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入口から一番近いところのカウンター席、L字型の角のところに座っている色黒の男も会話には加わらないものの話は聞いていて、口もとが少し緩んでいた。この男は漁師で、顔に刻まれた皺は老いよりも自然と過ごしていく過程で、付いてきたものだった。漁師の父親も漁師で、女将の父親と仲が良く、父親はよく魚を女将の家に持って行っていた。漁師はよく父親に連れられて女将の家へ行くと、お礼にと女将の母親がくれるお菓子の味を思い出すのは、女将がまれに客に出すお菓子を食べるときで、そのあっさりとした味が甘いものが好きではない漁師や他の男性客にも好評だった。漁師は、女将が十五のときまではずっと同じ学校に通い、その後は父親の後を継いで漁師になった。親子で船に乗った期間は短く息子が漁師になって二年ほどしてから、父親は体を悪くしたために引退し、女将の家に魚を持っていくのは自分の役目になった。そのころには女将は家を出て市内の学校の寮に入っていた。
数年後、学校を卒業した女将が町に戻ってきたとき、傍らには主人となる男も一緒だった。すぐに結婚した二人は店を開き、旦那が魚をどこから仕入れようかと考えているときに、いつも魚を持って来てくれていた漁師を勧めたのは女将だった。話を受けた漁師は快く了承し、ほとんど毎日、新鮮でその日一番いい魚を他のどこよりもまず女将の旦那の店に持って来てくれた。主人も漁師も口数こそほとんど交わさないが、お互いの仕事に対する意識には同じものを感じているらしかった。漁師が魚を持ってくるようになってから半年が過ぎたころ、主人から今日の夜店に来てくれるように申し出があり、漁師がその夜店に行くと、いつもの閉店時間までにはまだ一時間以上あるにもかかわらず女将と主人は看板を下ろした。女将が「いつもいい魚を持ってきてくれるから今日はささやかながら二人からのお礼よ」と言い、料理を運んできた。その日は漁師の誕生日だったのである。その日出されてくる料理は漁師がはじめて食べる物ばかりで、メインディッシュの魚料理を食べたときには、自分が獲ってきた魚がこんな風に調理されることに漁師は驚き感動しながら舌鼓をうった。ディナーの間、主人はずっと厨房にいて、漁師の話し相手は女将が勤めていた。「お父さんは元気?」からはじまり「魚は昔に比べてどう?」など質問が矢継ぎ早に飛び出し、その中には「結婚しないの?」と言うのも含まれていたが、漁師は首を横に振るだけで、あまり多くを語ろうとはせず、女将の話の聞き役にまわっていた。料理が終わり、店を出るときには主人も厨房から出てきて、漁師を見送った。漁師がお礼を言うと、主人は「明日からもまたお願いします」と帽子を脱いで頭を下げ、女将はお土産にと自分が作ったお菓子を渡した。それから、毎年漁師の誕生日には店は早く閉められ、たった一人のためのディナーが催された。メインディッシュは決まって魚料理で、お土産にはお菓子が手渡されたが、主人と漁師は帰りのときに挨拶する以外、ディナーの間女将が話し相手なのはずっと変わらなかった。同い年の漁師と女将は一回りほど離れて見えるが、それは漁師が老けているというより、女将が若々しいのである。確かに若いころに比べるとふくよかになり、目尻や口もとに細かい皺があるが、女将の立ち振る舞いなのか内面から滲み出るものなのか、まだ若いころの面影が随所に見られたし、少なくとも女将と同世代の町の女に比べたら、嫉妬をかうぐらい魅力的だった。漁師の男の席からは女将の横顔が眺められ、彼は十二、三のとき二人で女将と釣りにいったときのことを思い出していた。元々は漁師の父親が女将に約束したものだったが、当日に漁師の父親はどうしても船を出さなければならなくなり、父親から「陸から釣るんだからお前が連れてっても大丈夫だろ」と半ば無理やり役目を押し付けられたのである。釣り場までの移動の間、漁師はずっと黙り込み、この光景を誰か同級生に見られはしないかと辺りが気になって仕方がなかった。女将の数歩先を行くために速く歩くのだが、女将もそのスピードに合わせて小走りになるので女将を振り切ることは出来ず、しかも女将は漁師に質問も交えて次々と話しかけ、彼が黙っていても口がとまらないのは後年、毎年行われる誕生日のときと同じだった。釣り場に着き、漁師が女将の分も竿に針や重りを取り付けてあげたが、餌ぐらいは自分で付けてもらおうと、自分がやるのを見ててくれ、と言いオキアミを針に通したが、女将は「においがつくのが嫌だから私の分もつけて」と自分の針を漁師に差し出した。漁師は怒るよりも呆れながら、女将の分にも餌を付けてやり、竿を投げた。それから、どれくらい時間が経ったのか、二人の竿は少しも動かず、女将は全然釣れないという不満も最初だけで、後は退屈そうにほとんど動かない竿を見ていて、ときおり「釣れないわね」とこぼしたりするが、相手に反応はなく、じっと海面を見つめているだけだった。漁師は、数分おきにリールを回して餌が付いてるか確認し、無くなっているとまた餌を付け竿を投げるという動作を繰り返し、同じことを女将の竿にもしてやるので、女将はただ渡された竿を持ってぼんやりしているだけだった。よく晴れた初夏の日中、陽射しを反射しながら海面はゆるやかに波打ち、空に眼を向ければ青い下地の中ところどころに浮かぶ白い雲が二人の時間とは関係ないかのように流れていた。ときおり吹く風が海面を震わせ葉の擦る音が鳴り、二人の竿をしならせるが、それが当たりでないことは漁師がリールを巻かないことから女将にもわかるのだった。
漁師がグッと竿を上にあげリールを今までにない勢いで巻きだした。女将が「釣れたの?」と聞けないぐらい漁師の顔には鬼気迫るものがあった。何回転もリールを回した後、海面の底から白い影が現われ、やがて海上に輝く姿を現した。地上で魚はバタバタと暴れ、女将はそのまま海に落ちてしまうのでは、と心配しながらも、初めて見る光景に興奮していた。漁師は息を切らしながら、魚から針を外しバケツに入れた。「釣れてよかったわね」という女将の言葉と笑顔に、漁師もその日はじめて表情が和らいだ。その後二人は女将の母親が持たせてくれた弁当を食べ、そのときには漁師も女将と会話を少しずつ交わすようになっていたが、午後の釣りでは、また魚が掛かる前と同じ光景が繰り返され、陽射しと空だけが刻々と変化していき、日が水平線に隠れ始め、空と雲が赤く染まりあがる頃に二人は家路に着いた。女将の家のところまで来ると漁師は釣った魚が入ったバケツを渡し「ありがとう」と言う女将の言葉に小さくうなずき、振り返って走り出した。それから先二人だけの時間というのは二度と訪れることはなかったのである。