⑭
最後に弦を激しく弾く音がして演奏は終了した。成年が拍手と歓声にわざとかしこまって応えたので、その場違いなしぐさが可笑しくて一同は笑い、女将は「相変わらずサービス精神旺盛な子だわ」と好感を持つが、成年自身はギターを弾くとき、集中し過ぎていつものふざけたノリが出ないので、演奏が終わった後にこういう態度をとるのは一種の照れ隠しだった。成年は「しばしご歓談を」と言って立ち上がりギターを椅子に置くと、入口の側の手洗いに入っていった。アザの男は目の前のギターを見ていて、弦をそっと人差し指で弾いてみた。音は鳴ったが小さくてほとんど聞こえなかったので、もう一度、今度はさっきよりも強く弾くと思ったよりも大きい音が鳴り、何人かの視線を集めてしまい、アザの男は驚いてギターから手を離すが、位置から見ても彼しかギターに触れた者がいないのは明らかだった。奥にいる見習いと老人の娘は、ご歓談をと言った成年がもう演奏を再開するのだと思い、老人に帰る催促をしに、立ち上がろうとした娘は浮きかけた腰をまた椅子に沈めるのだった。見習いは演奏が続いている間は、娘は老人を連れて帰らないのだと思ったので、成年にできるだけ長く演奏をして欲しいと思っていたが、成年は手洗いから戻って来てはいないので、さっき一瞬鳴ったギターの音は続きはしなかった。娘は曲がはじまらないことを確認すると、父親の側に行き、耳元で「お父さん帰るわよ。今日はちょっと飲みすぎなんじゃない」と囁いたが、老人は娘と視線を合わそうとせずグラスに手をのばそうとするので、娘は「お父さん!」と語気を強めて言った。すると先生が「帰りは私が送りますから心配なさらなくてもいいですよ」と言うと材木屋も「俺も付いてるから気になさんな。一人担ぐくらい大丈夫さ」とシャツの袖を巻くりあげ、盛り上がった筋肉を見せた。娘は先生には、申し訳なさそうな表情で「いいんです、いいんです」と返事をしたが、後ろの材木屋には「大丈夫さって、そういいながら、よくどこかでつぶれて寝てるでしょ。この時期道で寝たりしたら凍え死ぬわよ」と先生に話しかけるときよりも低く強い口調で言ったので、先生はその変わりようが可笑しくて笑うと、娘もハッとして視線を下げた。材木屋は「この違いはなんでしょうなぁ」と手を先生の肩に掛け、頭越しに娘を見ると、娘は材木屋をにらみつけた。すると自分が笑ったのが原因だと思った先生は謝り「ちがうんです、ちがうんです」と娘は慌てて誤解を解こうとするが、後ろの材木屋はその慌てふためきぶりが可笑しくて先生の肩を叩きながら豪快に笑った。娘は呆れた顔で溜め息をつき、父親の方を向くと「この一杯だけだからね」と言って席に戻った。見習いは心の中で「もっとゆっくり飲むんだじいさん」と願わずにはいられず、姪は、見習いの視線がさっきから娘に向いていることに益々機嫌を悪くするが、娘が入ってくるまでは見習いの視線をいちいち追っていたわけではなかった。女将さんの「もう帰るの」と言う声に姪は振り返ると、初老の女が立ち上がりバッグから財布を取り出していた。初老の男は自分が支払おうとポケットに手をのばしたが、それはあまりに差し出がましいまねではないかと迷ってるうちに女は支払いを済ませ、女将と会話を交わし、他の常連客や隣りの男に挨拶をした後、初老の男に「では、また」と言って入り口へと歩いて行った。入り口のところで待っていた姪からコートを受け取りドアを開けてもらうと、雪が降っているので、女将さんが「傘、借りていきなよ」と言ったが、「近いからいいわ」と言って、振り向きざまに女将さんと姪に手を振り、ドアが閉まる直前にはずっとこっちを見ていた初老の男と目があった。
男は閉まったドアを尚も見ていたが、急に「女将さん勘定を」と言うと、ポケットから財布を取り出した。女将は勘定を言って代金を受け取ったあと、お釣りを渡すときに、男の方に顔を近づけ「彼女は大人しい性格だけど、ああ見えてなかなか頑固なところがあるから、小学校の頃から一緒だからねぇ・・・まぁ、積極的にね」と男に小声でいい、男は気恥ずかしそうな表情で女将や皆への挨拶もそこそこに席を立ち、上着を羽織ると、まだ入り口のところにいた姪に「傘を貸してもらえるかな」と言い、姪の応えを待つまでもなく傘立ての中から白地に赤や黄色や水色やオレンジの水玉模様が入った傘を一本抜き出すと勢いよくドアから出ていった。姪は自分のお気に入りの傘を持っていかれたことよりも、いつもどちらかと言うと地味で大人しい男の初めて見る力強い眼差しに圧倒され、呆然と閉まりゆくドアを見ていた。女将さんはやれやれといった表情で男の後姿を見送り、真ん中の男はこの短時間に話し相手がいなくなってしまったことに、自分が一方的にしゃべりすぎたせいだろうかと反省し、漁師と親方を除いた他の客は、二人が続けて帰ったことには時間も時間なので特に気にした者はいなかった。女将は親方がニヤニヤと自分を見ていることに気付き、その視線は「お前さんもとことん世話好きだな」と言われているようだったので、女将は口元に笑みを浮かべて「年も年なんだから誰かが後押ししなきゃくっつかないだろ、あんたんとこの子とウチのとはちがってさ」と思っていたが、親方は後の二人のことはさほど気にしていなかった。漁師はこの席にいて一部始終を見ているので、女将の変わらない性格に感嘆しつつ、女を追いかけていった男に激励を送らずにはいられなかった。
通りを歩きながら女は、思ったよりも振っている雪に「やっぱり傘を借りればよかったかしら」と思いながらコートの襟に首をうずめた。店から出ていった男は、路地を曲がって大通りに出たところで女に追いついた。雪はまだ地面を完全には覆っていないものの、ところどころ積もってきており、女のところで立ち止まろうとした男の足を滑らせ、男はバランスをくずして転びそうになるところを女の肩にしがみつき何とか体勢を立て直した。男は「すいません、すいません」とすぐに手を引っ込めあやまったが、女は特に気にした様子もなく「どうしたんですか?そんなに慌てなさって」と、男を落ち着かせるかのように穏やかな口調で話しかけた。男は「いや、あの」と息を切らせながら考えるが、用件などあったのだろうか、ただ勢いで追いかけて来ただけだったのでは、と数十秒前の自分の記憶をたどるが、やはり用などはなくただ追いかけて来ただけなのは考える間でもなく明らかだった。こんなとき、あの陽気な成年ならば何か冗談でも言って場を和ませることが出来るのだろうな、と取り止めもないないことが頭をよぎっていると、女が笑っているので男は何がおかしいのだろうと、女の視線の先を追って見るとさっき転びそうになったとき思わず離してしまった傘があった。「これ、あなたの?ずいぶん可愛らしい柄ね」と女は軽い口調で言い、それが男には緊張を和らげるきっかけになった。傘を拾い上げ、「いや、これは急いでたもので、とりあえず店にあるのを借りてきたのですが、いや、ははっ、まさかこんな柄だとは」二人は顔を見合わせて笑い、男は傘を開き女の頭上に掲げた。「家まで送ります」という男の言葉に女は普段なら「すぐそこですから」と断っただろう。しかし、今は自然と出てくる笑みで応え、それが承諾につながっていることは二人が色とりどりの模様の中を並んで歩いていることからも分かるのだった。雪は静かに夜の通りに舞い降り、少しづつ街を白く塗り上げようとしていた。街灯が照らし導く大通りには、二人以外に後にも先にも人影はなく、並ぶ家々の何件かからわずかにもれる光が、静寂に包まれた世界で、まだ眠りについていない人々がいるのを知らせてくれるのであった。大人二人が入るには小さい傘は、男の右半分まで雪を除けてはくれないが、今となってはむしろ男は降り続く雪に感謝せずにはいられないくらいだった。後数十メートル先にある十字路を右に曲がれば女の家はすぐそこだ。男はこの大通りがどこまでも伸びてくれればいいと考えながら、女の横顔を相手には悟られぬようにチラチラ見ながら無言で歩いていくのだった。