憧れの先輩
僕は主人公だ。とある公立高校に通う、どこにでもいる、ごく普通の高校二年生。どこにでもいる、主人公。僕は、ある女性に、恋に落ちた。
彼女の名前は、篠崎さつき。高校の先輩だ。成績優秀、容姿端麗。学校中が憧れる、マドンナ。僕も例外なく、彼女に魅了された。
彼女に初めて声をかけたのは、11月の末、僕がやり忘れた課題を終わらせるために教室に遅くまで残っていた日だった。誰もいない教室でひたすらに課題をやるというモチベーションの上がらない作業に思いのほか時間がかかってしまい、気付いたころには外はすっかり暗くなり、廊下の電灯もところどころ消灯されてしまっていた。きれいに消された黒板の右端には、明日の日付と、明日の日直の名前が書かれていた。明日は僕か。終えたばかりの課題ノートを小脇にはさみ、教室の電気を消し、職員室へ向かう。その途中、階段を駆け下りていると、女子生徒とすれ違った。校章の色からして、先輩だろう。薄暗くて顔は見えないが。でも、すれ違った瞬間、ほんの少しだけ、いい匂いがした。女の子の匂い。ふと振り返ろうとしたその瞬間。
「きゃ!」
どてどてっ、と崩れ落ちる音がした。見ればそこに先の先輩が倒れこんでいた。派手に転んだようだ。持っていたカバンの中身は飛び出し、スカートは危ういところまでまくれ上がっていた。僕は極力それを見ないように努めながら、「大丈夫ですか?」と言って駆け寄っていった。
「いたた…」
彼女は顔を苦悶にゆがめながら、腕でゆっくりと体を起こした。
「大丈夫ですか?」
もう一度、聞いた。そしてようやく、僕は彼女が誰かに気が付いた。篠崎先輩だった。
学校中の憧れである先輩と、まさかこんな形でお近づきになれるとは。僕は少しの間感動に動きを止めていた。ふと我に返り、ぶちまけたノートやら筆箱やらを拾い集める。
「ありがとう…」
「いえいえ、怪我とかないですか?」
「うん、大丈夫」
少しよろめきながら、立ち上がってスカートに付いたほこりを手で払う。案外、普通の女の子。てっきり先輩は完璧人間だと思っていたから、少しだけ驚いた。それと、普段見れない意外な一面をみて、不謹慎ながらちょっと得した気分にもなっていた。
恥ずかしいとこ見せちゃった、と照れたように笑い、ありがとね、と言って彼女は去って行った。
お気をつけて、と言って見送り僕は職員室に向った。
ノートを先生に提出したあと、僕は忘れ物をしているのに気が付いた。電子辞書がなくては、明日の予習ができない。一度下りた階段を、再び駆け上がる。薄暗さに足を滑らせてしまわないように2段飛ばしで階段を上がっていくと、2階と3階の踊場に、何かが落ちているのを見つけた。可愛らしいハンカチだ。しかも、ここは先ほど先輩が派手に転んだ現場であったから、持ち主を特定するのに時間はかからなかった。とはいっても、彼女に渡す手段が思い当らなかった。とりあえず、持って帰ることにした。明日先輩のクラスに届けに行こう。
教室に戻り、パチン、と電気を点けた。すぐさま自分の机から電子辞書を回収して帰ろうとしたとき、黒板の右端、日直の名前が変わっているのに気付いた。僕の名前が書いてあったところには、今日日直だった子の名前が書かれていた。どうやら日直の仕事に不備があったみたいだ。うちのクラスでは日直の仕事忘れがあった場合はもう一日、という何とも幼稚なシステムが設置されていた。この子も何かをし忘れたのだろう。お気の毒に。
もうすっかり真っ暗になってしまっていた。昇降口のセンサーが僕を感知して、自動で電気が点く。上履きを下駄箱にしまい、スニーカーを取り出して手を使わずに乱暴に履く。ほとんどの生徒は帰ってしまって、駐輪場も閑散としており、僕のほかには2,3人しかいなかった。見慣れた自分の自転車を引っ張り出し、すばやく跨って校門を出た。
しばらく自転車をこぎ、全然近くない最寄り駅へと着いた。駅の駐輪場に自転車を止め、改札へと駆ける。別段急いでもいないが、駆け足で改札を抜ける。定期券を持っていると、無性にこれをやりたくなる。ホームについて、早く着きすぎたことに気付いた。電車の到着まであと7分ほどある。待つには長いが、何かするには短い、一番厄介な時間だ。いつもより数本遅いため、周りに学生はあまりいない。僕は音楽で耳を塞ぐことにした。
そうして家に着いた。自室にてカバンをベッドに抛る。ぎし、とベッドがきしむ。そのカバンの隣にどすんと腰を下ろして、カバンの中から例のハンカチを取り出す。
女の子の、ハンカチ。篠崎先輩の、ハンカチ。あの篠崎先輩の、ハンカチ。やはり、いい匂いがしたりするのだろうか。ドアもカーテンも閉まっていることをいいことに、ハンカチに鼻を近づけた――嗅いだことのないような、いい匂い。でも、確かに嗅いだことのある、先輩の匂いがした。うるさいほどの鼓動が、僕の内側を叩いていた。
翌日、僕は先輩のクラスを調べて先輩に直接届けに行った。先輩は、
「わざわざ届けに来てくれたの?ありがとう!」と言って笑顔を僕にくれた。
「君、名前は何て言うの?」
僕は自分の名前を言った。
「―くんね、今度必ずお礼するから!」
恋に落ちるには十分だった。
後日、先輩は約束通り僕にお礼をしてくれた。甘いもの好き?と言ってエクレアを渡してきた。もちろんです、と答えて僕はそれを頂いた。エクレアはとても甘くとろけた。
それを機に、僕は先輩とよく話すようになった。休み時間にたまたま会ったときには決まって2,3分ほどの他愛ない話をした。話していくうちに、休み時間が10分では短すぎることに気付いた。そしていつしか、昼休みにお時間ありますか?少しお話しませんか、と誘うようになっていた。先輩はいつも快く受け入れてくれた。
先輩とはいろいろな話をした。くだらない話から、真面目な話、哀しい話から、笑い転げる話。すべてが僕を幸せにした。僕は、先輩のことが本当に好きになっていた。それでも、僕は想いを伝えられずにいた。こうやって先輩と話をしている日常が愛おしかったから。手放したくなかったから。
先輩も、頻繁に僕と話をしに来た。そのたびに、僕は彼女の想いを推し量ろうとした。先輩は僕のことをどう思っているのだろう、と。それと同時に、僕は彼女の想いから目を逸らしていた。先輩がたとえ僕のことを好きじゃなくてもこうして話してくれるだけで僕は幸せだ、と言い聞かせて自分を納得させた。逃げていた。
僕は先輩に対してひどいことをしてしまった。ある日の帰り道、先輩は涙ながらに言った。
「君は、つらくないの…?」
僕は、気付いた。
「私はね、とってもつらくて、苦しくて、どうしたらいいかわからないの…」
僕は先輩の想いを無視して、自分の想いだけを勝手に発散していた。最低だった。
「君が、好きで…どうしようもないの」
先輩が泣くところを、初めて見たんだ。
僕は、胸が締め付けられるようだった。もう、我慢しなくていいんだ。自分の中から、そう聞こえた。
「先輩…あなたが好きです」
先輩は、ぼろぼろと涙を流して、力なく笑った。
「遅いよ、馬鹿」
僕は堪えられなかった。我慢できなかった。身体が動いていた。
先輩を、抱きしめていた。