第8回:住民票の「閲覧制限」という防壁
「おめでとうございます、今日からあなたはお母さんの子よ」
そんな感動の再会シーンが流れるのは、日曜朝のホームドラマの中だけだ。区役所の窓口という、蛍光灯の下で事務のハンコが淡々と押される現実世界において、僕が突きつけられたのは「法的な誘拐」だった。
――佐竹流星、二十七歳。
本日、見知らぬ女の「養子」になりました。
「……木島、これ、笑えないぞ。本当に笑えない」
僕は区役所のロビーのベンチに座り込み、受け取ったばかりの「受理証明書」を震える手で握りしめていた。隣では、僕の専属軍師である木島弁護士が、タブレットを凄まじい速さで叩いている。
「笑うなと言われても無理だ。婚姻届ならまだしも、養子縁組届で『母子』の関係を偽装するとはな。ユナという女、かなりの策士だ。結婚なら本人の署名捺印の確認が厳しいが、養子縁組、特に成人同士の場合は、届書に不備がなければ形式的審査で受理されてしまう。戸籍の実務上の穴を突いたわけだ」
「感心してる場合か! 僕は今、あの狂った女の『息子』なんだぞ! 扶養義務とか、相続権とか、どうなるんだ!」
「落ち着け。承諾のない養子縁組は当然、無効だ。家庭裁判所に『養子縁組無効確認』の調停を申し立てればいい。……だが、佐竹。問題はそこじゃない。彼女がなぜ『妻』ではなく『親』の座を狙ったか、その真意がわかるか?」
木島がタブレットの画面を僕に向けた。そこには、総務省の「住民基本台帳法」の条文が並んでいた。
「住民票や戸籍の附票は、正当な理由があれば第三者でも取得できる。だが、親族――特に『親』であれば、法的な利害関係を証明しやすく、全国どこに逃げてもお前の最新の住所(住民票)を合法的に追いかけられるんだ。彼女は『愛の絆』を作ったんじゃない。お前を一生逃さないための『追跡権』を手に入れたんだよ」
背筋が凍りついた。
これまではスマホやGPSでの物理的な追跡だった。だが今度は、日本国が管理する「戸籍制度」そのものが、僕を追い詰める猟犬に変えられたのだ。
「……逃げ場がないじゃないか。引っ越しても、役所に行けば居場所がバレる。これが彼女の言っていた『隔離』の正体か」
「ああ。だが、法には対抗手段が必ず用意されている。佐竹、今すぐ『市民課』ではなく『福祉課』へ行くぞ。僕たちが今日手に入れるのは、無効確認の書類じゃない。――お前の存在を公的に消すための『防壁』だ」
僕たちは区役所の二階、福祉関連の相談窓口へと向かった。
そこは、DVやストーカー被害者が、加害者から逃れるための最後の砦だ。
相談ブースの仕切りの向こう、年配の女性相談員が、僕と木島の提出した資料をじっと見つめていた。
資料の内容は、これまでの「警告」「禁止命令」「現行犯逮捕」の記録。そして、今朝発覚した「不正な養子縁組」の受理証明書だ。
「……なるほど。これほど多方面から、かつ組織的に狙われているケースは稀ですね。佐竹さん、あなたは今、命の危険を感じていますか?」
「はい。夜も眠れず、自宅にいても鍵穴を覗かれている感覚があります。親族まで巻き込まれ、今度は戸籍まで改ざんされました」
「わかりました。警察署からの意見書も届いていますし、緊急性を認めます。本日付で、住民基本台帳の『閲覧制限措置』、いわゆる支援措置を申請しましょう」
リーガル・コメディの皮を剥ぎ取った、ガチの行政手続きが始まった。
**「住民基本台帳の一部の写しの閲覧並びに住民票の写し等の交付の制限」**。
この措置が受理されると、加害者が役所に来て「親族だから住民票を出せ」と言っても、窓口でブロックされるようになる。さらに、お前がどこの市区町村に転出しても、その情報は加害者に開示されない。
――僕は、日本の行政システムから、ストーカーたちに対してのみ「透明人間」になるのだ。
「これで、彼女が『親』になったメリットは消滅する。住所を辿るための魔法は、この一枚の申請書で無力化されるんだ」
木島が申請書に僕の印鑑を突かせながら、満足げに頷いた。
その時、僕のスマホに一通のメールが届いた。
もはや「ハーレム」の残党によるものだと、開かなくてもわかる。
『ユナ:流星くん、役所にいるんでしょ? 今、私たちの新しい家を契約してきたわ。お母さんと一緒に暮らしましょう。拒否しても無駄よ。私はあなたの親なんだから。……ねえ、今どこにいるの? 端末のGPSが切れてるみたいだけど、住民票を見ればすぐわかるものね』
僕はそのメールを、相談員と木島に見せた。
「……これが、最後の証拠になりますね」
相談員は静かに頷き、書類を処理した。
「佐竹さん。本日この瞬間から、あなたの住民票はロックされました。ユナさんはもちろん、その関係者も、あなたの居場所を公的な手段で知ることはできません」
窓口から差し出された、受理の控え。
真っ白なA4の紙。
そこには、僕の安全を担保する国家の印が押されていた。
区役所を出ると、空はどんよりと曇っていたが、僕の視界は驚くほどクリアだった。
これまでは「追いかけられる側」として怯えていた。だが、法的防壁を完璧に築いた今、僕たちはついに「攻勢」に転じる準備が整った。
「木島。次はどうする?」
「決まっているだろう。物理的に排除し、行政的に消えた。次に行うのは『経済的な解体』と『法的責任の確定』だ。……佐竹、奴らから招待状が届いているぞ」
木島が見せたのは、リカと花、そして麻耶の弁護士(という名の、彼女たちが雇った怪しい代理人)から連名で届いた、一通の通知書だった。
『佐竹流星殿。我々クライアント一同は、これまでの騒動について「示談」を希望する。一度、全員で集まって話し合いの場を持ちたい。条件次第では、これ以上の「愛の活動」を控える用意がある』
「……示談、か。全員揃って、一箇所に集まるんだな?」
「ああ。彼女たちはまだ、自分たちが優位だと思っている。被害者であるお前を泣き落とし、あるいは脅し、無理やり合意書にサインさせるつもりだろう」
僕は、ポケットの中で「住民票閲覧制限の控え」を強く握りしめた。
彼女たちは知らない。
僕がもはや、彼女たちの追跡が及ばない「幽霊」になったことを。
そして、その幽霊が、今度は「損害賠償」と「永久接近禁止誓約」という名の鎌を持って、彼女たちの前に現れることを。
「木島、受けて立とう。ただし、場所はこちらで指定する。……一番、彼女たちの『逃げ場』がない場所をな」
僕の「脱ラブコメ」は、いよいよ最終局面――示談交渉という名の「公開処刑」へと向かう。




