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 ビールが置かれると先生は老人に軽くグラスをつきだしグッと飲みだした。「若いのにいい飲みっぷりだ、先生」と逆隣に座っている屈強な体の男に言われると、先生は笑みを返しこの男とグラスを合わせた。老人はそれを横目で見ながらピーナッツに手を伸ばしていた。

 屈強な体の持ち主は材木屋の男だった。たくましい二の腕と上着の上からでも盛り上がっているのがわかる胸板は、幼いころから木と接していくうちに出来上がっていったものだった。代々、と言ってもこの男の祖父のころからだが、材木屋を営んでおり、今は体力の衰えがここ数年顕著になってきた父親に代わり、今日四杯目のビールを豪快に飲み干したこの男が仕事場を取り仕切るようになっていた。父親は「まだまだ息子は半人前だから」と周りには言っているが、若い衆はもとより祖父のころから働いている古株にも一目置かれるようになってきた息子に、まんざらでもないといった様子だった。ただ、家族の、とりわけ母親の心配の種は、体だけが大きく育ったようにしか見えない息子に、嫁さんが来る気配がまったく見られないことだった。町のそういったことに世話をやきたがる、老婦人等に「誰か息子に好い子はいないかしらねぇ」と話してみるのだが候補に上がる子に対しては一人息子を持つ母親の性分だろうか、なんだかんだ難癖をつけ、双方が会うと言うところまでも至らず、結局息子が結婚できない原因はお前が子離れできないからだ、と夫や義母に言われ、「そんなことはないわ」と言う反撃も弱いものとなってしまうのだった。

 老人が体の向きを変え、先生に顔を近付けた。「孫は学校でどうかね。あれは何としても都会の大学に行かせたいのだ。数学と理科は申し分ないと思うんだが、外国語と歴史がなぁ。わしは歴史は得意だったんじゃが・・・そこはきっと父親に似たんじゃ。まぁ、あれはどの科目もダメだろうが、母親は歴史は一番得意だった。小学校から高校まで」

「お孫さんはとても優秀ですよ」先生は、老人の息継ぎのときにできるわずかな間を狙いすましたかのように言葉を挟んだ。そして、ビールを一口飲むと視線は正面を遠く見つめた。老人も体の向きを戻し、息を一つ吐いてグラスを手に取った。カウンターの先には女将が忙しなく動いていたが、先生と目が合うと少し困ったような、申し訳なさそうな笑みを返したのは、毎度、毎度、老人の相手をしてくれていることへの感謝の念からだった。

 女将は実に忙しなく動き回っていた。注文を受け、一方の手で飲み物を出す間も、もう一方の手はフライパンを動かしているといった具合で、それでも客の相手は怠らないのである。カウンターの外には手伝いに来ている姪がいるが、彼女はテーブル席の客から注文を受け、それを女将に伝え、出てきた料理や飲み物を持っていくということですらも満足にこなせているとは言い難かった。注文は間違えるし、グラスは何度となく割ったし、客の冗談には、ただ顔を赤らめてうつむくばかりだった。手伝いに来て三ヶ月が過ぎたあたりからグラスを割ることは少なくなったものの、注文の間違いや客への対応は相変わらずだった。女将も「この子にはこういう仕事は向いていないのかしら」と何度となく思ったが、客たちの方は彼女の失敗をむしろこの店で起こる一つのセレモニーだとすら思っているのか、話のネタを増やしている貴重な存在だと考えているらしかった。もっとも、彼女が十八にしては顔立ちも体付きも実に幼く、頼りない存在であることがいちいち責める気を起こさせなかったのだろう。

 その姪が入り口から一番近いところにあるテーブル席に料理を運んで行くのをチラチラと見ている者がいた。大工屋の見習いだった。彼と同じテーブルに座っている親方に比べると、こんな体でレンガや木材を持つことができるのかと疑ってしまうぐらいに体の線は細く、髪はボサボサに伸び放題で、親方に「前髪ぐらいは切れ」と常日頃言われ、ほっぺたにいくつか残るニキビは思春期の名残りを思い起こさせた。一杯目のビールを必死でなんとか飲み干すと、後はウィスキーの水割りを飲まずにただ口に付けるだけで飲み込みはせず親方や常連客の聞き役にまわるのだった。いつだったか親方に「お前は一度も二杯目を飲み干さないじゃないか」と言われてからは何とか飲むように心がけるのだが、十七の若者にはいかんせん酷というものだった。見かねた女将がこの見習いの注文には水を多めに入れ薄くしてから姪に持って行かせるようになったのだがこの娘のことである、女将から親方の分と見習いの分を間違わないよう念をおして言われているのにも関わらず、今日のように忙しいときは何回かに一度は間違え、見習いはそのたびに顔を歪めながら必死で飲むのである。薄い方を飲んだ親方が「これは薄くないか」と女将に尋ねるが、女将は「もう酔っぱらたのかい」と軽くいなし、姪に視線で注意を送るのである。見習いはその光景を見ているので、自分さえ我慢して飲めばこの娘にもお咎めはなく、全て丸く収まるのだと顔を歪めながらまたグラスを口に運ぶのである。


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