《地図・電車・夏の風》
ガタン、ゴトン・・・カタンカタン・・・
目の前を過ぎ去っていく電車。
生温い夏の風が頬を撫で、懐かしいあの頃の記憶を蘇らせる。
電車の一定のリズムが流れる踏み切り前で、僕はオレンジ色に染まった夕焼け空を見上げる。
そうして、想い出すのだ。
僕と彼女の過ごした長いようで短かった日々を。
「ねぇ、遥ちゃん。宇宙ってどんな感じかな」
「宇宙?急にどうした?」
突然、そう言い出した蒼空は、リビングのソファの上で寝転がり、白い天井を見上げていた。
開けっ放しの窓から風が入り込み、彼女のやわらかな髪をなびかせた。
青いワンピースに、日焼けをしていない肌がやけに白く見える。
僕は、テーブル上の夏休みの宿題と睨めっこするのをやめて、冷蔵庫に向かう。
「なんとなくだよ。真っ暗で何も見えないのかなって」
「そうかもな」
冷蔵庫を開けると、まだ手を付けられてないサイダーがあった。
「ねぇ、サイダーでも大丈夫?」
「大丈夫ー」
僕はサイダーを手に取り、食器棚からコップを二つ取り出した。
そして、ゆっくりをサイダーを注いだ。
しゅわしゅわとした泡が、どこか夏らしい雰囲気を漂わせた。
「宇宙って、寒いのかなぁ」
「そうかもな」
昨日のテレビでそんなようなことをやっていたな。確か宇宙の温度は、日向では100度以上、日蔭は−100度以下だって。
寒いなんてものじゃないだろう。
「遥ちゃん、真剣に答えてよ。もうっ」
僕があからさまに興味がないような答え方をしたせいだろう。蒼空はソファから勢いよく起き上がり、むっとした顔で僕を見た。
「ごめん、ごめん。氷入る?」
「いらない」
「そう」
僕は片方にだけ氷を入れて、蒼空のいるソファまで運んだ。
「それに、何度も言ってるけど、その遥ちゃんっていう呼び方はやめてください」
「そうだったね。つい、うっかりしてたよ」
ころころと表情を変える彼女は、きっと、また僕をからかっているのだろう。
僕がガラスのコップを差し出すと、彼女は両手で受け取り、「ありがとう」と嬉しそうに笑った。
「どういたしまして」
そう言って、僕は一口飲んだ。爽やかなしゅわっとした味が広がった。
横目に見ると、顔をしかめる蒼空が見えた。ちょっと炭酸が強すぎたみたいだ。
僕と蒼空は、幼なじみだ。
幼い頃から近所に住んでいて、小学生の蒼空は僕の家に預けられていた。
蒼空の両親は、有名な宇宙飛行士だった。
蒼空は、決して両親を困らす事をしなかったし、寂しいと言って泣く事もなかった。
ただひたすらに、大好きな両親の無事を祈っていた。
それしか、蒼空には出来なかったし、まだ小学生だった僕も、くだらない冗談を言ったりして、蒼空を笑顔にする事ぐらいしか出来なかったのだ。
そうして、高校生になった蒼空はアパートで一人暮らしをしているが、時々こうやって僕の家に遊びに来る。
「そうだなぁ・・・、宇宙の地図なんてどう?かっこよくて、すごく楽しそう」
どこが楽しいのだろうか。
僕にはさっぱり理解ができないことを、蒼空は目をきらきらさせて興味を示す。
「高校生にもなって、そんな子どもっぽいことやめろよ」
「まだ子供だもん」
「小学生じゃないんだから」
「いいじゃん、今のうちにいっぱい子供らしいことしなくちゃ。海とか、キャンプとか。
あぁ、そうだ!里佳子や愁も誘おう。人数多い方が楽しいでしょ」
「計画倒れするよ」
「だから、その前に子供の頃に戻って地図を描こう!何事も段階が必要よ」
蒼空の話に頭がついていかず、ため息がこぼれた。
それなのに、にこにこと楽しそうに微笑む彼女の姿があった。
「ね、楽しそうでしょ?」
何度もそう言って、駄々をこねるものだから、僕の方が先に根を上げた。
「・・・しつこいになぁ。わかった、わかった。
じゃあ、こうしよう。蒼空が本物の宇宙飛行士になったら」
「え、本当?遥ちゃんが描いてくれるの?」
「宇宙飛行士になれたら・・・の話ね。嘘はつかない」
「ふふ、そうかぁ。遥ちゃんが描いてくれれば、すごく嬉しいな」
彼女の笑顔が本当に綺麗で、太陽みたいに眩しすぎた。
僕は、一気に頬が熱くなるのを感じて「あっそ・・・」と素っ気なく返事を返す事だけで、精一杯だった。
「約束ね」
「わかった、わかった。約束な」
自然と彼女から差し出された小指に自分も躊躇なく絡ませた。
甘ったるい子供みたいな約束。
多分、この時、本当に子供だったのは僕の方かもしれない。
「遥ちゃん、ありがとう」
その言葉は、いつもの言葉とはすこし違っていた。
今思えば、なんだかとても寂しげなものだった。
あれから何年かが経った。
僕も蒼空も無事に高校、大学を卒業した。
僕はそのまま就職し、蒼空はアメリカに留学、大学院と宇宙飛行士の夢を叶えるべく忙しい日々を送っていった。
そんな彼女と久しぶりに再会したのは、実家に帰省したときだった。
「遥ちゃん」
夏のじりじりとした暑さとは裏腹に涼し気な声が僕の名前を呼んだ。
振り返ると、そこにはしばらく見ていなかった彼女が立っていた。
長い黒髪を一つに結んで、白いワンピースに青いカーディガンを羽織っていた。
昔のように、僕を呼ぶその声も変わっていない。
「本当、相変わらずだね」
「遥ちゃんこそ。お仕事は今何をしているの?」
「今は高校の美術の先生」
「わあ、遥ちゃんらしくない」
「ひどいな。夏休みの工作は全部僕に押し付けてきたくせに」
「そうだったね」
くすくす笑う姿は、まだ子どものようなあどけなさが残っていた。
「いつ帰ってきたの?」
「一昨日。遥ちゃんの家にそのままになってた荷物があったのを思い出したから取りに来たの」
「そんなの言ってくれれば、家から送るのに」
「ううん、久しぶりに遥ちゃんの両親に会いたくて。しばらく会っていなかったから。ほら、ホームシックみたいなもの?」
蒼空は、冗談めかしておどけるように笑った。
「そういえば、こうやって直接会って話すのは何年振り?」
「最後に会ったのは留学前かな」
「そうか、そんなに経っていたのか」
「遥ちゃんが浦島太郎みたいにおじいちゃんになっていたらどうしようって思っていたんだからね」
「僕だったら、玉手箱は二つとも受け取り拒否する」
そう言って、また、子どもの頃のように無邪気に笑い合った。次の瞬間にどんな言葉が飛び出すかも知りもせずに。
「聞いて、遥ちゃん。わたし、宇宙に行けるんだよ」
蒼空はこれ以上の幸福はないとでも言うように微笑む。
その姿に、僕はひどく動揺した。
「・・・なに、また冗談言って」
言葉に詰まってしまう僕に、彼女は相変わらず優しく微笑んだ。
彼女の言葉は、僕にとって目の前が真っ暗になってしまうほどの衝撃だった。
蒼空が幼い頃から宇宙飛行士の両親に憧れ、宇宙飛行士の夢を追い続けていたことは知っていた。
でも、最初に僕の脳裏を過ったのは、少し前に起こった世界でも話題になった宇宙ロケット事故だ。
大気圏突入時にパラシュートが上手く開かず、地上に激突し、宇宙飛行士三人が死亡した、あの事故。
その事故をよくわかっているはずの彼女が「本当だよ、遥ちゃん。喜んでよ」と言って、彼女はまた微笑むのだ。
何も言葉を返さない僕を見て、蒼空は不安げに見上げる。
「どうしたの?どうしてそんな顔するの?」
なぜか、胸がつかえたみたいになって、全く声が出ない。
「遥ちゃん?」
「・・・い・・・」
「・・・え、なに?」と、蒼空が聞き返す。
「・・・行くな」
僕の口から思わずそんな言葉が溢れた。
蒼空の嬉しそうだった顔がさっと消えた。泣きそうな顔で僕を見つめる。
蒼空の夢が叶う事は、すごく嬉しい。
でも、行かせたくない。
そんな二つの想いがぶつかって、胸の奥が痛くて仕方がない。
「な、なんで!遥ちゃんっ・・・」
「お前だって、知ってるだろ!人が・・・死んだんだ・・・」
「・・・っ」
蒼空が言葉を詰まらせる。
その顔は、今にも泣き崩れそうなほど、悲しみで歪んでいた。
「どうしてっ・・・。遥ちゃん!
宇宙に行くのは、わたしの小さい頃からの夢だったんだよっ!!遥ちゃんだって、知っているでしょう?」
小さな体で声を張り上げて、僕に訴えかける。
「それなのに、なんで、行くなだなんて言うの?」
僕より背の低い蒼空が、背伸びをして、僕の胸の辺りをドンドンと小さな拳で叩く。
「・・・蒼空が、死ぬかもしれないだろ」
蒼空は肩をビクッと震わせ、大きく振り上げた拳をふるふると震わせながら、下へ降ろす。
そうして、怒りと悲しみが混ざったかのような表情をした。
唇を噛んで、僕に訴えかけるように見つめてきた。
「・・・わたしは、死なないよ」
「なんでそんな事、わかるんだよ」
「だって、そのために遥ちゃんが地図を描いてくれるんでしょ?」
僕に対して怒っているはずなのに、蒼空はこの場に似つかわしくないくらい穏やかな表情で言う。
その言葉に、忘れようとしていた蒼空との約束を思い出す。
「だからね、どんな事をしてでも、遥ちゃんのところに戻ってくるよ。大丈夫。
わたしを、信じて」
澄みきった瞳で、僕を見つめる。
蒼い蒼い空のように晴れやかに笑う彼女は本当にきれいだ。
「大丈夫、遥ちゃんの地図があれば、きっとわたしは、この場所に帰ってこれる。
・・・わたしは、そう信じてるよ」
「・・・でも」
「だから、地図を渡して?
ね、遥ちゃん・・・、約束したでしょ?」
蒼空が、僕の足元に向けて小さく指を指す。
その動作に、僕は、ギュッと手に力を込めた。
地図は僕の提げている鞄の中だ。
蒼空は、僕がもうすでに地図を描き上げている事も、鞄の中に入れて、隠し持っていた事も・・・
きっと、全部お見通しなんだ。
「遥ちゃんも、わたしが宇宙に行くのを、望んでいたんだよね?違う?
いつでも、わたしが宇宙に行けるように、準備していてくれたんだよね・・・?」
僕は、首を横に振った。
そんなの望んでない、そんな訳ない、と否定したかった。
蒼空の言葉を、僕の本当の気持ちを、全部気づかないふりをしたかった。
「遥ちゃん、お願い。わたしが宇宙に行けるように。
無事に帰ってこれるように・・・」
「・・・っ」
蒼空の今までにない真剣な表情に、僕は目を背けることができなかった。
これを渡したら、蒼空は僕の知らない遠いところに行ってしまう。
それこそもう2度と会えないかもしれないところに。
でも、彼女の夢はこんなちっぽけな地球では収まりきらない。
もっと広くて、彼女が自由に羽ばたける場所が必要だ。
僕は唇を噛み締め、蒼空に地図を渡す。
「蒼空には適わないなぁっ」
そういうと、喉の奥がひりひりとして、目頭が急に熱くなった。
「ありがとう」
地図を受け取ろうとした蒼空の手が一瞬触れて、その白くてやわらかい手に小さい頃の指切りを思い出した。
蒼空は泣き出しそうな顔でやさしく微笑んだ。蒼空の瞳には溢れそうなほどの涙が浮かぶ。
涙を隠すように背を向け、一歩ずつ歩き出す。
その背中は、まだ小さくて、肩が小刻みに震えていた。
けれども、けして振り返らず、歩み続ける。
「・・・待ってるっ」
僕は、蒼空に聞こえるように、大きな声で言った。
一瞬、蒼空の歩みが止まった。
そうして・・・
「行ってくる」
と、僕に背を向けたまま言った。
それは、彼女と僕の二度目の約束だったのかもしれない。
僕は、頬から流れる涙を拭いもせず、ただ背を向け未来に向かう蒼空を見つめた。
涙で何度も彼女を遮られ、それでも彼女を脳裏に焼きつけたくて。
そうして、僕も彼女に背を向け歩きはじめた。
・・・カタンカタン・・・ガタン・・・
あの日の記憶が、夏の風と共に、一気に蘇った。
今、彼女は、僕の手の届かない遠いどこかで必死に生きている。
もし、あの時、彼女に好きだと伝えていたならば、一体どうなっていたのだろう。
僕の気持ちを知っていたら、宇宙に行く事をやめただろうか。
いや、彼女は宇宙に行くことを選ぶだろう。
それが、彼女の夢だから。
電車が僕の目の前を通り過ぎ、遮断機が空に向かって伸びた。
僕は、再びゆっくり歩き始めた。
その行き先が、彼女との未来に繋がっていると信じて。
自分の中で一番思い入れがある話です。
より良いものになるように書き直しをしているため、内容が少し変わる場合があります。
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