1―1 本日は一粒万倍日、異世界に行くにはいい日取りです
その日、普段であれば問題でもなんでもないような事で上司から酷く怒られてしまって、俺は思いっきり凹んでいた。
そして帰り道の駅近な繁華街の、行きつけの飲み屋のある界隈を所在無げに、ただ緩慢にうろうろとしていた。
「久しぶりに駅前の居酒屋で一杯飲んで帰るか……」
そんな風にボソっと呟く俺の、七三分けにしている冴えないサラリーマンヘアを、夕暮れの初夏の風が物寂しげに撫でていく。
身長百八十センチと比較的長身な俺だが、背中を丸めて歩いているので、まるでしょぼくれた中年男のように冴えないシルエットを、夕日の照らすいつもの街並みに浮かばせていた。
これでもまだ二十代後半なのだがね。
今回の件だって俺は何一つ悪くなく、ただの上司の八つ当たりに近い内容だった。
うちの上司は最近血圧が非常に高いのだ。
それで年中イライラしていて、何かあると手酷く怒り出すので課員全員が毎日戦々恐々で、今日の犠牲者はたまたまこの俺だったというわけだ。
スーツの背中に、そっと突き刺さる同僚達の同情の眼差しが痛過ぎた。
俺はすっかりとしょぼくれてしまい、課長から残業命令も受けていたのだが、俺はやるせない気持ちに流されるかのように、仕事をほったらかしにして会社を出てきてしまった。
力なく歩く街並みで、たまたま通りかかった宝くじ売り場に目をやったのだが、そこにはいつもと違い、このように大きく書かれた派手な黄色の色合いの幟が立てられていた。
『本日一粒万倍日』
なんじゃ、それは。
俺はその聞き慣れないキャッチフレーズを気にもかけないで歩き続けた。
なんだか占いか何かの用語っぽい感じだった。
いや正確には気になってはいたのだが、それで足を止めて宝くじを買うほど心は浮き立っていなかった。
「はあ~、まったくついてねえ。
もう本当に勘弁してくれよ、あの高血圧ジジイめ」
そんなボヤキが本日の俺の親友であったのだから、そんな日に宝くじを買ったって絶対に当たるはずなどがない。
むしろ『本日、万ボヤキ日』と言ってもいいくらいなのだ。
もう大卒で入社五年目にもなろうかというのに、この有様とはなあ。
輝き出したネオンの灯りが目に沁みる。
そしてまた、俯いて下を向きながら歩いていたのが非常によくなかったようだ。
前方からこんな声が聞こえていたのにも関わらず、俺の耳には、正確には脳味噌にはそいつが入っていなかった。
俺の耳はロバの耳さ。
なんというか、ロバ耳東風といった感じであったものか。
「おいおい、なんだこりゃあ。
お店の新型ライトアップか何かか?」
「え、こいつはもしかして魔法陣とかいう奴じゃないのか?」
「うわ、なんだ。
足元から強烈な青い光が!」
そして視界に何か強烈な青白いような光が映ったので、半分思考停止していた俺はついこう思ってしまった。
「あれ?
こんな街中でアーク溶接をやっているのか?
こいつは目に悪そうだな」
生憎とそいつは目に悪くはなかったのだが、非常に性質は悪かったようだった。
俺がその異常に気付いた時には、どう頑張っても逃げられそうにない、そのかなり巨大な青い光が構成する環が囲む場所の中心近くにいた。
見慣れぬ文字と異形の文様の刻まれた青い光は、急速にその光量を増していき俺の眼を焼いた。
そして、俺やその他の人々を包み込んでいったのだ。
まるでUFOにでも誘拐されるかの如しだ。
同じく運悪くその場に居合わせたらしい、多数の学生やサラリーマンなどと一緒に訳のわからない事を叫びながら、俺は青い光の波、あるいは渦に巻き込まれたような感覚で気を失っていった。
繁華街の雑多なざわめきが、棚引くように消えていくのを感じながら。
ハッと気が付くと、俺は石造りの冷たい床の上に顔を横向きでぷにっと押し付けて、更に両手を後ろに投げ出して膝を正座のように折り曲げたスタイルで尻を突き出しているという、なんとも間抜けな格好で転がっていた。
いやはや情けないにもほどがある。
どうやら倒れて無様に失神していたものらしい。
きっと顔に床の模様がプリントされた状態なのに違いない。
どうやら、緩やかに崩れ落ちたとみえて、激しく頭などを打ってはいないようだ。
意識は非常にハッキリしている。
肩にかけた仕事の資料などが入ったバッグを手放さなかっただけ、このサラリーマン根性を課長にも褒めてほしいものだ。
体に異常がない事を確かめてから、体をなんとか起こして座り込んでから周りを見回しても、なんの場所かよくわからない。
ただ何か妙な石作りで古そうな、まるで神殿のような感じの作りの、天井がかなり高い建物の中にいる事だけはわかった。
灯りが天井を照らし切るには、些かルクスの数値が不足しているようだった。
一体、この俺に何が起きたものか。
周りには他にもかなりの人間がいるようだ。
辺りは、仄明るいといった感じで、街路の電燈の下にいる事に比べたら薄暗いような感じだ。
周囲には、なんと人の頭を越える高さの、赤光に燃える篝火のような物が焚かれていた。
そのデザインもやたらと古めかしい。
まるで、少し金のかかった昔を舞台にした洋画の世界かと思うような光景だ。
「あれ?
確か駅の近くにいて道路で倒れたはずなんだけどな。
ここは一体どこだ」
だが俺の独り言のような問いに誰かが答えてくれるわけでもない。
俺は不安になって、記憶を辿るように自分の名前などを小さく唱えてみた。
「麦野一穂。
サラリーマン、二十七歳独身で彼女無し。
以上」
いやいや、そんな事を言っている場合か。
どうやら記憶は確かで頭も正常、やはり頭を地面に打ち付けて混乱しているとかではないようだ。
だが俺の激しい困惑をよそに、突然このような事を俺達に向かって言い出した人がいた。
「ようこそ、異世界の勇者。
陽彩選人よ。
そして何故か勇者と共に来てしまったらしい、何の関係もない通りすがりの大勢の人々よ」
はあ?
誰だよ、陽彩選人って。
そして、あんたは一体何者なのだ。
ふらふらと立ち上がった俺は、なんだか偉そうな格好をしていて顎髭まで白い、威厳のありそうな白髭白髪の爺さんが前に進み出ているのを確認した。
他にも数十人の僧侶? いや神官といった感じの服装をした人や、映画に出てくるような槍を持った厳つい兵士のような人達が大勢いるようだ。
うわ、物々しいな。
何なの、これは。
映画の撮影か何かか?
いや、そんなはずはない。
俺の時計は、さっき駅前あたりにいた時刻から、僅か数分の経過のみを示していたからだ。
少なくとも、あの繁華街にはこのような荘厳な映画セットはない。
そのかなり広い部屋に幾つも置かれていて、その爺さんの姿を映し出している、どうやら松明らしい真っ赤な炎が揺らぎ、何かこう幻想的というか不気味な情景だった。
それに何の関係もない通りすがりの人々って、あのなあ。
しかし確かにここにいる人々は、俺と同じようにたまたま駅近くのあの場所に居合わせただけと思しき人間のようだった。
まあ、俺自身も確かにそういう者である事には間違いはないのだが。
ここは一体……。
2023年2月24日の18時より、外伝を掲載します。
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