第1話:「……本日で三本目ですわ」
エンデ。
神々が住まう理想郷。
空は地上の祈りが星屑のように流れている。
それは光であり、声であり、時に重く、時に軽い。
願いは甘く、ほろ苦く、嘆きは渋い。
地上を見守り、時には信託を授け、奇跡を与える。
そこに住まうは二柱の女神。
死と再生を司る姉、エレキ。
生と循環を司る妹、イナンナ。
姉妹教はこの世界の主流宗教であり、広く深く信仰されている。
――そして現在、二柱は胃がいたい。
「やぁ、イナンナ。エリクサーの在庫はまだあったかな?」
気怠げに姉様は問う。
神の妙薬をまるで常備薬のように。
空の小瓶が卓上に転がっている。
「……本日で三本目ですわ」
さすがに多いと思うのですが。
「仕方ないじゃないか。
また彼が動き出した」
嫌な予感しかしませんわ。
“彼“の話をする時、悪寒が走ります。
その瞬間、祈りの流れがわずかに軋んだ。
星屑のような光の帯が、ところどころ黒く濁る。
感謝と恐怖が同時に空へ突き刺さる。
姉様が指を鳴らすと、水鏡に地上が写し出される。
そこは、つい昨日まで羊の鳴き声と子供たちの笑い声が響いたはずの集落だった。
燃え盛る集落、井戸端で笑っていたはずの母親の亡骸。
血が滴り、井戸の水を赤く濁らせる。
干し草の匂いに混じる焦げた血の匂い。
焦げた祈祷旗が風に激しく揺れる。
燃える教会に供えられた祈りの像が倒れ、赤く照らされる。
その中心に血だらけの男が立っている。
男の左の生え際には、焼け落ちた礼拝堂の瓦礫が食い込んでいた。
砕けた装飾の連なりが、ロザリオのようにも見える。
――いや、ただの瓦礫だろうか。
皮膚に埋まっているはずなのに、血はほとんど流れていない。
女神たちの視線がわずかに冷える。
今日だけで、彼は何度死んだことか。
そして、何度戻ってきたことか。
「まだ、瓦礫が刺さってるね」
「痛そうですわ」
片手には大ぶりの肉斬り包丁。
もう片方には――狒々の魔物の、生首。
「……包丁は調理器具ですわよね?」
「そうなはずだよ。
なんでアレで生きてるんだろうね」
男の体には狒々の爪によって大きな穴が空いており、常人なら即死のはずだ。
男が、ゆっくりと空を見上げる。
その瞳は燃え盛る炎ではなく、ただ空だけを見ていた。
血で濡れた顔が、笑った。
「ありがとうございます、女神様」
そう言った男の傷が、時間を巻き戻すかのように治っていく。
神秘に似ているが、何か違う。
『……奇跡だ。』
『ああ……女神様があの方にお力を授けてくださった』
『なんということだ』
生き残った者たちが、震える声でそう呟く。
目を疑うしかない光景だった。
――ある者は彼を英雄と呼び、ある者は災厄と呼んだ。
そして、神々は彼を恐れた。
『いやいやいや、知らないし。なにそれ怖い』
エンデで二柱の声がこだましたのだった。
それは敵意ではない。
ただ、理の外にあるものへの本能的な拒絶だった。
神々は奇跡を起こす。
だが、奇跡に驚くことはない。
……わたくしたちは彼に何の加護も与えていません。
加護は審議を経て与えるものです。
無断付与は禁忌。
勇者や魔王認定には、神格三柱以上の承認と議会印章が必要になります。
「彼はぼくたちの信者だったよね」
「確かそうですわ」
「でも、加護を与えた覚えはないんだよね」
「ええ、議会も通していませんわ」
「じゃあ、あれは誰の奇跡だろうね」
エレキは水鏡から視線を外し、ゆっくりと指先で宙をなぞった。
映像が霧のようにほどけ、炎も血も、静寂の中へ溶けていく。
「在庫、あとどれくらいある?」
「……四本ほどですわ」
「あー、スクナに調薬頼んでくるよ」
「またお小言言われますわね」
「でも、あの子楽しんでるんだよな」
イナンナは卓上の空き瓶を指先で整えながら、ため息をついた。
エレキは椅子の背にもたれ、天井を仰ぐ。
神域の天井には、相変わらず祈りが流れている。
その下で、まだ名を呼ばれていない魂が列を成している。
今日もまた、女神たちはエリクサーをあおる。
輝く神薬が喉を通り、静かな空間に小さな音が落ちる。
胃の奥に冷たい光が沈み、身体の奥から火照りが広がる。
胃薬は神にも必要らしい。
「……本日で、四本目ですわ」
何それ知らない怖い。




