第4回:警察署、警告の第一矢
午前二時十五分。
深夜の警察署の待合ロビーは、蛍光灯の青白い光が虚しく反射し、独特の静寂に包まれていた。自動ドアが開くたびに吹き込む冷気が、僕のスーツの裾を揺らす。
「……佐竹、落ち着け。血圧が上がってるぞ。深呼吸だ」
隣に座る木島が、タブレットの画面をスクロールさせながら、事務的な口調で僕を制した。彼の指先は、まるで外科医がメスを振るうように冷徹で、迷いがない。
「落ち着いていられるか。実家の門の前に、白い着物姿の女が結納品を持って座り込んでいるんだぞ。ホラー映画の撮影じゃないんだ」
僕は、母から送られてきた写真を見せた。
そこには、深夜の住宅街とは思えない異様な光景が写っていた。結城花が、金銀の飾り立てがなされた立派な「結納品」の箱を抱え、僕の実家の門扉の前に正座している。その瞳は一点を見つめ、不気味なほどに澄んでいた。
「これを『愛』と呼ぶには、法的な定義が足りなすぎる。これは、刑法第百三十条の住居侵入、およびストーカー規制法違反による『不安の覚えさせる行為』だ。……よし、担当が来たぞ」
奥の扉から、生活安全課の田中巡査部長が現れた。
彼は僕たちが提示した写真と、昨日受理された「AirTag」の現物を見比べ、深くため息をついた。
「佐竹さん。……正直、最初はよくある痴話喧嘩の類だと思っていました。でも、これは次元が違いますね。彼女たちは、あなたを『人間』としてではなく、自分たちの『共有財産』か何かだと思い込んでいるようだ」
「田中さん。行政処分をお願いします。今すぐ、この場から彼女を排除するための『警告』を出してください」
僕は身を乗り出した。だが、田中巡査部長は渋い顔をした。
「警告を出すには、相手の所在を確認し、対面、あるいは電話で直接告知する必要があります。深夜ですので、実家の所轄の警察官を向かわせ、まずは退去を命じます。その上で、私の口から正式な『警告』を言い渡しましょう」
田中巡査部長は、デスクの電話を手に取った。
スピーカーフォンから、呼び出し音が鳴る。
相手は、結城花。
数回のコールの後、場違いなほど明るい声が響いた。
『――もしもし! サトくん? やっと電話くれたんだね! 今ね、お義母さんにお茶を出してもらうのを待ってるところなの!』
ロビーに響き渡る彼女の声に、田中巡査部長の眉がピクリと跳ねた。
「結城花さんですね。私は〇〇警察署、生活安全課の田中です。現在、あなたの行為について、ストーカー規制法に基づきお話をしています」
『警察? ……あ、わかった! サトくん、また照れてるんだね。恥ずかしいからって、第三者を通さなくてもいいのに。私たちはもう、家族になるんだから』
「結城さん、落ち着いて聞いてください。あなたの行為――深夜に相手の親族の住居付近で見張り、押し掛ける行為は、ストーカー規制法第2条に該当する禁止行為です。佐竹流星さんは、明確にあなたの接近を拒絶しています。今すぐ、そこから立ち去りなさい」
『……拒絶?』
電話の向こうで、花の温度が急速に下がるのがわかった。
『嘘だよ。サトくんがそんなこと言うはずない。だって、私たちは運命で結ばれてるんだよ? 私が守ってあげないと、あの元カノとか、会社の下品な後輩に、サトくんが奪われちゃうんだもん。これは防衛反応なんだよ、警察官さん』
「あなたの主観は関係ありません。佐竹さん本人の意思と、客観的な証拠に基づき、私はあなたに対し『警告』を発します。今後、佐竹さん、およびその親族に対して同様の行為を繰り返した場合、公安委員会による『禁止命令』が出されます。そうなれば、罰則の対象となり、逮捕される可能性もあります。わかりますか?」
『……逮捕? 私が? サトくんを愛している私が、犯罪者だって言うの?』
花の笑い声が聞こえた。
それは、壊れたオルゴールのような、乾いた音だった。
『面白いね。法なんて、誰かが勝手に決めたルールでしょ? 私たちの愛は、そんなものよりずっと古い、魂の契約なんだよ。……サトくん、聞こえてる? 私、負けないからね。警察なんかにあなたを渡さない』
電話が切れた。
田中巡査部長は顔を覆い、僕に視線を戻した。
「重症ですね。……佐竹さん、今の電話の内容はすべて録音しました。これで『警告』のプロセスは完了です。実家の警備には、現地の署が向かっています。彼女が抵抗すれば、その場で不退去罪、あるいは公務執行妨害で身柄を拘束するよう伝えています」
国家権力の「第一矢」が放たれた。
ラブコメの世界なら、ここで主人公が駆けつけ「君の気持ちは嬉しいけど、やりすぎだよ」と優しく諭す場面かもしれない。だが現実は違う。
制服を着た男たちが、パトカーの赤色灯を回しながら、彼女を「排除」しに行くのだ。
その時、僕のスマホが爆発するように震え出した。
通知の嵐。
例のグループチャットだ。
『リカ:花さん、警察に電話されたって本当!? ひどい、先輩、そんな人だったの!? 私、ショックで仕事休んじゃいそう……。』
『麻耶:あはは、警告? そんなの、ただの紙切れだよ。流星くん、追い詰められて可愛い。もっと泣かせてあげたくなっちゃう。』
『管理者:警察の介入を確認。プランBに移行します。みなさん、証拠隠滅と、ターゲットの「社会的包囲」を開始してください。』
僕は画面を木島に見せた。
「『プランB』だと? 木島、こいつら、まだ何か企んでる」
「『社会的包囲』か。おそらく、お前を『ストーカー加害者』に仕立て上げる虚偽の告発か、会社への怪文書攻撃だろうな。ストーカーが追い詰められた際に取る、典型的な逆恨み行動だ」
木島はタブレットを叩き、あるファイルを呼び出した。
「だが、残念だったな。お前の会社のパソコン、昨夜のうちに僕の事務所で遠隔監視の設定を入れさせてもらった。リカがIT資産を悪用して証拠を消そうとした瞬間、すべての操作ログを第三者機関のサーバーにミラーリングするようになっている」
「木島……。お前、いつの間に」
「リーガル・ディフェンスはスピードが命だ。佐竹、これからお前は『被害者』としての聖域を守り抜け。少しでも情を見せたり、相手と二人きりで話そうとするな。それは奴らに『同意』という名の免罪符を与えることになる」
田中巡査部長が、無線機からの報告を聞き、僕に頷いた。
「佐竹さん。実家の女性、保護……いえ、現行犯逮捕しました。警察官に結納品の箱を投げつけ、激しく抵抗したため、公務執行妨害です」
――幼馴染、退場。
結城花は、僕の隣で笑う「ヒロイン」から、取調室でカツ丼(あるいは今の時代なら単なる取調べ)を受ける「被疑者」へとジョブチェンジした。
僕は安堵よりも、言いようのない虚無感を感じていた。
あんなに優しかった幼馴染が、なぜ法を犯してまで僕を縛ろうとしたのか。
その答えは、法廷でも、警察署でも出ないだろう。
ただ一つ確かなのは、僕の生活から、物理的な脅威が一つ消えたということだ。
「……でも、まだ終わりじゃないんですよね」
「ああ。あと三人、いや、グループチャットの人数を考えれば、さらに背後に潜んでいる可能性がある」
木島が立ち上がり、コートを羽織った。
「夜が明けるぞ、佐竹。会社に行く準備をしろ。今日は人事がリカを呼び出す日だ。……警察署から、会社へ。お前の戦場が変わるだけだ」
警察署の外に出ると、東の空が白み始めていた。
僕は、深く冷たい空気を吸い込んだ。
肺の奥まで凍りつくような冷たさが、今の僕には心地よかった。
スマホを確認する。
新着メッセージ。
送り主は、昨日コンビニの前で手を振っていた「謎の美女」だ。
『謎の美女:花ちゃん、捕まっちゃったね。かわいそうに。でも大丈夫。私がもっと「法」に詳しいお友達を紹介してあげる。……あなたを、誰の手にも届かない場所に隔離するための「法律」を教えてくれる人を。』
僕はそのメッセージを無言でスクリーンショットに収めた。
「法律」で僕を縛ろうというのなら、受けて立とう。
こちらには、最強の弁護士と、六法全書という名の盾がある。
僕は自分の足で、朝の街へと歩き出した。
背後で田中巡査部長が「気をつけて」と声をかけてくれる。
それは、どのヒロインの愛の言葉よりも、僕の胸に響いた。




