侍女は見た ~こじらせ王子と婚約破棄したい聖女のお話~
お嬢様――わたくしのお仕えするシェリルローズ様は、エンウェザー侯爵家の末のご令嬢としてお生まれになりました。
幼いころから溌剌として快活で、けれどもたいそう運の悪いお方だったそうでございます。
遊びに行った浜辺でクラゲに刺されまくって治癒師の元へ搬送、薬草を焚きこめた部屋でリンシャンリンシャン鈴を鳴らされながら三時間ほど生死の縁をさまよったり、お供の者が目を離した隙に致死量一歩手前のワライダケを食べたり、浅い池で遊んでいたらお嬢様の進行方向にだけ水深二メートルの窪みがあったり、枚挙にいとまがありません。
あまりにも運が悪いので、家族の誰かが病気をしたときなどは面会謝絶を言い渡されておりました。確実に感染ると思われていたようです。
十歳のころには、王宮の庭で木登りをなさっていて蜂の巣の前に顔を出してしまい、咄嗟に足を滑らせて転落。
頭を打って――。
聖女の力に目覚められました。
刺された跡がみるみるうちに回復したのが能力判明のきっかけだったと聞いております。どのようなものでも聖女に毒の効果を与えることはできません。
それをきっかけにわたくしはお世話係兼お目付け役の筆頭侍女としてエンウェザー家に参りました。
聖女の力を手に入れたことで、お嬢様の生活は変わりました。
病気の家族を見舞い、看病できるようになりました。クラゲに刺されてもワライダケを食べても毒は浄化されてお嬢様に影響はありませんでした。池に落ちれば浮きました。
けれどもお嬢様の不運は終わりませんでした。
お嬢様は、聖女としての役割を果たすべく出仕した王宮で、我が国の王太子ウィリアム・サーペント・ヴィンチ様に一目惚れされてしまったのです。
こう申してはなんですが……ウィリアム殿下は、狙った獲物は絶対に逃がさないご気質をお持ちでした。
すぐに侯爵家に圧力がかけられ、有無を言わさずウィリアム殿下とお嬢様のご婚約が結ばれました。
お嬢様のお気持ちはいかがであったかと申しませば、
「ホゲェェッ!! 絶対にいやぁ!!!」
だそうでございます。お嬢様は嘘のつけないお方なのです。侯爵家の生まれではありますが、末娘に重責はなく、幼いころからのびのびと育ってこられました。
しかしそんなところがますますウィリアム殿下のお気に入りとなったようです。
「ウィリアム様、土下座するので婚約破棄してください!!!」
「ふーん、おもしれえ女」
顔合わせの日、会うなりスライディング土下座を試みるお嬢様を片手で難なく受けとめ、ウィリアム殿下は笑いました。
毛先に癖のある無造作ゆるふわヘアでたれ目に泣きぼくろ、口の端だけを歪める笑い方にはどう見てもドSの性根がにじみでておりました。わたくしは家臣の分際ながらこの方にお嬢様をお任せしてよいのだろうかと考えてしまったものです。
そしてお嬢様からすれば、その答えは絶対にノーだったようでございます。
「婚約破棄してくれたらなんでもします!!!!」
「なんでもって言ったか?」
「すみません!!! 一秒で撤回させてください!!!」
素直におおらかに育ってきたお嬢様に対し、齢十二歳にして酸いも甘いも噛み分けたような表情を見せるウィリアム殿下は強敵すぎました。
お嬢様は、泣きながら侯爵家へ戻り、これも運命と諦め――るわけもなく。
「週に一度は王宮の神殿で聖女の祈りを捧げなくてはならないわ。つまり週に一度は婚約破棄のチャンスがあるってことよ」
お嬢様の美徳は数えきれぬほどございますが、そのうちの一つがこのポジティブさであります。
そのように前向きに考えたお嬢様は、ウィリアム殿下に婚約破棄していただくための策をあれやこれやとめぐらせては「おもしれえ女」の評価を積み重ね、逆にウィリアム殿下からの好感度をアップさせていきました。
一方でお嬢様の運の悪さは、ウィリアム殿下との婚約を期にかなり解消されたように思います。新しい靴を履いても転びませんし、スカートの裾も踏みません。頭上から鳥の糞が落ちてきたりヤシの木からヤシの実が落ちてきたりすることもなくなりました。
きっと王家の皆様は特別に運のよい方々なのではないでしょうか。ウィリアム殿下の功徳かもしれませんと申しあげましたら、
「あの人に目をつけられた時点で運が悪すぎるから、しばらくは雑魚不運が寄りつけないのでしょう」
とのお答えが返ってまいりました。
わたくしはその話題を続けることができませんでした。
そして時は流れて、六年後。
お嬢様の奮闘むなしく、婚約はつつがなく結ばれたままでした。
けれどもついに、二人の関係を揺るがす出来事が起きるのです。
***
自然を表す緑調の生地は聖女のみ許されたもの。つややかな髪を編み込みパステルグリーンの上品なドレスをまとったお嬢様は、美しい顔立ちと相まってまるで地上に舞いおりた妖精のよう。
わたくしは自分の着付けの腕に大変満足し、舞踏会の広間の壁際をお嬢様に付き従っておりました。
けれどその喜びに冷や水を浴びせるかのように。
目の前を、エメラルドグリーンのけばけばしいドレスが横切りました。
ドレスの主は一度通りすぎたあとにわざとらしくふりむき、ハッとした顔でお嬢様を見ました。
胸の開いた派手なドレスと同じく派手な蛍光色のお化粧をほどこし、やりすぎなくらいに胸と目の大きさを強調したこの娘は、マルロッテ・エヴァー様。
男爵家のご令嬢で、そしてつい最近、お嬢様と同じ聖女の力に目覚めた者でありました。
「シェリルローズ様! 申し訳ありません、わたし、はじめての夜会に舞いあがって、ついシェリルローズ様より目立つ色のドレスを……」
しおらしい台詞を吐いてはいますが、誰がどう見てもわざとです。あえての威圧色。本当にありがとうございました。
なぜかエヴァー男爵家は聖女であれば王太子妃にふさわしい立場を得たと思いこみ、勝手にお嬢様を敵視しているのです。実際はそんなに簡単な話ではございませんのに。
「まあシェリルローズ様! そんな怖い目でお睨みにならないでくださいませ!」
マルロッテ様が悲しげに叫びます。その声に周囲もどうしたのかと視線を向けました。
あぁ、誤解です。お嬢様の顔が強張っているのはマルロッテ様にお怒りのためではありません。マルロッテ様の大声を聞きつけ、ウィリアム殿下がこちらへ向かってくる姿をお認めになったからです。
衆人環視のもと婚約破棄を申し入れることはさすがにできず、したがって社交の場ではお嬢様はウィリアム殿下を避けて気配を消していらっしゃるのが常なのに、マルロッテ様が名を呼んだことでウィリアム殿下がお嬢様に気づいてしまったのです。
「どうしたのだ」
「ご機嫌うるわしゅう、ウィリアム殿下――」
「ウィリアム様ぁ! シェリルローズ様が、お怒りなのです……!!」
マルロッテ様がウィリアム殿下にしなだれかかるように腕をまわしました。まぁ、なんと破廉恥な。淑女にあるまじき行動ですが、わたくしはお嬢様とともに深々と頭を下げておりますので見えないふり、でございます。
ウィリアム殿下は「面をあげよ」とおっしゃいました。わたくしは侍女なので、お嬢様のように殿下のお顔を正面に見据えることはできません。下げたままの視線をキープします。
ウィリアム殿下はお嬢様の表情を検分されたようでした。
「俺の前では、シェリルはいつもこのようなものだ」
それがウィリアム殿下のくだした結論でした。
うっかりほほえみかけたりしようものなら「やはり俺たちは愛し合っているのだな」と勝手に納得されてしまうので、お嬢様はウィリアム殿下の前では自動的にハイライトを消灯し、死んだ魚の目になってしまわれるのです。
おいたわしや……。
「それで、君は?」
「はい、マルロッテ・エヴァーと申します。シェリルローズ様と同じ聖女ですわ。明日から王宮へ出仕する予定なのですが、そのせいかシェリルローズ様に嫌われてしまったようで……」
『聖女』を強調しつつ身体を押しつける気配が伝わります。使えるものはなんでも使うその姿勢は称賛に値します。ウィリアム殿下に似たところがございますね。
侍女の秘技、『視線を伏せながら主人の顔色うかがい』を発動します。
ウィリアム殿下はマルロッテ様へ視線を向けておられます。お嬢様がいっしゃるときにはお嬢様をガン見の殿下にはめずらしいことです。見つめ返し、ほほえむマルロッテ様。そんな二人をただただ虚ろな目で見つめるシェリルお嬢様。
完全に修羅場の光景です。
広間はしんとして静寂につつまれました。
わたくしは、嵐の予感を覚えました。
***
マルロッテ様の無言の宣戦布告より、一か月。
事態は進展しておりましたが、お嬢様はそんな事態などアウト・オブ・眼中のご様子でした。
あろうことかあの小娘――いえ、マルロッテ様は、お嬢様に嫌がらせを受けたという事実無根の讒言を王宮内で吹聴しまくったのです。
裏庭に呼びだされて罵倒されたとか、祈念架を隠されたとか、足を踏みつけられたとか、そういったようなことでした。
いくらお嬢様が運の悪い星の元に生まれたとしても、これはあんまりというものです。
おまけに、ウィリアム殿下はそういった噂話を否定してくださらないのです。
王宮内の神殿で顔を合わせたマルロッテ様は、これ見よがしに他の方の背後に隠れます。「またシェリルローズ様がわたしを睨んでるわ……」とかなんとか言ってるのが聞こえました。
お嬢様の目が光を失うのはウィリアム殿下が同席されているからです。しかしそれをマルロッテ様に言うわけにもまいりません。
お祈りはつつがなくすみましたが、あの小娘に本当に聖女の力があるかどうかは怪しいくらいです。しかしやはりそれを誰かに言うわけにもまいりません。
帰り道、お嬢様に付き従って蛙のゲロゲロと鳴きわめく庭園を通り抜けながら、わたくしは何もできない自分に歯がゆい気持ちでいっぱいでした。一介の雇われ侍女にできることなど少ないのです。蛙のかわりにわたくしが地団駄踏んで泣きわめきたいくらいです。
『感情を表に出すことなかれ』、それがわたくしが侍女として派遣される際に教えこまれた最重要事項でした。
けれどももう、我慢がなりません。
「お嬢様……ウィリアム殿下は、何を考えていらっしゃるのでしょうか。わたくしは心配でなりません」
帰りの馬車でわたくしはついに本音を漏らしてしまいました。
主人にこんなことを言うなんて、本来ならば家臣失格です。クビにされてもおかしくないくらいです。
お嬢様はわたくしの言葉に少しだけ首をかしげ、考えるそぶりをなさいました。
「そうね……たしかにそろそろ危険かもしれないわ。体調不良ということにして来週からしばらくお祈りには行かないことにしましょう。マルロッテ様がいらっしゃるのだから問題ないはずよね」
「……危険……?」
どういうことだろうかと眉を寄せるわたくしに、お嬢様は一つずつ説明してくださいます。
「いい? まずはウィリアム殿下のお気持ちについてだけれど……あの人はまだ私のことが好きよ。だって蛙がうるさく鳴いていたでしょう」
「……はい、?」
「覚えていない? あの蛙、私が三年前にプレゼントですって渡したものよ。鳴き声がウシみたいでものすごくでかいの。嫌われるためだったのにわざわざ庭園に池を増築して繁殖させたのよ。つまりあの人の私への愛は失われていないの……はぁ」
遠い目になるお嬢様。
わたくしは必死に記憶のひきだしをこじ開け、そういえばそんなこともあったことを思い出しました。
ということはあの蛙の大合唱はお嬢様へのラヴ・ソングだったのですね。
「二つめ。なのにマルロッテ様の嘘を咎めないのはなぜか。これは、さすがに想像で、私にも自信はないのだけれど……あの人、私を断罪して幽閉し、マルロッテ様を娶るつもりじゃないかしら」
「はい????」
今度はさすがに大きな声が出ました。慌てて口元を押さえ、頭を下げます。
「失礼いたしました!!」
「いいのよ。私も半信半疑だもの。でもあの人の性格を考えるに、私が王妃になって人前に姿を現すよりも自分しか会えない塔にでも幽閉することを選びそうな気がするのよね」
「……そう言われれば、そんな気もいたします」
ウィリアム殿下の愛は重うございます。お嬢様が誰かほかの男性とお話でもしようものならその方の素性を探りだし、お嬢様と同じ年頃の場合は「殿下の婚約者様に対してやましい気持ちはいっさいありません」と誓わせるのです。
そんな気もするどころか、それしかないような気がしてまいりました。
さすがは冷静沈着、頭脳明晰なお嬢様です。
長い付き合いのうちで、お嬢様はすでにウィリアム殿下のことを熟知していらっしゃいました。常にお嬢様とともに行動しているわたくしも同じだけの情報を持っているはずですが、そこまでの考えには思い及びませんでした。
わたくしは、やはりこのお二人はお似合いなのではないか……と思ってしまいました。
「だから殿下に『マルロッテ様に危害を加える意図はなし』と理解していただくまで、私はお祈りをお休みにするわ」
お嬢様はそう言って話を締めくくられました。
――さて、お嬢様の推理がウィリアム殿下に伝わるやいなや、殿下はあっさりとマルロッテ様を突き放しました。
「さすがはシェリルだ。一筋縄ではいかぬ。俺の気持ちをそこまでわかっていながら、なお拒絶するとは……」
その場に居合わせた者の話では、ふふふっと笑うウィリアム殿下はそれはそれは幸せそうな笑顔を浮かべていたそうでございます。
しかしすぐに表情を消し、ウィリアム殿下はご自身の従者に合図をされました。
「それなら幽閉する者を変えるだけだ。媚を売る自覚のある者はつまらんからな」
その日を境に、マルロッテ様のお姿を見た者はいなくなったとか……娘が聖女となったことで増長し、同じくあることないことを言いふらしていた父親のエヴァー男爵も同時に姿を消しました。
噂によれば、二人は逃げることの叶わぬ大牢獄で、魔力変換蓄積装置なるものを必死にこがされているそうでございます。そしてそれはいずれウィリアム殿下とシェリルローズお嬢様が新婚旅行に発たれる際に、聖女が他国へいるあいだも加護が途切れぬようにするためのものだといいます。
***
マルロッテ様の騒動は解決いたしましたが、ウィリアム殿下とシェリルローズお嬢様の恋はいまだに平行線でございました。
お嬢様は王宮への出仕を再開なさったものの、相かわらずウィリアム殿下の前では目が死んでしまわれます。
人目のないときを見計らってウィリアム殿下に特製ドリアンジュースを差し入れたりしていましたが、味自体はとてもおいしいので匂いは二人の痛み分けといったところでした。
「お嬢様はいったいどうしてそこまでウィリアム殿下を厭うのでしょうか」
先の一件から、わたくしはお嬢様によくお尋ねをするようになっていました。
これまでわたくしは、家臣というものは主人の後を黙ってついていくものだと考えておりました。けれどもそれは違うような……主人のためならば自ら動かねばならぬような、そんな気がいたし始めました。
お嬢様は視線を宙に彷徨わせ、それからわたくしをじっと見据えられました。
……力強い、目でした。
「ウィリアム様はね、嘘をついていらっしゃるのよ。あの方は私に一目惚れなどしていないわ。だって最初にお会いしたときから、ウィリアム様の私を見る目は何も変わらないのよ」
お嬢様がわたくしの名を呼びます。わたくしはお嬢様の瞳をのぞきこみました。僭越なことでしたが、そうするように求められたのです。言葉にしなくともわたくしにはお嬢様の気持ちがはっきりとわかりました。
お嬢様の目は、少しうるんでいて、訴えかけるような、それでいて不安そうな……熱を帯びた、深い深い色をしておりました。
「わかって? これが……恋に落ちる者の目よ」
「お嬢様……!!」
わたくしは思わず口元を覆って叫びました。
そうです。
お嬢様はすでに、ウィリアム殿下に対する愛を育まれていたのです。けれどもそれを悟られぬよう巧妙に、慎重にふるまっておられたのでした。
眉を寄せうつむいたお嬢様は、わたくしの目には歳相応の頼りなげな少女に映りました。
理由のわからぬ愛にとまどい、疑念と不安を抱えた、清廉なシェリルローズお嬢様。
わたくしは雇われの身であることを忘れ、お嬢様の肩を抱きました。
「嘘をつかれて生きていくくらいなら、別れたほうがましよ」
「いいえ。いいえお嬢様。ウィリアム殿下はお嬢様を愛しておられます。だって、ウィリアム殿下は――」
けれどもわたくしは、言葉を続けることができませんでした。
御者の叫びと同時に馬のいななきが響きます。
馬車が大きく揺れました。
立ちあがっていたわたくしの重心は大きく崩れ、咄嗟にのばした手はお嬢様に届かず。
倒れこんだお嬢様は、傾いた天井にしたたかに頭を打ちつけました。
「きゃ……!!」
「お嬢様!!」
「だ、大丈夫よ……」
「申し訳ありません、わたくしがついていながら……!!」
わたくしは気合を込めてドレスの裾を破りとるとクッションがわりにお嬢様の頭をもたせかけました。幸い血は出ていないようです。
聖女の力でお嬢様の傷はすぐに治ります。それでも油断は禁物、帰宅したら医者に見せなければ。
そのためにはまず外の騒動を収めなければなりません。
「お嬢様はここでお待ちください!」
扉を押し開け表におどり出ます。
人気のない郊外の道に、星明りに照らされて……髪を振り乱し目を血走らせたエヴァー男爵が浮かびあがりました。
手には血痕のあるナイフ。傷ついた馬を必死になだめる御者の横を走り、凶相の男はわたくしへ――いいえ、お嬢様のいらっしゃる車両へと突進してきます。
「あいつが……!! あいつさえいなければ、マルロッテが王妃だったのに!!!!」
赤紫に変色した顔で叫ぶ顔にあるのは、身勝手な怒りのみ。
しかし怒りではこっちも負けておりません。
握りしめ突きだすだけのナイフは、薙ぎ払うこともしない稚拙な動き。
わたくしはスカートをひるがえしそれを避けると、ナイフを握る手首をつかみました。
回転の力を加えつつ、肘から肩を、関節とは真逆に引き寄せます。
ごきん、と鈍い音がして、ナイフが地面に落ちました。
抜けた肩の痛みにうめくエヴァー男爵は泥まみれになりながら砂利道を転がっています。しばらく構えておりましたが、立ち上がる力もないようです。
たったこれだけで戦闘不能とはふぬけたお方。
「貴様ごときにシェリルローズお嬢様を傷つけられたなど、腹を切っても主人への詫びが追いつかぬ」
……あら、いけませんわ。素が出てしまいました。
御者をちらりと見ますが聞こえていなかったようです。
まずはお嬢様に馬の手当てをしていただいて――エヴァー男爵の肩はわたくしが入れてさしあげましょう。
そんなことを考えながら扉を開けたわたくしが見たのは、頭を抱えてうずくまるお嬢様の姿でした。
「お嬢様!?」
顔は青ざめ、目はかたく閉じられています。
何があったのかと尋ねる前に、お嬢様の唇はおののきながらもゆっくりと開きました。
「私……思い出したわ。ウィリアム殿下とはじめてお会いした日のことを……」
縋るような瞳がわたくしに向けられました。
***
***
「そうか、ついに思い出したか」
足を組んでソファに身を投げだし、満足げなほほえみを浮かべるのは、ウィリアム殿下です。
わたくしはその御前に平伏しておりましたが、報告の完了とともに顔をあげました。
本日はウィリアム殿下のお顔を正面から拝謁することができます。
なぜならいまのわたくしは、シェリルローズ侯爵令嬢の侍女ではなく、子爵位を与えられた女騎士ベルタの身分だからです。
「俺とシェリルが出会ったのは聖女の顔見せの日ではない。それ以前、エンウェザー侯爵が登城のおり彼女を連れてきたのだ。そして偶然にも俺のいた裏庭へと迷いこんだ」
それは偶然というよりは当時のお嬢様が持っていた抜群の運の悪さのせいに違いないのですが、黙っておきましょう。
「しばらく語りあううちに、彼女の屈託のない笑顔と底抜けの明るさに俺は心を奪われた……しかし素直な気持ちを口にすることができず、『お前を妃にしてやる』と上から目線なプロポーズしかできなかった。シェリルの答えはこうだった、『あっかんべー!』」
大切な記憶をよみがえらせるかのように目を細めてウィリアム殿下は当時の様子を語ってくださいます。この話はこの六年間、報告のたびに聞いておりますのでもう二百回は聞いたと思います。
おかげでお嬢様から「記憶を取り戻した」とこの話を聞かされたとき、初耳のようにふるまうのにそれはそれは骨が折れました。
ウィリアム殿下幼少期の国王ご夫妻は不仲で、殿下を自分の味方に引き入れようと相手の醜い悪口ばかり吹きこんでいたそうです。ウィリアム殿下にも色々と気苦労があったゆえのいまの性格なのでございます。たぶん。
お嬢様はそのことを思い出しました。……大樹の陰で一人泣いていた男の子を。その子を励ましたことを。結婚を申しこまれて、恥ずかしさのあまり舞いあがってしまったことを。
シェリルお嬢様は、顔を真っ赤に染めながらわたくしに打ち明けてくださいました。
「おまけに木から落ちて記憶をなくすわ、そのくせ聖女の力に目覚めて毎週会えるようになるわ。シェリルはどこまで俺を惚れさせたら気がすむんだ」
目を閉じ、うっとりとため息をつくウィリアム殿下。
……いまの台詞をそっくりそのままシェリルローズお嬢様にお伝えになれば、お嬢様だってもう嫌とは言いませんでしょうに。
信頼のおける近衛兵をわざわざ選びだし、侍女としてエンウェザー家に送りこむほどにウィリアム殿下はお嬢様に惚れ抜いておられるのです。そしてまたそれを素直に言えないくらい、愛をこじらせているのでした。
「それで、どうだ。俺についてシェリルは何か言っていたか? 結婚してもいいとか、結婚してもいいとか、結婚してもいいとか」
「いいえ、何も……」
わたくしは静かに首をふりました。
お嬢様のお気持ちについては黙っていることにいたしましょう。きっとあの様子では隠し通すことはできませんし、こういったことはお互いの腹を割ってお話しになったほうがよろしいですからね。
お嬢様がお尋ねになれば、さすがのウィリアム殿下も素直になるはずです。
わたくしはふたたび礼の姿勢を取り、そっと口をつぐみます。
お二人のお子様が生まれたら、わたくしにお世話をさせていただけるかしら、と考えながら。
読んでいただきありがとうございます!
好きな人を手に入れるためならどんな手でも使う系のヒーロー・ヒロインをよく書きます。