にのせ子供の部屋へと持っていった。久しぶりの肉とはいえ息子はもう食欲をほとんどなくしていたが、父親が熱心に勧めるので半ば無理矢理口の中に押し込んだ。それを一週間も続けると徐々に息子の体力は回復し血色も良くなっていった。男は普段のときは、どんなに食料に困っても鼠の肉を食べることはなかった。それは不浄の概念などではなく、本当に危機的な状況のとき以外は手をつけてはならないと思ったからだった。こうして、この家では鼠を捕まえることはあっても殺すことはなく、山へ持っていって放すことになった。それが世代を経ていくに連れて一種の信仰のようなものにまで昇華していったのである。はじめのころは不浄な生き物を大事に扱う家、と周りから気味悪がられ、村の行事ごとの参加の際に嫌がらせを受けたりもしたが、時間が経つにつれて鼠をそこまで不浄なものとする習慣もなくなり(それは鼠の駆除を行なう資格がなくなり普通に一般の家庭でそれぞれ駆除するようになったことが証明していた)鼠を大事にする一風変わった家というぐらいにしか思われなくなっていった。とはいえ、男は代々の先祖と比べても鼠を大事に扱いすぎるので、家のものでもやり過ぎだと思うものの、家訓を持ち出されると強くはいえなかった。しかし、ただでさえ繁殖力がある鼠を手厚く保護して増え過ぎるのも困るので、白い体で目は赤く、尻尾が体と同じくらいある、他の種と比べて数の少ない希少な鼠のみ飼うことを許された。男は渋々納得し、許可を得たその種の鼠を一生懸命世話するが、これは他の鼠に比べ繁殖能力が低いうえに、子供のうちは抵抗力がなく、生まれてすぐの間に死んでしまうことも多いのである。その数が多いときに男は店に来ては、普段あまり飲まない酒で悲しみを紛らわせようとするのである。事情をよく知らなかった若い娘二人が、なんだ鼠のことか、と思っているように、犬や猫ならまだしも鼠ぐらいで、という言葉を一度、出っ歯の男が言ったことがあるのだが、そのとき男は「犬や猫は死んじゃだめで鼠は死んでもいいっていうのか!」と、出っ歯の男に泣きながら飛びかかっていったことがあるので、皆もどうしたものかと困惑するのである。




