完璧主義の公爵令嬢は、無能な婚約者を損切りすることにしました。
「カリーナ、俺はクレアと出かけるから、あとの仕事はお前がやっておけ」
公爵令嬢カリーナ・アニストンの耳に、鼓膜を震わせるほど大きな、そして威圧的な声が響く。
執務室の机にうず高く積まれた書類の山越しに顔を上げると、カリーナの婚約者にしてこの国の王太子であるレナルドがいた。
その腕には、甘ったるい香水を漂わせた男爵令嬢クレア・ブランシュがしなだれかかっている。
「承知いたしました。行ってらっしゃいませ、殿下」
ペンを走らせるのはそのままに、カリーナが表情一つ変えずに淡々と答えると、レナルドは、
「ふん、相変わらず可愛げのない女だ」
と忌々しげに吐き捨て、クレアといちゃつきながら執務室を出て行った。
バタン、と無遠慮な音を立てて閉まった扉を一瞥し、カリーナは小さく息を吐く。
そもそも目の前にあるこの書類は、本来はレナルドに回されたものだというのに。
けれど、婚約者に浮気相手を見せつけられ、仕事を押し付けられたというのに、カリーナの心に悲壮感や嫉妬といった感情は欠片も湧かない。
ただ純粋に、あの男が王になればこの国は確実に傾く、という強い憂慮だけがあった。
――もともと、この婚約は王家側からアニストン家に打診されたものだ。
レナルドは第一王子で、ずいぶんと前から王太子として公表済みだった。
しかし、両陛下はレナルドの成長とともに、彼の王としての器に疑問を抱くようになった。
とはいえ、すでに王太子として公表している以上、何の大義名分もなく廃嫡すれば、国内外に不安を与える。
そこで、極めて優秀な血と強固な後ろ盾を持つカリーナを据えることで、将来の王室を安定させようと図ったのである。
だが、幼い頃から公の場や茶会などで顔を合わせる機会はあったが、レナルドは昔からカリーナを嫌っていた。
自分に対して一切ときめいた様子を見せず、あまつさえ勉学において遥かに優秀な彼女を、可愛げがないと疎んでいたのだ。
そのため、婚約の打診があった際、娘への理不尽な仕打ちを知っていたカリーナの両親は即座に断るつもりだったらしい。
だが、それを引き止めたのはカリーナ自身だ。
――すべては、愛する祖国のため。
カリーナの行動原理は、常にその一点にあった。
婚約を受けるにあたり、カリーナが王家に提示した条件は一つだけ。
『婚約者の立場であっても、早くから国政に関与する権限を与えてほしい』と。
喉から手が出るほど優秀な婚約者を欲していた王家は、当然これを承諾した。
そうして決まった顔合わせの席で、レナルドは開口一番、お前を愛することはないと決まり文句のような台詞を放ったのである。
しかしカリーナは、
「承知いたしました」
と涼しい顔で受け止めた。
カリーナにとって、王と王妃との間に必ずしも恋愛感情が必要だとは思えなかったからだ。
とはいえ、将来は夫婦となる以上、最低限の体裁と人間的な信頼関係は必要である。
恋愛的でなくとも歩み寄る努力はカリーナなりにしたつもりだったが、レナルドはそれらをことごとく無視し、派手に浮気を繰り返した。
『無闇に子種を撒き散らすのは、将来の王位継承において致命的な火種となります』
そう何度忠告しても、愚かなレナルドの耳には届かなかった。
今のところ子ができたという話は耳にしていないが、時間の問題だとも感じている。
レナルドと婚約してから二年後、王立学園を首席で卒業したカリーナは、学生時代から少しずつ関わっていた王子の執務を、今やほぼ丸ごと回されるようになっていた。
だが、カリーナは決して一人で膨大な業務を抱え込んでいるわけではない。
一見すると淡々と事務処理をしているように見える彼女だが、その根底に国を良くしたいという熱い想いがあることは、共に働く者たちには痛いほど伝わっていた。
結果として、彼女の元には自然と優秀な人材が集まった。
カリーナが的確な指示を出し、彼女を慕う文官や側近たちが手足となって働く。
彼女一人ではなく、強固な信頼で結ばれた彼らとの結束があるからこそ、王太子がサボりきっている国政が滞りなく回っているのだ。
現在、無能なレナルドが大きな反発も受けずに王太子としてふんぞり返っていられるのは、いずれ有能なカリーナが王太子妃になるからという一点のみで周囲が納得しているに過ぎない。
もしカリーナの存在がなければ、とうの昔に、優秀だと名高い第二王子ヴァンスを王太子に推す声が上がっていたはずだ。
だが、最近のレナルドの愚行は、いよいよ目に余る。
あの男爵令嬢クレアはレナルドの長年お気に入りの娘ではあるが、責任の重い王妃の座には興味がなく、次期国王の愛妾という立場を手に入れ、甘い汁だけを吸う気満々だ。
そしてレナルドも、それを許容する気でいる。
これ以上彼を野放しにすれば、いかにカリーナたちが裏で支えようとも国に綻びが生じる。
愛がないのは一向に構わない。
国庫の無駄を削り、飢饉に備える備蓄制度を整え、辺境の街道整備を進める――それらの方が、カリーナにとっては恋や愛よりも遥かに価値のあるものだった。
しかし、どうせ愛のない相手と結婚して国を支えるのなら……もっと、別の相手の方が良いのではないだろうか。
カリーナの脳裏に、ひっそりと、しかし確実に実力を蓄えている第二王子ヴァンスの姿が浮かぶ。
手元の書類に最後のサインを書き入れながら、愛国主義の公爵令嬢は、ある極めて合理的な結論に至ったのだった。
◆
その数日後、カリーナは人目を忍び、第二王子ヴァンスへ面会を申し入れる。
ヴァンスとカリーナは同い年であり、王立学園でも同じクラスだった。
王太子の婚約者という立場上、当然二人とも節度はわきまえていたため、親密と言えるほどの関係ではなかった。
しかし、同じく成績優秀者として言葉を交わす機会はそれなりにあり、互いの知性や手腕に対して敬意を抱き合っている間柄であり、それは今も変わらない。
兄であるレナルドとは対照的に、落ち着いた知的な佇まいを持つヴァンスは、突然の兄の婚約者からの訪問にも嫌な顔ひとつせず、静かに彼女を迎えてくれた。
無駄話をする気はない。
人払いがされた静かな部屋の中で、カリーナは勧められたソファに腰を下ろすなり、すぐに本題を切り出した。
「ヴァンス殿下。突然の非礼をお許しください。本日は、殿下に極めて合理的なご提案があって参りましたわ」
「おや、なんでしょうか」
「単刀直入に申し上げます。――私と手を組みませんか」
真っ直ぐに見つめるカリーナの言葉に、ヴァンスはその真意を測るように微かに目を細める。
瞬間、部屋の空気がぱきんと張り詰める。
ただの雑談ではなく、下手をすれば国の根幹に関わる危うい話だと察したヴァンスから、冷徹な覇気が滲み出たためだ。
しかしカリーナは臆すことなく、言葉を続ける。
「このまま私がレナルド殿下と結婚しても構わないのです。殿下がどれほど浮気をしようとも、仕事を放り投げようとも、私が実務を回しさえすれば国政に支障はありませんもの」
そこまで言ってから、カリーナはふと声を沈めた。
「ですが、最近のレナルド殿下の振る舞いはさすがに目に余りますの。あの様子では、いずれあちこちで婚外子が誕生することでしょう。それは王位継承権の混乱を招き、将来的に必ず国を割る火種となりますわ。それだけは困るのです」
「……それは否定できませんね」
「国の致命的な混乱を防ぐためには、レナルド殿下をこのまま王太子の座に置いておくわけにはいきません。とはいえ、私は出来ることなら将来王妃として、この国を治めたいのです」
それは権力への執着ではなく、純粋な愛国心だった。
「私の持つ知識も経験も、すべてはこの国を支え、より良くするために使いたい……。ですが、王族ではない私が国政の根幹に関わるための手段は、王太子と婚姻を結ぶことしかありません」
カリーナはそこで一度言葉を切り、微動だにしないヴァンスを見つめた。
「ヴァンス殿下も、私と同じようにこの国を憂い、より良くしたいとお考えのはずですわ。……お互いに一番大事なのはこの国であり、愛や恋といった個人の感情は二の次。だからこそ、極めて優秀な殿下と私が婚姻を結び、為政者としての伴侶となって国を治めるのが、最も合理的ではないでしょうか?」
要約すると、兄を切り捨てて自分と組めという、反逆にも等しい提案である。
カリーナ自身、これがどれほど王族に対して不敬で危険な発言かは重々承知している。
しかし彼女の言葉に私欲は一切なく、ただ国益だけを見据えた清々しいほどの合理性からきた発言であることは、ヴァンスならば読み取れているだろう。
提案を聞き終えたヴァンスは、少しだけ伏し目がちだった顔を上げる。
そして少し驚いたような顔をした後、その端正な顔にふわりと優雅な微笑みを広げる。
それはどこかひどく嬉しそうな、内側から湧き上がる熱を孕んだような笑みだった。
「…………」
カリーナはそれを無言で見つめる。
彼女は決して他人の感情の機微に鈍いわけではない。
むしろ、人の行動や心理を分析することに長けている。
昔から、ヴァンスが自分に対してある程度の親愛の情を向けてくれていることは、なんとなく察していた。
カリーナ自身も、レナルドよりは、知的で穏やかな彼に対してずっと好意的な親愛を抱いている。
しかし、今のこの熱っぽい微笑みはどうだろう。
もしかしてヴァンスは、ただの親愛以上に――。
だが、カリーナは即座にその思考を切り捨てた。
もしそれが事実だとしても、今、最も重要なのは国を救うことであり、個人の感情ではない。
そんな不確定な要素でこの計画を滞らせるわけにはいかないのだ。
カリーナはあえてその可能性を横に置き、彼のこの笑みは『有能な同志を得た、あるいは国を救う道筋が見えた為政者としての喜び』なのだと、自分にとって都合良く解釈しておくことにした。
「なるほど。兄上の婚約者であるあなたから、まさかそのような提案を受けるとは思いませんでした」
ヴァンスは心底愉快そうに、けれど真剣な声音で言った。
「……本来ならば、即答すべき話ではないのですが。実は私も同じ結論に至りつつありました。兄上をこのまま王太子の座に置いておくことは、国にとってあまりに危うい」
そこで彼は、ふっと微笑む。
「――その提案、喜んでお受けしましょう。愛国心に溢れる優秀なあなたとならば、きっと完璧な国政を築けるはずです」
「ありがとうございます。殿下ならご理解いただけると信じておりましたわ」
愛などなくても構わない。
国を導くために、最も優秀な相手を選ぶ。
こうして、無能な第一王子を廃嫡し、第二王子を新たな王太子へと押し上げるための共同戦線が結ばれたのだった。
◆
それから二人は水面下で、レナルドの職務怠慢や不正の証拠をまとめ、王位継承権を第一王子から第二王子へと移行させるための準備に取り掛かる。
有能な二人の連携は完璧だった。
互いに必要な情報を阿吽の呼吸で共有し、手続きの書類を作成していく。
もっとも、証拠集めに関して、カリーナたちは一切の苦労をしなかった。
なぜなら――。
「カリーナ様。レナルド殿下がクレア嬢に公費で贈るようにと命じた書類と、その宝飾品のリストです」
「ヴァンス殿下、レナルド殿下が視察をすっぽかした記録と、そのせいで生じた損害の試算表をお持ちしました。ご確認ください」
「クレア嬢以外にも、レナルド殿下が夜間に個人的な逢瀬を重ねている複数名の令嬢のリストです」
レナルドの無能と横暴は、王宮で働く者たちにとって周知の事実である。
彼ら二人が国のために動こうとしていると察した有能な文官や側近たちは、誰に命じられるまでもなく、自ら進んで次々と証拠を持って現れたのだ。
なのでカリーナとヴァンスの主な仕事は、各所から嬉々として持ち込まれる証拠書類をただまとめるだけだった。
それにしても……やたらと量が多い。
執務室の机を埋め尽くすほどの書類の山を見て、カリーナは内心でため息をつく。
これほどまでに証拠が集まるのは、ひとえに二人の人望の厚さと、レナルドがあまりにも国政を舐め腐り、周囲から呆れられていたことの確たる証明でもある。
周囲の尽力のおかげもあり、それから数日。
完璧にまとめ上げられたそれらの書類は、極秘裏に国王と王妃の元へと提出された。
国王夫妻は長男であるレナルドに甘く、これまでは彼の素行不良も、まだ若いからと見て見ぬふりをしてきた。
しかし、カリーナとヴァンスから突きつけられた言い逃れのできない膨大な証拠の山と致命的な損害報告を前にしては、ぐうの音も出ないようだった。
もちろん、国王として別の選択肢を取ることも不可能ではないだろう。
例えば、カリーナとレナルドの婚約を白紙に戻し、別の令嬢を新たな王太子妃としてあてがうという手だ。
だが、それをすれば確実に国が割れると、二人ともそれを痛いほど理解していた。
現在この国に『第一王子派』と『第二王子派』の深刻な派閥争いが起きていないのは、ひとえに、カリーナがレナルドの婚約者として手綱を握っているからに他ならないのだ。
もしカリーナがレナルドの婚約者でなくなれば、均衡は一瞬で崩れ去るだろう。
誰も、無能なレナルド個人に心から従っているわけではない。
だが、第一王子として長く王太子の座にあった彼を突然排除すれば、第一子の王位継承の正統性を重んじる保守派、レナルドの即位を前提に利権を築いてきた者たち、さらには隙をうかがう他国までもが動き出すだろう。
次期国王はヴァンスにすべきだという声が爆発する一方で、国内は混乱し、国を二分する政争へ発展するのは火を見るより明らかだった。
国の致命的な混乱を避けるためには、もはやレナルドを廃嫡し、有能なヴァンスとカリーナを次代の玉座に据えるという、この二人の提案を丸呑みするしかなかったのである。
「……相分かった。レナルドの廃嫡と、ヴァンスの立太子――そして、そなたたち二人の新たな婚約を承認する方向で、正式な手続きを進めよう」
苦渋に満ちた国王の決断を、カリーナは冷徹なまでの冷静さで受け止めた。
こうしてレナルドが全く気づかない水面下で、この国の未来を決定づける完璧な根回しはすべて完了したのだった。
◆
カリーナたちがやるべきことはすべて終え、あとは王家からの正式な通達を待つばかりとなったある日のこと。
いつものように執務室で業務にあたっていたカリーナの元に、呆れ果てるような報告がもたらされた。
報告に訪れたのは、元々はレナルドの取り巻きの一人だった青年ランスだ。
だが彼は今誰に命じられたわけでもなく、自らの意志でレナルドの側に残り、カリーナのために状況を逐一報告してくれている。
彼のように取り巻きを装い、レナルド周辺の内部から情報を上げてくれる若手貴族は、実はランス以外にも複数名存在していた。
現在、王宮内での彼らに対する風当たりは極めて冷たい。
有能な者たちがみなカリーナやヴァンスの元へ集まる中、レナルドの周囲に残っているのはおこぼれに預かりたいだけの無能ばかりだ。
そのため、裏の事情を知らない他の貴族から、ランスたちは、国を傾かせる愚か者に媚びへつらう寄生虫として露骨な軽蔑の目を向けられ、夜会や社交場でもあからさまに避けられているのだ。
「……そうなのね。レナルド殿下とクレア様が、そのような馬鹿げたことを」
ランスからの報告に、カリーナはもはやため息すらつけなかった。
彼によれば、自分が一切国政に関わっていないにもかかわらず完璧に回っている現在の状況を見て、レナルドは、すべては次期国王である自分の威光のおかげだと本気で勘違いしているらしい。
しかもあろうことか、自分が上手くカリーナを使いこなして働かせてやっているからだと、取り巻きの前で豪語しているというのだ。
一方のクレアも、常軌を逸した思考に至っていた。
もともと彼女は、王妃は仕事が多くて大変そうだから、責任のない愛妾として甘い汁だけ吸いたいと考えていたはずだ。
しかしレナルドに底なしに甘やかされた結果、面倒な仕事は全部今まで通りカリーナに押し付けたまま、私が王妃になればもっと最高じゃない? となっているらしい。
レナルドも、その身勝手な提案を絶賛しており、自分を立てない可愛げのない女よりも、常に自分を肯定し絶賛してくれるクレアこそが王太子妃にふさわしいと完全に思い込み、ついにカリーナを切り捨てる計画を立てたとのことだった。
「それで レナルド殿下は、いつその素晴らしい計画を実行に移すおつもりで?」
「はっ。殿下は、来たる建国祭の夜会にて、カリーナ様との婚約破棄と、クレア様との新たな婚約を大々的に発表しようと企んでおられます」
カリーナは何も言わず、ただ冷ややかに目を細める。
まさか、ここまであの二人が愚かだったとは。
彼らの危機感の無さには、ある意味目を見張るものがある。
――他国の来賓も集まる夜会で婚約破棄騒動など起こせば、この国の王家の愚かさを世界に晒すことになるというのに。
どこまでも国益を損なうことしか考えられない人間だ。
そんな真似を愛国主義のカリーナが許すはずもないし、夜会での発表など絶対にさせてはならない。
「……カリーナ様のお考えは重々承知しております。でしたら夜会が開かれる前に、この執務室へ乗り込んで事前宣告をするよう、私から殿下を仕向けましょうか」
カリーナの微かな表情の変化からその憂慮を読み取ったランスが、恭しく提案する。
「例えば、三日後あたりはいかがでしょうか。その頃には、王家からの正式な承認も下り、書類上の手続きはすべて完了している頃合いでしょうから」
「ええ。それが一番効率的ではあるわね」
完璧な提案にカリーナは頷き、ふと顔を上げてランスを真っ直ぐに見つめる。
「あなたには本当に感謝しているわ。……でも、なぜそこまでしてくれるの?」
それは純粋な疑問だった。
有能な彼なら、あえて『無能なレナルドの取り巻き』という不名誉なレッテルを被ってまでスパイなどせずとも、早々にレナルドを見切り、別の安全な場所へ移ることもできただろうに。
カリーナが問うと、ランスは深く頭を下げ、どこか誇らしげに微笑んだ。
「カリーナ様も、それにヴァンス殿下も、決してご自身の私欲や権力のために動くことはありません。常に国益を第一に考え、自ら実務をこなし、我々を正しく導いてくださる」
ランスは熱を帯びた声で続ける。
「先日の大規模な治水工事の際も、孤児院への予算配分が見直された時も、迅速かつ的確な指示を出されたのはお二人でした。それ以外にも、レナルド殿下が予算を遊興費に注ぎ込もうとするのを、最前線で防いでくださっている。……その真摯なお姿に、私以外の若い貴族はみな、心底救われているのです。私利私欲に走る第一王子に絶望していた我々にとって、私心なく国のために働くお二人の存在は、確かな希望です。あなた方お二人こそが、我々の仕えるべき真の主です」
「……過分な評価ね。でも、ありがとう。あなたの尽力は決して無駄にはしないわ」
「はっ。もったいなきお言葉です」
そう言ってランスが退出した後、カリーナは静かに目を伏せた。
すべての決着がついた後には、必ず彼らの名誉を回復させ、相応の地位で報いなければならない。
無能の取り巻きとして周囲から白眼視され、冷遇される道を選んでくれた彼らの忠義に、カリーナは次代の統治者としてそう固く誓う。
夜会で馬鹿げた発表をされる前に、ここへ乗り込んで来た頃が、ちょうどいい潮時になるだろう。
やがて来るであろう決着の時に向けて、カリーナは何事もなかったかのように、粛々と国のための業務を再開した。
◆
ランスが告げた通り、きっちり三日後のことだった。
いつものように執務室で、優秀な文官たちと共に膨大な書類をさばいていたカリーナの耳に、バンッ! という乱暴な扉の音が響いた。
「カリーナ! お前に重大な通告がある!」
意気揚々と乗り込んできたのはレナルドと、彼にぴったりと寄り添うクレアだった。
忙しく動き回っていた文官たちが一斉に動きを止め、冷ややかな視線を二人に送るが、レナルドはそれを自分への畏怖だと勘違いしているらしく、自信満々に胸を張っている。
そして明らかにひんやりした空気になっていることにも気づかないらしいレナルドは、カリーナのところまでやってくると、
「次の建国祭の夜会で、お前との婚約破棄を大々的に発表してやる! そこで愛しいクレアを、正式に次期王妃として紹介するつもりだ。せいぜい惨めな思いに打ちひしがれ、大衆の前で泣いてすがる準備をしておくことだな!」
そう高らかに宣言し、自分がどれだけ偉大な王太子であるか、そして自分を立てないカリーナがどれほど愚かな女であるかを蕩々と語り始めた。
そして最後にはにやりと笑うと、
「だが安心しろ、温情はかけてやる! お前をクレアの侍女……いや、俺の愛妾として大好きな国政に関わらせてやろう。もっとも、俺の寵愛がお前に向けられることは一生ないがな!」
一方でクレアもまた、
「カリーナ様もかわいそうに。でも、殿下が愛しているのは私だから。ごめんね?」
と勝ち誇った笑みを浮かべている。
――しかし。
カリ、カリ、カリ……。
レナルドの熱弁が響く執務室で、カリーナは動揺するどころか、ペンを動かす手すら一切止めていなかった。
「……おい、聞いているのかカリーナ!」
「ああ、その件でしたら」
書類に最後のサインを書き入れ終わってからようやく手を止めたカリーナは、顔を上げるといつもと変わらない声で告げた。
「先日の御前会議で、既に承認と決裁が完了しておりますわ」
「…………は? 何の承認だ。それにそんな会議があったことなど、俺は知らされていな……」
間の抜けた声を出すレナルドだったが、その背後から、彼が纏う軽薄なそれとは対極の、重厚で静かな威圧感を放つ足音が近づいてきた。
「私から説明しますよ、兄上」
数名の屈強な近衛騎士を引き連れて執務室に入ってきたのは、ヴァンスだった。
彼はレナルドの横に立つと、持っていた分厚い書類の束を、レナルドの胸元に容赦なくドンッと押し付けた。
「これが兄上の廃嫡決定書、ならびにカリーナとの婚約破棄承認書と、私とカリーナの新たな婚約承認書です。国王両陛下、ならびに全閣僚の署名が揃っています」
「こ、れは……」
「ついでに、兄上が放置していた未処理の決裁書類と、クレア嬢への贈り物を公費で処理するよう命じた申請書。そのほか、複数の浮気相手が、兄上の子を身籠ったことに対して莫大な口止め料を請求する旨を記載した書面も添えておきました。王位継承に関わるような、国に無駄な火種を作る行為は決して無視できません」
ヴァンスの冷徹な声が執務室に響き渡る。
突きつけられた書類の束と、ひた隠しにしていたはずの致命的な罪状を見て、レナルドの顔から見る見る間に血の気が引いていく。
レナルドは絶句しつつ、震える手で書類をめくる。
「な、なんだこれは……!? 廃嫡だと!? 一体どういうことだ!」
しかし、事実を受け入れるより早く、隣にいたクレアが金切り声を上げた。
「えっ、廃嫡って何よ!? 王太子じゃなくなるってこと!? というか、私以外の相手もいたの!? 身籠ったってどういうことよ!!」
先程までの勝ち誇った表情はどこへやら、クレアは怒りで顔を真っ赤にしてレナルドに激しく詰め寄る。
今のクレアに、レナルドが先ほど語っていた愛らしさの欠片などは微塵もなく、ただの浅ましい本性が丸出しになっている。
「信じられない! 王妃になれないなら、こんな男もうごめんよ!」
そう吐き捨ててレナルドから離れ、逃げようとしたクレアだったが、ふと目の前に立つヴァンスの存在に気づき、ピタリと足を止める。
ヴァンスは非常に容姿端麗で、令嬢たちからの羨望を一身に集める存在であるにもかかわらず、頑なに婚約者を作ろうとしなかった。
どうやら彼には心に決めた想い人がいるらしいという噂は、カリーナのみならず社交界で広く知られている。
それを思い出したのか、クレアの顔に、突如として見え透いたような期待と媚びの色が浮かんだ。
カリーナが彼女の考えを読み取り、あまりに滑稽な思考回路に呆れ果てる中、クレアは瞬時に猫撫で声を作り、常軌を逸した勘違いをそのまま口にしながらヴァンスの腕に擦り寄ろうとする。
「ねえ、ヴァンス殿下ぁ。殿下が婚約しなかったのって、私を想ってのことだったのでしょう? つまり噂の想い人は私、よね? 殿下になら、私がお妃になってあげてもいいわよ?」
「はっ!? お、お前……この尻軽女が!!」
手のひらを返したクレアの態度に、レナルドが顔を真っ赤にして激怒する。
だがクレアは元婚約者の怒りなど意に介さず、熱っぽい視線をヴァンスへと送ったのだが……。
パンッ!
すがりつこうとしたクレアの腕はしかし、ヴァンスによって虫でも払うかのように冷酷に弾き飛ばされた。
「気安く触れないでください。私が長年婚約者を作らなかった理由は噂の通りですが、少なくともその相手はあなたではありません。自惚れるのも大概にしてくれませんか」
「え……?」
見下すような絶対零度の声に、クレアが硬直する。
ヴァンスは冷たく目を細め、とどめを刺すように告げた。
「それから、自分だけは逃げられるとでも思いましたか? 言っておきますが、あなたは兄上が公費で贈り物を用意しようとしていたことを知りながら、さらに高価な品をねだった記録が残っています。公費私物化の企みに加担した者として、厳重な罰を与えられることはすでに決まっています」
「嘘、でしょう……」
その言葉に、クレアの顔から完全に表情が抜け落ちた。
一方でレナルドは、己の愛した女の本性を見せつけられ、さらには次期国王という絶対的な地位まで失った事実から逃避するように、なおも喚き散らす。
「嘘だ、父上が私を見捨てるはずがない! 俺の承認もなしに勝手に事を進めようとするとは、ふざけるなっ!」
カリーナは小さく息を吐いた。
いい加減、中身のないこの滑稽な茶番劇を見るのにも飽きてきた。
というよりも、これ以上は単純に自分たちの仕事の邪魔である。
さっさと終わらせるべく、これまで静観していたカリーナはようやく口を開いた。
「両陛下は既に承認済みです。このことが覆ることはありません」
そして、現実を未だ理解しきれていない二人に、カリーナは極めて事務的な口調で決定事項を読み上げる。
「そういうわけですのでレナルド殿下、あなたは本日をもって王位継承権を剥奪され、臣籍降下となります。公費を私物化しようとした罪、職務放棄、ならびに王家の信用を著しく損なった罪を償うため、北の辺境地へ送られることが御前会議にて決定いたしました。また、クレア様も公費私物化の企みに加担し、王太子妃の座を得るために婚約破棄騒動を企てた共犯として、同地での労役が課せられます」
そこまで言われてようやくすべてが理解できたらしいレナルドが、呆然とした表情で座りこむと、クレアもほぼ同時にへなへなとその場に崩れ落ちた。
「そ、そんな……私はただ、王宮で甘やかされて暮らしたかっただけなのに。裁かれるなんて聞いてないわ」
王太子という金づると権力を失ったばかりか、自らの軽率な振る舞いによって罰せられる未来を悟り、今度は見苦しく泣き叫ぶクレア。
カリーナはやれやれと小さくため息をつくと、改めて目の前で座り込む二人を見る。
その眼差しは、路傍の石を見るかのように冷たいものだった。
「引き継ぎの事務手続きはすべて完了しています。あなた方の私物はすでにまとめて辺境行きの護送馬車に積んでありますので、速やかに退室してください」
冷酷なまでに理路整然とした宣告をしたあと、カリーナは、とどめとばかりに言い放つ。
「――今、これからの国政に関わる重要な案件を、ヴァンス殿下と共に精査している真っ最中です。陛下に最終的な決裁を仰ぐための大切な仕事の邪魔ですので、どうぞお引き取りください」
カリーナのその台詞が合図となり、待機していた近衛騎士たちが一切の容赦なく二人の両腕を掴んで拘束する。
「離せ! わ、私は王太子だぞ! ヴァンス! カリーナ!!」
「嫌よ、離して! 私は辺境なんて行きたくない! 誰か助けてぇっ!」
レナルドの絶叫と、クレアの泣き叫ぶ声が廊下の奥へと遠ざかっていき、やがて完全に聞こえなくなった。
静けさが戻った執務室では、カリーナは何事もなかったかのように手元の書類を一枚めくり、再びペンを握り直した。
「では、次の書類をお願いします」
一瞬にして頭を切り替え、粛々と業務を再開したカリーナに、ヴァンスは深い敬意を込めた柔らかな笑みを向ける。
そして彼自身もまた、彼女と肩を並べるように席へ着くと未処理の書類の束を引き寄せた。
「私の方も陛下へ提出する書類の最終確認を進めよう」
ヴァンスが迷いなくペンを走らせ始めると、二人を慕う文官たちも深く頼もしい頷きを返す。
「はい、すぐにお持ちします」
「こちらの予算案も進めますね」
彼らもまた無駄な余韻など一切引きずることなく、新たな王太子であるヴァンスとカリーナに続くように一斉にそれぞれの持ち場へと戻り、国を回すための業務へと取り掛かるのだった。
◆
レナルドとクレアが辺境へと送られてから、数カ月の月日が流れた。
新たな王太子となったヴァンスと、その婚約者となったカリーナの二人は、今日も優秀な文官たちに囲まれながら、息の合った様子で国の政務を回している。
執務室には、かつてレナルドの取り巻きを装い、泥を被ってくれていたランスたちの姿もあった。
カリーナの約束通り、彼らの名誉は完全に回復され、今では次代の国を担う側近として、誰の目も気にすることなく堂々と実務に励んでいる。
国王両陛下は近いうちに王位を退き、ヴァンスに譲位する意向を固めていた。
それはヴァンスとカリーナがあまりにも優秀で国政が安定しているからというのもあるが、一番の理由は、長男の愚行を止められなかった親としての責任をとるためだろう。
事後処理の際、実際に両陛下からカリーナに対し、深く頭を下げる形でそう伝えられた。
二人の有能さと覚悟の前に、両陛下も潔く道を譲る決意をしたのだ。
そんなある日の昼下がり。
山積みの書類が一段落した休憩時間、ヴァンスが人払いをし、執務室には二人きりになった。
そこで淹れたての紅茶を一口飲んだカリーナが、ふと思いついたように口を開いた。
「そういえば、ずっと気になっていたのですが」
「なんですか?」
「あの日、私が持ちかけた提案……ずいぶんすんなり受け入れてくれましたわよね。ヴァンス殿下は、もしかして以前から私のことが好きだったのですか?」
もうすべてが終わったのだ。
カリーナはあの日言葉にしなかった問いを、まっすぐにぶつける。
対面に座るヴァンスはしかし、いつかは聞かれると予想していたのか、驚くことなくカップをソーサーに置くと、カリーナを見つめて淡々と答えた。
「ええ、ずっと前から好きでしたよ。王立学園の図書室で、婚約者である兄上にどれほど理不尽な扱いを受けても涙一つこぼさず、ただ無心に分厚い国政の法典を読み解いていたあなたの横顔を見た時から、ずっとです」
「そうですか」
そういえば図書室では、毎回妙な視線を感じていた気がしていたが……。
どうやら思い違いではなかったようだ。
カリーナが密かに腑に落ちている中、ヴァンスはさらに言葉を続ける。
「驚かないんですね。……では、兄上が完全に自滅するように、あのクレア嬢や甘い言葉を囁く取り巻きたちを兄上の周囲に意図的に配置し、誘導したのは私だと言ったらどうですか?」
さすがのカリーナも、これには少しだけ目を丸くした。
つまるところ、カリーナを手に入れ、国を無能な兄から救うため、ヴァンスはずっと前から水面下でレナルドの愚行を助長させていたらしい。
「ああ、ちなみに莫大な賠償金騒ぎにまで発展した、兄上の子を身籠ったと騒いでいた女性たちですが、あれはすべて金銭欲しさの狂言です。実際に王家の血を引く婚外子など、一人も存在していません」
「そうなんですの?」
「はい。私が裏で調べさせたところ、誰も身籠ってなどいませんでした。まあ、思い当たる節がありすぎる兄上はまんまと騙されていたようですけど」
事の顛末を語るヴァンスの瞳に、冷ややかな光が宿る。
「女性たちは、王家への詐欺罪ですでに家ごと処分済みです。実際の婚外子はいませんでしたが、兄上自身が否定しきれないほど心当たりのある振る舞いをしていた時点で、王位継承権を預けるには十分に危険でした」
「…………」
「それから、クレア嬢へ貢いでいた宝石類の代金ですが、そこは私が事前に差し止めました。最終的な支払いは兄上の個人資産から行われるよう、裏で処理を変えてあります。国庫から一銭たりとも無駄金を出すつもりはありませんでしたから」
涼しい顔で語られたその事実に、カリーナは再び感嘆の吐息を漏らした。
「確かその女性たちの生家は、ヴァンス殿下の即位を強く反対していた、レナルド様の派閥でしたわね?」
カリーナのこの質問にヴァンスは答えなかったが、聞くまでもない。
――つまりヴァンスは、国の財産を一切損なうことなく、愚かな者たちが自ら選んだ行動の責任を取らざるを得ない状況を整えていたのだ。
一歩間違えれば恐ろしいほどの執念と策略である。
しかし、カリーナは引くどころか、納得したように満足そうに頷いた。
「財産の損失も未然に防ぎつつ、勘違いを利用して罪状だけを雪だるま式に増やすための策でしたか。無駄のない素晴らしい手腕ですこと。同じ国政を担う同志として、これほど頼もしいことはありませんわ」
「ははっ。それは光栄ですね。あなたに有能だと認められるのは、何より嬉しいですから」
カリーナの反応にヴァンスは心底愉快そうに笑うと、柔らかく、しかしはっきりと熱の混じった執着の瞳で微笑んだ。
「ところでカリーナ。あなたは以前、『国を治めるための伴侶に恋愛感情は必要ない』と言っていましたが……どうせ一生を共にするなら、愛があるに越したことはないと思いませんか?」
甘い声で問いかけられ、カリーナは少しだけ思案してから、はっきりと首を横に振った。
「残念ながら私は今、ヴァンス殿下に対してそのような熱情的な感情は抱いておりませんの。あるのは国を守る統治者への絶大な信頼と、親愛の情だけですわ」
「知っています。だから――これから、全力で口説かせてもらいます」
ヴァンスはそう言って、自信に満ちた艶やかな笑みを浮かべた。
その宣戦布告に、カリーナは小さく笑った。
「お手柔らかにお願いしますわ。ちなみに、ご存知かと思いますが、私は国政の妨げになるような、無意味に甘く非合理的な振る舞いは好みませんので」
「もちろん理解していますよ。……さあ、休憩は終わりにしましょう」
甘いロマンスに浸ることはない。
しかし、二人の間には確かな信頼と、国を良くしたいという揺るぎない共通の志がある。
国に人生を捧げる二人は、再び羽根ペンを手に取り、未来の国を形作るための膨大な業務へと、淡々と戻っていくのだった。




