ベッドスタイ幽世の夏
ベッドスタイの夏がいい。高く昇った太陽がブラウンストーンの家々と、グレイのアスファルトを照らす。東京ほどの湿気はないにしても蒸し暑い。当然気温も高い。今日みたいに暑いと昼間出歩く人は少ない。
それでも夕方になるとヒスパニック系のおっちゃん達が集まって道端でドミノというボードゲームを始める。そしてところどころで開栓された消防用の水道管から勢いよく流れる水しぶきを見かける。無邪気に水浴びをして遊ぶ子供達の近くでは、虹が見えることもある。これらは昔ながらのニューヨークの夏の風物詩だ。
そして独立記念日には酔っ払った若者達が道路の真ん中で爆竹や花火をしたりする。
宙を舞うビール瓶やすでに割れてしまった瓶の破片が道路と歩道のところどこに散らばる。
自転車でこういった危険なブロックを避けて、独立記念日のバーベキューパーティーの友人宅から自宅まで無事帰宅するのはまるで命懸けのゲームのようだった。
そんなベッドスタイの夏の風物詩もここ数年の再開発で以前より随分減ってきている。
それでも道横でガーデニングに精を出す黒人のおっちゃんは気さくに挨拶に応えてくれるし、
家々の入り口から道路へと下るストゥープ階段には、今でもよく住人や近所の人達が集まって涼みながら社交する。
そんなベッドスタイのストリートを気がつけば毎年歩いている。東京から移住して長い月日が経ちもう何度この辺りを歩いたのだろうか。そんな事を考えながらマルコムエックスボルバードを南に歩いていると、B46バスが二台続いてゆっくりと側を通り過ぎていった。数ブロック前の停留所デカルブアベニューでバスを待つべきだったのかもしれない。
ただでさえ暑いのに二台も続けてバスが横に来ると、そのアメリカンサイズなバスの排熱によりいっそう暑さを感じる。「どうして間隔を空けて運行しないのだろうか」そんな論理的な疑問をこの街の外から来た多くの人達が抱く事だろう。これはMTAというニューヨーク公共交通機関の老朽化と、組織腐敗の産物だ。バスや地下鉄が時間通りに来ない。地下鉄に関してはいきなりのアナウスで終点になって降車させられたり、駅をスキップされる事なんて日常茶飯事だ。
1分遅延しただけで謝罪放送が流れる日本の公共交通機関とは別世界だ。
これはニューヨークに限らずロンドンなんかに行くといかに日本の公共交通機関が優れているかを身をもって理解する事が出来る。
そしてこの夏も新しくニューヨークに来た多くの人達が、空調のない熱帯の地下鉄ホームでいつまで待っても来ない電車に苛立ち肩を落とし、うんざりしている光景が容易に想像できる。
それでもここ一、二年のMTAは以前より随分良くなったものだ。
そうこう考えて歩いていると右手に背丈より高い銀色の網目状フェンスに囲まれた小さな空き地が見えてきた。こんな風にニューヨークでは殆どの空地がフェンスで囲われており、鍵が無ければ中には入れないようになっている。夏の陽射しと雨で育った空き地の中の雑草は、膝の高さを遥かに越えてフェンスからもはみ出している。こんな空地の横にある白く塗られた石造りの家が今日の目的物件だ。
Y不動産の社長Mの紹介で、空きが出た賃貸物件の事前確認と、広告に掲載する写真を取る為にこの炎天下の日中にベッドスタイを歩いている。通りの右手から空地の方に向かって道路を斜めに渡る。日本では信号機をきちんと待って横断歩道沿いに渡るのが当たり前だが、せっかちが多いニューヨークでは信号無視が当たり前だ。これはジェイウォークと言われている。
たまに友人の車の中に乗ってこの辺りを行き来すると、ジェイウォークする人達の危険さを感じさせられる。とりあえず今は暑くて車さえあまり通っていないので問題なし。
こうして汗ばみながら空き地のフェンスからはみ出してくる草を避けて、ようやく目的物件に辿り着いた。この辺りの半分以上の建物がそうであるように、ここも1939年の第2次世界大戦前に建てられた事が年季の入ったその外観とスタイルから伝わってくる。築年数は有に百年を越えているだろう。周囲の建物がブラウンストーンという茶色い石の作りであるのに対して、白く塗られたこの家は目立っている。
とりあえずこの強い日差しを早く避けたい。そう思いながら年季の入った黒いペンキ塗りの鉄製フェンスを前に押す。特段嫌な音はせず背丈より高い重厚なフェンスは軽く前に開いた。
中に入って数歩進むと玄関のある二階へと続く短い階段が続く。暑いので早めに中に入りたい。外観の写真は後で撮ることにしよう。
「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二」
声を出して階段を一気に登りきったところで、仕事用バッグから事前にY不動産の女社長Mさんから預かっていた鍵を取り出し、木製扉の鍵穴に差し込んでゆく。
内見の時にスムーズに開けられなければ格好がつかない。その点この扉は問題なしだ。
鍵はスムーズに回り扉はいとも簡単に開いた。良かった。
つい最近までは人が住んでいたのだから当然といえばそうなのかも知れないが、当たり前が当たり前にいかない街がニューヨーク。だから日本にいれば大した事のないこういった瞬間にさえ安心を感じる事がある。
ドアノブを押して中に入ると、そこには大人二人分くらいのスペースがあり、建物の中に入る第二の扉が見える。この扉も一番目の扉と同じで、真ん中の部分が長方形のガラスで見通せるようになっている。
この玄関の作りは寒く長いニューヨークの冬に於いて、室内の暖気が扉の開け閉めによって外に出るのを防ぐ役割があると同時に、犯罪者が後ろからきても一気には家の中に入れないという防犯の役目も担っている。
この辺りベッドスタイはここ数年再開発が進み犯罪率も随分下がったが、以前は「Bedstuy do or die」と言われ、ブルックリン、そしてニューヨーク全体でも殺人件数のトップになるようなエリアだった。
そんな危険だった頃のベッドスタイからはあの有名ラッパーJay Zや故Biggy Smallが出てきている。
そしてそれより更に前の時代になると、有名ジャズピアニストWinton Kellyや、ミュージシャンだけに留まらず多くの有名黒人アーティストを輩出している。
Spike Lee監督の「Do the right thing」という映画は今いる所からそう遠くない場所が舞台になっている。近くの通りが「Do the right thing way」という名称に変更されたのは2015年の事だ。最近では日本人キーボーディストBig YukiもここBedstuyに住んでいる。
そんなBedsutyの今昔を考えながらも一つ目とは別の鍵を使い二つ目のドアを開け家の中に入る。人が二人は横になって歩けない位の幅の廊下が真っ直ぐと伸びている。その左手先には折り返し上階に登る為の階段が見える。物件の広告掲載の為にとりあえずここで何枚か写真を撮っておこう。
廊下を前進した後は築年数を感じる木製の取っ手を左手で伝いながら、若干軋む階段を一段ずつゆっくりと二階へ登って行く。階段を上がりきったところで外から見えていた台形の部屋のドアに突き当たる。この見渡しがよく正面とその両サイドにある窓の台形型設計は古き良きアメリカの戦前建築と言うべきか。日当たりが良好で周りも見渡せるこの部屋は、レンタルの際にお客さんに好かれる良いポイントになるだろう。そう思いながらここでまた何枚か写真を撮る。
正面の窓の手前には木製の大きな机に革製の椅子が置いてある。どちらもアンティークだ。
机の斜め後ろには暖房用のヒーターの一部、ラジエーターがある。
冬は凍てつく寒さになるここニューヨークでは、昔ながらの家には大抵地下室にボイラールームがあり、そこから壁や床下に張り巡らされたパイプを熱が伝い家を温める。逆に最近建てられた新しい物件では、日本でもよく見かけるクーラーと暖房が一体になったエアコンが天井近くの壁上に設置してあるパターンが多い。そしてその場合の冬期暖房費用はテナント負担が一般的だ。
この家の様に古い作りでラジエーターがある場合の家の暖房費は、大抵の場合に大家負担となる。お得な事に全ての住宅用賃貸物件では水道代も大家さん持ちだ。こう考えると生活に最低限必要な公共料金は家賃に含まれている。因みにそこに電気代金は含まれない。もし含まれれるのなら夏はクーラー使い放題だし、仮想通貨のマイニングもし放題だ。実際に電気代も込みのプロジェクトとよばれる低所得層向け公共住宅では、その様な闇のプロジェクトが進行しているところもあるそうだが...。
因みに大家は水道代と暖房費に加え高額の固定資産税を払わなくてはいけない。ここにさらに保険金や住宅ローンがある場合はその支払いと利息も加わる訳だ。古い建物の多いニューヨークでは常に修繕費もかかると言っていいだろう。勿論その費用や将来的には更に必要になるであろう修繕や、大幅な改修時の費用も積立てておく必要がある。
こう考えると高額なニューヨークの家賃はこれら必要経費を差し引いて、更に利益を出す事を前提にして決められる適正マーケット価格であると言えるだろう。正直ここまで内情を知っている賃貸のお客さんは殆どいない。なので経済状況に関わらず一様にニューヨークの家賃は高いと揶揄されるのが現実だ。更にニューヨークはプロテナントステイトと呼ばれるテナントに有利な州の一つであり、多くのテナント側権利が保証されている。
部屋の暖房器具から家賃事情まで考察するのはこの辺にして、むしろ今いる部屋の壁両面を使った本棚に多くの本が連なっている事を特筆すべきだろう。歴代のテナント達が残していった蔵書だろうか。小説、図鑑、科学、なにより考古学やそして宗教に関する本が多く見受けられる。中には英語で日本の文化を紹介した本もいくつか見渡せる。
「五輪の書」、「合気道」、「桃太郎」とても日本的だ。これらの本を手に取っていると埃のせいでクシャミが出そうになった。なのでもう本を見るのはこの辺にして、仕事に戻ろうかと思うと黒い本に視線を奪われた。
「Book of Kabbalah」
直訳すると「カバラの書」。手に持っていた「桃太郎」を棚に戻してこの本を手に取ってみる。ページを幾つかめくっていると「Tree of Life / 生命の木の図」とヘブライ語と英語で生命の木の構成に関する名前が書いてある。
ユダヤ教ではトラの巻と呼ばれる「モーゼ五書」や口頭継承されてきた律法書「タルムード」を充分学んだ上、脳が発達しきった四十歳を越えてからこの「カバラの書」を入門書とし「Zohar」という本を読み勉強するのだとユダヤ人の友人から聞いた事がある。友人は父親からこれらの事を教わったと言っていた。
「カバラの書」の隣に列する「Zohar」のヘブライ語から英訳版を右から左へ順番に数えてみる (ヘブライ語は日本語もそうだが右から左へと読む)。
「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二」
流石にこれは楽な気持ちでは読めないと思い導入書である「カバラの書」に目を通す。中に記されている内容は精神世界と現世の両方、天国に関する記載もあり理解するのが非常に難解であるように見受けられる。
日本では正しい情報が乏しいのかユダヤ人に関する陰謀論や偏見的な情報が多かったのを思い出した。ニューヨークに来てからユダヤ人と深く関わるようになり、何千年もの間世代を重ね伝統を守り、教育を重視し、そのストイックな程の勤勉さには非常に驚かされる事が何度もあった。彼らの蓄積された知恵やネットワークは宗教のみならず生活に直結し、それは勿論ビジネスの世界でも確実に活かされている。統計的にユダヤ人が世界で最も成功率が高い民族であるという説も、彼らに対する正しい知識を得れば納得出来ることで、陰謀論や偏見はその成功から来る嫉妬や、理解不足によるものが大半だろう。
かくいうこの物件の大家さんもユダヤ人だ。それにしても通常ユダヤ人の大家さんであればユダヤ人の不動産エージェントが物件の賃貸や管理につくパターンなのだが。それはユダヤ人社会に限らず中国人やその他の民族においても同様だ。今回Y不動産の日本人エージェントである自分にこの物件の賃貸業務が回って来た事は珍しくとても不思議だ。
泣く子も黙るY不動産の女社長Mは90年代からマンハッタンを中心に日本のバブルマネーの恩恵も受けつつ不動産業を行ってきたブローカーだ。きっとそのコネクションなのだろう。社長が借り手、そして買い手側のエージェントとして培ってきた長年の信頼と実績の賜物か。
さてさてこんな事を考えるきっかけになった「カバラの書」を本棚に戻してこの階の全体像を掴む事にしよう。この書斎の隣には小さな部屋が繋がっており廊下側である左手の壁は一面が大きなクローゼットになっている。ここで写真を何枚か撮る。
目の前にある次の部屋は裏庭側に面している。キングサイズベッドにタンス、ライトスタンドやテレビ等を置いても充分余裕のある大きさのこの部屋がマスターベッドルームだ。
バックヤード側に窓が二つあるのもこの手の建物だとよくあるパターンだ。薄いレースのカーテンを開けると真下に広がるこの家のバックヤードがよく見える。さらに先にはフェンスを隔てて向かい側の家のバックヤードまで見える。両方とも特に草が生えていることもなく整備されてはいる印象だが、ガーデニングやくつろぐための椅子や机などはない。アメリカンによくある大型のバーベキュー器具等も見当たらない。ただ灰色のコンクリートが広がっているだけだ。
他の角度から外の景色を見てみると、少し遠くにウェアハウスの屋上が見える。これはニューヨーク、特にブルックリンならではの景色だ。このベッドルーム、隣のクローゼットルーム、そして書斎が一列に繋がる様式はレイルロードスタイルと呼ばれている。
ブルックリンでもこの辺ベッドスタイや、隣のブッシュウィックというエリアに多い建築様式だ。この感じだと下の階はバスルームとキッチン、リビングといったところか。
とりあえずここまでは順調だ。古い建物ではあるがよく管理が施されていてとても状態は良い。この感じなら適正価格で貸し出せば繁忙期である夏にこの物件への問い合わせが集中する事は間違いない。となると広告の打ち方とテナント審査が鍵になってくる。
ここニューヨークでは州の法律により、年齢、性別、宗教、性的趣向、民族背景、婚姻関係といった差別的事項とみなされることは広告に載せてはいけないと厳しく定められている。
言ってみれば日本人入居者のみ募集、女性のテナントのみ募集と言ったような広告は打てないということだ。なので広告には物件の値段と詳細情報を簡潔に記載する。
そして申込者の審査には職業、収入、そして信用度数を数字で表したクレジットスコアが重要な判断材料となる。このスコア、下は300から上は850までと決まっている。自分のクレジットスコアを把握していないテナントはアメリカ人特有の自己主張で、自分のスコアはベリーグッドだと主張する。ベリーグッドは740から800までで、それ以下の場合はグッド。クレジットスコアという自身の重要経済情報を把握していないのだから、こういった人の場合はグッド以下のフェアーか残念ながらプアーの場合多い。ちなみに殆どの大家は最低700以上のクレジットをテナントに求める。
言ってみれば固い職業で収入は高くても、クレジットスコアが低いとそれは大きなマイナス材料となる。なので当然大家は高い収入とクレジットスコアの両方を兼ね備えたテナントに物件を貸したいと思っている。その両方を備えた申込者達の書類数名分を添え、最終的には大家側で選考するというのが優良賃貸物件の場合の流れになる。
実際に広告を打つ際には、多くの大家の希望により適正マーケット価格より若干高目の設定にし、目ぼしい申込者が見つからない場合には段階的に値段を適正価格まで引き下げるという手法を取る。
タイミングも絡んでくるが、実際には複数の申込者から選択とはいかないパターンが当然ある。そうなったとしてもこの位の優良物件であれば、余裕で期間内に借り手は見つかるだろう。特段今の時点で心配する事はない。とは言いつつまだ下の階と地下室を見ていないので何とも言えないのだが。同じ物件など一つとしてなく、どの物件にも良い点があれば悪い点も当然ある。まあこの分なら下階も特段問題はないだろう。
そう思いながらこの部屋の左側にある、廊下側へと繋がるドアを開いた。真っ直ぐと伸びる廊下には木製の手すりが先程登って来た階段まで繋がっている。特に異常なし。
このドアを閉め、元来たベッドルームのドアとクローゼットルームのドアも閉め書斎へ戻る。もう少し蔵書を見ていきたいところだが何分暑い。まだ下の階の確認もあるので仕事を続けるとしよう。そう思い書斎のドアを開けそそくさと階段を降りようとしたその瞬間!
ドレッドロックが腰まである細身で灰色の肌をした男が数段したから登ってきている!
緑のタンクトップに汚れたダボダボのジーンズ。そして何より獣のような目つきに本物の獣を連想させる伸び切って尖った爪を目の前に突き出してきた!
とっさに手にしたバッグでこれを防ぎつつ、そのまま力を込めて下に押し返す。
相手の体制がよろけたところですぐさま階段の手すりの上をジャンプし、何とか下階に着地できた。直ぐに左手にある地下へと向かう階段を猛スピードで降りる。
「やってしまった」
どうして玄関へと向かい走らなかったのか。とっさの事で、ジャンプした勢いのまま何も考えずに目の前に見えた地下室の方まで来てしまった…
いや、大丈夫だ。玄関まで走らず地下に来た事を後悔する事はない。ニューヨークの殆どの建物には地下からバックヤード、もしくは表側のストリートに通じる出口がある。この物件にもそれがある筈だから取り敢えずそこから外に出ればいい。
そう思いながら壁にあるスイッチを押し地下室の電気をつけた。真ん中にある白い電球の光が一つだけ点いた。さっきまでは単に真っ暗だった地下室が、今は薄暗く湿った空気の気味悪い地下室になった。電球の真下には膝丈より低い赤褐色の壺が何故かポツンと一つだけ置いてある。以前LAの科学館で見た死海文書展の中にあった壺の一つによく似ている…。
すぐさま壺の方に走って行き、そのまま突き出した自分の左足に顔をよせて壺の中を見ようとしたところで、あのヤク中がゾンビの様に低く唸る声を上げ地下室の階段を降りて来るのが聞こえた。
振り返るとあの長く伸びた爪と灰色の手が見える。直ぐにでもここまでやってくる。
それでも一瞬だけならと振り返った首を壺の方に戻し中を覗くと、底の見えない暗闇にまるで吸い込まれる様で……。
気がつくと薄暗い洋館の玄関の中にいた。まるでジョン・レノンが住んでいた高級住宅街アッパーウエストサイドにあるダコタハウスのような洋館か。
足元は赤い絨毯に彩られ、ライムストーンの白い壁と、大理石の柱が高級感を醸し出している。天井に描かれた幾つもの美しい花々はシャングリラの光の屈折により幻想的だ。正面にある大きな黒い扉が荘厳な雰囲気を醸し出している。ゆっくりとこの扉に近づきドアノブに右手をかけ、ゆっくりと回して押してみる。扉が前に動く。
扉の外側には薄暗い廊下が真っ直ぐと続いている。腰までの位置はマホガニー、それより上は夜空に見える星々が織り成す星座の様な壁紙が天井まで使われており、両側には間隔を開けて幾つものアンティークランプが連なり床を照らしている。奥の方まではとても暗くてよく見えない。どうやら本当に洋館の中にいるようだ…。
一歩足を踏み出して今いる玄関から廊下側に出ようとすると、奥の方の暗闇からずぶ濡れになった学生がうつむいたままゆっくりとこちらに近づいて来くるのが見えた。
髪型はセンター分けで、耳から少し下まである黒い髪からは雫がしたたり、濡れた白いワイシャツからその白い肌が透けて見える。
少し後ろに下がって殆ど閉めた扉の隙間から近づいてくる男子学生をもう一度よく見てみる。岡崎だ...。どうしてこんな所に…。
目の前まで近づいて来た高校時代の同級生は顔を上げる事もなく言葉を発した。
「入れてくれん?」
「岡ちゃん、悪いけどここは俺の家じゃないんよ。だから許可なく勝手に人を入れる事は出来んよ」
「そうなん。でも俺ら友達やろう?」
「駄目なものは駄目よ」
何か得体の知れないヤバい感じがする。彼を入れてはいけない。直感的にそう感じ、一歩下がって玄関扉を完全に閉めた。幸い岡崎は強引に入ってこようとしない。取り敢えず大丈夫そうだ。
扉を背に向けて玄関をもう一度見渡してみると、赤い絨毯の先に十段位の短い階段があり、上に行けるようになっているのに気づいた。階段の左上にはドアのない入り口も見える。
岡崎がいるため直ぐにはこの玄関を出られそうにない。仕方がないので階段の方に行ってみる事にする。絨毯の上をまっすぐと歩き、短い階段を登りきると左手にあるドアのない入り口まで来た。
中は大きな窓が一つだけある真っ白い部屋で、なぜか小太りの中年アジア人男性が一人窓際のパイプ椅子に腰掛けてカップヌードルをすすっている。白いタンクトップに水色のトランクス。肩まで伸び切ったボサボサの髪と数日は剃っていないだろう髭が頬から口元まで生え放題だ。この高級住宅には似合わない人に見受けられるのだが…。
それでもニューヨークではこんな人が実際に高級住宅に住んでいたり、資産家や大地主だったりする事もあるのだ。むしろいま目の前でそれが起こっているのかもしれない。理由は分からないがとにかく他人の家にお邪魔しているのはこっちなのだから、偏見など持たずに礼儀正しく声をかけてみる事にしよう。
「Excuse me, sir」
「お兄ちゃんそこどいて。もっと窓際よって。もうすぐあの方が帰って来られるから」
「え、はい。すいません」
一応日本語で返事が返って来た様な気がするのだが、無意識に言語を超えて会話をしている様な、この不思議な感覚はなんなのだろう?
取り敢えず窓際に歩み寄った所で玄関の扉がバーンと開く大きな音が聞こえ、部屋にすうっと風が吹いてきた。すると先程まで自分が立っていた場所の上から、黒い鳥の様な姿に人の顔をした背の高い女性が降り立ってきた。
彼女の体からは幾つもの黒い羽が剥がれ落ちてゆき、床に着いては空気中に消えてゆく。
入って来た時に開いていた黒い翼はもう白い腕になっていて、黒いドレスと長く黒い髪がとても美しい、そこにはこの館の主であろう背の高い女性が立っていた。
彼女はこちらの方を見た後でゆっくりと視線を窓の方へ向けた。こちらもつられて窓の方を見る。外の景色はブルックリンだ。なぜ?ここがアッパーウエストなら周りはセントラルパーク、もしくはスカイスクレイパーか高層マンション群の筈なのに…。
いま実際に見えているのは三階以下の建物やウェアハウスと呼ばれる工場群で、マンハッタンからの景色との差は一目瞭然だ。そしてここからかなり遠くの建物の屋上に、あのヤク中に似た奴がいるのに気が付いた。
「手を伸ばしてごらんなさい」
彼女に言われるがまま素直に窓の方に右手をかざす。すると黒い糸状のオーラの様な物が何本も手の方から出てきて、それは窓をすり抜け空を進み、遠くにいるあいつまで真っ直ぐと伸びていった。黒い糸は奴の体に絡みつき、次第に黒い球体空間を作る。そして奴はその中に吸い込まれ消えていった。
館の女主は無言でこちらを見た後でこの部屋の入り口の方を向いた。小太りのおっさんはこちらの方を見たまま、カップヌードルのスープを飲んでいる。
何が起きたのかよく分からないまま、二人の視線の先であるこの部屋の入り口へと足を向ける。丁度部屋を出たところで目の前が真っ白になった。
「フランク?」
「気がついたか。良かった。これでいま呼んだ救急車はキャンセルだな」
そう言って知り合いのイタリア系アメリカ人刑事フランクはガラケーをパタンと閉じてズボンの右側のポケットにすっと入れた。
「どうしてここに?」
「Y不動産のMから電話があってな。お前からの連絡が無いし電話しても出ないから見てきてくれってよ。この建物に着いたら玄関の鍵はかかってないし、お前の名前を呼んでも返事無しだ。上の階から順番に調べて地下に来た所で倒れているお前を見つけた」
自分のスマホの着信履歴を見てみると確かにMさんから何度も電話がきていた。直ぐに連絡するようにというメールもだ。
フランクにはここで起きた事をはっきりと正直に説明した。彼は特に驚いた表情はみせずにああそうかという感じで頷くだけだ。むしろ煙草を吸いたいのか、早くここを閉めてもう外に出ようとだけ言われた。
死海のクムラン洞窟から運び出された様なこの怪しげな壺を後にして、地下室の電気を落とし上の階へと続く階段を登ろうとしたその瞬間、白い壁にあいつが付けた手の跡が目に入った。
そう、ここで起きた事は現実だったのだ。だとしたらあいつはいったいどこへいったのだろう? フランクが来た時にこの建物にいたのは自分ひとりだったらしい…。
まさか玄関から外へ出たのか?いや、奴は確かにこの手の跡が残るこの地下室まで降りて来ていた。ひょっとして気絶してしまった自分をスルーしてバックヤードに出た後、火災時の避難用に設置された階段ファイアーエスケープを登り、屋上まで行ったのか?もしそうだとしたら、あの館の窓から見えたのは奴で間違いない。そもそもあいつはバックヤードへ出るドアから入って来たのか?そう思いドアまで走って近づくと案の定このドアは施錠されていなかった...。漆黒の闇の中に奴を吸い込んで消したのは自分なのか?
「おーい、どうした?ハリーアップ!」
フランクが呼んでいる。このバックヤードへと続くドアは施錠し、急いで地下室から出ることにする。またあの壺の側を通るが、今回は見向きもせずに真っ直ぐ階段へと走った。
玄関の二つあるドアも施錠し外に出ると、桃色の雲と薄紫の空が交差する美しい夕方の景色がそこに広がっていた。気温が昼間ここに来た時よりも若干落ちていて、吹いてくる風が心地いい。
先に出ていたフランクは停めてある車の横で彼の大好きなマルボロレッドを吸っている。
今日この物件で起きた事はなんだったのだろう?そしてあの洋館で会った二人は一体何者なのだろう。天使?
そんな事を考えながら建物の外のストゥープ階段を降り、黒い鉄製のフェンスを背に敷地を後にしようとした。でも何かが違う。体が覚えていたというやつか?
振り向いて降りて来た階段の数を数えた。
「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、十一、十二、……十三」
フェンスの外に出てうつむいている自分にフランクが言った。
「どうした?腹減ってるのか?トニーズのピザでも食いに行くか?」
「グッドアイデア、サンキュー」