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第7回:現行犯逮捕の夜



 暗闇の中で、スマートフォンの青白い光に照らされたリカの笑顔は、どのホラー映画の怪異よりも悍ましかった。

 僕のベッド。僕の枕。僕が最も無防備になる場所に、許可なく他人が座っている。その事実は、生物としての生存本能を激しく逆なでした。


「先輩、そんなに震えないでください。私ですよ? あなたの大好きな、可愛いリカちゃんです」


「……リカさん。刑法第百三十条、住居侵入罪。正当な理由なく人の住居に侵入した者は、三年以下の懲役、または十万円以下の罰金に処される。君の今の状態は、その条文そのものだ」


 僕は震える声を必死に抑え、スマートフォンの画面を彼女に向けた。

 画面には、クラウド経由でリアルタイム送信されている防犯カメラの映像と、視聴者数「1」の文字。その「1」は、今この瞬間、僕の部屋の異変を法的な証拠として記録し続けている木島弁護士だ。


「法律なんて、愛の前では無力ですよ。先輩だって、心の奥では望んでいたはずです。誰も邪魔者がいない場所で、私と二人きりになることを」


「望んでいたのは、静かな睡眠とプライバシーだ。君が手に持っているその合鍵はどうした? 僕は渡した覚えがない」


「作っちゃったって言ったじゃないですか。先輩が会社で居眠りしている間に、ちょっとだけ型を取らせてもらったんです。愛があれば、鍵の形なんて指先の感覚で分かっちゃうんですよ」


 彼女はうっとりと合鍵を頬に寄せた。

 リーガル・コメディの皮を被った、純然たる狂気。

 ラブコメの世界なら「押し掛け女房」という記号で許される行為も、現実の司法プロセスにおいては「計画的かつ悪質な侵入行為」以外の何物でもない。


「リカさん、最後の警告だ。今すぐその鍵を置いて、部屋から出て行け。そうすれば、示談の余地を検討してやらなくもない」


「嘘。先輩の目は、私を警察に突き出すことしか考えてない。……でも、いいんです。警察が来る前に、私たちが『既成事実』を作っちゃえば。そうすれば、先輩も私を捨てられなくなる」


 リカがベッドから立ち上がり、ゆっくりと僕に歩み寄ってくる。

 その瞬間、僕の背後にあるスマートロックが、カチリ、と音を立てて強制施錠された。

 僕が仕掛けておいた、緊急用の「籠城モード」だ。


「……え?」


「リカさん。君は大きな勘違いをしている。僕は君を追い出すためにこの場にいるんじゃない。君を、逃げ場のない『密室』に閉じ込めるために帰ってきたんだ」


 僕はスマートフォンのアプリをタップした。

 突如として、アパートの廊下に耳を劈くようなサイレンの音が鳴り響く。僕が設置していたホームセキュリティの非常警報だ。


「な、何!? うるさい、止めて!」


「止めないよ。この音は、近隣住民への『通報依頼』であり、同時に――警察への『現行犯逮捕の合図』だ」


 廊下から、複数の激しい足音が近づいてくる。

 「開けなさい! 警察です!」という怒号。

 リカの顔から、みるみるうちに余裕が消えていった。


「先輩……どうして? 私はただ、あなたを愛して……」


「愛しているなら、僕が一番嫌がっていることをしないでくれ。君がしているのは恋愛じゃない。自分勝手な所有欲の押し付けだ」


 僕はスマートロックを解錠した。

 勢いよくドアが開き、田中巡査部長を先頭にした数名の警察官がなだれ込んでくる。


「警視庁です! 全員動かないで!」


「田中さん、奥の女性です。合鍵を使って不法に侵入し、現在も退去を拒否しています。証拠映像はすべてクラウドに保存済みです」


 警察官たちがリカを取り囲む。

 彼女はパニックに陥り、「離して! 私は婚約者なの! 彼は私の夫になる人なの!」と叫びながら暴れた。その姿は、オフィスで見せていた「可愛い後輩」の面影など微塵もなかった。


「リカさん、落ち着きなさい! ……住居侵入の現行犯で逮捕します。午後十時二十四分」


 ガチャン、という冷たい金属音が響いた。

 手錠。

 それは彼女が夢見ていた「ペアリング」とは程遠い、国家権力による拘束の象徴だ。


「嫌ぁぁぁぁ! 先輩! 助けて! 嘘だって言って! 冗談だって言ってよ!」


 リカは泣き叫び、床に崩れ落ちたが、警察官たちによって情け容赦なく引きずられていった。

 パトカーの赤色灯が、部屋の壁を不気味な赤色に染め上げる。

 かつて、異世界テンプレ作品で見た「メインヒロインが主人公に抱きつくシーン」のような高揚感はどこにもない。そこにあるのは、犯罪者が連行されていくという、あまりにも無機質な現実だけだった。


 嵐が去った後の部屋。

 木島弁護士が、ビデオ通話越しに拍手を送ってきた。


『お見事。佐竹、よく耐えたな。これでメイン級の三人のうち、二人が物理的に隔離されたわけだ』


「……木島。まだ、手が震えてるよ」


『無理もない。だが、これで終わったと思うなよ。リカのスマホを押収した田中さんから連絡があった。例のグループチャット、彼女が連行される直前まで動いていたそうだ』


 僕はデスクの上に放置されていた、リカのスマートフォンをビニール越しに覗き込んだ。

 画面には、最後の一言が残されていた。


『謎の美女:リカちゃん、お疲れ様。あなたの犠牲は無駄にしないわ。……流星さん、次は私の番ね。明日の朝、あなたの「戸籍」を確認してみて? 驚くようなプレゼントを用意しておいたから。』


「戸籍……? 何を言ってるんだ、こいつは」


『……嫌な予感がするな。佐竹、明日は一睡もせずに役所の開門を待て。奴ら、婚姻届の勝手な提出(虚偽有印私文書作成・同行使)を狙っている可能性があるぞ』


 ――婚姻届。

 知らない間に、僕は誰かの「夫」にされているかもしれない。

 現代日本の法制度において、婚姻届は形式さえ整っていれば、受理されてしまうことがある。後で無効を訴えることは可能だが、その手間と精神的苦痛は計り知れない。


「どこまで……どこまで僕を追い詰めれば気が済むんだ!」


 僕は誰もいなくなった部屋で叫んだ。

 壁に貼られた、リカが勝手に持ち込んだ「愛のポエム」の付箋が、虚しく風に揺れている。


 僕は深夜、木島と共に婚姻届の「不受理申出」を作成した。

 相手が誰であれ、僕の承諾なき届け出をブロックするための、最後の法的防壁だ。


 翌朝。

 僕は一睡もせず、目の下に隈を作ったまま、区役所の前に立っていた。

 開門と同時に、僕は戸籍課の窓口へと走り込んだ。


「……あの、僕の戸籍に、何か変化はありませんか!?」


 窓口の職員は、僕の異様な剣幕に驚きながらも、端末を操作した。

 数秒の沈黙の後、彼女は困惑したような表情で僕を見た。


「佐竹流星さん、ですね。……はい、昨日の閉庁間際に、委任状を持った代理人の方が『養子縁組届』を出されていますね」


「……は? 養子縁組?」


「ええ。あなたは現在、ある女性の『養子』に入っています。……お名前は、ユナさん。あなたは今日から、彼女の息子ということになっていますね」


 ――婚姻ではなく、養子。

 結婚なら「夫婦」という対等な関係だが、養子なら「親」という絶対的な支配権が生まれる。

 「謎の美女」ユナ。彼女は、法的な「家族」という枠組みを悪用し、僕を文字通り「自分の子供」として囲い込もうとしたのだ。


 僕は膝から崩れ落ちた。

 狂気は、僕の想像を遥かに超えるスピードで、法の穴を潜り抜けてくる。


「……ふざけるな。こんなの、認められるわけがない!」


 僕は震える手で木島に電話をかけた。

 

「木島……。僕、息子になっちゃったよ。あの女の」


『……養子縁組か。盲点だったな。だが安心しろ、佐竹。承諾なき養子縁組もまた、電磁的公正証書原本不実記録罪だ。……戦場を役所から家庭裁判所へ移すぞ。徹底的に叩き潰してやる』


 僕の「脱ラブコメ」は、今、親子の縁を巡るドロ沼の法廷闘争へと突入した。


 第7話、完了。

 現行犯逮捕の達成感は、新たな法的トラップによって即座に上書きされた。

 「母」を自称するストーカーとの、前代未聞の親子断絶バトルが始まる。



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