⑪
…「ですよね」漁師は隣りにいる陽気な成年が話しかけているのに、始め気がつかず女将に見とれていた。漁師が成年の方を向くと、もう逆の方に振り返っていて漁師は一番奥に座っている左頬にアザのある男と目が合った。アザの男も漁師もすぐに視線を外し、漁師は女将の方をずっと見ているのを気付かれたかな、と思った。アザの男が座っている入口側の一番奥の席は、本来漁師の指定席だった。それをいつごろからか、反対の席の老人と反りが合わなくなったアザの男が奥の席に陣取るようになったのである。漁師はあの席がよかったがかといって、相手に言うほどこだわりがあるわけではなかったので、さほど気にせずに今座っている席に落ち着いたが、アザの男から一度ビールをご馳走になってもらったことがあり、それが席の代価ということなのだろうと納得した。
陽気な成年がカウンターの下でゴソゴソとしだしギターケースを引っ張り出し中からギターを取り出すと、カウンターを背にして座り、軽く弦に触れた。その音で店内の誰もがおっそろそろこんな時間かと思い出した。入り口の二人組みは指笛と高い声で成年を盛り上げ、材木屋の拍手に女二人もつられて手を叩き、姪は空いた皿やグラスをそそくさと下げながら、見習いが寝てるところまで行き「あの人がはじめるわよ」と耳打ちしたが、見習いは相変わらず虚ろな視線で天井を見つめていて反応はなかった。見習いはぼんやりとする意識の中でも先ほどのギターの音色を聞き逃してはいなかったが、それが夢なのか現実なのかが分からなかった。先生が老人に「彼がはじめますよ」と言ったが老人はチラッと対角線の先を見ただけで、視線を落としたのはアザの男と目が合うのを避けたかったからだった。
拍手や歓声が止み静かになったのを見計らって、ギターを持った成年が曲を弾き始めた。ゆっくりとしたテンポの曲調に話すときよりも太くてやや低い声が重なり店内に響きわたった。親方は椅子に深くもたれ掛かりながら目をつぶり聴き入っていて、若い娘のうち短い髪の方は成年の弦を押さえる指に、長い髪の方は声が伸びる度に動く喉ぼとけにそれぞれ注目し、小太りの男はテーブルに肘を立て手の平を枕に聞いていたが、目がだんだん閉じかかろうとしており、相棒は小太りの男を背に成年の方を向き、足でリズムをとっていた。二人組みはコソコソ会話をしていたが、それがだんだん大きくなると、材木屋と女将にキッとした視線で咎められて大人しくなり、その光景を見ていた成年は演奏をはじめてからいつもより厳しくなっていた(というよりいつも笑顔だから普通にしているとそう見えるだけなのだが)表情を和らげ、微笑を浮かべて一曲目を終了した。しばしの沈黙の後、拍手と歓声が店内に響き渡り、中でもあの二人組みが大げさに手を叩き奇声を発しているのは、先ほどのことに対する謝罪の意識も込められているのだった。老人も拍手を小さくしているが、カウンターの下に手があるので気付いたのは外国語で「すばらしい」と言う意味の単語を発している先生だけだった。小太りの男はハッと目を覚まし、みんなより遅れて拍手をし、夢と現実を行き来していた見習いは、歓声と拍手で現実に引き戻された。後から入ってきた男も精一杯の拍手と歓声を送っているが目には涙が浮かんでいて、それに気付いた初老の男はさっきまで男の会話を疎ましいと思っていた自分に多少の罪悪感を覚え、女の方は拍手をして成年を讃えているようでその実、成年の後ろの壁に掛かっている時計を見ているのだった。成年はいつもの表情に戻り、手を上げて歓声に応えると若い娘二人の方を見て投げキッスをしたので、二人とも顔を見合わせて笑い、アザの男はやれやれといった表情を浮かべているが成年は背中を向けているので気付いてはいなかった。