天国への階段
その声は最初、冷蔵庫の中から聞こえた。
「裏の山から、階段を上がって天国に来なさい」
総一は、冷蔵庫を開けようとした手を、感電したように引っ込め、後ろに飛び退いた。
テレビ、パソコン、音の出そうな物を順番に目で追う。
恐々と目だけでゆっくりと、もう一度冷蔵庫を見た。また冷蔵庫が喋った。
「今から、上がって来なさい」
面倒くさそうな口調で、命令的な声。
「天国って、死んでないだろ!」
冷蔵庫に飛びつき、勢いをつけてドアを開けた。中を覗き込む。さっき飲もうとした缶ビールが一本、棚にあるだけで、なにも変わった様子はなかった。
「上がって来いって、勝手なこと言うな。ちゃんと説明しろ!」
冷蔵庫の棚に向かって言ったが、今度は返事が返ってこない。部屋の中を見回しながら、ゆっくりとソファーに腰を下ろした。
両手から、両足、頭までゆっくりと点検していった。
付くべきところに、ちゃんと付いている、痛みもない。
時計を見た。午前11時を少しまわっている。さっき起きたところで、日曜日は予定が無ければいつもこんなもんだし、目を覚ましてから、トイレに行って、冷蔵庫を開けるまでの記憶ははっきりしている。
昨日の夜は、ビールを飲みながら、深夜番組を見て、午前2時過ぎに寝床に入った。番組の内容も、冷蔵庫のビールが残り一本になったのも、はっきりと覚えている。
どう考えても自分が死んだとは考られない。しかし、今まで死んだことが無いわけだし、死んだ人の話を聞いたこともない。
「ここは、ひとつ慎重に動く必要があるぞ、答えは必ず見つかる」冷蔵庫を斜めに見据えて総一が言った。
いつもは短絡的にその場限りの行動をとる総一が、探偵でも始めたかのように、腕を組み、眉間にしわを作って、深く考えるポーズをとった。
ようは、予定のない日曜日、いい暇つぶしが見つかったと考えただけである。
裏山を登る道は、総一の家のすぐ裏にある。小学生の頃、友達と一緒によく登った。走れば、十分、歩いても三十分あれば山頂に着く小さな山だ。山頂には公園があり、結構広く、見晴しもいいので、近所の小学生の遊び場として人気がある。
友達の悪ふざけにしては手が込んでいるし、ドッキリカメラのたぐいにしても、人の部屋に勝手に上がり込んで、冷蔵庫にマイクを仕込むというのも、あまりにも手が込んでおり現実的とは思えない、しかし、天国から声が聞こえるよりは現実的だ。そうこう考えているうち、思いのほか、早く山頂に着いてしまった。
心の準備をする間もなく公園を見渡し、その目に飛び込んだ光景に総一は目を丸くした。
「おいおい!マジか!」
公園の中央に、白い大理石で出来た階段が雲に向かって一直線に伸びている。ゆっくり階段に近寄り、美術館にでもあるような真鍮製の手摺を恐る恐るつかんだ。一瞬動きを止めた。何も起こらない。そのまま三段ほど登ってみたが何も起こらない。そのまま一気に駆け上がり下を見た。
「わーっっ!」声を出すと同時に、手摺にしがみ付き、しゃがみ込んだ。
公園の外、山の斜面の上空。手摺を握り、足をガタガタさせ、手摺から首だけ斜めに出し眼下に見える小さな町を見た。自分が高所恐怖症だと思ったことはないが、壁もなく階段と手摺だけでこの状態は尋常ではない。しかも階段は真っ直ぐに伸びており後ろに転べば一貫の終わりだ。
雲まで伸びる階段の先は霞んでいて見えない。
死ぬようなことをした覚えは、これっぽちもないが、どうやら自分は本当に死んだのではないか、そう思い始めた。
まだ死んでないのであれば、これから自分が死ぬのは運命で、この階段を上りきったら神に死を告げられるんではないのか。
それなら辻褄が合う。
「神の仕事なら・・・階段から落ちることも無いだろう・・・マジかよ・・」
人の力ではどう考えても作れそうもない階段を見せられ総一は観念するしかないと思った。
「よっしゃ! 今まで天国に行った誰よりも早く登ってみせたるっ!」
もともと、あまり深く悩まない性格であり、こうなれば、中学、高校と陸上部でならした足を神に見せてやろうと考えたのだ。
両側の手摺を掴んで何回も屈伸をし、前後に足を開きアキレス筋を伸ばし、時間をかけてストレッチを行った。
「さあ、行くぞ」
あごを引き、前を睨み、総一は階段を走りだした。
「デウス様っ!たっ・・大変な事でございますっ!でっ・・伝達のミスで死んでいない若者が階段を上って来ますっ!」
いかにも気の弱そうな男が、首を振り、両手を振りながら、すがるように執務室に走り込んできた。
「伝達係の者が間違って、お迎えの伝言を三軒隣の家の冷蔵庫に送ってしまいました」
デウスは白い髭をつかみ、そんな話は聞きたくないというように、真っ赤な顔を左右に振った。
「だから言っておったではないか。いくら人手不足でも、お迎えは直接本人に伝えねばならんのだ」
執務室の壁に向けてデウスが杖を振った。一瞬にして壁に映像が投影された。
鼻水を垂らし、口は半開き、締りのない引き攣った笑顔で階段を走りあがる総一が写しだされていた。
「この青年は何が嬉しいのだ」デウスは、額の汗を手で拭い、必死の形相で画面に見入る執事に言った。
酸欠で意識が薄れた。しかしゴールは目の前、鼻水を手で拭いながらペースを上げた。
大理石の床は果てもなく広がり、装飾された大理石の柱は限りなく伸びている。デウスと執事はスポットライトが当たったところ、半透明に
なった床、雲と空、手摺が見える床の一点を見つめた。
最後の段を上りきり、総一は大理石の床に倒れ込んだ。
「いやいやいや、ご苦労さん、ご苦労さん、大変だったね!」総一に駆け寄り、額から汗を垂らしつつ、満面の作り笑いで総一の背中を何度も叩いた。
「しかし、あれだね、まさか、この階段を上ってくるバカ・・・いやいや、すごいよ、すごい、君はバカ・・いやいや体力に自身があるんだね」
「がっ、学生の頃、陸上してたからっ・・」総一は酸欠で意識が朦朧とするなか、必死に答えた。
デウスと執事は、気まずそうに目を合わせ、執事は申し訳なさそうにうつむき、デウスはゆっくり総一に目を戻した。
デウスは天を見上げ、一瞬ためらい、一呼吸おいてから、はっきりと言った。
「君がここに来たのは我々の間違いだ。君は死んでなぞおらん」
「君に悪いことをしてしもうた。申し訳ない」執事をデウスは深々と頭を下げた。
総一はしばらくキョトンとしていた。しかし、話の内容が、だいたい理解でき始めると新たな不安が頭をよぎった。死んでないのなら、今ここにいる自分の立場はどうなるのか、まさか、手違いでここに来たために、本当に死ななければならなくなるのか、さっき白髭の爺さんが言った。申し訳ないとは、死ななければならなくなったということか。
「教えてください。僕は帰れるんでしょうか」総一は弱々しい抗議の目をデウスにすがりつくようにむけた。
「おお、そりゃ当然じゃ、当然帰れるとも、もちろんじゃ」
デウスと執事はもう一度目を合わせ、デウスが執事に人差し指を一本立てて何やら合図をした。
「今回は大変申し訳なかった。もちろん君にはすぐに家に帰ってもらえるのじゃが、だだ、今回のことは全て忘れてもらわなければならんの」
執事が人差し指を一本立てて、ゆっくりうなずき、それを見たデウスが総一に言った。
「今回のことについて、我々からのせめてもの償いとして、一つだけ、君に幸せを送ろうと思う。本当に悪かった」
何をもらえるのかと考えた。にやけそうになる顔をなんとか引き締めデウスを見た。
「では、そこに立ちなさい」
総一はデウスの前に立った。小さく掛け声をかけ、デウスが杖を総一の頭に向かって振り下ろした。
「おい、なんじゃこりゃ」
総一は声を上げた。ソファーにもたれた身体が思うように動かない。全力疾走でフルマラソンを走った後のような身体だ。昨日は2時まで深夜番組を見て寝た。そして、たった今、起きたところだ、それなのにこの身体の疲労はなんだ。
「冷房のせいかな。もうエアコンやめとこ」総一はエアコンのリモコンをつかみスイッチを切った。
「この身体じゃ動けん。ビールでも飲んで横になろう」重い身体をなんとか持ち上げ、冷蔵庫の扉を開けた。
「あれー。おかしいなビールが二本ある。確か寝る前は一本だったのに。まあ、いいか、いいよな、へへへ・・・」