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 老人はカウンターの一番端なので席を移動することなく、向きを変えるだけでよかった。女将の弾くこの曲を老人はもう何度となく聴いているので、頭の中では正確に曲が再現できるようになっていて、老人はよく口ずさんでいたが、まわりはただぶつぶつ独り言を言っているだけだとしか思っていなかった。老人はこの曲が流れ出すと遠い少年の頃からの記憶が蘇える。なぜ、そうなるのか、恐らく女将が決まって一番始めに弾くこの曲は昔からあるもので、老人が幼かったころ。よく学校で流れていたのである。老人は子供の頃からずっと成績優秀で、まだ町から大学に行くことが珍しかった時代に名門と言われる都会の大学への入学が期待されるほどだった。しかし、家が貧しかったため(というよりその頃は皆が貧しかったのだが)進学は断念せざるを得ないだろうと老人は考えていたが、ちょうど見合わせたかのようにその年から、大学側が入試の成績優秀者には学費を大幅に免除する制度を開始した。老人はそれこそあらゆることを忘れて勉強に没頭した。老人にはこれが何か、決して彼自身は信心深い方ではなかったが、運命的な何かしらの大きな力が自分を後押ししているにちがいないと思い込んでいた。老人は見事大学に受かり学費も免除された。町を出るときも感傷など少しもなく、自信と期待に満ち溢れ輝かしい未来を思い描いていた。汽車の窓から見える風景が次々と通り過ぎていく中、老人は生まれ育った町を見ながら思った。もう戻ることはないだろうと。うたた寝をしていた老人の肩を揺する者がいて目を開くと娘が自分をのぞき込むように見つめていた。娘は「もう帰る?姉さんと義兄さんも心配してるわよ」と言ったが、老人はなぜか今夜はまだ帰る気にはなれず「あの男がいる家になんぞ帰る気にはなれん」と娘に言った。娘は「また、はじまった」と呆れながらも老人を説得し、最後に孫の名前を言うと老人もしぶしぶ納得した。これを飲んだら帰ることを約束して、さっきからあまり減らないグラスを手に取ると、娘は「やれやれ」といった表情で席に戻っていった。老人は、姉妹のくせにあいつは姉と違って口うるさいものだと、娘の後姿を見ながら思った。曲は終盤にさしかかり、曲中で一番テンポが速くなるところだった。女将の指が鍵盤の上を次々と移動して行き、生み出される音色は幾重にも重なり現われては消えていった。二度と帰らないであろうと思ったこの町に老人は戻り生活している。あのとき、汽車の窓から見える風景を見ながら、大きく夢や野望に満ち溢れていたときの自分を思い出すとあの異常なまでの気持ちの高まりはどこへ行ってしまったのだろうと考える。あれが若さというものなのだろうか。それにしても、記憶の中で若いときの自分を思い描くとき他人を観察しているようにしか感じられず、それが自分自身の体験だという実感が湧かない。汽車の窓から見た町の風景は、低い家々が立ち並び、汽車が動き出して数分もすると平野が広がった。大通りといえるほどの舗装された立派な道はまだなく、人も建物も今よりずっと少なかった。そもそもここはあの頃町ではなく村だった。今、汽車の窓から見える風景は昔自分が見たものとはまったくちがっているのだろう。町は変わった。いや町だけでなく自分も変わった。都会から帰って来たからだろうか、結婚して娘ができたからだろうか。孫もできた。流れるこの曲だけは昔のままだ。曲はゆっくりとしたテンポになっていき、女将が最後の鍵盤に静かに触れ、音色は店内に広がり消えていった。しばしの沈黙に浸る間もなく、二人組みが歓声と拍手を送ると、皆もそれに続き店内はこの日一番の喧騒に包まれた。老人もグラスを置いて手を叩きながら大きくうなずいていた。振り返った娘と目が合い「もう行くわよ」と声は出さずに口の動きだけで言う娘に、老人はそのままうなずき続けた。娘が立ち上がり、老人も帽子を被り立ち上がろうとすると、陽気な成年が「もう帰るのですか、これからが楽しいっていうのに」とギターを抱えながら言った。娘は「これから踊りの時間なんだわ」と察し、老人の顔を見た。老人は、別にまだいても構わないというのを示すように、帽子を脱いでカウンターに置くと再び席に付いた。娘は踊るのがとても好きなのである。娘は「お父さんごめん」と言っているが、テーブルを移動させていた時点で多少の期待は抱いていたのである。さっき座っていた場所に戻ると、もうみんな椅子を壁に寄せ踊るスペースを作っていた。陽気な成年と女将はそれぞれの楽器を小さく弾きながら曲の打ち合わせをしていた。

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