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第5回:聖域侵犯と「接近禁止命令」



 「聖域」という言葉を聞いて、多くの人が思い浮かべるのは教会や神殿だろうか。あるいは、誰にも邪魔されない趣味の部屋だろうか。

 僕にとっての聖域は、実家だった。

 泥だらけになって帰っても、仕事で失敗して打ちひしがれても、そこだけは無条件に自分を肯定してくれる場所。だが今、その聖域は「金銀の結納品」と「警察の規制線」という、あまりにもミスマッチな供物によって汚されていた。


 実家のリビング。母は憔悴した様子で、警察から返却された「証拠物件」以外の荷物を片付けていた。

「流星……あのお嬢さん、本当に怖かったわ。『お義母さん、これからは毎日私がご飯を作りに来ますから、キッチンを明け渡してください』って、ずっと笑顔で……」

「母さん、本当にごめん。僕のせいで……」

「謝らなくていいわよ。でもね、あの子がパトカーに乗せられるとき、こう叫んだの。『私はサトくんの正義を守りたいだけなの!』って。……正義って、何なのかしらね」


 母の手が震えているのを見て、僕の中の「何か」が完全に決壊した。

 これまでは「自分の問題」として、どこか俯瞰して見ていた部分があった。だが、彼女たちの狂気は僕を通り越し、僕の最も大切にすべき人々を人質に取り始めている。


「佐竹、甘い感傷に浸っている暇はないぞ。第一の処刑(警告)は終わった。だが、奴らは止まっていない」

 ソファでタブレットを叩いていた木島が、冷徹な声を上げた。

「実家の外を見てみろ。警察官が巡回しているが、あそこの電柱の影。さっきから同じ女が立っている。……星野麻耶だ」


 僕はカーテンの隙間から外を覗いた。

 街灯の下、元カノの麻耶がこちらを見つめて立っていた。彼女はスマホを耳に当て、僕と目が合った瞬間に、最高に美しい笑顔で手を振った。

 直後に、僕のスマホが震える。


『麻耶:流星くん、お母さん大丈夫? びっくりしちゃったよね。花ちゃんはちょっとやり方が強引すぎたの。私が代わりにお詫びしてあげるから、ドアを開けて? 二人だけで話せば、全部解決するよ』


「……二人だけで話せば、全部解決する。典型的な誘い出しですね」

 木島が僕のスマホを覗き込み、鼻で笑った。

「佐竹、絶対に外に出るな。今、彼女が行っているのは『住居付近における見張り』および『連続したメッセージ送信』だ。花への『警告』を見た上で、あえてこの行動を取っている。これは非常に悪質だ。……田中巡査部長、準備はいいですか?」


 実家の前に待機していた田中巡査部長が、無線で答える。

「ええ、公安委員会へは既に特急で申請を回しました。警告を無視した反復継続の恐れが極めて高いと判断。これより、星野麻耶、および特定されているメンバー全員に対し、ストーカー規制法第13条に基づく『禁止命令』を発動させます」


 ここで、リーガル・解説の時間だ。

 これまでの「警告」は、警察署長による「やめなさい」という行政指導に過ぎない。だが、この**「禁止命令」**は公安委員会という、より上位の組織から下される「命令」だ。

 これに違反すれば、もはや「警告」のような猶予はない。

 **2年以下の懲役、または200万円以下の罰金。**

 そして何より、命令違反があった時点で、即座に「現行犯逮捕」が可能になるという、魔法の法的結界なのだ。


「佐竹、今から僕が外に出る。お前は録画を続けろ」

 木島がスーツのボタンを留め、実家のドアを開けた。

 外では麻耶が、救世主にでも会ったかのような顔で木島に駆け寄っていた。


「あ、弁護士さん! 流星くんを返して。彼は今、混乱してるだけなの。私がそばにいてあげれば、すぐに元通りになるわ」

「星野さん。あなたのその『元通り』という主観が、本人の平穏を著しく侵害していることに気づいていますか?」

「侵害? ひどいな。私は彼を守りたいだけ。家族になりたいだけなの。……お義母さんにも、私の良さを分かってもらいたいし」


 木島は一歩も引かず、懐から一枚の書面を取り出した。

「残念ながら、その権利はあなたにはありません。これを受け取りなさい。本日、東京都公安委員会および所轄署により、あなたに対し『禁止命令』が発令されました」

「……え? 禁止?」


「そうです。佐竹流星、およびその親族に対する一切のつきまとい、待ち伏せ、見張り、そしてSNSを含む全てのメッセージ送信を禁じます。半径100メートル以内への接近も同様です」

「そんなの勝手だよ! 私たちの愛を、そんな紙切れ一枚で邪魔できると思ってるの!?」

 麻耶の声が鋭く響く。


「邪魔をするのではありません。法が『隔離』するのです。……見てください、そこを」

 木島が指差した先から、二台のパトカーがサイレンを鳴らさずに滑り込んできた。

 田中巡査部長が車から降り、麻耶に告げる。


「星野麻耶さん。先ほど、命令の内容を告知しましたね。……にもかかわらず、あなたは今、佐竹さんの実家の門扉に手をかけました。これは『接近』および『見張り』の継続とみなします。……同行願います」

「嘘……。離して! 私はただ、流星くんと話したいだけなのに!」


 麻耶は泣き叫び、暴れたが、女性警察官たちによって手際よくパトカーへと誘導されていった。

 「聖域」の前に立っていた脅威が、物理的に排除された瞬間だった。


 僕は窓を閉め、深いため息をついた。

 だが、スマホの振動は止まらない。グループチャットが燃え上がっている。


『リカ:麻耶さんまで!? 先輩、本当に冷たい……。法律法律って、ロボットみたい。でも、ロボットみたいな先輩もゾクゾクする。』

『謎の美女:……面白い。警察を盾にするなんて。でもね流星さん、法律には「例外」があるの。あなたが自ら「助けて」と言わざるを得ない状況になれば、この禁止命令は無力化される。』

『謎の美女:次は、あなたの「社会的地位」を人質にする。会社に、あなたが私にした『淫らな行為』の証拠写真をばら撒いたら、あなたはどうするかしら?』


 ――虚偽告訴。

 ついに、彼女たちは「法の悪用」という一線を越えようとしている。

 自分が被害者であると嘘をつき、僕を犯罪者に仕立て上げる。ラブコメなら、ここで誤解を解くために奔走し、すれ違いの果てにハッピーエンドを迎えるのだろう。

 だが、今の僕は知っている。

 「証拠のない主張」は、法廷ではただのノイズだ。


「木島、次は虚偽告訴だそうだ。僕が彼女にしたという、ありもしない写真や動画を捏造して会社に送ると言っている」

「ほう、それはいい。名誉毀損(刑法230条)および虚偽告訴罪(刑法172条)のコンボか。……佐竹、明日、会社に行くのが楽しみだな」

 木島は悪魔のような笑みを浮かべた。


「虚偽の証拠を捏造した瞬間、彼女たちは『加害者』から『犯罪組織』へと格上げされる。……いいか、佐竹。明日はわざと隙を見せろ。奴らに、捏造した証拠を『提出』させるんだ。それが、彼女たちの社会的な命を絶つ、最後の一撃になる」


 僕は母の肩を抱き、静かに頷いた。

 母は「大変なことになったわね」と困ったように笑ったが、その表情には先ほどまでの怯えはなかった。

 法律は、僕たちの感情を癒やすことはできない。

 だが、僕たちの平穏を物理的に守る壁にはなってくれる。


 深夜。

 僕は誰もいない実家の自分の部屋で、古い卒業アルバムを開いた。

 そこには、かつての「幼馴染」や「元カノ」が、無邪気に笑っている姿があった。

 あの頃の彼女たちは、いつから僕という人間を「所有物」として見るようになったのだろう。


 スマホを手に取り、僕は最後のアカウント――「謎の美女」に向けて、人生で初めての「宣戦布告」を送った。


『佐竹流星:法廷で会いましょう。あなたの用意した「証拠」が、どれだけ科学的な検証に耐えられるか、楽しみにしています。』


 返信はない。

 ただ、既読だけが即座についた。

 それは、彼女たちが僕のメッセージを、愛の告白と同じ熱量で読み込んでいる証拠だった。


 


 「禁止命令」という名の防壁を築いた主人公。

 だが、戦場は再び職場へと戻り、今度は「社会的抹殺」を懸けた高度なリーガル・心理戦が始まる。


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