第2話 涙の先に鎖
「ふああ」
俺・楓 裕喜は六時に目が覚めた。
よく眠れた。これが一人暮らしの特権かあ。
実家では、家族の乱入で起こされていやな気分を、毎日味わっていたが一人暮らしは自分のペースで起きられるから、快適な朝が迎えられる。
これがどれだけ大切か……。
と、起きて数分は感動していた。
さて、朝ご飯食べないと。
とりあえず朝は食パンでいいかな。
食パンをオーブントースターに入れた後、洗面所に向かった。
鏡に自分の顔が映った。昨日よりはやつれていない、茶髪で黒目の少年が見える。
疲れも大分とれたし、これなら入学式まで持ちそうだな。
そこへ、オーブントースターの音が聞こえる。
お、焼けたか。
オーブントースターに手を突っ込む。
「熱っ!」
まだ熱い鉄の部分に手を当ててしまう。
手は少し赤いが大丈夫だろう。
焼けた食パンを口に入れお茶で流し込んだ。
黒を基調とした昔ながらの詰め襟学生服を着て家を出た。
「行ってきます」
アパートの階段を降りると、管理人さんがホウキを使って掃除をしていた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。昨夜はよく眠れたみたいだね」
「はい、おかげさまで」
「そりゃよかった、高校の入学式頑張ってね」
「ありがとうございます、ではいってきます」
「いってらっしゃい」
管理人さんの返事を聞きながら俺は高校へ向かって走った。
俺が行く高校はここから徒歩一時間。
多少、遠いが実家から中学校に通っていた時よりは全然近い。
しかし、俺はここに苦戦するだろう、実は俺、人混みが苦手なんだ。
だから、なるべく人混みは早く抜けないと、また気分が悪くなっては入学式どころではない。
せっかく遥々遠くからやって来たのに、初日から遅刻で変人扱いなんてごめんだな。
だが、高校への道のりは長く厳しかった
急な人混みの発生や張り巡らされた道路などに何度悩まされたことか。危うく迷子になるところだった。
しかし、なんとか俺は無事高校までたどり着いた。
体力の三十パーセントを使ってしまったが入学式を受けるぐらいの体力は残っている。
しかし、学校というのはいつ見てもでかいな、実家の辺りでも大きい建物といえば学校ぐらいだった。
中を少しのぞく。
中には十五人ぐらいの生徒が来ていた。
大丈夫かな、吐きそうだ。
意を決して中に踏み込む。
う、周りの空気が苦しい。
俺は指定された自分の席に座りそのまま入学式に臨んだ。
なんとか吐かずに耐え、入学式は終わった。
体力的にはすぐに寝たいぐらい疲れたが、家に帰るまでは耐えなければ……。
震える足に力を込めて一歩、一歩と踏みだし、帰り道を進んだ。
今日は入学式が昼までだったので、人も少なく帰りはスムーズに進んだ。
はあ、はあ、なんとか着いた。早く部屋に入って休もう。
アパートの階段を上ると小学生と見られる女の子が昨日不在だった住人のドア前に立っていた。
困っているようだが声をかけようか悩む。
よし、話しかけよう、もしかしたら重要なことがあるかもしれない。
「あの、どうかされましたか?」
「ふぇ、もしかして、不審者?!」
「いや、不審者じゃないよ!」
「嘘です。不審者の人はみんなそう言うんです」
「いやいや本当だって、俺は横の部屋に住んでる楓だよ」
「へ? そうなんですか?」
「うん。なんか困っているように見えたから、話しかけたんだけど、迷惑だったみたいだね。じゃあ俺は帰るよ」
「ま、待ってください」
「ん? どうしたんだい」
「頼みたいことがあるんです。椚木さんにこのプリントを渡してくれませんか?」
女の子は持っていたプリントを突き出しながら尋ねてくる。ん? 椚木さん?
聞き覚えのない名前が出てきて戸惑う。
「椚木さん? 誰だいそれ」
「横に住んでいるのに知らないんですか?」
「いや、俺、昨日に引っ越してきたんだけど、不在だったんだよ」
「そうなんですか」
女の子は少し疑うような目になったが、すぐに話し始めた。
「とりあえず、このプリントを椚木さんに渡してほしいんです」
「俺は良いけど、どうして? チャイムを鳴らせば出てくるんじゃないのか?」
「いえ、鳴らしたけどでてこなくて」
「じゃあ、不在だったんじゃないかな」
「そうですか、うーん。」
どうしようか、悩んでいる様子だ。
それを見ていて心臓がドキッとしたのは気のせいだ、きっと。
その時、少女が何かを思いついたように目を輝かせた。
「ならプリントを預かってもらえませんか?」
「分かったよ、後で渡しておくよ」
挨拶のついでに渡せるので受け取ることにした。
それに少女の笑みがあまりにも可愛かったので断る理由がなかった。
「ありがとうございます。じゃあ、お願いします!」
「うん」
女の子はそそくさと階段を降り、向かいにある一戸建ての家に入っていった。
家ちかっ!
さて、一度チャイムを鳴らしたと言っていたけどもう一度鳴らしてみるか。
家から挨拶の時に渡す品物を取り、昨日とは別に買っておいた家族の愛という意味の英語が書いてあるTシャツとジャージのようなズボンに着替えて家を出る。
椚木さんの家の前まで来てチャイムを鳴らす。
「……」
反応がない。本当に居ないのか? 試しにドアの取っ手を捻ってみる。
ん? 開いてる。
恐る恐るドアを開け、中に入ってゆっくり閉める。
誰もいないのか? と思い、周りに目を移す。
「え?」
驚いた、見間違えかと思い、瞬きを何回もしたがどうやら、見間違えではないようだ。
この際、見間違えの方が良かったが、俺の視線の先には、少女が写真立てを抱えて涙を流していた。
あの子が椚木さんか?
管理人さんに聞いていたのと違ったが、俺は椚木さんに一瞬、目を惹かれてしまった。
夕陽の光に照らされた少女の銀髪がきらびやかでうっとりと眺めてしまえるほどだからだ。
心配になって、どうしたんだいと聞こうと一歩踏み出した、その時だった。
自分の体は自分でも気づかないぐらい疲れていたらしい。
力が抜けて、頭から転んでしまった。
しまった!
気づいたときには、すでに遅かった。
大きな音が部屋中に広がる。
「だ、れなの?!」
「ちがっ、怪しいものじゃない」
血相を変えてこちらを睨む少女はおびえているような感じもした。そのとき既に涙は引いているようだった。
「こんな時は、警察に連絡するんだよね」
「ま、待って、お願いだから話を聞いて!」
やばい、やばい、やばい。通報はさすがにやばい。
「俺は昨日、横に引っ越してきた楓 裕喜って言って――」
「なら、どうして、昨日引っ越して来たのに私の部屋に居るの?」
怯えるように聞く椚木さんはこちらを見つめていた。
俺は必死に弁解する。
「それは、さっきそこに君のクラスメイトが来ていて、プリントを届けにきてくれてたんだけど、不在のようだから預かってくれと頼まれて、挨拶のついでに確認の為もう一度来たんだ。そしたらドアが開いてて――」
「開いてたから入ってきたの?」
「う、ごめんなさい。やましい気持ちはなかったんです」
椚木さんは震えているように見える。
「しんじられない。こわいよ、はやくでてってよ……」
「ごめん。」
椚木さんに薄ら涙が浮かんでいるように見えた気がする。
俺はそれを後ろに部屋を出た。
部屋に帰ってきて思う。
胸が締め付けられる。自分がみっともない。
家に勝手に入って、自分より小さい彼女を泣かせてしまった。
う、う。
誰か他の人なら上手くいったのかもしれない。でも、俺には出来なかった。
情けない、心にはそれだけ残った。
しばし放心状態になった。
ふと、気づく、携帯がない。
「どこだ、ここか? ここか?」
鞄やポケットを探るが見つからない。
まさか、椚木さんの部屋に忘れたのか。
……謝るついでに取りに行くか。
椚木さんの家のチャイムを鳴らす。
「すいません」
あれ? 出てこないな。
そっと家のドアを開けると何やら声が聞こえてきた。
「私、やっぱりお母さんとお父さんがいないと、だめだよ……」
目をむけると椚木さんが悲観的な顔をしながら写真立てを抱えていた。
「さっきもね、年上の人に失礼な態度をとっちゃたし、学校も行けてない、ずっと前から胸が苦しくなるの。このまま一生独りぼっちで生きていかないといけないと思うと怖いの。一緒に居たいよ、お母さん、お父さん、ずっと一人はもう嫌――」
気づけば、俺は彼女を抱きしめていた。
体は疲れ切って動かないはずだったのに。
「っ! 楓さん?!」
「ごめんね、ごめんね、怖かったよね、辛かったよね、寂しかったよね。毎日、毎日寂しい思いをして苦しかったね……」
自分でも半分記憶が朦朧とするなか、彼女を抱きしめていた。
俺は両親を亡くしている、小学一年生の時に。彼女の口ぶりから察するに、多分、彼女も両親を亡くしているのだろう。
だから、俺は彼女の気持ちが多少なりとも分かる、俺も同じだったから……。
彼女を見ていて現実を思い出した。
世間の目が怖くて、親がいるような感じにしたり、管理人さんに親と名乗ってメールを送ったりしていた自分のことも。
今、俺は昔の自分を見ているようだった。だから言いたかったことを言った、そして、そんな彼女の支えになってあげたいと思った、思ってしまった。
「君の気持ちはわかるよ」
「簡単に……言わない、で」
「俺も、同じだったんだ」
「え……」
「俺も一人だった、寂しくて、でも、誰にも言えなかった、どれだけ言いたくても、辛くても誰も助けてくれない、毎日苦しかった、でも強がって俺は今までやってきた、誰にも心配をかけないために、でもそんなことしても何も変わらない、つらい毎日が少し変わるくらいで、最後はずっと悲しいまま。だから俺は、君が笑顔になれるような支えになりたい、ならせてほし……い」
あれ? なんだか力が抜けてきた。
まだ謝れてないのに……。
俺は彼女の横に倒れた。わずかに開いた目が彼女を捉えている。
彼女は俺の事を心配してくれているように見えた。