第9話:示談金と「二度と会わない」誓約
都内にある木島法律事務所の第1応接室。窓の外には無機質な高層ビル群が広がり、室内には、かつて僕を「ハーレムの主人公」へと祭り上げた女性たちが一堂に会していた。
ただし、そこにバラ色の空気はない。
結城花は保釈中、リカは勾留執行停止の合間、星野麻耶は禁止命令違反の取り調べを終えたばかり。そして「義母」を自称したユナ。彼女たちは、それぞれの弁護士を伴い、お通夜のような顔で長テーブルの反対側に並んでいた。
「……さて。全員お揃いですね」
木島が事務的に書類を並べる。その横で、僕は自分の心拍数が驚くほど安定していることに気づいた。かつて彼女たちに囲まれたときに感じた「得体の知れない恐怖」は、今や「法的に整理すべきタスク」へと変換されている。
「本日は、佐竹流星さんに対する一連の不法行為――つきまとい、住居侵入、名誉毀損、および公正証書原本不実記録等についての『示談交渉』を行います。先に申し上げますが、佐竹さんに一切の譲歩の意思はありません。条件を飲まない場合は、即刻、刑事・民事の両面で徹底的に追及し、実刑を求めていくことになります」
木島が提示した数枚の紙。そこには、彼女たちが支払うべき「代償」が、血も涙もない数字で刻まれていた。
「……何よ、これ。八百万?」
星野麻耶が、震える声で数字を読み上げた。
「内訳を説明しましょう。佐竹さんの精神的苦痛に対する慰謝料、度重なる引っ越し費用、セキュリティ設置費用、虚偽告訴による社会的信用の毀損に対する損害賠償、そして弁護士費用。これを四人で分割、あるいは連帯して支払っていただきます。さらに……」
木島は、万年筆を机に置いた。
「今後、佐竹さんおよびその親族に対し、半径五百メートル以内への接近、あらゆる通信手段を用いた接触、SNSへの投稿を永久に禁じます。これに一度でも違反した場合、一回につき五百万円の違約金を支払う。これが『二度と会わない』ための契約書です」
「そんな……。お金なんて、どうでもいいの!」
幼馴染の結城花が、机を叩いて立ち上がった。その瞳には、まだ「ラブコメの残火」が宿っている。
「サトくん、ひどいよ! 私はただ、あなたを喜ばせたかっただけ。私たちが過ごした時間は、こんな紙きれと数字で清算できるようなものじゃないでしょ? 罪を償うなら、一生かけてあなたの側で尽くさせて! それが私の望む『罰』なの!」
「花さん。座ってください」
僕は静かに、だが明確な拒絶を込めて言った。
「君たちが言っているのは、自分の『感情の押し売り』だ。僕が受けたのは愛情ではなく、プライバシーと平穏な生活の破壊だよ。君が『一生側にいたい』と言うのは、僕にとって『一生監視され続けたい』と同義なんだ。その言葉自体が、不法行為の継続に他ならない」
「でも、愛してるの! あなたが困っている顔も、必死に逃げ回る顔も、全部愛おしくて……。私たち、あんなに楽しかったじゃない!」
リカが、涙を浮かべて僕を見つめる。彼女の頭の中では、今も僕と彼女が「運命の二人」として再生されているのだろう。僕は、彼女たちの「愛」という言葉の裏側に潜む、醜い本質を突きつけた。
「リカさん。君たちが愛していたのは、僕じゃない。……『ターゲットを追い詰め、支配し、自分の物語の一部にする』という快感そのものだ」
一同が、息を呑む。
「情報を集め、GPSを仕掛け、戸籍をいじり、僕が困る様子を見て『愛されているから困っているんだ』と脳内変換する。それは恋愛じゃない。単なる自己満足の、情報採餌だ。僕という人間を、自分たちの退屈な日常を刺激する『餌』にしていただけなんだよ」
ユナが、唇を噛み締めて僕を睨んだ。
「……息子。母親に向かって、そんな言い草はないんじゃない?」
「あなたは僕の母でも何でもない。無断で養子縁組届を出し、公文書を汚した犯罪者だ。……ユナさん、あなたが手に入れたかったのは親権という名の『支配権』でしょう? 法律を武器にして僕を囲い込もうとした。でも、法律は僕を守るためにこそあるんだ」
木島が、重厚な印肉を机に置いた。
「……話は以上です。サインを。これを拒否するなら、今すぐこの場で警察を呼びます。全員、再逮捕の準備はできていますよ。特に花さんとリカさん。執行猶予や保釈が取り消されれば、次に行くのは女子刑務所です。そこには、佐竹さんも、スマホも、自由もありません」
「刑務所」という単語の重みが、部屋の空気を支配した。
ラブコメの世界なら、ここで奇跡の大逆転が起きるかもしれない。だが現実は、印鑑とサインがすべてを決定する事務的な場所だ。
最初に動いたのは、星野麻耶だった。
彼女は投げやりな手つきで万年筆をひったくると、力任せに名前を書いた。
「……わかったわよ。払えばいいんでしょ、払えば。流星くん。私、あなたのこと、本当に最高にムカつくターゲットだと思ったわ。……こんなに可愛げのない男、初めて」
「最高の褒め言葉です、星野さん」
続いて、ユナ、リカ、そして最後まで泣きじゃくっていた花が、震える手で名前を書き、朱肉をつけた。
ガチャン、ガチャン。
印鑑が押される音が、僕を縛っていた呪縛を一つずつ断ち切っていく。
四通の示談書。
そこには、僕の「自由」の値段が、八百万円という数字と共に刻印されていた。
「これで、手続きは完了です」
木島が書類を回収し、鞄に収める。
「彼女たちは、それぞれの弁護士の付き添いのもと、速やかに退室してください。出口は別々に設けています。佐竹さんと接触することは、一秒たりとも許されません。……さあ、行きなさい」
女性たちが、一人ずつ席を立つ。
花が最後に僕を振り返り、何かを言いかけたが、彼女の弁護士がその腕を強く引いた。
彼女たちが退室し、重いドアが閉まる。
静寂。
エアコンの微かな動作音だけが響く、完璧な静寂が戻ってきた。
「……終わったのか。本当に」
「ああ。少なくとも法的にはな。八百万円の振込を確認し、制限措置を継続すれば、彼女たちがお前の人生に再び現れるコストは、彼女たちの人生を破滅させるレベルまで跳ね上がった。……おめでとう、佐竹。お前は今日、世界で一番贅沢な『平穏』を手に入れたんだ」
木島が、僕の肩を叩いた。
僕は窓の外を見た。
街を行き交う人々。そこには、僕を追う者も、僕を「属性」で判断する者もいない。
ただの他人。
そのことが、これほどまでに愛おしい。
僕は机の上に残された万年筆を手に取った。
重厚で、冷たく、確かな手応え。
それは、空想の愛よりもずっと頼りになる、僕の「剣」だった。
「木島。……最後の手続き、進めてくれるか?」
「住民票の転送設定と、氏の変更手続きか? 用意はできている。明日、お前は『佐竹流星』という名前すら捨てて、誰も知らない場所へ行く」
「ああ。ハーレムの主人公なんて、もうまっぴらだ」
僕は事務所を出た。
背後で、シュレッダーが「かつての縁」を粉砕する音が聞こえたような気がした。
翌日、僕は誰もいない部屋で、荷造りを終えた。
スマホに残っていた連絡先はすべて消去した。
SNSのアカウントも、跡形もなく削除した。
僕は、自分の人生を「再起動」する。
それは、異世界転生のような魔法ではなく、日本の法制度をフル活用して手に入れた、泥臭くて最高にクールな再出発だ。
駅のホーム。
やってきた電車に乗り込む直前、僕のスマホが一度だけ震えた。
一瞬、心臓が跳ねたが、表示されたのは単なる「天気予報」の通知だった。
『明日の天気は、晴れ。どこまでも澄み渡る青空になるでしょう。』
「……そうか。それは良かった」
僕は微笑み、スマホをポケットに深く沈めた。
電車が動き出す。
見慣れた景色が遠ざかり、僕は「誰もいない明日」へと向かって加速した。
第9話、完了。
法的・経済的な決着をつけ、過去を精算した主人公。
次は最終回。誰も知らない街、誰も知らない名前での「平穏」という名のハッピーエンドへ。




