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第10回:平穏という名のハッピーエンド



 音が、消えた。

 かつて僕の日常を支配していたのは、絶え間なく鳴り響くスマートフォンの通知音だった。一日に数百件届くLINE、ひっきりなしに鳴る着信、そして窓の外から聞こえる不審な足音。それらはすべて「愛」という名の皮を被った、暴力的なノイズだった。


 だが、今。僕の耳に届くのは、遠くで走る電車の音と、公園で遊ぶ子供たちの微かな声、そして加湿器が吹き出す静かな蒸気の音だけだ。


 ここは、東京から数百キロ離れた、地方都市の片隅。

 窓から見える景色は、見慣れたオフィスのビル群ではなく、穏やかな山並みと広い空だ。僕は今、古いアパートの一室で、誰にも邪魔されることなく、ただの「一人の男」として存在している。


 名前を変えた。

 家庭裁判所に「氏の変更」を申し立てた。ストーカー被害による「やむを得ない事由」が認められ、僕は「佐竹流星」という、どこかラブコメの主人公のようなキラキラした名前を捨てた。今の僕は、この国で最もありふれた名字の一つを名乗っている。住民基本台帳の閲覧制限措置は完璧に機能しており、たとえ彼女たちが警察や役所を訪ねたとしても、僕の居場所は「この世に存在しない」ことになっている。


 僕はデスクの上に置かれた通帳を開いた。

 記帳された最新の数字。八百万円という示談金。それは、僕の自由を買い取った代償であり、彼女たちが「法的な加害者」として刻まれた証拠だ。


 木島弁護士から届いた、最後の報告書を思い出す。

 結城花は、公務執行妨害とストーカー規制法違反で起訴され、執行猶予付きの有罪判決を受けた。彼女の両親は多額の賠償金を支払うために実家を売り、彼女は今、地方の更生施設で社会復帰を目指しているという。

 リカは、職場への不正侵入と情報漏洩が決め手となり、懲戒解雇。再就職先も見つからず、業界からは事実上の追放となった。

 星野麻耶は、禁止命令違反の重さをようやく理解したのか、一切のネット環境を断ち切られた状態で、厳しい監視下に置かれている。

 そして「養子縁組」を企てたユナ。彼女は電磁的公正証書原本不実記録の罪で、現在も裁判が続いている。


 彼女たちの人生は、僕というターゲットに執着した結果、ボロボロに崩壊した。

 それを「自業自得だ」と切り捨てるのは簡単だ。だが、今の僕が感じるのは、復讐の快感ではない。ただただ、「終わったのだ」という、深い安堵感だった。


 異世界転生モノなら、ここで新しい美少女が現れて「実は私もあなたのことが……」なんて展開になるのかもしれない。だが、現実のハッピーエンドは、そんな派手なものではない。


 僕はパーカーを羽織り、部屋を出た。

 近所のスーパーへ向かう。

 歩道を歩きながら、僕は一度も後ろを振り返らない。

 誰かがつけてくる気配はない。

 誰かが僕の背中を隠し撮りしている感覚もない。

 ただ、風が頬を撫で、夕焼けが道を赤く染めている。


 スーパーに入り、カゴを取る。

 今日の夕食は何にしようか。

 「あなたの好きなおかずを作って待ってるね」なんて押し付けがましい声は聞こえない。僕は僕が食べたいものを、僕の意志で選ぶことができる。


 惣菜コーナーで、半額になったコロッケを一つ。

 それから、一缶のビール。

 レジに向かう。


「袋はご利用ですか?」


 コンビニの店員が、事務的な口調で尋ねてくる。

 僕は「いいえ、大丈夫です」と短く答える。

 店員は僕の顔を見ることもなく、バーコードを読み取り、代金を受け取る。

 

 ――素晴らしい。

 

 この、徹底した「他人」としての関係。

 僕を「流星くん」とも「先輩」とも呼ばない、名前も知らない誰かとの、わずか数秒のやり取り。

 そこに愛はない。好意もない。

 あるのは、社会というシステムを円滑に回すための、冷たくて温かい「距離感」だけだ。

 この距離感こそが、現代日本における最大の贅沢であり、安全保障なのだ。


 アパートに戻り、コロッケを皿に移す。

 プシュッ、とビールの缶を開ける。

 テレビはつけない。

 スマホは充電器に繋いだまま、画面を下にして置いてある。


 一口、ビールを飲む。

 喉を通る苦味が、僕の脳に「自由」の感覚を刻み込んでいく。


「……静かだ」


 僕は独り言を呟いた。

 その声が、誰にも届かないことを確認して、僕は微笑んだ。


 かつての僕は、誰かに必要とされることを「幸せ」だと思っていた。

 誰かに愛されることが、人生の目的だと思っていた。

 だが、それは間違いだった。

 「誰からも追われないこと」「誰からも執着されないこと」

 それが、僕という個人の尊厳を守るための、絶対的な前提条件だったのだ。


 法律は、僕に愛を与えてはくれなかった。

 法律は、僕の傷ついた心を完全に癒やしてはくれなかった。

 だが、法律は僕の周りに鉄の防壁を築いてくれた。

 「ここから先は、僕の領域だ。一歩も入るな」という宣言を、国家の強制力をもって守ってくれた。


 僕は窓を開け、夜の空気を取り込んだ。

 遠くで光る街の灯りを見つめる。

 彼女たちは、今どこで、何をしているだろうか。

 刑務所のベッドの上か、病院の待合室か、あるいは見知らぬ街の安アパートか。

 どこにいてもいい。

 ただ一つだけ確かなのは、彼女たちが僕の人生に関わることは、もう二度とないということだ。


 示談書の「違約金五百万円」という条項は、単なる金銭の約束ではない。

 それは、彼女たちが僕に近づこうとするたびに、彼女たちの人生を物理的に破壊するギロチンの刃だ。

 彼女たちが僕を「愛している」と言うのなら、彼女たちはその愛を一生、自分の胸の中に閉じ込めておかなければならない。僕に触れた瞬間、その愛は「負債」へと変わり、彼女たちを破滅させる。

 それが、法が下した「究極の愛の形」なのだ。


 僕はスマホを手に取った。

 一分おきに撮影される「周囲の状況ログ」の設定を、オフにした。

 自分を監視し続ける必要は、もうない。

 誰かに命を狙われていると怯えるフェーズは、終わったのだ。


 最後に、僕は「木島」という名前の連絡先に、短いメッセージを送った。


『木島。今までありがとう。僕は、もう大丈夫だ。……君の弁護士費用、一円も負けさせなかったな』


 一分後、返信が来た。

『当然だ。お前の自由は、日本国憲法と六法全書が保証してる。……二度と俺の世話になるようなモテ方はするなよ。次は着手金を三倍にする』


 僕は小さく笑って、スマホを置いた。


 これが、僕の物語の結末だ。

 ヒロインとのキスシーンも、華やかな結婚式もない。

 ただ、一人でビールを飲み、明日も仕事に行く。

 誰にも知られず、誰にも干渉されず、ただ「静かに生きる」。


 「ハーレム」という名の地獄から生還した僕が手に入れた、これ以上のハッピーエンドは、他に思いつかなかった。


 窓の外。

 星が、一つだけ強く光っていた。

 それは「流星」のような激しさはないけれど、そこにあり続けるという確かな意志を持った、静かな光だった。


 僕は大きく背伸びをして、ベッドに倒れ込んだ。

 明日の朝は、目覚まし時計の音で起きよう。

 誰かからのメッセージではなく、僕が設定した、僕のための音で。


 ――おやすみなさい。

 

 愛よりも深い、孤独という名の安らぎの中で、僕は深い眠りに落ちていった。


 (完)



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