テセウスの船の話
このあいだ、机の上で使っているお気に入りの万年筆が壊れた。キャップの留め具が緩み、替え芯の調子も悪い。仕方なくパーツを一つひとつ取り替えていった。クリップを新しくし、インクを別のブランドのものにし、最後には胴軸そのものまで換えてしまった。書き心地はむしろ前より滑らかで快適になったが、ふと疑問が胸に浮かんだ。これは本当に「もとの万年筆」と呼べるのだろうか。
日常生活の中で、物を修理したり交換したりすることは誰にでもある。靴底を張り替えた革靴、電池を入れ替えた腕時計、布団の中綿を詰め替えた布団。どれも「まだ同じ物」として使い続ける。だが、もし全ての部品を入れ替えたら、それは果たして「同じ物」なのか。ここで思い出すのが、古代ギリシアから伝わる有名な思考実験「テセウスの船」である。
英雄テセウスが乗った船は、アテナイの人々によって長年保存されていた。朽ちた板を取り替え、帆を張り替え、やがて船体の全ての部品が新しくなったとき、その船はまだ「テセウスの船」と呼べるのか。それとも、もはや別物になってしまったのか。この問いは二千年以上の時を越えて、人間の直感と理性を揺さぶり続けている。
私は街を歩いていても、このパラドックスを思い出すことがある。たとえば駅前の古い書店。戦後から続く木造の建物は、度重なる改修工事で壁も床も新材に入れ替えられている。看板もLEDに変わり、レジは電子決済に対応している。それでも常連客は「昔ながらの本屋」と呼ぶ。果たして、あの書店はかつての姿と同じなのだろうか。あるいは「別の店」に生まれ変わったのだろうか。
同じ疑問は人間自身にも当てはまる。私たちの体をつくる細胞は絶えず入れ替わっている。数年もすればほとんどの細胞が新しいものに置き換わると言われる。それでも私たちは「昨日の自分」と「今日の自分」を連続した存在だと信じて疑わない。もし完全に細胞が入れ替わったら、そこにいる私は本当に「かつての私」と同じ存在なのだろうか。
哲学者の中には、こうした問いに対してさまざまな立場を取ってきた。ある者は「同一性は物質ではなく形や機能に宿る」と言う。つまり船の部品がすべて入れ替わっても、構造と役割が同じである限り、それは「同じ船」だと考える。一方で「物質こそが本質だ」とする立場からは、部品を総入れ替えした時点でそれは「別の船」になると主張する。さらにラディカルな説では、「そもそも“同じ物”という概念自体が幻想だ」ともされる。
思い返せば、私の万年筆もそうだ。新品の部品に取り替えても「愛用していた万年筆」として扱いたい気持ちが強い。それは物質の継続ではなく、経験や記憶がつなげている。同じ物を持ち続けてきたという物語が、同一性を保証しているのだろう。
この「物語による同一性」は、人間社会の至るところに見られる。国もそうだ。何度も政体が変わり、憲法が改正され、領土が変化しても、人々は「日本は日本」「フランスはフランス」と呼び続ける。企業もそうだ。創業者が退き、従業員が入れ替わり、製品も時代とともに変わっても、看板に同じ社名が掲げられていれば「同じ会社」と受け止められる。そこに連続性を与えているのは「歴史の物語」そのものなのだ。
テセウスの船の話を思い返すと、私たちは「物」だけでなく「自分自身」や「社会」についても同じ問いを抱えているのだと気づく。毎日変わり続ける身体と心、入れ替わる環境、時とともに薄れていく記憶――それでも「私は私だ」と信じられるのは、過去から現在までの経験をひとつの物語として紡ぎ続けているからにほかならない。
哲学的に見れば、同一性の問題は決して解決できない矛盾を抱えている。だが日常に照らしてみれば、それはむしろ「人間が生きていくために必要な矛盾」なのかもしれない。部品が入れ替わっても「同じ万年筆」と思いたい。店が建て替わっても「いつもの本屋」と言いたい。体の細胞が新しくなっても「昨日と同じ自分」として今日を迎えたい。それは矛盾ではなく、むしろ人間らしい願いなのだ。
だからこそ、テセウスの船は二千年を経ても語り継がれている。そこには単なる哲学的遊戯を超えた、日常と切り離せない問題がある。私たちは日々、古くなった物を修理し、建物を建て替え、体を更新し続けている。それでも「同じでありたい」と願う。テセウスの船は、そんな人間の根源的な思いを静かに映し出す鏡なのだ。




