─生存の権利─ マノリ
朧げなフィオナの意識に、その声は輪郭鮮やかに響く。
(満足して死ぬには、まだ早い)
声の言うとおりだと思った。
──ここでわたしが斃れては、母の不名誉を永遠に雪げない。
強い目的を持って砦を出立したことを思い出すと、ふたたび声が言った。
(わたしを受け入れれば、精神性を向上できる)
その声が何を言いたいのか、フィオナにはいまいちわからなかった。頭蓋の中、消化不良の言葉がリフレインする。
身体の感覚はもうなく、目はなにも映していない。
(一緒に戦いましょう)
建設的な声がけを聞きながらも、死神に抱きつかれたような気怠さに抗えない。
──死にたくない、そう強く願ったところで、死ぬ時は死ぬ。わたしが屠ってきた魔獣たちが、そうであったように。
憎悪も空虚感も手放して、優しげな死の抱擁にすべてを委ねてしまいたい。死ねばこそ母に逢える。それが自分の幸せなのではないかとさえ思う。
(執着を手放すのは、いまではない)
声がフィオナを引き上げるように言った。
手放すもなにも、この世に縋るべき縁など、フィオナはなにも持ってはいなかった。
自身の執着が思い当たらないフィオナを察して、声は言う。
(あなたの家族を、人生を、生き様を欲しがりなさい)
──家族、か。ひたすら縁がなかったな。まだ見ぬ母に焦がれた。憎しみだと思っていたけど、本音を言えば父というものに甘えたかった、かもしれない。
──親の愛を知らずに育ったわたしの中に、愛は存在し得るのか。自分がどんな人間なのか、わたしはまだ自身についてなにも知らない。
──わたしの家族、わたしの人生、わたしの生き様。それらすべてを得られなかった。このまま死ぬのは……寂しい。哀しい。
そんな心境の変化に呼応するように、フィオナの暗闇に声が響く。
(彼は言った──求めよ、されば与えられん。それがこの世の摂理)
陶然とした表情を浮かべてフィオナは「フフッ」と笑った。
──なにもしなくてもどうせ死ぬのだ。ならば、この声に賭けてみよう。
フィオナは穏やかな気持ちで頷く。
ドクンッ!
心臓が大きく脈打った。
──!
暗闇だった視界が光に溢れた。
フィオナの視点を中心に据えて、全球を囲って膨大に散りばめられたそれら。
切り取られた光景が連綿と繋がる。
その連なりは、幾千、幾億のおびただしいウミヘビのごとき様相を呈し、上下左右に蛇行して行き交う。
遠くに近くに聞こえる大勢の言葉、あらゆるの物音と残響、悲喜こもごもの感情を伴う香りの様々に至るまで──
圧倒的な情報のインストールは、現実の時間にして一瞬のインパクトだった。
現実に引き戻されたフィオナは、何事かと目をパチクリする。
首に突き刺さる激痛。顔に流れる魔獣のよだれ。まだフィオナは魔獣に首を咥えられていた。
(無詠唱魔術を!)
緊迫感を増した声が言う。
意識をもっていかれそうになりながら、両腕の力をなんとか振り絞って魔獣の首を掴んだ。
──溶岩の雨
こぶし大のマグマの雨が、ベチャベチャと降り注ぎ始めた。
溶岩は高温に燃えながら溶けた粘度のある液体。一度身体に付着してしまえば、チリチリと毛皮から炎が上がり、肉を焼き、食い込んでいく。
魔獣は痛みに耐えかねて、咥えていたフィオナをボイっと投げ捨て、キャンキャンと悲鳴をあげる。
コロコロと転がりながら、フィオナはできる限り溶岩の雨を避け、剣を駆使してなんとか凌ぐ。
──助かった!
タンパク質が焼ける臭いが立ち込める。
魔獣は顔面についた溶岩を拭おうと、前足で何度も何度もこするが、その足掻きも虚しく。溶岩は魔獣の肉を焼き縮め、骨を暴いて、内部へ深く焼き進めていく。
「キャイ~ン! キャンキャン!」と、悲痛に叫んで地面をのたうち回る姿を痛ましげに見ながら、彼女は近寄る。
──苦しませるのは本意ではない。
無惨な傷口を露わに、カッと目を剥いてフィオナを威嚇する魔獣。彼女はためらいなく、その首を一刀両断する。間をおかず、痛む脇腹をこらえながら残りの魔獣に目をやった。
離れて様子を見ていたファングストーカーたちは、死んだ仲間をチラチラと気にしたあと、諦めたように一目散に走り去っていく。
──逃げてくれてよかった。
足の裏から力が抜けていく感覚に抗えず、フィオナは深く息を吐きながら、その場に手をついてへたり込んだ。
──いよいよ死ぬかと思った……。まだ腹は痛いし、首にも深い噛み傷が残っている。声帯も潰されたままだ。
継続効果魔術のリジェネレーションでは完治に時間がかかる。
──回復魔術を使おう。
フィオナは二度目の無詠唱魔術を試みる。
──治癒
またしても術は成功し、喉は瞬時に回復した。脇腹と足も続けてヒールをかける。
ストレッチをして身体に問題ないのを確認してから、マノリに訊ねた。
──ところで、あなたは何なんだ?
(わたしはマノリ。人格よ)
──人格?
(人格とは、そうね。精神体が水滴のようなものだと仮定して。水滴の外気に面した分子が人格。そんなところかしら)
半眼で口を閉ざしているフィオナに、声は少し楽しげに声を揺らして付け加えた。
(わたしとあなたは、同一の水滴に内在する存在ということよ)
更に声は続けた。
(わたしがまだ自意識を保っているのは、前世の死に方が原因だと思う。とあるヒトにやり直すチャンスをもらったの。わたしを受容した、いまのあなたならわかるはず)
マノリの言うとおりだった。
フィオナが知りたいことは、頭に浮かべれば答えがすぐに思い出せる。マノリに対する質疑応答は不要、という結論に至る。
(わたしはもうすぐ、あなたと完全に融合する──よろしくね)
──わかった。
フィオナが返事をすると、その後はもう声は聞こえなくなった。
──まさか、ここにきて、こんなことが起こるなんて。
フィオナは思い出した。自分がマノリという名の日本人だったことを。
そして、自分を転生させた謎の人物、ウィーティイースのことを。
少しの間、感慨にふけっていた彼女だが、あまりゆっくりしていてもまた魔獣に襲われかねない。
すっくと立ち上がって、数回左右の足を屈伸する。
「今度こそ森を出よう」
大きく息を吸いこんだ。嗅ぎなれた森のにおいが、どことなく新鮮に感じられて、胸がソワソワしてしまう。
──地球か。どこにある星なんだろうな。
フィオナは逸る気持ちを抑えながら、夜明け前の悪路を足取り軽く駆けぬけていく。
◇◇◇ ◇◇◇
「ラ・ラ・ラ。ご多分に漏れず、小娘も森を出られず死ぬと予想したのにな。生きて出るどころか、無詠唱魔術を体得するとは面白い」
食欲の森の主は、愉しげに「アヒアヒ」と笑う。
「……イヒヒ、しばらく退屈しのぎができそうだ」
フィオナの背中が見えなくなった頃、魔獣オプティートは不気味な言葉を残して姿を消した。




